火姫宴楽(5)
「・・・その後も彼女は布だけじゃなく、南領の特産物や気風を盛り込んだ新しい製品を次々と天界じゅうに送り出し続け、3年前に南領の知名度を上げたその功績を認められて、彼女に子爵の位が贈られたの。・・・どう? これがあんたの欲しかった情報かい?」
情報提供料(+出張料+α)として購われた、この酒舗で一番高価な、千の花の蜜を集めて醸された酒をくーっとあおって女は笑い、酒杯の縁で突っ伏す柢王の頭を軽く小突く。
柢王はそれに低く呻って返した。
「・・・どうもそうじゃなさそうだねぇ。でも、あんたはトゥーリパン夫人について知ってることを教えてくれって言っただけだからね。これがあたしの知ってるトゥーリパン夫人のお話さ。ま、もっとも花街の妓(こ)達なら誰でも知っている話だけどね」
にぎわう酒舗の片隅で気むずかしい顔で卓子に突っ伏してしまった柢王を、酒杯を片手に向かい側から覗き込みながら女はころころと笑った。
(トゥーリパン夫人ってのが、すげー人だってのは分かった! でもそんだけだ! 夫人の成功譚聞いたところで、今俺が置かれてる状況に関係する事なんかひとっつもねーじゃねーか! ますますわけがわかんねーぞ! おい! )
・・・柢王は聞き方を間違えたのだ。
いや、そもそも最初っから自分の聞きたかったことがハッキリしていなかったのだ。自分が放り込まれたこの状況に関する何か手がかりがつかめれば、などという漠然とした思いで、ろくに考えもせずに尋ねたこと自体が間違いだったのだ。
(・・・情けね―――っ! まるっきりバカじゃねーか 俺!)
突っ伏したまま、柢王は自分の浅はかさに赤面した。
「・・・どうする? 他に何か聞きたいことがあったら、このお酒のおかわりと、松花茶食(松の花粉に蜂蜜をくわえて木型で抜いた菓子)で手を打つけど?」
「・・・・・」
女が笑って言うのに、柢王は起き直って給仕を呼び止め、酒と菓子、そして菓子の持ち帰りも注文して代金を払ってから立ち上がった。
「時間を取って悪かった。ゆっくりしていってくれ」
店を出ようとしたところで柢王は呆然と外を見た。
外は土砂降りの雨だった。店の光に照らされた範囲は銀色にしぶいて何も見えない。
「・・・・・」
泣きっ面に蜂とは(別に泣いてはないが)こういう事を言うんだろうな、と柢王は思い、ため息一つ付いて柢王は走り出した。いくらも走らないうちに全身ずぶぬれになる。東国の雨は温かいので凍えることはないが、叩き付けるような夜半の雨は一向に降り止む気配
はなく柢王を辟易させた。
土砂降りの雨の中を行く気になれない客達は早々に店の中に避難し、囲いがしっかりした灯籠以外は、雨の勢いで火が絶え、川遊びの船も早々に引き上げた川縁の道は暗く夜に
沈み、大門に通じる道を走っているのは柢王ただ一人だった。
「・・・待って!」
大門に辿り着く前に、横道から飛び出してきた女に呼び止められて柢王は足を止めた。
傘の柄を掴んで息を切らしているのは、さっきの女だった。足の速い柢王に追いつけたの
は、裏道を知り尽くした花街の女ならではだろう。
「何を考えているの! 傘もささずにこんな雨の中に飛び出していくなんて! 傘は店で借りることが出来るのよ!」
見れば、女のもう片方の手にも傘が握られていた。
柢王は笑って礼を言ったが受け取らなかった。既にずぶぬれなのに今さら傘をさすのは
滑稽を通り越して何だか間抜けな気がする。
それに走っていた時は分からなかったが、土砂降りの雨にうたれるというのは意外に
気持ちがいい。このままゆっくり歩いて帰るのも悪くないな、と柢王は顔を上げて雨を受け、笑った。
そんな柢王を女は驚き半分呆れ半分で見やり、手に持つもう一つの傘を見てため息をつき、そして小さく吹き出しながら言った。状況が許されるのなら、自分も傘を放り出して雨の中に飛び出せたらいいのにと言うような、少し困った笑顔で。
「・・・仕方ないね。泊めたげる。泊めるだけ、だけどね」
頭から湯を浴びせかけられ、猫足の狭いバスタブに膝を抱えるようにして湯につかって
いた柢王は止めていた息を吐き出した。
「汗が出てくるまで入っているのよ」
深い藍色の貫衣の裾を膝上までたくし上げて括った姿で湯桶を片手に女が言った。
柢王は体を拭くための布を貸してくれと頼んだはずだったのだが、女はそれに耳を貸さず、下女に湯を運んでくるようにいいつけ、柢王をバスタブに追い立てたのだ。
「・・・・・」
煌々と光の灯る大店の裏口から入って、雨音に負けないくらい派手な音楽と喧噪を聞きながら階段を上った。小さな部屋がいくつも並ぶ廊下を突っ切った奥にこの部屋はあった。
途中通った部屋やここを見る限りでは、置いてある物は高価だが華美ではなく、どう見ても客商売用の部屋には見えず、下女達の彼女に対する物慣れた感じからしても、どうやらここは彼女の私室のようだった。花街で広い私室を持てるということは、かなり上位の妓女か、店(たな)の経営者かどちらかなんだろうな、と花街のことはまだよく知らないなりに柢王は思った。
「まったく・・・あんたのような年の子があんな所をあんな時間に歩くもんじゃないよ。せめて元服式を済ませてからにおし」
西領産の海綿で背中を撫でるようにこすられ、そのくすぐったさに身をよじりながら柢王は苦笑した。
「よくわかるな〜。年齢どうりの年に見られたことはあんまりないんだけどな」
12歳を過ぎたばかりの柢王だが、同年の少年達と比べると頭一つ分は確実に抜きん出ている伸び盛りの体格の良さと奇妙に世慣れた(ように見える)まなざしと口調で、たいがい三歳は年上に見られていた。この上に人なつっこさと愛嬌が乗っかっていなかったら、さらに年上に見られているかもしれない。
「腰つきを見ればわかるよ」
「・・・・・」
ズバリと言われ、その言葉の内に女の怖さを知ったような気がして、柢王は黙って肩をすくめた。
体が温まると急に眠気が襲ってきた。よく考えたら、いつもなら既に寝ている時間だ。
風呂から上がり、着替えを借りて隣室の寝台に倒れ込んだのまでは憶えている。
いったん深く眠り、それからとろとろとまどろんでいたところで寝台の片側が沈んで柢王は目を覚ました。見れば女が布団の中に入って枕元の灯心を絞って小さくしているところだった。
「ああ ごめん、起こしちゃったね」
「・・・あんたもつくづく変わってるよな、こんな見ず知らずの奴を泊めるなんてさ。せっかくの休みって言ってたのに、こんな時ぐらい一人で寝たいもんじゃないのか?」
子供のくせにまたそういうことを言う、と女は片眉をつり上げて見せたが、特に怒った様子もなく柢王と並んで横になると、ぽつりと言った。
「独り寝はさみしいものさ。・・・特に周りが賑やかだとね」
柢王が首だけ傾けて女の方を見ると、女もこちらを見ていて、目が合うとにこっと笑った。
「先に寝た方が勝ちだからね」
なんだそりゃ、と言おうとしたが、女は笑ってさっさと目を閉じてしまった。
程なく静かな深い寝息が聞こえてくる。
室内がシンとなると、部屋の外から音楽と笑い声と嬌声が聞こえてきた。
(・・・なるほど)
一つの布団にくるまって女の寝息をききながら、何故か閉じられた箱の中に置き去りにされたような寂しさを柢王はおぼえた。
(たしかに、さみしいのかも)