投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
肌にふれる風に、柢王は目を覚ました。なめらかなシーツをたどり、隣を探ると、ひんやりした手触りだけが応じて、
傍らにいるべき人の姿はない。
「桂花?」
眠い目を開け、部屋のなかを見まわす。朝の光と、風に揺れる薄物のカーテン。台所から小さな物音が聞こえる。
ただよってくるいいにおい。
柢王の肩から、ふと力が抜ける。冷たいシーツに飛び起きるようなことはもうしないが、気配があるとわかるまでは、
息をつめてしまう癖はまだ抜けない。傍にいると誓ってくれた言葉を疑うのではなく、もしかれが消えていたら、自分の世界の
全てが崩れ落ちそうな思いは変わらないから。
でも、もしそれを告げたなら、あの紫の瞳は、言葉に出さない苦笑いを宿すだろうに。
『置いていくのは、あなたなのに』
柢王は苦笑して、枕に頭を預けたまま、カーテンが風にふわりふわりと持ち上がるさまを眺めた。差し込む光はあたたかく、
空気がほのかに甘い。命のめぐりくる季節の到来だ。
桂花が起こしに来てくれるなら、このままこうして待とうかと考える。そのことに、心が休まる。
以前は寝台でいつまでもまどろんでいるようなことはなかった。大勢に囲まれていた王城はもちろん、花街でも。
寝過ごすことはよくあったが、それは、起こしに来てくれる恋人の優しい手を待つような、甘えた気持ちのものではなかった。
昔から、要領よく、誰にでも合わせることはできたけれど。
心をゆだねられる相手はそうはいない。明かさないことがあるなしとは別のところで、ある瞬間に、自分の全てを明け渡しても
いいと思える相手はそうは多くない。
そう考えて、ふと、柢王は眉を上げた。近頃は見ない夢を思い出した。
雲ひとつない蒼天に、まっしぐらに駆けのぼる夢。気流を巻き上げ、ぐんぐんと、ただひたすら上空へ、風になって
駆け昇っていく。
視界が青に染まり、もう世界は遠く、足元には何も見えない。
まばゆい光が近づく。そこまで。もっと高く。まだ行ける──
そう思った瞬間に、決まって、世界は暗転し、体が後ろへ吸い込まれていく。伸ばした手が宙をかいて、翼をもがれた
鳥のように、旋回してどこまでも堕ちていく夢を──
自らの存在を試すように──
挑みたいと望むのは、きっと武将の本能のようなものだ。挑む時に感じる、あの魂から突き上げるような高揚も、きっと、
誰でもとは共有できない。
それは誰かに見せる強さではない。誰かに誇る力でもない。ただ、命の意味を問いただすように、闘うことを求める激情だ。
刃になるなら、炎に焼き尽くされることを恐れない、鋼のような情熱なのだ。
繰り返し夢に見た、あの高みへの挑戦。ただ高く、ひたすら高く、遠く。そして、手の届かないあの失墜は、あの頃の自分の
苛立ちを表していると、わかっていたからよけいにもどかしい思いで目が覚めた。
その夢を見なくなったのは、現実に元帥になって、飛べる力を得たからなのか──
「柢王」
ふいに、桂花の声がして、柢王ははっと意識を戸口に向けた。
「ああ、起きているんですね。めずらしい。用意できたから、食事にしますか」
戸口に立った桂花が落ち着いた笑顔で尋ねる。美しい面にこの数日──自分が側にいられるとわかってから、漂わせている
かすかな安堵。穏やかな瞳。
その白い髪が光に透けて輝くさまを真顔で見つめた柢王は、心にああと、低くつぶやく。
(元帥になったから、なんかじゃないよな……)
(おまえがいるから、俺は──)
いつも──身を切るような風にさらされながら、その痛みを訴えることなく、凛然と側にいてくれる人。脆さと孤独を
硬さに鎧って、愛している、ただその理由で、自分の側にいることを選んでくれた人の存在。
(おまえがいてくれるから、俺は飛べるんだ)
視界の全てを置き去りにして、飛ぼうとするその時──
きっと、ためらいもせずにその手を離すと、思うかもしれないけれど。闘うその瞬間に、その存在を思い出すことなど、
ないと思うかもしれないけれど……。
きっと、命の価値は、自分ひとりで思い知るものではない。
高く、高く。そして、強く。
そう願う飛躍に、力を与えてくれるのは、ままならないこの世界で、自らを奮い立たせるようにして側にいてくれる人の
存在なのだ。望み続けてきた以上のものを、いま、自分は手にしている、その思いの確かさなのだ。
この世にたったひとつ、ゆるぎもなく大切なものがある。
その確かさを、決して疑えない想いが。
だから、飛べる。それはたぶんわがままで身勝手な理屈なのだろうけれど。本当に、だからこそ心の底から全てを賭けて
挑むと言える。何度叩き落されても、決してあきらめないと誓えるのだ。
それはただひとりの情熱で挑むより、はるか高みに届く強さを与えてくれる……
(桂花。おまえが、俺の翼なんだ──)
「柢王?」
黙ったままの柢王に、桂花がいぶかしげな顔をする。
「おなかすいてないんですか」
こちらの思惑など気づかずにそう尋ねるのに、柢王は笑って、
「すげー腹減った」
身を起こすと、桂花は笑って、
「なら早くどうぞ。冷めますよ」
背を向けると、台所に戻っていく。柢王は、ん、とだけ答えて寛衣をはおった。
伝えきれないことはいつもある。きっとこの思いも同じだ。
自分の感じる確かさと、同じ強さの安心を、自分はきっと与えられていない。口に出さないさみしさも、まだ力不足な愛情で想うことしかできていないけれど……。
(おまえがいるから、俺は飛べる)
この誇らかさは、言葉では言い表せない。誇らかに思う。誇らかに、思う自分を誇りに思う。その思いを、泣きたくなるほどいとしく感じる。
だから、その思いのぬくもりを、胸の奥に抱きしめて飛ぶ。
これからずっと──。
(どこにいても。どんな時でも)
ずっと。
俺は、お前の存在を、翼にして、飛ぶ──
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