夜半来香
寝台に身を投げ出していた桂花は、ふと目覚めた。
もともと桂花の眠りは浅い。
かすかな物音でも瞬時に覚醒する夜の獣のような桂花の感覚に何かが触れたのだ。
「――――・・・」
身を伏せたまま、そろりとあたりの気配をうかがう。
時刻は真夜中過ぎ。星々は天頂にあり。
風の気配はない。
部屋の中には初夏の合間の、雨の季節特有の気配を漂わせる大気がぬるく漂っている。
部屋の中にも外にも不審な気配や物音は感じられない。
「―――・・?」
では、一体何が?
桂花はそろりと身を起こし、慎重に辺りを見回してから違和感の源に気づき、乱れかかる髪をかき上げて小さく息をついた。
「ああ」
裸足の足裏にはぬるく感じる木肌の床を音も立てずに歩いて開かれた窓から身を乗り出し、桂花はけだるげに笑った。
はるか下の地上に置いた桶の中には昨日桂花が森から摘んできたうすもも色の百合の蕾が数本。
・・・その蕾の一つが咲いていた。
夜空のわずかな明かりを吸って、夜の底でいよいよ白く淡い紅色に冴えかえる花弁の奥には若緑色のすんなりとした雌しべと雄しべ。雄しべの先は鮮やかなまでの朱色。
「咲いてしまったか・・・」
数多い百合の中でも、ことのほか この百合の香は高く立ちのぼる。
―――その、あふれ出す香気の気配に桂花は目覚めたのだ。
・・・何とまあ 優雅な理由で起こされたものだと桂花は苦笑した。
(まあ、いいか・・・)
例によって、あの人は人界に行ったまま帰ってこない。
帰ってくるのは、いつも突然。
いきなりの帰還には、もう慣れた。
先ほど目覚めた時だって、真っ先に考えたのは彼が帰ってきたかもしれないということ。
「・・・・・」
―――けれど、一人で待つことには、いつまで経っても慣れない。
眠りが浅いのも、きっと、彼がいつ帰ってきても気づけるようでありたいと思うその心の表れだ。
・・・天主塔に与えられた部屋に泊まればよかった、と桂花はふたたびため息をついた。あそこなら24時間態勢で誰かしら動き回っているので、逆にそれで気が紛れてよく眠れたりするのだ。
(・・・人の気配があることに安心する日がこの吾に来るとはね―――)
自嘲気味に笑う桂花の傍らを、立ちのぼる百合の香が揺れて通り過ぎ、寝室の中に入ってきた。
ぬるい雨の気配を漂わす初夏の空気と混ざり合い、たちまちのうちに寝室に満ちる。
桂花はその香を胸一杯に吸い込んだ。
「・・・まあ、いいか。起こされたことだし」
寂しい独り寝だ。・・・真夜中の訪問客を歓迎して何が悪い?
窓を乗り越えてふわりとその傍らに降り立つと、桶を抱え上げ、桂花は家の裏手から少し離れた森の奥にある泉に足を向けた。
途中で通り過ぎた動物用の水場でくつろいでいた獣たちが銅貨のように光る瞳をこちらを向け、ぱっと身を翻して森の奥へと駆けさってゆく。
夜目の利く桂花は、暗く沈む夜の森に入っても足取りは乱れない。
今、自分の瞳はさっきの獣たちのように光っているのだろうかと思いながら、桶を抱える手から妖力を少しずつ送り込む。
桂花の妖力に後押しされ、残りの蕾たちがゆっくりと開いて香気を放ち始める。
百合の香を従えて桂花は泉にたどり着くと、桂花は一本ずつ百合を泉の中に投げ入れ、香気が泉の上に立ち上がるのを待ってから、服を着たまま泉にその身を沈めた。
大人四人が腕を広げれば囲めてしまう小さな泉だ。長身の桂花が体を伸ばして少し余る程度。
(それで充分・・・)
深く息を吸い込めば、むせかえるような百合の香気と水の匂い。
冷たい水の感触と香気に抱かれて桂花は体の力を抜いた。
野外の水に放ってさえ、この香りだ。
いや、もともと水とは相性がいいのかもしれない。初夏の合間の雨の季節に咲くこの花は、たおやかに頭を垂れる美しい巫女のような姿とはうらはらに、雨のただ中を縫ってなおその存在を周囲に知らしめ、雨の気配をただよわせた初夏の大気に温められることによって なおいっそう香り立ち、こちらがたじろぐほどの艶冶な香気を放つのだ。
その二面性を桂花は愛していた。
優美な姿と清楚な香りのその奥に、強い野性味を隠し持つ―――・・・
人界においては、神域に花開き、この百合を冠した巫女がその香気によって神懸かったという。
それほどの力のある香なのだ。
寝台に引き入れて抱いて眠るには 強すぎる。
(・・・抱かれるくらいで ちょうどいい―――・・・・・)
桂花は薄く微笑むと、足で水を跳ね上げた。
夜のしじまに水音が高く響き、夜鳴く鳥が一声鳴いて飛び立った。
翌日。 小雨の降る空を飛んできた桂花は天主塔に着くなりまず挨拶をと濡れた外套片手に執務室に出向いた。相も変わらず朝の早い(恋人が側にいさえしなければ)勤勉な態度の守天が挨拶を返し、それからふと首をかしげてしげしげと桂花を見た。
「・・・桂花、昨日花街に行った?」
「いいえ? 昨日は東国の住居で休みましたが。・・・何か騒ぎでもあったのでしょうか?」
首をかしげて聞き返す桂花に、守天は「何でもないから、さっき聞いたことは忘れて欲しい」とあわてて首を振った。
何だったのだろうと考えながら天主塔に与えられた一室で着替えて執務室へ急ぐ。執務室まで続く
廊下で桂花とすれ違った天主塔の使い女達が、頬を赤らめて囁き交わすのに桂花は気づいた。
「・・・・・・」
明け方近くまで戯れたあとで泉に浮かぶ百合をすべて回収し、柢王の母親が送って寄越した花瓶の一つにそれらを放り込んで寝室の隅に置いてから、桂花は天主塔に出向いていた。
それまでずっと香気に中にいた桂花は気づいていなかったのだ。
・・・桂花の妖力によって咲いた百合の香は、妖力の主人に懐くように肌に馴染んでいたらしい。
天主塔の主人のように、それとわかる花の香をまといこそしていないものの、間近ですれ違えばかすかに感じられるさわやかな野草の香気をいつもまとっている桂花が、今日は花の香気をまとって現れたのだ。
さらにすれ違った他の使い女達達が、足早に通り過ぎてから小さな歓声を上げているのを耳にした桂花は確信し、そして小さくため息をついて執務室に逃げ込んだ。
扉を閉めて執務机を見れば、何か聞きたげな表情の守天を目が合う。
普段とはちがう香りをまとう理由は多いようで少ない。
心境の変化か、
何かを決意した時か、
・・・あるいは肌を合わせた相手の移り香か。
(・・・どうやら、秘密の恋人が出来たと思われたらしい、な)
説明するのも馬鹿馬鹿しい桂花は何も語らず、ニッコリと笑って見せた。
・・・それからしばらくの間、連日のように花の香気をまとって現れる桂花は天主塔(主に使い女達の間)で密かな(いや、大いに)話題となり、その幸運な相手についていろいろ議論や憶測が交わされたが、決定的な者は該当せず、噂ばかりが飛び交った。
しかしその内容は何故かおおむね好意的なものばかりだった。
それはおそらく、すらりと均整のとれた細い肢体に首元から足首まで隠れる白い長衣をまとう桂花に、その香はよく似合っていたからだろう。
桂花はそれにはそ知らぬふりでいつもと同じようにまじめに仕事をこなし、やがて雨の季節が終わる頃にはその香も薄れ、それと同時に噂も下火になり、やがて消えた。
初夏の日差しが戻る頃、柢王が天界に帰ってきた。
桂花は天主塔の執務室で彼を笑顔で出迎えた。
「・・・・・」
人目もはばからず逢瀬を楽しむ恋人達の姿に、天主塔の主人が山と積まれた書類の陰で何やら複雑な表情で安堵のため息をついたことは、誰も知らない。