投稿(妄想)小説の部屋

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No.113 (2000/09/08 20:15) 投稿者:桐加由貴

後朝

 くすり、と笑った女の白い腕が、毛布から伸びた。
「まあ。もう、帰っておしまいになるの?」
 男の服に絡み付いて、それを邪魔する。
「天川楼(てんせんろう)の結蘭(ゆいらん)のお客様が、こんなに早くお帰りになるなんて。わたくし、笑われてしまうわ。天川楼の結蘭ともあろうものが、お客様を宵のうちに帰すなんて、と。」
「もう夜中だぜ」
「妓楼にとっては、まだ宵の口ですわ。ねえ、もう少しいらっしゃいませんこと? 柢王様」
 東の花街。天川楼は、かなり格の高い妓楼だった。結蘭はそこの人気の娼妓。柢王とは、古くからのなじみである。
 結蘭が、柢王を王子と知っているのか、柢王は知らない。少なくとも、自分から言ったことはない。「柢王」と名乗りはしたものの、こんなところでは、男も女も、本名を名乗らないことが珍しくない。
 名前も、身分も、地位も、すべてが嘘かもしれない。泡沫(うたかた)の夢の場所。
 甘い恨み言も、服に絡みつく白い腕も、結蘭のいつもの手管だ。
 それがわかっているから、柢王も笑って応じる。
「わりい。待ってるやつがいるんでな」
「あら」
 結蘭が身を起こす。ほどいた黒髪が、さらりと背中に流れた。
「待ってらっしゃる方がおいでなのに、わたくしのところにいらしたの? ひどい方」
「久しぶりにおまえの顔が見たくてさ」
 彼女と会うのはかれこれひと月ぶりだ。結蘭の白い肌、みどりの黒髪、華奢なくせに豊かな胸と腰は、柢王の好みだった。
 結蘭はまた笑った。
「あなたの恋人は、あなたが妓楼に出入りしていることをお知りになったらどうお思いかしら? お気の毒ですわ」
「あいつは知ってるぜ。黙認してくれてるんだ」
「本当に?」
 すい、と結蘭は小首をかしげて微笑んだ。幾多の男を虜にして来た、妖艶な笑みだった。
「手の付けられない病いのようなものと、諦めてらっしゃるのかしら? 黙認してくれている、なんて安心してらっしゃると、ある日突然、三行半(みくだりはん)を突きつけられるかもしれなくてよ。・・・お気をつけあそばせ」
「あいつはわかってくれてるんだって」
「ご自分の恋人は、ご自分だけでは満足なさらない方・・・って?」
 意地の悪い口調で、結蘭は笑う。 
「・・・わたくしが普通の女だったら、恋人がこんなところに出入りしているなんて知ったら、ただじゃおきませんわ。浮気でもしたくなるかもしれなくてよ。あなたの恋人は、違うのかしら?」
「・・・あいつは浮気なんかしねーよ」
「浮気って、ばれないようにするものでしてよ」
 そこまで言われると、さすがに柢王も不安になった。
 もっとも、桂花に関して、浮気の心配をしたことはない。あの桂花が、そこまで積極的に天界人と関わろうとするわけがない。
(・・・やっぱり帰ろう)
 結蘭との逢瀬は久しぶりだったし、お誘いには正直食指を動かされる。だが、ここまで不安を煽られては、さすがに柢王もここで夜を明かす気にはなれなかった。
「じゃ、俺は帰るぜ」
「あら、もう?」
「・・・おい」
 さんざん不安にさせておいて、これである。
「おまえは俺を追い出したいんじゃなかったのか?」
「まあひどい。とんでもないことですわ、柢王様。ただわたくしも女のはしくれ、殿方の勝手に振り回される哀れな女の肩を持ちたくもなりますわ」
 桂花は女ではないが、哀れという点ではどうだろうか。
「やっぱり帰る」
「お気をつけて。・・・ところで柢王様、わたくしのお客様に、最近とても羽振りのよろしい方がいらっしゃいますのよ」
 結蘭の声が、不意に変わる。甘さの中に鋭さをにじませて。
「・・・へえ。誰だ?」
「わたくし達娼妓が、お客様のことを他の方にお話しするわけには参りませんわ。でも、柢王様は、昔からわたくしを贔屓にして下さっている方・・・。条件つきでお話してもよろしくてよ」
「条件?」
 妓楼には、さまざまな情報が集まるものだ。どんな男も、娼妓相手に閨(ねや)の中、では口が軽くなる。贔屓客に多くの大物を抱えている結蘭は、その気になれば情報を売るだけでも生活できるほどだった。
 彼女は、柢王の重要な情報源でもある。だが、今まで、結蘭が条件をつけてきたことはなかった。
「どういう風の吹き回しだ?」
「わたくしがおしゃべりするのは、柢王様がわたくしに骨抜きにされない方だから。以前、申し上げましたわね?」
「ああ」
 結蘭は、容貌を武器にする女だからこそ、自分の虜にならない男を評価する。だから柢王は彼女に認められ、情報をもらっているのだ。
「でも、わたくし、女として、わたくしの虜にならない殿方が他の誰かに骨抜きだなんて、自尊心が許しませんわ。だから、少しばかり意地悪をしたってよろしゅうございましょう?」
「で、条件は?」
「わたくしに、愛してるとおっしゃって下さいませ。・・・嘘でも構いませんのよ。だから、ね?」
 童女が誉め言葉をねだるような風情が、なんとも可憐だった。だが柢王は、かぶりを振った。
「わりいな、それは駄目だ。それを言う相手はあいつだけだからな」
「嘘でも? 言っていただけなければ、お教えしないと言っても?」
「ああ」
 それは、桂花だけのものだから。
 くすり、と結蘭は笑った。
「負けました。教えて差し上げますわ。・・・そんなに大切な方なら、妓楼になんておいでにならないで下さいませ」
 そう言って、結蘭は、柢王の耳にそっと、その情報を囁いた。
「おまえ、いい女だぜ、結蘭。また来る」
 そう言ってしまえる柢王に、結蘭はため息をついた。
「・・柢王様。もう一つ、教えて差し上げますわ。あなたが恋人に不実であると、恋人からも不実が返って来ましてよ。・・・その方をお大事に」


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