投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
蔵書室内。
一部の明かりのみを点けてナセルは傷んだ書物の補修をしていた。すでに自分以外の者は退出している。
ずっと下を向いていた頭をあげ時計に目をやると、守天に頼まれた本を届けに行く約束の時刻まであと10分をきっていた。
自分のようなものにまで気づかうことを忘れない守護主天、彼ほど勤勉に働く人をほかに知らない。せめて手助けになりたくて、どのような時間でも言いつけてくれれば必要な資料を探して届けますと申し出たが、日付が変わる時刻以降にそれを依頼されたことはこれまで一度もなかった。
けれど珍しく「遅い時間で悪いが・・・」と数冊の本を頼まれ、ナセルは心なしか気分が明るくなる。
もっとわがままを言うべきなのだ、この塔の・・いや、天界の主は。
「さて・・」
作業途中の蔵書を端によけると、ナセルは棚に戻し忘れていた本に気づいた。
手がかりになりそうなことは特に載っていなかったそれに手を伸ばす。
ナセルは軽く息をつくと、その本を抱え目的の棚へ向かった。
先日、角のことを調べさせて欲しいと再度願い出たら「嫌だ」と泣かれてしまった。
またすげなく断られてしまったが、何度断られようとあの角のことを秘密裏に調べる。
遠い存在だった頃は、ただの乱暴なワガママ王子だとしか認識がなかったけれど、一度彼のテリトリーに入ってしまったら、彼の傍にいて役立ちたいとさえ思うようになった。
今までの自分にはとても信じられないことだ・・・こんなに「誰か」に入れこむなんて。
王子の武勇伝も、良し悪し全て把握している・・・と言っても、使い女や彼の部下達が知る限りのものであるから、全てではないだろうが。
裏で無茶なことを沢山して、時には炎王様に罰を受けて。そのたびにきっと――――守天様になぐさめられて・・・・。
天界の最高峰である光の化身、守護主天。誰もが見とれる秀麗な彼に、やさしく抱擁される王子の姿を思いうかべた瞬間、鉛を土壌に落としたような鈍い衝撃が胸をうった。
奥底からにじみ出てくるこの感情は、まだ完全に熟していない・・・まだ。これが、じゅうぶんに熟れたとき。その時どのような行動に出るのか、他人事のように傍観している自分に呆れつつ、楽しみにしているのだ。
「初めての感情だ・・・・・」
見落としてしまいそうなほどわずかに口角をあげた彼は棚にそれを戻すと、分厚い本を届けに深夜の蔵書室を後にした。
「アシュレイ様!?」
執務室から戻ったナセルは、薄暗い明かりの中で机に突っ伏して寝ているアシュレイを発見し驚く。
「風邪ひきますよ、こんな所で」
声をかけても、王子は「んぅ〜」とうめくだけで目を覚ましそうにない。
「困った方ですね」
苦笑しながら自分がここに勤務し始めた頃、毎日のように使用していたブランケットを奥から引っぱり出してきてアシュレイの体にかけてやる。
手を枕代わりにひいて、わずかに口を開けている寝顔はいつも以上に幼く愛らしい。
「・・・・顔に跡がついちゃいますね」
そっとその細すぎる体を抱えると、ナセルは顔をしかめた。
「なんでこんな―――――・・・あなた、本当に何をしてるんです?」
掴んだ手首やウエストから、痩せてしまったアシュレイを心配してはいたのだが、実際にこの体を抱きあげてみると今にも折れてしまいそうなほど心細い。子供に変化していた時はこれほどまでとは思わなかった・・・・・。
ナセルは、アシュレイを抱いたまま椅子に腰をかけ、行儀がわるいこと承知で机の上に足をのせた。自分の足の上に王子の足をのせ、リクライニングシート代わりとなった時点でブランケットをかけなおしてやる。
「目を覚ましたら、また殴られるだろうな」
分かっているくせにその体を離さない彼は、体温の高い王子が落ちないように両手をゆるくまわし、赤い髪に頬を埋めた。
「ン・・・ティア?」
「お目覚めですか?」
「!?」
想像したものと違う声が返ってきて驚いたアシュレイは、振り返って自分の体を抱いている男を確認した。
「ナセル!お、お前なんで」
「俺のこと待っててくれたんですか?」
嬉しそうに問われて、アシュレイは自分の目的を思い出す。ナセルに訊きたいことがあって来たものの、蔵書室はもぬけの殻だった。
錠がかかっていたが、中に入ってみると補修途中の蔵書が置いてあったので、すぐ戻ってくるだろうと判断して待っていたのだ。その間に寝てしまったらしい・・・なぜ、ナセルが戻ったことに気づかなかったのだろう。
昼間、氷暉とさんざん体を酷使したせいだろうか、仄暗いしずかな部屋が心地良く、誰もいなかったせいだろうか―――どんな理由をつけたとしても、気配に気づかず寝入っていたことは恥だった。
「手、離せよ」
アシュレイは不機嫌な声で自分の体にまわっている大きな手をたたく。
「ああ・・・・すみません、もうしばらく動かないで。あなたを抱いてたんで足が痺れてるんですよ」
「えっ?ごめん・・・・・って、抱いてたとか言うなっ!」
両の拳をふるう王子を離してやると、彼は椅子を引っ張ってきて向かいに腰をおろした。
「俺、お前に訊きたいことあって」
「何でしょう」
「龍鳥のことなんだけど」
「龍鳥というと桂花殿の?」
「ん」
「それなら直接・・・・いえ、こちらへどうぞ」
ナセルは、付箋だらけのノートを数冊取り出してきた。
「・・・・そのノート、お前のか?」
「はい。魔族に関しては本には記されていないことも、まだまだ沢山ありますからね。実際に体験した人からの情報や見た人の話は貴重なものです」
「確かな情報なのか?」
「俺の判断ですが」
ナセルはノートに目を落とすとしばらくそれに集中し、アシュレイは何も言わずにそんな彼を見ている。
「成体になるとかなりの大きさになるようですね。それに、嘴や爪も触れただけで・・・・・・」
自分に向けられたノートをのぞくとナセルのきれいな字や情報誌の切抜き、蔵書のコピーが整然と並んでいて、そこには魔族を先祖に持つ龍鳥の、誇り高い機能の数々が記されていた。
「そっか・・・そうなると・・・・」
「ここでは飼えない?」
「―――――だよな」
「・・・・桂花殿のためにお調べに?」
「ばっ・・・そんなんじゃねえよ!ひょ、冰玉はまだ子供だろっ、アイツいつまでもチビのまんまでサ、一体いつになったら成鳥になるんだ?って疑問に思っただけだっ」
「そうですか」
笑いをこらえるナセルがムカツク。
「くそっ、勝手に勘違いしてろっ」
「まあ、それはさておき・・・・守天様が既に何かうつ手を考えていらっしゃるのでは?」
「―――――そうだよな、ティアだもんな!」
「・・・・・・」
誇らしげに笑うアシュレイが、ほんの少し憎らしく見えてしまうナセルであったが、そんな素振りは露も見せない。
「さきほど執務室の方に守天様からご依頼を受けた書物をお届けにあがったのですが、その際、追加であと数冊お届けすることになりまして。アシュレイ様さえよろしければその件、うかがっておきましょうか」
「いや、あした自分で訊く」
う〜ん、と伸びをしてアシュレイは席を立った。
「・・・・そうですか――――おやすみなさい」
主君に向かってする挨拶にしては、砕けた口調。それは微妙に甘さを含んでいたが、アシュレイは短く応えてそっけなく出て行った。
「すみません、遅くなりました・・・先ほど、アシュレイさまが蔵書室にいらっしゃいまして――――お疲れだったのでしょう、居眠りをなさった≠フでしばらくおそばで様子をうかがっておりました」
「アシュレイが・・居眠り?」
一瞬ティアは前のめりになったが、すぐに平静を装うと切り返した。
「ふふ、まさか。君は知らないだろうが、彼は人が傍にいると眠ることができなくてね」
さすが、どんな時でも気を抜かない武将らしいよ。と勝ち誇った笑みを見せる。
「そうでしたか・・・・・・・じゃあ俺には気を許してくれてるのかな」
後半、呟いたそれは独りごとにしてはティアの耳までしっかり届くものだった。
守天を尊敬している。彼の力になりたいとも思う―――だが、それとこれとは別。のナセルである。
「・・・・・・下がっていいよナセル。遅くまでご苦労だった」
ナセルは追加の本を守天の手元に置くと、辞儀して執務室を出て行った。
「――――――――本当なの、アシュレイ」
宙をにらむティアの眉間に深く線がはいる。ナセルの言うことを鵜呑みにするわけではないが、何度注意を呼びかけても懲りない恋人がうらめしい。
「またおしおきされたいのかな・・・」
頬杖をつき、指先でトントンと書類を突きながら、策士は窓のほうを向く。
「出ておいで。分かってるんだよ」
ナセルが入室したと同時に姿を隠して執務室へ飛んできたアシュレイ。ナセルにはああ言ったが、やはり冰玉のことで、ティアに何か考えがあるのか訊きたくなって来てしまった。しかし、ナセルの微妙な言いまわしに焦って、気づかれないうちに部屋へ戻ろうかと迷っていたらこれだ・・・・やっぱりばれていた。
「違うんだティア、誤解だ」
「なにが誤解?また蔵書室に行ったんだね、こんな夜遅くひとりっきりで」
「それは・・・」
「眠くなっちゃって彼の前で寝たって?へえ、いつから人前で寝れるようになったの?私以外の人前で」
「ティア!」
「シ、大きな声ださないで。君、分かってないみたいだから教えてあげる」
アシュレイの苦手な視線を絡みつけたままティアが席を立つ。
「いい?君の恋人は私。氷暉殿でもナセルでもアウスレーゼ様でもない、私だ」
「わ、分かってる」
「分かってるの?本当に?」
「く、くどいぞっ」
「そう」
それじゃあ、とティアは満面の笑みを向けてアシュレイを抱き上げる。
「恋人らしく私をなぐさめて?」
「なぐさめるって、なんでっ」
「ナセルがいじわるしたんだ、傷ついちゃったよ」
「ティア、ちょっ――」
・・・・・・・・静まりかえった、執務室。
結局アシュレイは冰玉のことを訊くひまも与えられず、恋人の深くしつこい愛に応える羽目となったのだった。
絆なんて信じてはいけない、と李々は何度も言っていた。
求めてもいけない、と。
その意味を桂花はよく判っていなかった。だから無邪気に言えたのだと思う。
俺達は魔族同士だから大丈夫だよね――。
そうねと笑って、ずっと一緒にいましょうね、と続けた声の空ろさも、桂花は気づかないままだった。
李々はある日突然消えた。
――二度と帰って来なかった。
絆なんて信じてはいけない。その声は今も桂花の頭の中でこだまする。
「ん? どした、桂花」
閨で睦みあえば、気絶するように眠りに落ちることも珍しくない。だが今夜の桂花は、力ない手で柢王の手を探っていた。
「桂花?」
指が見つけ出した手のひらはあたたかい。これは、李々が信じてはいけないと言ったものだ。
信じてはいけない。
求めてはいけない――。
きつく閉ざされた眦から涙が筋となって流れ落ちる。
「桂花、桂花? どうしたんだよ」
李々が教えてくれたことで、桂花のためにならないことは一つだってなかった。
ならば――。
「おい、桂花」
首と敷布の間に逞しい腕が差し込まれ、僅かにのけぞった顔を、柢王が覗きこんできた。
「どうした? どっか痛いのか?」
吾はこのひとを信じてはいけない。
泣きながら自分を見つめる魔族に何を思ったのか、柢王は一方の腕で白い頭を抱え込んだ。
「大丈夫だ。俺がいる。ずっと側にいるから」
求めては、いけない。
李々の言葉を信じるなら――。
天界人の体温の高い体。武将の鍛えられた体つき。剣を使う者の、指の付け根にあるたこ。気遣う眼差し、優しい声。
己の全てで柢王は桂花を包みこんでいる。
桂花はきつく眼をつぶった。
(李々・・・ごめん)
もう自分は李々を選べない。
それが彼女への裏切りであっても。
「ごめん・・・」
「桂花。大丈夫だ。おまえが謝ることなんて何もない。おまえは何も悪くないから」
ささやいて涙をぬぐう唇。
「愛してるぜ、桂花。おまえだけだ」
な、と額を合わせて笑ってみせる男の顔。
その首に桂花は腕を回した。
「抱きしめててください。ずっと」
すぐに応えてくれる腕の力強さに桂花は吐息をつく。
(李々・・・。吾を許してほしい・・・)
瞼の裏に広がる赤い髪に、桂花はきつく眼を閉じた。
少し歩くと、なぜかカイシャンが歩みを止めた。
「カイシャン様?」
同じく桂花も数歩行ったところで足を止め後ろを振り返ると、突然、ありがとう、と言われた。
「おまえが、変じゃないって言ってくれてよかった」
なんのことかと思い、桂花はカイシャンのそばまで戻る。
「……俺の声は、俺だけのものじゃない、おまえのものでもあるんだ」
桂花の目を見て、ゆるぎない瞳でそう告げられた。
「あのとき、すごく怖くて…悔しくて……。おまえがいなかったら、俺の声は出ないままだった」
「あれは…あのときは、吾のほうこそあなたに助けていただきました。結局吾はなにもできないままで。お声が戻られたのは、カイシャン様が…」
「そうじゃない。桂花、俺の話を聞いて」
なおも言い募ろうとする桂花の言葉を、カイシャンがさえぎる。
「おまえじゃなかったら、俺は声が出なかった。怖くて、どうしようもなく怖くて…でも海賊の剣がおまえを狙ってるって気がついたときは、もっと怖かった。俺のせいで、おまえまで死なせてしまったらどうしようって…。おまえじゃなかったら、きっと声なんか出なかった。だから、いま俺の声があるのは、桂花のおかげだ。……その前は命も助けてもらった。おまえがいなかったら、俺は今頃生きてないよ」
「カイシャン様……」
「おまえだけだ。いつも俺を守ってくれたのは」
あのときと同じ、カイシャンの心からの言葉。
そしてそれは、条件反射のように、あのときと同じ愛した男の記憶を桂花に思い出させた。
「………桂花? おい、桂花…っ!!」
もう我慢できなかった。
かすかに震える両手で、桂花は蒼白の顔を覆い隠した。
すぐにカイシャンは手近に空いている部屋を探して、そこに桂花を押し込めた。
心配して人を呼ぼうとするカイシャンに、桂花はそばで聞き取るのがやっとの小さな声で、少し休めば良くなりますから……、とだけ言った。桂花の頑固さを知っている子供は、それ以上はなにも言わなかった。
「陛下には、桂花が来たことと具合が悪くて休んでること、俺から伝えておく。だから安心してここで休んでろ。すぐ戻ってくるから。いいな?」
そう言って静かに扉を閉めたカイシャンが足早に立ち去る足音が聞こえた。
休むようにと言われたのに、桂花は顔を覆ったまま、身動きひとつできなかった。
カイシャンの気持ちが嬉しくて誇らしくて、それと同時に思い知った。
自分がいかに、このまっすぐな王子のそばに似つかわしくないか、彼の信頼に値しないかを。
幼な子から少年へ、そして青年へと目に見えて成長するカイシャンの時間は動いている。止まったままの自分とは違うのだ。
(あの子はこれから…もっと柢王に似てくるだろう)
地底で待つ、あの人形のような柢王には決してありえない命の輝きで。
そして自分もそれに気づいてしまう。
別人なのに、あの子の中に柢王を見つけてしまう。
吾だけを見てくれる子に、柢王を重ねてしまう。
(なんて酷い…。吾は最低だ…っ)
柢王とは違う。
分かっている。
(吾は、吾の全ては、柢王のものだ。柢王だけのものだ)
なのにカイシャンのそばを離れられない。切り捨てられない。
決してカイシャンのためだけの存在にはなり得ないのに…っ。
(柢王……っ!!)
胸が痛くて、苦しくて、つらくて……。
罪悪感。自己嫌悪。愛しさ。切なさ。憎悪。悲しみ。喜び。妬み。
とりとめのない感情に押しつぶされそうだ。
(吾は醜い…こんな吾を見ないでくれ……!!)
――――――― 桂花、桂花、大丈夫か!?
ふいに頭の中で、心配そうな声が響いた。
雷に打たれたように一瞬その身をおののかせ、桂花はゆっくりと両手を顔から外す。
刹那、窓の向こう、穏やかな光とともに蒼い空が鮮明にその目に映った。
(蒼天………)
――――――― 桂花……?
不安げな声が、桂花の内で荒れ狂う嵐を気遣い呼びかける。
「…大丈夫…大丈夫です」
誰もいない部屋で、桂花は震える声で言葉を返した。
「心配しないで……」
蒼天――――。
あの日と同じ蒼い空、はじめて柢王に出会った季節。
(あの日から、こんなに遠くに来てしまった……)
後戻りはできない。
自分の意志でここまで来たのだ。
……掌に、爪が食い込むほど強く拳を握り締める。
懐かしい空に背を向けて、声にならない痛みに堪えるように、桂花は強く目を閉じた。
終。
宮廷が上都に移ってから、ふた月が経っていた。
上都にいる間は宮廷と草原を往き来していた桂花だったが、半月ほど前から皇帝フビライの許しを得て草原に戻っていた。 たとえ教主に与えられた百年の休暇とはいえ、桂花は地上を撹乱する命を受けている。それを全くのおざなりにはできないし、そのためには人の多い都の中では動きづらいこともある。
だが、近頃では珍しく長く都から離れていたにもかかわらず、今回も桂花は地底には戻らなかった。地底の柢王にも会っていない。気になりながらも、チンキムの事件以来一度もだ。
そうして久しぶりに宮廷を訪れた桂花は、かすかな違和感を感じていた。
いつもならなにかと理由をつけてまとわりついてくる子供が、今日はまだ近寄ってこない。
ちらと後姿らしきものが見えた気もしたのだが。
(避けられてる…?)
(いや、まさか…)
―――― まさか?
そんな傲慢な心の声に思わず苦笑がもれる。
よほど自分はカイシャンにとって大きな存在だと思っているらしい。
「馬鹿か、吾は」
いっそ声に出し、桂花は恥ずかしい考えを振り払った。
ここ数年、カイシャンの教育係のひとりとして、桂花はたいていカイシャンのそばにいた。
ほんの数日でも桂花が宮廷に顔を出さなければ、カイシャンのほうからゲルに行ってもいいかと人を使って聞いてくるのが常だった。なのに今回に限って、フビライや宮廷のこと、勉強のことなどを綴った手紙を寄こしてきただけで。
いつもと違う子供の様子に、桂花のほうが実は気になっていた。
「カイシャン様、声変わりされたのですよ」
先に皇太子宮へ行ってみようか、と中庭に近い廊下を逡巡しながら歩いていたときだった。桂花は古参の侍女に呼び止められ、満面の笑みで告げられた。
「それは…」
いきなりのことに、多少なりとも面食らった桂花は答えに詰まった。
(それは早いのだろうか、遅いのだろうか…)
カイシャンは今夏で十一歳になる。
人間の成長と変化には個人差があり、一概に何歳で、ということはないらしい。
ただ、会うたびごとに背丈が伸び、ふっくらとした丸い頬の顔立ちも少しずつ面長になっていた。
「ついこの前まで可愛らしい王子様でいらしたのに、どんどんご立派になられて…。桂花様も嬉しいでしょう?」
「……そうですね」
自分などより、よっぽどバヤンのほうがカイシャンの成長が嬉しいだろう、と桂花は思った。
だがカラコルムにいる彼は、カイシャンのことを気にかけ成長を楽しみにしながらも、そう頻繁に戻れる立場ではない。
(あとで手紙でも書いて送ろうか…)
侍女の言葉にあたりさわりのない相槌を打ちながら、桂花の意識はカイシャンへと飛んでいた。
(声変わり…か)
子供特有の少し高くて甘い、それでいて時には意思の強さがうかがえる声だった。
(どんな声で話すのかな……)
もしかしたら、柢王に似ているだろうか。
そう思いかけて、桂花は頭(かぶり)を振った。
たとえ柢王の転生であっても、その肉体と魂が彼の再現であっても、カイシャンは柢王とは別人なのだ。
わかっていても、油断すると唐突にそんな考えが湧いて出る。
(それもこれも、あの子がなかなか姿を見せないからだ)
あくまでカイシャンのほうが自分が訪れた話を聞きつけて姿を見せると思っている。
しかも、柢王を重ねて考えたことまでいつのまにかカイシャンのせいだ。
(でも、本当にどうしたんだろう…。どこかに出かけてでもいるのかな)
そのとき、ふと心に浮かんだ。
……もしかして照れているとか?
(それで、姿を見せない、とか…?)
思わず口元がほころぶ。
声だけでなく、背もまた伸びているかもしれない。
(昔はあんなに小さかったのにな…)
たまに抱き上げたときの、やわらかで熱い身体。精一杯の力で桂花にしがみついてきたかと思えば、安心して眠ってしまったりもした。
(……小さくて、可愛かったんだけどな)
日を増すごとに目に見えて大きくなっていく子供に、喜ばしさ、頼もしさを感じる片隅で、ほんの少し残念に思う気持ちも否めはしないが、桂花はだんだんとカイシャンに会うのが楽しみになっていた。
「…けいか」
だが、中庭に面した回廊でようやくカイシャンが姿を現し、言葉少なに声をかけてきたとき。
「桂花…?」
桂花は息を呑み、立ち尽くした。
柢王に似ているだろうかなどと一瞬でも考えた自分が呪わしい。
同じ、というわけではない。
そっくり、というほどでもない。
ただ…ほんの少し、記憶の中の柢王の声を思い出させる響きに、心が囚われる。
「桂花……」
なにも答えない桂花に、いぶかしんだカイシャンはさっきより慎重に声をかける。
「桂花、どうかしたのか?」
「……い、いいえ…なにも。カイシャン様、お元気そうでなによりです」
「俺は元気だけど……」
まだ声変わりの途中なのだろう。完全に大人になりきらない、少しかすれた不安定な声。
それでも桂花には分かってしまう。
その声が、いずれ自分の記憶の中の声と重なることが。
「桂花…おまえ、無理してないか? 顔色もよくないみたいだし……」
黙ってしまった桂花を気遣うように問われ、桂花は否定の言葉とともに、大丈夫です、と告げる。
それでもまだ心配そうに自分を見つめる子供に、
「………嬉しくて」
と言葉を続ければ、え? と驚いたように黒く大きな瞳が見開かれる。
「カイシャン様がどんどん大きくなられてゆくのが嬉しくて、つい言葉を失ってしまいました」
「…そうか。……でも、変な声だろ」
体調が悪いのを押して出てきたのではと心配したカイシャンだったが、桂花の言葉にひとまず安心したようだった。だが、カイシャンの言葉はいつもに比べて歯切れが悪い。
「いいえ、そんなことありませんよ」
「…嘘だ。だって、変なんだ。いつもの俺の声と全然違う…変な声に聴こえる…」
ああ…、と桂花は思い至る。
カイシャンは、普段は会話するのが大好きな元気で明るい子供だ。
桂花に会いにゲルに来なかったのも、今日なかなか姿を見せなかったのも、そしていつもより口数が少なく感じるのも、カイシャンなりの理由があったのだ。
「声というものは、声を出している本人と、周りで聞いている者とでは、違って聴こえるものなのですよ」
「……だったら、」
変だと思っている声で話すことを躊躇っているのか、桂花に尋ねることを迷っているのか。カイシャンは呟くように、おまえはどう思う、と言葉を継いだ。
嘘を見抜くような無垢な瞳に見つめられて、桂花はことさら冷静を装い答えた。
「今のカイシャン様に合った声で…初めてという気がいたしません。とても…馴染んだ声のように感じます」
(馴染んだ声、か……)
心で自嘲しながらも、桂花の中の真実を告げる。
「そうか」
桂花の言葉に、不安げだったカイシャンが今日はじめて笑顔を見せた。
「陛下のところに行くんだろ。俺も一緒に行く」
「はい」
並んで歩きだすと、カイシャンは少し見上げるように桂花を見ながら、さっきまでとは打って変わった楽しげな様子で桂花がいない間のことを話はじめた。
「それで、大都の完成もそろそろだろうって、おじい様がっ」
「前を見てないと転びますよ」
カイシャンが幼い頃から、何度となく繰り返している注意を口にする。
「大丈夫だって。桂花は心配性だな」
そう言いながら、なにもないところでつまずきそうになって桂花の冷たい視線を浴びる。
それでも懲りない子供は、桂花の名前を連呼しながら話し続けた。
指に脂を塗ってもらい、すでに出陣の経験もあるが、そんなところはまだまだ子供だ。
(わかっている。…だけど)
「桂花…桂花? ちゃんと聞いてるのか?」
子供の…柢王の面影のあるその姿が、柢王を思い出させる溌剌とした声で桂花を呼ぶ。
「……聞いてますよ」
それだけで……。
(声が少し似てきたくらいで、こんなに動揺するなんて……)
そのときふいに中庭から強い風が吹いた。
「…うわっ! これだから春はいやなんだ」
この時期、強風で吹き上げられた砂漠の砂は遠く海を越えるという。
宮廷の中庭の緑の葉にも、風の強い日にはうっすらと黄砂が積もっている。
カイシャンも、瞬間顔をそむけ目を閉じた。
そしてすぐにおさまった強風に、伺うように目を開け外を見、大丈夫だったか、と長い髪をおさえたままの桂花に声をかける。
「だ…いじょうぶです」
風は凪いでも、桂花の心はまだ平静を取り戻せないでいた。
「…カイシャン様は春が嫌いですか」
「嫌いじゃない。言葉のあやだ。春は…本当は一番好きだ。おまえだって好きだろ」
「え…?」
「こっちのほうが草原にも近いし…」
それに、とほんの少し早口で続けた。
「ずっと前までは、宮廷が大都に移ってもおまえだけ草原に残ってて半年会えなかったりしただろ。だから、俺は上都のほうが好きだし、春が来るのが待ち遠しかった。春になれば、おまえに会えるって思って、さ」
少し照れくさそうにそう告げるカイシャンの明るい瞳を直視できず、桂花は目を伏せ、次に風が生まれた方角に目をやった。
「……春は、青龍の季節だそうですね。伝説上の神獣で、蒼龍とも呼ばれ、東方を守護するという…」
龍はモンゴル皇族の模様でもある。
そして、風の守護。
偶然というには、あまりにも天界の柢王と重なる事実。
「ふうん…。やっぱり桂花はすごいな。なんでも知ってる」
懐かしさを感じさせる声で、にっこりと笑ってみせる柢王の転生……。
(吾は嬉しいのだろうか。この子の内にあなたを見つけて……)
自分の気持ちが分からない。
ただ、わかっているのは、浅ましい自分……。
全くの別人だと思いながら、それでも柢王のほんの小さなかけらを探してしまう。まるでこの人間の子供の中で、新しく柢王を構築しようとしているかのように……。
「…桂花、やっぱり具合が悪いんじゃないのか?」
「大丈夫です」
心配そうな子供に桂花は意識して口元に笑みを浮かべ、自分に言い聞かせるように声に出した。
「でも…」
「さあ、急ぎましょう」
そう言って、桂花は歩を早めた。
ドンドコドコドコドンドゴドン
ドンドコドコドコドンドコドン
紫が舞い乱れる。
天空界のアレ○リア!?
ひとつ・・・ふたつ・・・みっつ・・・・・・・・やっつ。
良く言えば神秘的。
悪く・・・でなく、常識人から見れば奇妙なことこのうえなく。
「―――効果なしか・・・」
「―――残念ながら」
一幕を終え、紫の衣を纏った八人は額の汗をふきふき岩戸前に集まった。
だが無常にも岩戸は堅く閉ざされたまま。
「守天様には困ったものだ」
「身を隠されて早三日。そろそろ人界にも影響が出始めますぞ」
「分かっとるわい。だから、こうして我々の素晴らしき演舞を披露してるではないか」
「・・・・・あっ、あの〜。やはり、いつもの通りお力をお借りしたほうが・・・」
思い切って発した新米八紫仙をギロッと睨みつけたものの、それが最良の策と残り七人は肩を落とし頷いた。
「アホですね」
「―――――だな」
柢王は八紫仙からの依頼文を机に放った。
「ティアもティアだ。ボイコットするなら上手くやれって、あんだけ教えてやったのに」
「疲労もたまりますよ。全て一人で処理されてるんですから」
―――誰かさんと違って―――チラッと桂花は柢王を見る。
「うっ・・・違うって、そもそも疲労の根本は」
「サルでしょ」
「―――――」
「ほら、行くんでしょ」
「おまえもな」
差し出された布を額に巻き、桂花の肩を抱き柢王は扉を開けた。
「ティア、いいかげんにしろっ!!」
渋る八紫仙をなんとか帰したものの、ティアはいまだ岩戸の奥。
「他の手を考えるしかありませんね」
「手はうってある」
言ったすぐ後、風をきってアシュレイが空から降りてきた。
「おせーぞっ」
「わるいっ、それよりティアは!?」
アシュレイはぐるりと周囲を見回す。
「『緊急事態』ってデマじゃないだろうな」
嘘ならただじゃおかないと柢王につめよる。
「そういうこと言うかぁ〜? ティアは三日前からそこに閉じこもってんだそうだ。おまえも来たことだし後はよろしく」
じゃあな、と桂花と背を向けた柢王をアシュレイは慌ててひきとめる。
「待てっ!!ちょっと待てって・・・わるかった」
ボッソリと謝罪したアシュレイに柢王は肩をすくめむきなおる。
柢王をひきとめれたことに胸をなでおろし、アシュレイは岩戸にあゆみよった。
「ティア、出てこいよ」
「なぁ・・・頼むからさ」
こういうのは苦手だ。誰に対しても機嫌などとったことないアシュレイだ。
やれやれ〜柢王もアシュレイの横で再度呼びかける。
「ほらアシュレイもきたぜ。 さっさと出てこい」
何度となく呼びかける二人を桂花は木に寄りかかり傍観。
だが進展の影すらなくとうとうアシュレイが切れる。
「おいっ!!いいかげんにしろよっ!!」
下手に出てりゃ―――!!我慢も限度と岩戸に炎を投げつけた。
―――――バチッ―――――
炎は戸に当たった途端、火花を放ち消え失せた。
朱光剣、斬妖槍で斬りかかったもののやはり効果はない。
「勝手にしろっ!!」
「おいおいっ、待てよ、待てッ!!」
捨て台詞を投げ背を向けたアシュレイを慌てて柢王がつかまえる。
「閻魔様にバレりゃ謹慎だぞ」
「自業自得だろっ」
「―――無責任な」
「なんだとぉ!!」
今まで傍観してた桂花のつぶやきにアシュレイは喰ってかかる。
「相変わらず勝手なことだ。守天殿を追い込んだのはどこの誰だか考えてみるんだな。 柢王、帰りましょう」
柢王は立ち去ろうとする桂花を宥めてから、アシュレイに向き直った。
もちろん冷ややかな紫の瞳に謝罪を入れることも忘れずに。
「ティアは疲れてんだぜ。あいつを息抜きさせれるのはおまえだけだろ」
「・・・・・」
「いつから顔出してないんだ?」
「二十日くらい・・・その倍かも・・・」
「ハァッ―――――」
そりゃ、むくれるわな〜と柢王はガックリとため息をつく。
柢王の横でアシュレイもめずらしくうな垂れる。
「どうするかなー」
柢王はあえて口に出し、桂花を窺い見る。
呆れるのは毎度のこと。
仕方ないですねと桂花は口を開く。
「―――そういえば守天殿は衣装を作られてました。自らデザインなさって」
「服?」
「ええ。とても楽しそうに。・・・あれなら〜」
「それでいこう!!」
「でも―――――」
桂花はチラッとアシュレイを見る。
「何だよっ!!」
「絶対的協力がなければ・・・」
がなりたてるアシュレイを顎で指し、柢王に無言で告げる。
―――なるほど・・・素早く理解した柢王はアシュレイ承諾にかかる。
「協力するよな? な? 何が何でも」
「―――わかった、するっ、すりゃいいんだろっ」
「そうそう、すりゃいいんだ」
「その言葉、忘れずに」
念を押すと桂花は「用意してきます」と天主塔にむかった。
―――――数十分後―――――
「なっ・・・なんで俺がっ・・・こっ・・こ・・・こんなの着れるかっ!!!!!」
「協力すんだろっ!!」
「『何が何でも』でしたね!!」
暴れるアシュレイを柢王と桂花が押さえつける。
その騒がしさは八紫仙の乱舞どころでない。
ティアの服・・・そう、それは恋人宛と決まってる。
「でっ・・・ケドこれ服ってより布っ」
「この斬新さがわからないとは、やはりサルッ」
ほとんど言葉にならないアシュレイに桂花は冷たく返す。
だが冷ややかな紫の瞳の奥は、いつになく楽しげに輝いている。
―――どこが斬新だか・・・ありゃ紙切り、いや布切り工作じゃねーか。(by柢王)
―――禁断症状も最終段階だったんですよ。(by桂花)
視線のみで意思疎通する柢王、桂花。
二人は何とかアシュレイを口車に乗せ岩戸前に立たせることに成功。
すると!!
―――――ギギッ―――――
堅く閉ざされた岩戸が開いた。
中からニュッと腕が伸び。
―――――ガシッ、ズルッ―――――
アシュレイをつかみ一気に引きずり込んだ。
―――――ギギギッ―――――
そして岩戸は元通り。 堅く堅く閉ざされた。
そのスピード、コンマ002秒。
「―――シュラム並みですね」
「・・・シュラム以上だ」
「―――ですが柢王」
「・・・ああ。少なくとも三日は延長、いや延泊だな」
残された二人は深いため息をつくと、黙ったまま岩戸を後にした。
―――――只今充電中(再開三日後・・・の予定)―――――
と岩肌に書き付けて。
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