投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
少し歩くと、なぜかカイシャンが歩みを止めた。
「カイシャン様?」
同じく桂花も数歩行ったところで足を止め後ろを振り返ると、突然、ありがとう、と言われた。
「おまえが、変じゃないって言ってくれてよかった」
なんのことかと思い、桂花はカイシャンのそばまで戻る。
「……俺の声は、俺だけのものじゃない、おまえのものでもあるんだ」
桂花の目を見て、ゆるぎない瞳でそう告げられた。
「あのとき、すごく怖くて…悔しくて……。おまえがいなかったら、俺の声は出ないままだった」
「あれは…あのときは、吾のほうこそあなたに助けていただきました。結局吾はなにもできないままで。お声が戻られたのは、カイシャン様が…」
「そうじゃない。桂花、俺の話を聞いて」
なおも言い募ろうとする桂花の言葉を、カイシャンがさえぎる。
「おまえじゃなかったら、俺は声が出なかった。怖くて、どうしようもなく怖くて…でも海賊の剣がおまえを狙ってるって気がついたときは、もっと怖かった。俺のせいで、おまえまで死なせてしまったらどうしようって…。おまえじゃなかったら、きっと声なんか出なかった。だから、いま俺の声があるのは、桂花のおかげだ。……その前は命も助けてもらった。おまえがいなかったら、俺は今頃生きてないよ」
「カイシャン様……」
「おまえだけだ。いつも俺を守ってくれたのは」
あのときと同じ、カイシャンの心からの言葉。
そしてそれは、条件反射のように、あのときと同じ愛した男の記憶を桂花に思い出させた。
「………桂花? おい、桂花…っ!!」
もう我慢できなかった。
かすかに震える両手で、桂花は蒼白の顔を覆い隠した。
すぐにカイシャンは手近に空いている部屋を探して、そこに桂花を押し込めた。
心配して人を呼ぼうとするカイシャンに、桂花はそばで聞き取るのがやっとの小さな声で、少し休めば良くなりますから……、とだけ言った。桂花の頑固さを知っている子供は、それ以上はなにも言わなかった。
「陛下には、桂花が来たことと具合が悪くて休んでること、俺から伝えておく。だから安心してここで休んでろ。すぐ戻ってくるから。いいな?」
そう言って静かに扉を閉めたカイシャンが足早に立ち去る足音が聞こえた。
休むようにと言われたのに、桂花は顔を覆ったまま、身動きひとつできなかった。
カイシャンの気持ちが嬉しくて誇らしくて、それと同時に思い知った。
自分がいかに、このまっすぐな王子のそばに似つかわしくないか、彼の信頼に値しないかを。
幼な子から少年へ、そして青年へと目に見えて成長するカイシャンの時間は動いている。止まったままの自分とは違うのだ。
(あの子はこれから…もっと柢王に似てくるだろう)
地底で待つ、あの人形のような柢王には決してありえない命の輝きで。
そして自分もそれに気づいてしまう。
別人なのに、あの子の中に柢王を見つけてしまう。
吾だけを見てくれる子に、柢王を重ねてしまう。
(なんて酷い…。吾は最低だ…っ)
柢王とは違う。
分かっている。
(吾は、吾の全ては、柢王のものだ。柢王だけのものだ)
なのにカイシャンのそばを離れられない。切り捨てられない。
決してカイシャンのためだけの存在にはなり得ないのに…っ。
(柢王……っ!!)
胸が痛くて、苦しくて、つらくて……。
罪悪感。自己嫌悪。愛しさ。切なさ。憎悪。悲しみ。喜び。妬み。
とりとめのない感情に押しつぶされそうだ。
(吾は醜い…こんな吾を見ないでくれ……!!)
――――――― 桂花、桂花、大丈夫か!?
ふいに頭の中で、心配そうな声が響いた。
雷に打たれたように一瞬その身をおののかせ、桂花はゆっくりと両手を顔から外す。
刹那、窓の向こう、穏やかな光とともに蒼い空が鮮明にその目に映った。
(蒼天………)
――――――― 桂花……?
不安げな声が、桂花の内で荒れ狂う嵐を気遣い呼びかける。
「…大丈夫…大丈夫です」
誰もいない部屋で、桂花は震える声で言葉を返した。
「心配しないで……」
蒼天――――。
あの日と同じ蒼い空、はじめて柢王に出会った季節。
(あの日から、こんなに遠くに来てしまった……)
後戻りはできない。
自分の意志でここまで来たのだ。
……掌に、爪が食い込むほど強く拳を握り締める。
懐かしい空に背を向けて、声にならない痛みに堪えるように、桂花は強く目を閉じた。
終。
宮廷が上都に移ってから、ふた月が経っていた。
上都にいる間は宮廷と草原を往き来していた桂花だったが、半月ほど前から皇帝フビライの許しを得て草原に戻っていた。 たとえ教主に与えられた百年の休暇とはいえ、桂花は地上を撹乱する命を受けている。それを全くのおざなりにはできないし、そのためには人の多い都の中では動きづらいこともある。
だが、近頃では珍しく長く都から離れていたにもかかわらず、今回も桂花は地底には戻らなかった。地底の柢王にも会っていない。気になりながらも、チンキムの事件以来一度もだ。
そうして久しぶりに宮廷を訪れた桂花は、かすかな違和感を感じていた。
いつもならなにかと理由をつけてまとわりついてくる子供が、今日はまだ近寄ってこない。
ちらと後姿らしきものが見えた気もしたのだが。
(避けられてる…?)
(いや、まさか…)
―――― まさか?
そんな傲慢な心の声に思わず苦笑がもれる。
よほど自分はカイシャンにとって大きな存在だと思っているらしい。
「馬鹿か、吾は」
いっそ声に出し、桂花は恥ずかしい考えを振り払った。
ここ数年、カイシャンの教育係のひとりとして、桂花はたいていカイシャンのそばにいた。
ほんの数日でも桂花が宮廷に顔を出さなければ、カイシャンのほうからゲルに行ってもいいかと人を使って聞いてくるのが常だった。なのに今回に限って、フビライや宮廷のこと、勉強のことなどを綴った手紙を寄こしてきただけで。
いつもと違う子供の様子に、桂花のほうが実は気になっていた。
「カイシャン様、声変わりされたのですよ」
先に皇太子宮へ行ってみようか、と中庭に近い廊下を逡巡しながら歩いていたときだった。桂花は古参の侍女に呼び止められ、満面の笑みで告げられた。
「それは…」
いきなりのことに、多少なりとも面食らった桂花は答えに詰まった。
(それは早いのだろうか、遅いのだろうか…)
カイシャンは今夏で十一歳になる。
人間の成長と変化には個人差があり、一概に何歳で、ということはないらしい。
ただ、会うたびごとに背丈が伸び、ふっくらとした丸い頬の顔立ちも少しずつ面長になっていた。
「ついこの前まで可愛らしい王子様でいらしたのに、どんどんご立派になられて…。桂花様も嬉しいでしょう?」
「……そうですね」
自分などより、よっぽどバヤンのほうがカイシャンの成長が嬉しいだろう、と桂花は思った。
だがカラコルムにいる彼は、カイシャンのことを気にかけ成長を楽しみにしながらも、そう頻繁に戻れる立場ではない。
(あとで手紙でも書いて送ろうか…)
侍女の言葉にあたりさわりのない相槌を打ちながら、桂花の意識はカイシャンへと飛んでいた。
(声変わり…か)
子供特有の少し高くて甘い、それでいて時には意思の強さがうかがえる声だった。
(どんな声で話すのかな……)
もしかしたら、柢王に似ているだろうか。
そう思いかけて、桂花は頭(かぶり)を振った。
たとえ柢王の転生であっても、その肉体と魂が彼の再現であっても、カイシャンは柢王とは別人なのだ。
わかっていても、油断すると唐突にそんな考えが湧いて出る。
(それもこれも、あの子がなかなか姿を見せないからだ)
あくまでカイシャンのほうが自分が訪れた話を聞きつけて姿を見せると思っている。
しかも、柢王を重ねて考えたことまでいつのまにかカイシャンのせいだ。
(でも、本当にどうしたんだろう…。どこかに出かけてでもいるのかな)
そのとき、ふと心に浮かんだ。
……もしかして照れているとか?
(それで、姿を見せない、とか…?)
思わず口元がほころぶ。
声だけでなく、背もまた伸びているかもしれない。
(昔はあんなに小さかったのにな…)
たまに抱き上げたときの、やわらかで熱い身体。精一杯の力で桂花にしがみついてきたかと思えば、安心して眠ってしまったりもした。
(……小さくて、可愛かったんだけどな)
日を増すごとに目に見えて大きくなっていく子供に、喜ばしさ、頼もしさを感じる片隅で、ほんの少し残念に思う気持ちも否めはしないが、桂花はだんだんとカイシャンに会うのが楽しみになっていた。
「…けいか」
だが、中庭に面した回廊でようやくカイシャンが姿を現し、言葉少なに声をかけてきたとき。
「桂花…?」
桂花は息を呑み、立ち尽くした。
柢王に似ているだろうかなどと一瞬でも考えた自分が呪わしい。
同じ、というわけではない。
そっくり、というほどでもない。
ただ…ほんの少し、記憶の中の柢王の声を思い出させる響きに、心が囚われる。
「桂花……」
なにも答えない桂花に、いぶかしんだカイシャンはさっきより慎重に声をかける。
「桂花、どうかしたのか?」
「……い、いいえ…なにも。カイシャン様、お元気そうでなによりです」
「俺は元気だけど……」
まだ声変わりの途中なのだろう。完全に大人になりきらない、少しかすれた不安定な声。
それでも桂花には分かってしまう。
その声が、いずれ自分の記憶の中の声と重なることが。
「桂花…おまえ、無理してないか? 顔色もよくないみたいだし……」
黙ってしまった桂花を気遣うように問われ、桂花は否定の言葉とともに、大丈夫です、と告げる。
それでもまだ心配そうに自分を見つめる子供に、
「………嬉しくて」
と言葉を続ければ、え? と驚いたように黒く大きな瞳が見開かれる。
「カイシャン様がどんどん大きくなられてゆくのが嬉しくて、つい言葉を失ってしまいました」
「…そうか。……でも、変な声だろ」
体調が悪いのを押して出てきたのではと心配したカイシャンだったが、桂花の言葉にひとまず安心したようだった。だが、カイシャンの言葉はいつもに比べて歯切れが悪い。
「いいえ、そんなことありませんよ」
「…嘘だ。だって、変なんだ。いつもの俺の声と全然違う…変な声に聴こえる…」
ああ…、と桂花は思い至る。
カイシャンは、普段は会話するのが大好きな元気で明るい子供だ。
桂花に会いにゲルに来なかったのも、今日なかなか姿を見せなかったのも、そしていつもより口数が少なく感じるのも、カイシャンなりの理由があったのだ。
「声というものは、声を出している本人と、周りで聞いている者とでは、違って聴こえるものなのですよ」
「……だったら、」
変だと思っている声で話すことを躊躇っているのか、桂花に尋ねることを迷っているのか。カイシャンは呟くように、おまえはどう思う、と言葉を継いだ。
嘘を見抜くような無垢な瞳に見つめられて、桂花はことさら冷静を装い答えた。
「今のカイシャン様に合った声で…初めてという気がいたしません。とても…馴染んだ声のように感じます」
(馴染んだ声、か……)
心で自嘲しながらも、桂花の中の真実を告げる。
「そうか」
桂花の言葉に、不安げだったカイシャンが今日はじめて笑顔を見せた。
「陛下のところに行くんだろ。俺も一緒に行く」
「はい」
並んで歩きだすと、カイシャンは少し見上げるように桂花を見ながら、さっきまでとは打って変わった楽しげな様子で桂花がいない間のことを話はじめた。
「それで、大都の完成もそろそろだろうって、おじい様がっ」
「前を見てないと転びますよ」
カイシャンが幼い頃から、何度となく繰り返している注意を口にする。
「大丈夫だって。桂花は心配性だな」
そう言いながら、なにもないところでつまずきそうになって桂花の冷たい視線を浴びる。
それでも懲りない子供は、桂花の名前を連呼しながら話し続けた。
指に脂を塗ってもらい、すでに出陣の経験もあるが、そんなところはまだまだ子供だ。
(わかっている。…だけど)
「桂花…桂花? ちゃんと聞いてるのか?」
子供の…柢王の面影のあるその姿が、柢王を思い出させる溌剌とした声で桂花を呼ぶ。
「……聞いてますよ」
それだけで……。
(声が少し似てきたくらいで、こんなに動揺するなんて……)
そのときふいに中庭から強い風が吹いた。
「…うわっ! これだから春はいやなんだ」
この時期、強風で吹き上げられた砂漠の砂は遠く海を越えるという。
宮廷の中庭の緑の葉にも、風の強い日にはうっすらと黄砂が積もっている。
カイシャンも、瞬間顔をそむけ目を閉じた。
そしてすぐにおさまった強風に、伺うように目を開け外を見、大丈夫だったか、と長い髪をおさえたままの桂花に声をかける。
「だ…いじょうぶです」
風は凪いでも、桂花の心はまだ平静を取り戻せないでいた。
「…カイシャン様は春が嫌いですか」
「嫌いじゃない。言葉のあやだ。春は…本当は一番好きだ。おまえだって好きだろ」
「え…?」
「こっちのほうが草原にも近いし…」
それに、とほんの少し早口で続けた。
「ずっと前までは、宮廷が大都に移ってもおまえだけ草原に残ってて半年会えなかったりしただろ。だから、俺は上都のほうが好きだし、春が来るのが待ち遠しかった。春になれば、おまえに会えるって思って、さ」
少し照れくさそうにそう告げるカイシャンの明るい瞳を直視できず、桂花は目を伏せ、次に風が生まれた方角に目をやった。
「……春は、青龍の季節だそうですね。伝説上の神獣で、蒼龍とも呼ばれ、東方を守護するという…」
龍はモンゴル皇族の模様でもある。
そして、風の守護。
偶然というには、あまりにも天界の柢王と重なる事実。
「ふうん…。やっぱり桂花はすごいな。なんでも知ってる」
懐かしさを感じさせる声で、にっこりと笑ってみせる柢王の転生……。
(吾は嬉しいのだろうか。この子の内にあなたを見つけて……)
自分の気持ちが分からない。
ただ、わかっているのは、浅ましい自分……。
全くの別人だと思いながら、それでも柢王のほんの小さなかけらを探してしまう。まるでこの人間の子供の中で、新しく柢王を構築しようとしているかのように……。
「…桂花、やっぱり具合が悪いんじゃないのか?」
「大丈夫です」
心配そうな子供に桂花は意識して口元に笑みを浮かべ、自分に言い聞かせるように声に出した。
「でも…」
「さあ、急ぎましょう」
そう言って、桂花は歩を早めた。
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