引越し
「はい、萩原でございます」
2度目のコール音が鳴り出す前に、高槻は受話器を取り上げた。
「お前か、あいつに余計なことを言ったのは」
電話は芹沢貴奨からのものだった。
彼は高槻の数少ない友人の中でも特別な位置にいる友人だった。
だが、電話に出た途端に怒鳴られる覚えはない。
「芹沢。私にはお前が何を言っているのか見当がつかないんだが」
芹沢は静かに返される高槻の声の裏に、押し殺した憤りを感じ取り黙り込んだ。
自分が見当違いな怒りを高槻にぶつけてしまったことに気付いた。
「芹沢。お前が四季グリーンホテルのチーフ・コンシェルジェで忙しいのは知っている。たが私も薫さんの秘書兼正道の教育係を任せられて、寝る間もないほど忙しいんだ。だから時間の無駄は極力省きたい。ことに電話に出た途端、怒鳴られるなんて時間はね」
「…。すまなかった。後で掛け直す」
自分の非をあっさりと認め、さっさと電話を切ろうとしてる芹沢を、高槻は慌てて止めた。
「無駄はご免だと言っただろ。で、用は何?」
電話の向こうで芹沢の躊躇うような気配がする。常にはないことに高槻も余計に気になった。
「芹沢?」
「慎吾が…」
「慎吾くんが? 彼、また体の具合、悪くなったの」
「いや、違う。家を出ると言い出したんだ」
芹沢が吐き出すように言った。
「家を出るって…」
「もう部屋を借りる目途はたったからとか言い出して。何を考えてんだあいつは」
困惑しているような芹沢の声に、高槻も首を傾げた。
「家を出るって…慎吾くんが? お前、もしかして近々結婚でもするのか」
「すると思うか?」
芹沢からの即答に、予想していたとはいえ高槻は苦笑した。
「だって慎吾くんが家を出ようと思った理由って、それくらいしか思いつかないよ。後は…」
「後は…何だ、高槻」
高槻はちょっと言いにくそうに言った。
「芹沢さ、今付き合ってる相手とかっている?」
「どういう意味だ」
芹沢が刺々しい口調で聞いてくる。
「普通兄弟で同居してて片方が出て行くとしたら、どちらかに結婚が決まってお邪魔になる前に出て行くとか、そんなところだろ。でもお前、今そんな予定ないって言ったし。だとしたら後は…」
「ああ、そういう意味か。そういえば以前、俺がいたら恋人の一人も連れてこれないんじゃないかとか言ってたが、それにしたってどうして今頃…」
芹沢は急に黙り込んだ。
「まさかあいつ、あのとき見てたのか!」
「何。何か思い当たることでもあるの」
問われて黙っている訳にもいかず、以前慎吾がホテルの廊下で倒れていたことがあったこと。勤務時間を終えて家に帰っていたが、警備員からの連絡を受けて様子を見に行ったこと。気がついた慎吾の手当てをしようとしたが、慎吾が嫌がるから海外赴任で日本に来ていた友人に、慎吾の手当てを頼んだこと。そいつの帰り際にお礼と挨拶代わりにしたことを、手短に芹沢は高槻に説明した。
「そういえばあの頃からだな。貯金したいとか言い出したのは」
「お前には挨拶代わりだったかも知れないけど、慎吾くんにそれは通じないと思うな」
高槻の耳に受話器を通して、芹沢の吐くため息が聞こえてきた。
「芹沢、お前いっそのこと…」
高槻が言いかけたことを言わせまいとするように、芹沢が言葉を挟んだ。
「実はな、もう一つあるんだ。慎吾が何考えてんのか分からないことが」
「何?」
「あいつに四季グリーンホテルから、正社員にならないかって話しがきてるんだが受けようとしないんだ」
「慎吾くんに? それは凄いな。もし慎吾くんが富士美ホテルのことを気にして断っているのなら、こっちは当分再開できそうにないから、気にせず受けてって、伝えてくれていいよ」
高槻の言葉に芹沢は慌てて言い足した。
「違うんだ。いやそれもあるとは思うんだが」
「違うって…慎吾くんは何て言ってるの」
「慎吾は俺の義弟だからって、特別扱いされるのは嫌だって言ってるんだ。別に俺が頼み込んだ訳でもないし、これはお前の今までの努力と実績の結果だからって、何度も言ったし遠慮することはないって言ったのに」
高槻には電話の向こうで頭を抱え込んでいる、芹沢の姿が目に浮かぶようだった。
人のことは察しが良すぎるくらい鋭い男なのに、どうして自分に関することだけは鈍いんだろう。
「芹沢。慎吾くんが言ってるのは逆だと思うよ」
「逆?」
芹沢が不思議そうに聞き返してくる。
「慎吾くんの性格からしたら、お前の義弟だから特別扱いされてるって感じたら絶対にお前の前でだけはそれを口にしないだろうし、そう感じたらとっととホテル辞めてしまうだろう。それを敢えて言ったとしたら」
「高槻?」
「チーフ・コンシェルジェとしてお前が働いているホテルへ、義理とはいえ弟の自分が正社員になったら、今まで以上にお前の負担になると思ってるんじゃないか、慎吾くんは」
「バカ。バカの癖にどうしてそんなところで気を使うんだ」
それは慎吾くんにとってお前が大切な存在だからだろ。
兄貴としては勿論、仕事上の先輩として。
もっとも兄貴としては芹沢には酷かも知れないけど。
だが高槻は思ったことを口にしなかった。かわりに別のことを言った。
「芹沢、お前どうして今まで慎吾くんに言わなかったんだ」
「何を」
「何をって、お前が二年前に私との電話を切った後、すぐに夜行バスに乗って富士美ホテルへすっ飛んできた理由をだ」
芹沢が、一瞬口を閉ざした。
「俺は慎吾だけが心配だった訳じゃないぞ」
「分かってるよ、そんなことは。伊達に長年付き合ってる訳じゃないからな。でも私が言いたいのはそう言うことじゃなくって、分かってるんだろ?」
「…」
「芹沢。このまま行くと私のときの二の舞になるぞ」
「っ!」
芹沢が見かけ通りの有無をいわせない強引な男だったら…。
今の自分と芹沢の関係は変わっていたかも知れないと、高槻は思う。
薫さんと芹沢と。
芹沢には薫さんにはない、全く違った魅力があった。
今の高槻にはそれを素直に認めることができる。
自分がそれに惹かれていたことも。
芹沢は優しかった。決して高槻に負担を感じさせることはしなかった。薫さんへの想いを妨げたりするようなことも。
それどころか逆に告白しろと忠告してくれるくらいだった。
告げることのできない想いを抱えてどうしようもなくなったとき、芹沢はいつも傍にいてくれた。
薫さんへの想いを芹沢に打ち明けた後も、芹沢が自分を想っていてくれていることを、高槻は知っていた。
知っていながら、その居心地の良さを手放したくなくてそのままにしてきたのだ。
もう、二年ほど前になるあの日がくるまで。
「芹沢」
「何だ」
「悪いがもう、社の方に行く時間なんだ。こんな中途半端なところで切りたくないんだか…」
「…。分かった。またな」
芹沢が短く答えて電話を切った。
聞こえてくる通話音を耳にしながら、高槻は受話器を戻した。
途端にバタンと扉が開けられる。
「正道!」
葉言って来た萩原正道に、高槻は非難の眼差しを向けたが、正道は何とも思っていないようだった。
「だってさっきからノック、何度もしたけど無視してたのは光輝だろっ。それより早く会社へ行こうぜ。親父が光輝が来ないってイライラしてたから」
言うだけ言うと正道はまたさっさと出て行ってしまった。
そんな正道に高槻は苦笑しながら、椅子の背凭れに掛けてあった背広の上着を取り上げた。
たった二年ほどの間に何と自分を取り巻く環境は変わってしまったことか。
芹沢との関係も仕事も、ありとあらゆることが変わってしまった。
それは多分芹沢にとっても同じだろう。
互いにいい方向に向かえればと思う。
特に芹沢に対しては。
高槻には芹沢に大きな借りがあった。おそらく、一生かけても返すこのできないほどの。
「慎吾くんと上手くいくといいな」
知らず知らずの内に、高槻は呟いていた。
脳裏に出会った頃の芹沢の顔が浮かぶ。自分と一緒にいる時だけに見せた、年相応の笑顔や起こった顔や。
今は多分、慎吾君といるときだけに見せている、あいつの素顔。
「光輝! まだかよ」
また戻ってきた正道の顔に、芹沢の怒ったときの顔がだぶる。
つい笑ってしまった高槻に、正道は不審そうな顔を向けた。
「光輝、どっかで頭打ったのか」
「お前じゃあるまいし」
高槻は正道を安心させるように、その方を軽く叩いた。
自分と芹沢は案外似てるかも知れない。
高槻はふと思った。
報われない相手に恋するところとか、次に好きになった相手が随分と年下なところとか。
芹沢が第一に心配する相手が、自分から慎吾くんに変わったように、自分もまた変わったように思う。
薫さんから正道へと。
まだはっきりとは分からないけれど。
二年前、突然富士美ホテルに飛び込んできた正道。
染められた髪の色はそのままだが、あの頃と比べ随分と短くなり、体格もさらに良くなり、随分と大人っぽくなった。たった二年ほどの間に。
高槻は正道と並んで部屋を出た。
扉を閉める寸前に、さっきまで使っていた電話にチラリと目を遣った。
何かを思いやるように、立ち切るように。そっと高槻は扉を閉めた。