投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
肌にふれる風に、柢王は目を覚ました。なめらかなシーツをたどり、隣を探ると、ひんやりした手触りだけが応じて、
傍らにいるべき人の姿はない。
「桂花?」
眠い目を開け、部屋のなかを見まわす。朝の光と、風に揺れる薄物のカーテン。台所から小さな物音が聞こえる。
ただよってくるいいにおい。
柢王の肩から、ふと力が抜ける。冷たいシーツに飛び起きるようなことはもうしないが、気配があるとわかるまでは、
息をつめてしまう癖はまだ抜けない。傍にいると誓ってくれた言葉を疑うのではなく、もしかれが消えていたら、自分の世界の
全てが崩れ落ちそうな思いは変わらないから。
でも、もしそれを告げたなら、あの紫の瞳は、言葉に出さない苦笑いを宿すだろうに。
『置いていくのは、あなたなのに』
柢王は苦笑して、枕に頭を預けたまま、カーテンが風にふわりふわりと持ち上がるさまを眺めた。差し込む光はあたたかく、
空気がほのかに甘い。命のめぐりくる季節の到来だ。
桂花が起こしに来てくれるなら、このままこうして待とうかと考える。そのことに、心が休まる。
以前は寝台でいつまでもまどろんでいるようなことはなかった。大勢に囲まれていた王城はもちろん、花街でも。
寝過ごすことはよくあったが、それは、起こしに来てくれる恋人の優しい手を待つような、甘えた気持ちのものではなかった。
昔から、要領よく、誰にでも合わせることはできたけれど。
心をゆだねられる相手はそうはいない。明かさないことがあるなしとは別のところで、ある瞬間に、自分の全てを明け渡しても
いいと思える相手はそうは多くない。
そう考えて、ふと、柢王は眉を上げた。近頃は見ない夢を思い出した。
雲ひとつない蒼天に、まっしぐらに駆けのぼる夢。気流を巻き上げ、ぐんぐんと、ただひたすら上空へ、風になって
駆け昇っていく。
視界が青に染まり、もう世界は遠く、足元には何も見えない。
まばゆい光が近づく。そこまで。もっと高く。まだ行ける──
そう思った瞬間に、決まって、世界は暗転し、体が後ろへ吸い込まれていく。伸ばした手が宙をかいて、翼をもがれた
鳥のように、旋回してどこまでも堕ちていく夢を──
自らの存在を試すように──
挑みたいと望むのは、きっと武将の本能のようなものだ。挑む時に感じる、あの魂から突き上げるような高揚も、きっと、
誰でもとは共有できない。
それは誰かに見せる強さではない。誰かに誇る力でもない。ただ、命の意味を問いただすように、闘うことを求める激情だ。
刃になるなら、炎に焼き尽くされることを恐れない、鋼のような情熱なのだ。
繰り返し夢に見た、あの高みへの挑戦。ただ高く、ひたすら高く、遠く。そして、手の届かないあの失墜は、あの頃の自分の
苛立ちを表していると、わかっていたからよけいにもどかしい思いで目が覚めた。
その夢を見なくなったのは、現実に元帥になって、飛べる力を得たからなのか──
「柢王」
ふいに、桂花の声がして、柢王ははっと意識を戸口に向けた。
「ああ、起きているんですね。めずらしい。用意できたから、食事にしますか」
戸口に立った桂花が落ち着いた笑顔で尋ねる。美しい面にこの数日──自分が側にいられるとわかってから、漂わせている
かすかな安堵。穏やかな瞳。
その白い髪が光に透けて輝くさまを真顔で見つめた柢王は、心にああと、低くつぶやく。
(元帥になったから、なんかじゃないよな……)
(おまえがいるから、俺は──)
いつも──身を切るような風にさらされながら、その痛みを訴えることなく、凛然と側にいてくれる人。脆さと孤独を
硬さに鎧って、愛している、ただその理由で、自分の側にいることを選んでくれた人の存在。
(おまえがいてくれるから、俺は飛べるんだ)
視界の全てを置き去りにして、飛ぼうとするその時──
きっと、ためらいもせずにその手を離すと、思うかもしれないけれど。闘うその瞬間に、その存在を思い出すことなど、
ないと思うかもしれないけれど……。
きっと、命の価値は、自分ひとりで思い知るものではない。
高く、高く。そして、強く。
そう願う飛躍に、力を与えてくれるのは、ままならないこの世界で、自らを奮い立たせるようにして側にいてくれる人の
存在なのだ。望み続けてきた以上のものを、いま、自分は手にしている、その思いの確かさなのだ。
この世にたったひとつ、ゆるぎもなく大切なものがある。
その確かさを、決して疑えない想いが。
だから、飛べる。それはたぶんわがままで身勝手な理屈なのだろうけれど。本当に、だからこそ心の底から全てを賭けて
挑むと言える。何度叩き落されても、決してあきらめないと誓えるのだ。
それはただひとりの情熱で挑むより、はるか高みに届く強さを与えてくれる……
(桂花。おまえが、俺の翼なんだ──)
「柢王?」
黙ったままの柢王に、桂花がいぶかしげな顔をする。
「おなかすいてないんですか」
こちらの思惑など気づかずにそう尋ねるのに、柢王は笑って、
「すげー腹減った」
身を起こすと、桂花は笑って、
「なら早くどうぞ。冷めますよ」
背を向けると、台所に戻っていく。柢王は、ん、とだけ答えて寛衣をはおった。
伝えきれないことはいつもある。きっとこの思いも同じだ。
自分の感じる確かさと、同じ強さの安心を、自分はきっと与えられていない。口に出さないさみしさも、まだ力不足な愛情で想うことしかできていないけれど……。
(おまえがいるから、俺は飛べる)
この誇らかさは、言葉では言い表せない。誇らかに思う。誇らかに、思う自分を誇りに思う。その思いを、泣きたくなるほどいとしく感じる。
だから、その思いのぬくもりを、胸の奥に抱きしめて飛ぶ。
これからずっと──。
(どこにいても。どんな時でも)
ずっと。
俺は、お前の存在を、翼にして、飛ぶ──
眼下に広がる花霞。山の麓から頂までそれは続いている。アシュレイは急降下すると、いつもの場所を探した。
「確かこの辺・・・・・あった」
樹齢はどのくらいだろう?大きな桜の木はあふれんばかりの花を身にまとっていた。
「ここはいい所だな・・・誰もいなくて、静かで」
腰を下ろして木に寄りかかると、麓の方から梵鐘の音がゆっくりとのぼって耳に届いた。
「―――――――いい音だ・・・・・・人間にもいい仕事する職人がいるな」
もう会うことの叶わない顔を思い出して、アシュレイは唇をかむ。
王族の血筋をひく自分にへつらう輩が多い環境は、慣れているとはいえ息が詰まりそうになる時がある。姉のグラインダーズに幼い頃からその点に関しての注意はさんざん受けていたが、不器用なアシュレイはうまく消化ができないことが度々あった。
誰も彼もがうっとうしくなって飛び出す先はたいてい天主塔にいるティアのところか柢王のところだったが、文殊塾を卒業してからはその二人とも疎遠になりアシュレイの行く先は鍛冶職人、ハンタービノの所が多くなった。
彼の工房で、ただの鉄が熱を帯びて形を変え、鍛えぬかれひとつの芸術となる工程を己の姿に重ねて見ていたアシュレイ。誰よりも強い男でありたいという願いとは裏腹に、なんだか心が弱くなっていっている気がして仕方なかった。
そんな自分を知ってか知らずかビノの息子ハーディンは、工房付近の森に生息する動物たちの話を聞かせてくれたり、仕事の手伝いをさせてくれたりと、他の事を考えるヒマを与えない。王子だからといって特別扱いせず、こっちが年下だからといって説教じみた話を聞かせるわけでもなく、常に対等に接してくれる彼が昔から好きだった。
――――その彼が、自分のために作られる新しい武器の材料を探しに行った北で、魔族に殺されてしまった・・・・・・。
もう、会えない。
彼を失ってからのアシュレイはますます単独行動が増えたが、7番目の副官として送り込まれたアランのおかげで孤独な王子に少し変化が見えてきた。
いつも一人、というイメージが定着したアシュレイの後ろに必ずアランの姿が。密かに心配していたティアと柢王も、アランの存在にホッと胸を撫で下ろす。
――――――なのに。アランもまた、アシュレイの元へ来てわずか7日間で魔族によってその命を散らしてしまった・・・。
二度と、会えない。
「・・・・・俺に関わると・・・・みんな死んでいく・・・」
副官6人にハーディン、アラン・・・・ここまでくると自分は天界人でも魔族でもなく、死神なんじゃないかと疑いたくなる。
ため息をついたアシュレイが草をちぎって投げ捨てると、風に吹かれて緑の破片が遠ざかった。
この場所は、ときおり谷から吹きあげてくる風にのって花びらが舞いあがる。その中に飛びこむのがアシュレイは好きだった。
「来た!」
素早く立ちあがり谷間の上へ飛ぶと、足元からぶわっと花びらがおしよせてくる。
目が眩むような花びらの嵐に巻き込まれ、アシュレイは心をふるわせた。いっそ花吹雪に巻き込まれて、自分も塵と消えてしまえればいい。
「全部吹き飛ばしてくれ――――めんどくさいことも、大事だったものも、想い出も、この俺も、全部消してくれ・・・・・全部・・・・」
目を閉じるのがもったいなくて、瞼をうすく開いたまま桜吹雪に身を任せ、アシュレイもくるくると舞う。
気持ちいい―――――。
「桜って不思議だな・・・・枝を離れても、人を慰める力があるなんて」
咲き誇るときが過ぎて、散りゆくこの瞬間さえも桜の花は美しい。
花びらの舞いに酔ったアシュレイが目を閉じているうちに、風が弱くなりパタリとやんでしまう。次がくるのはしばらく後だな・・・・そう思って目を開けると、桜の木の根元にティアが座ってこちらを見ていた。
「な・・・・にやってんだ、こんな所で!守護主天がのこのこ人界に降りてきてんじゃねえよっ!」
昔のように仲良く話をしたり、一緒に昼寝をしたり、ということはなくなったが、かといって全く無視して話をしていないわけではない。
「こっちへおいで」
穏やかにほほ笑まれてアシュレイはたじろぐ。こんな優しい顔を見せてくれたのはどれくらいぶりだろう。
「アシュレイ?」
手を差し伸べるティアを訝しみながらアシュレイは地に足をつけた。
「こんなに花びらをつけて」
ティアの細い指が一枚ずつていねいにアシュレイの髪についたものを取っていく。
「そんなのわざわざ取んなくてもいい・・・・・お前・・・・本当にティアか?」
「どうしたの、私が魔族に見える?」
「・・・・・」
オカシイ。このティアはまるで文殊塾にいた頃のティアそのものだ。今のティアじゃない。今のティアはもっと――――――。
「さわるな!誰だお前っ」
「――――――アシュレイ・・・・私がわからないの」
悲しげに目を伏せたティアは花びらを一枚アシュレイの手のひらに乗せ、包むように自分の手をそこへ重ねた。
「今の私を信じられなくてもいいから聞いて?もしも・・・君が消えてしまったら・・・君に自分の人生を託して逝った者たちはどうなる?彼らはみんな、自分の欲や義務や名声を得るために君に仕えたわけじゃない、アシュレイ・ローラ・ダイという人物に魅了され、役立ちたいと思ったからこそ、君のそばにいたんだろう?」
「―――――副官たちは父上の命令でいやいや俺の後をくっついてただけだ。嫌だったのに・・・・命令に背けなくて・・・・」
「本当にそう?・・・・・仮に、そうだとしても、ハーディンやアランは?彼らもいやいや君に関わっていたの?」
「それは――――」
ちがうと思う。アランは、帰ってきたら自分に仕える、と宣言していったのだ。ハーディンも新しい武器は自分も手伝うことになるから楽しみに待っていてくださいね。と言ってくれていた。
「それにねアシュレイ。もし君がいなくなってしまったら私がいちばん悲しむよ。君なしじゃ生きてゆけない」
ティアはいちばん言いたかったことを言うと、アシュレイの体を抱きしめた。
「ウソ言ってんじゃねーよ!お前なんかっお前なんか、あのとき以来ろくに口もきかな・・っ!」
暴れるアシュレイのあごを強引に上向かせてティアは毒を吐こうとする唇をふさいだ。
ティアのつめたい唇におどろいて目を見開くと、視点が合わないくらい近くにあった瞳がゆっくりと距離をとっていく。
「・・・・・・」
澄みきったおだやかな海を思わせるその瞳を見た瞬間、アシュレイの体はその場にくずれてしまった。
目を覚ましたアシュレイはブルッと震えて辺りを見回す。少し肌寒い。
「・・・・ティア?」
かすかにくちなしの名残を感じたのに、目当ての人物はいなかった。
「・・・・・・・夢?―――――――だよな。あいつがわざわざ俺に会いになんて・・・ちくしょう!こ、こんなっ、どうしてこんな夢をみるんだ俺はっっ!」
ボカスカ頭をなぐりながら、舌に違和感を覚えたアシュレイは、それを指でつまみ出す。
「桜の花びらか」
ピッと指ではじいて捨てると、体についた花びらをはたいて天界へ向かった。
「昔に戻ったみたいだった・・・」
風を切りながら結局アシュレイは夢のティアを反芻している。
あの頃は、毎日が楽しくて、笑ってばかりだった。常にそばにいてくれる親友を得てからというもの自分は満たされていた。
初めて角を見られたときからずっと、それを否定するようなことはひとことだって言わない親友は、いちばん欲しい言葉を惜しみなく与えてくれた。いや、言葉だけじゃない、いつだって自分の事を優先してそばにいてくれた。
ありのままの自分でもいいんだ―――そう思えるようになったのは、血のつながった家族ではない、他人の彼が必要としてくれたからだった・・・・・。
「今の奴は俺なんかまるで必要としてねーけどな」
自分の言葉に打ちのめされながらも、アシュレイは先程よりは落ち込んでいない。
きつく抱きしめ、自分がいなければ生きていけないと言ったティアが生々しくて、夢と現実がごちゃ混ぜになりそうだ。
「別に俺の願望とかじゃねえからなっ!アイツが勝手に人の夢ン中でてきてほざいただけだ!」
誰に聞かせるでもない言い訳をしながら天界一の駿足は、一人にぎやかに人界を後にした。わずかな希望を胸に残して。
「君があんなことを言うから・・・行かずにはいられなかった」
幼い頃から親しくしていた鍛冶師が亡くなり、続けて副官を亡くしてしまったアシュレイ。彼のことが心配で時々遠見鏡をつけて様子見をしていた。
先ほど遠見鏡が彼の姿を捉えたとき、桜吹雪の中で呟かれた言葉。それを耳にした瞬間、後先を考えず人界へ向かっていた。
あんなことを言わせちゃいけない。あんな悲しすぎる台詞は二度と言って欲しくない。かといって、もう決心したことだ、今さら昔のように彼と付き合う訳には行かなかった。
アランを亡くした直後の荒れようを遠見鏡で見てしまった時、なんども天守塔を飛び出そうと思った。それを必死で堪えたのだから、今回こそはどうしても彼を慰めてやりたかった。他の誰でもない、この自分が。
すべてを夢だったと思うようアシュレイに術をかけたが、自ら理不尽に断ち切った関係に、未練がましくすがりつこうとする女々しさはごまかせず、ティアは嘆息した。
「アシュレイを思うならもっと強くなれ・・・・・」
暗くなった遠見鏡に映る自身を見据えて、憂いの色を追いやると、ティアは再び守護守天に戻り執務についた。
天界南領。
周囲の緩やかな山並みが一望できる、小高い山の頂上に背の高い木が1本生えている。そのてっぺん辺りの枝の上で煩悶している王子が1人。
途絶えていた幼なじみとの交流が2年ぶりに戻り、尚且つ告白までされた。
アシュレイは、まだその事実に許容範囲がついていかず、頭の中がフワフワしている。突然、「好き」なんて言われても・・・。あの時アシュレイも似たようなことを言ったのだが、そんな事実はとうに何万光年も彼方に蹴り飛ばされていた。
文殊塾からの付き合いで、親友だと思っていた相手のことを突然「恋人」として考えるのはアシュレイには無理があったし、それ以前に「恋人」というのをどういう風に扱っていいのかも分からない。
柢王や桂花がしているみたいにしろってことか?
公衆の面前でいちゃいちゃベタベタ。挙句に天界や人間界の重大な決定が下される厳粛な場である執務室の中でさえも、あ、あんな、は、破廉恥な・・・。
紺青の空と濃い緑が広がるのどかな風景に不似合いな光景が一瞬頭をよぎり、アシュレイは赤い頭をブンブンと振った。あいつらなら空が青かろうが赤かろうがお構いなしだが、自分にはそんなふしだらで恥知らずな行為は断じてできない(その厳粛な場で守天はふしだらで恥知らずな妄想に頭をフル回転させている)。
アシュレイは頭上にポカリと浮かんだ雲を見上げた。昔みたいに何も考えずにティアに会いに行きたいと思った。ティアのことは好きだし、大切だ。自分が強くある理由そのものでさえある。でも、だからってそれがティアの言う「好き」とは、どうしても結びつかなかった。昔はどうやってティアに会いに行っていたのだろう。
「あーっ!チクショウ!!」
一声叫んでアシュレイは枝からフワリと飛び上がった。天界中を飛び回ればこのモヤモヤも風と一緒に吹っ飛んでくれるかもしれない。眼下には青々とした山が連なっている。アシュレイは大きく息を吸い込むと山脈に沿ってトップスピードで飛び始めた。
山に沿って飛んでいる内にいつの間にか南領を抜けて東領に入っていた。広い平野に市街地、そして河を挟んで花街が広がっている。飛んでいる内に空腹を感じ始めていたアシュレイはそのまま花街を目指し、空を見回る兵士の目を盗んで上空から入った。
アシュレイは人目がない裏通りに降り立つと同時に髪の色を変え、頭のツノを隠すだけの簡単な変化をした。そのまま大通りに出て行き、ブラブラと歩く。花街は昼間でも買い物客や食事目当ての人達で賑わっていた。丁度昼時で、あちこちから食欲をそそる匂いや、元気の良い呼び込みの声で何だか気分が浮き立ってくる。やっぱり飛び回って正解だった。問題は解決の兆しも見えないが、そのことはひとまず置いといて目の前の空腹から片付けよう。
東領は温暖な気候にも恵まれているので農作物も豊富だ。加えて流通の要である花街は他国から大量の輸入品が入る。四国の色々な食べ物が味わえるという、アシュレイにとって幸せな場所だった。
「さーて、何から食べようかな」
アシュレイは張り切って腕をぐるぐる回した。気分はすっかり晴れやかだ。アシュレイは店に入って食べるより屋台での買い食いの方が好きなので目は自然と大通りの両側にずらりと並ぶ屋台へと向けられる。どこの屋台も買い求める客や物色している客で一杯だった。焼き菓子の甘い匂いもするが、それは後に取っておこう。今は香ばしい匂いに惹かれる。と思っているとすれ違った人が上手そうに頬張っている揚げ物に目を奪われた。その揚げ物が売られている屋台の場所はすぐにアシュレイの動物並の嗅覚が教えてくれた。屋台の前にはすでに行列が作られていて店主は材料を油の中に放り込んだり、勘定をしたりで、汗だくになって対応に追われている。腹の虫も急かしている、ここからスタートしようということで、アシュレイも行列に加わった。並んでいる間にも通り過ぎる人々が手に持っている食べ物を観察して、「次」のことに忙しく頭が働いている。考えることは苦手なのにこういうことはちっとも苦にならない。楽しく頭を悩ませているとアシュレイの順番が来た。
「いらっしゃい」
と熱気で真っ赤な顔をした店主が愛想よく声を掛けた。そして揚げたばかりの鳥肉を手早く紙に包んでアシュレイに手渡した。鳥肉はまだ紙の中でジュージューと音を立て、火傷しそうなほどの熱を伝える。アシュレイが嬉々として受け取り、金を払うと店主は皮袋にそれをしまいながら自慢げに言った。
「毎度。うちの揚げ物は他のとは一味違うよ。東国のいい鳥を使っているんだから。衣だって、ほら、きらきら金色だろ?」
金色?
「ど、どうかしたかい?」
突然、この若い客の周囲の空気がピキーンと凍ったのである。しかも据わった紅い目が、たった今自分が手渡した自慢の鳥の揚げ物にジーっと注がれている。店主は咄嗟に揚げ物鍋から遠ざかった。油で満たされた鍋が噴火する気がしたからだ、なぜか。良い勘である。商売人として重要な素質と言えよう。緊張感は順番待ちをしている他の客にも伝わって、俄かに揚げ物屋の周囲だけがただならぬ空気に包まれた。
しかし、若い客は揚げ物を握り締め、無言で踵を返した。
な、なんだったんだ。
後に残された店主と後ろに並んでいた客達は、皆で思わず揚げ物鍋の中を覗きこんだ。
なんだったんだ。
アシュレイは大通りをズンズン歩きながら先ほどのことを考えていた。確かに揚げ物を買って幸せの絶頂だった。それなのに、なぜ山の上にいた時の気分に逆戻りしちまうんだ。せっかくの食欲も落ちちまうじゃねーか。と言いつつ揚げ物はとうに腹の中に納まっている。金色が何だっていうんだ。こんなんじゃ、気分も収まらなねぇ。アシュレイは睨むように辺りを見渡した。特に探さなくても魅力的な屋台ばかりだ。こうなったら全屋台を制覇してやる。その眼差しはある意味、魔族との戦いより真剣だった。 今度は甘い匂いのする焼き菓子の屋台へと足が向いた。タイミング的には少し早いが、その誘いに乗るのも悪くない。その屋台では南領で開発された火力は抜群と評判の簡易オーブンが使われており、鉄の箱の中では赤々と燃えた火がころんとした鈴の形も愛らしいパンケーキをこんがりと色づかせている。アシュレイは早速パンケーキを買い、山と盛られた袋を受け取った。2、3個を一気に頬張ると、口いっぱいに広がる優しい甘さに頬も一緒に溶けるように緩んだ。南領のオーブンと東領の小麦粉でできたパンケーキは最高だ。
近くでアシュレイと同じ袋を持った若い女性達も嬉しそうにパンケーキを頬張っている。
「おいしーい」
「ね、言ったでしょ。ここのパンケーキは最高なのよ」
「クセになっちゃうわよね。中はフワフワだし」
「外はこんがりしてて。見て、本当に金色に見えない?」
「そういえば前、お祭りを見にいらした守天様をお見かけしたの。お輿の中からお顔がちらっと見えただけなんだけど、とってもおきれいだったわ。髪も金髪だったんだけど、存在そのものが金色って感じで」
「えー、私も見たかったー」
うっとり夢見心地の女性達は、その時背中に不穏な気配を感じた。はっと振り返るとそこには異様な光景があった。若い男がパンケーキを口一杯に頬張ったまま据わった紅い目でこちらをじとーっと見ているのだ。なぜか黒焦げになりそうな、かつて感じたことのない恐怖にかられ、女性達はぎゅっとパンケーキの袋を胸に抱えて後ずさると、一目散に駆け出していった。
アシュレイは整備された通りを踏み抜きそうな勢いで歩いていた。「金色」というワードでティアはこんなところにまでまとわりついてきやがった。恐るべし守護守天の力である。揚げ物やパンケーキにまでその効力は及ぶのだ。なるほど、御印の力は世界にあまねく影響するわけである。しかし、この力に飲み込まれるわけにはいかないのである。そうでなければこの先何も食べられなくなりそうだ。ちなみにパンケーキは全てアシュレイの胃の中へ落ちている。好き嫌いはあっても食べ物を粗末にすることはない。例えそれが自分を苦しめる根源であろうと放り出すことをしないのがアシュレイの良いところである。
何かないか、何か。
アシュレイは血走った目で次々と屋台を覗いていった。これだけ屋台が出ているのである。金色じゃないものはきっとある。ティアの力が及んでいないものが(ティアを何だと思っているのか。ほとんどノイローゼである)。
…が。
「香ばしいとうもろこしがあるよー」
「摘み立ての黄金茶、是非飲んでいってよ」
「名物のシュークリームをご賞味していって下さい。中のカスタードまでほら、金色でしょ」
「金粉入りの饅頭はいかが?」
金色、金色、金色、金色・・・・。
おぉ、世界は何と金色に満ち溢れていることか。
「だーーーーーっ!!!」
・・・という詩的な感慨に浸る余裕はなさそうである。
アシュレイは大聖城の自室で頭から布団を被って寝ている。どこをどうやって帰ってこられたのか我ながら不思議だが、空腹とこの気分を紛らわすのは今のところ寝るしかないと思ったのだ。いつもは城にいない王子が何も食べずに部屋に篭って寝ているので、周りの乳母や使い女達は心配で顔を見合わせている。使い女から聞いたのだろう、姉も見舞いにやってきた。手には大きなバスケットが提げられている。人払いはしてあるのだが、姉のことは邪険にできないのでアシュレイはもそもそと顔を出した。
「珍しいわね。鬼の霍乱ってやつかしら」
「・・・」
理由なんて言えたものではないのでアシュレイはただむっつり黙っていた。
「具合が悪くてもやっぱり食べないとだめよ。まぁ、それは心配ないかもしれないけど」
そう言いながらグラインダーズはバスケットをベッドサイドのテーブルの上に置いた。
「一応消化にいい物の方がいいと思って。果物とか。色々持ってきたのよ」
グラインダーズはバスケットの中身を次々と取り出してみせた。
「りんごとか、オレンジとか。あと葡萄でしょ・・・。あ、具合が悪い時はこれがいいのよ、あんたも好きでしょ」
と姉が取り出したのは
「ほら、バナナ」
「いらねぇっ」
再び頭から布団を被ってしまった弟を尻目に、姉はベッドサイドに腰掛けて、「何よ、変な子ねぇ。やっぱり病気かしら」と呟きながら自国で収穫されたばかりのつやつや金色をしたバナナの皮を剥いてパクパク食べ始めた。
バナナ。
この言葉で金色の麗しい幼なじみを連想したのか、それとも常日頃から自分のことを「サル」と呼ぶ犬猿の仲である白い麗人を連想したのか。
答えはアシュレイしか知らない。
Welcome to The Black Wings!
冥界航空オーナーの一日は、髪の毛ふたつ結びから始まる。
日々百回ブラッシング、天使の輪もくっきりの金髪はふたつに高く結った形がビューティフル。鏡の前、真剣な顔で
シンメトリーめざすオーナーの面は鳥肌立つよな美男。
だけにそのアイラインくっきりグロスばっちり、ふたつ結びゆらす、黒ラメスーツに赤いシャツ、ネクタイサイケ玉虫調、
のぞくつま先パープルグラデの仕上がりはデンジャラス。
その金張りぎらつくファザードが通行車両の視界奪って事故多発なモダンゴシックロココ調の自宅同様──常識を逸した発想で
業績を伸ばしている人の朝は、世の常識を覆すところからはじまるのが、常だ。
業界有数の切れ者にして、ご近所では『ギラギラ御殿のご主人よっ』と遠巻きの冥界航空オーナー(ふたつ結び)。
朝食の席に現れた使用人たちはどれも例外なく美形。『美しくない者に人生はない』──某ラテン国家国民のようなその言い草が、
冥界航空オーナー宅の採用基準だ。
光さわやかな食卓は、カーキのクロスに黒の皿、銀のカトラリー目に刺さる光沢の食用減退色構成。わが道行く美のオタクに
色彩とは組み合わせの妙であるとの常識はもちろんない。
そんな食卓で卵食べたオーナーが次に向かうのは豪華絢爛ホームシアターのある地下室。出社前と寝る前の時間をここで過ごすのが
冥界オーナーの数多い習慣のひとつであるのだ。
薄いピンクのあやしい照明。桁外れな大画面に映し出されるのは、漆黒の翼を持った優雅なジェット。天井のサウンドシステム
から響く低いうねりとともに、美しい機体がかげろうゆらめく滑走路に滑り込む。
ため息ついたオーナーは、自社機のナイス・ランディングに感動か? と思いきや、編集済みの画面はすぐさま、機体を取り囲む
エンジニアたちのひとりと話しているパイロットの姿をキャッチだ。黒い制服、すらりとした四肢、帽子から流れる白い長い髪。
そもそもどこに隠しカメラあったか、その映像。落ち着いた声で、
『第三エンジンの音が普段より高い気がしたので、チェックをお願いできますか。計器上では問題はなかったのですが』
告げる、刃物のような美しい面のアップに、オーナーの金黒色の瞳に涙が盛り上がる。
「桂花ぁぁぁぁっ、美しいなぁぁぁぁっ」
以降、延々、その白い髪の美形キャプテンのムービーとオーナーの叫びが続くアンダーグランド。
*
冥界航空オーナーが会社に向かうリムジンは極彩色。走るだけで対向車が事故る危険物。パイロットたちからは総スカン
食らっている代物だ。
が、美にこだわるマニアは他人の思惑など気にしない。
運転手の呼吸の確保と精神安定のため、運転席とはガラスで仕切られた後部座席で、酸素マスク降りてきそうな香水濃度も
モノともせずに切ないため息だ。
先月のリゾートでの騒ぎで、微笑みながら切れた奥方に『今後桂花のことで天界航空にご迷惑はおかけしません。また桂花の
半径1km以内にも接近しません』と実印入りの念書取られた冥界航空オーナー(婿養子)。
「桂花…戻ってこないかなぁ〜…」
うるうると念飛ばすその上空──
たまたま通過中の黄金の翼のジェットのコクピットで、黒い髪の機長が悪寒を覚えたのはただの偶然だ。
*
国際空港対岸にある冥界航空の本社ビルは、トレードマークの漆黒の外装に鳥が翼を広げたような造りの、斬新で、耐震強度に
疑惑のある建物だ。両翼に当たる部分には重いもの置いてはなりませんと屋内に張り紙してある。
着飾ったオーナーが玄関ホールに姿を現すや否や、居合わせた社員たちがいっせいに頭を下げて道を開ける。それはまるで
海を開いた預言者のよう。
が、たまにあぜんと立ち尽くすパイロットの姿もある。その表情は前方から迫る一万羽の鳥の大群でも見たかのよう──あれは何?
なにっ? ぬぁにぃぃぃぃっ???
そんな後輩を先輩たちが即座に取り囲み、
「見るな見るなっ、見ても忘れろっ、あれはオーロラか蜃気楼だ!!」
と、暗示かけるのが、冥界航空パイロット教育の一環であるらしい。
窒息したくない重役たちが競って道開けるエレベーターで、オーナーは最上階にたどり着く。
モダンな黒の室内には美しく有能な秘書たちと、美しく策略家な筆頭株主。オーナーの妄想パワーを遮る超難問書類をドンと
デスクに山積みにして、
「今日もお願いね、あなた」
嫣然、微笑む奥方に、自信満々な笑顔で、
「任せておきなさい、李々」
答えるオーナーは、美人の奥方も大好きだが、小ざかしげなことが大得意なキレ者。ただでさえ複雑なこの世をさらに複雑に
する頭脳の持ち主だ。
が、なんとかは紙一重。そしてなんとかは使いよう。
完全主義の美のマニアがそのよくキレた頭脳で片付けてゆく書類の量は常人なら絶対に処理できないもの。慣れた奥方はもちろん、
日々見ないフィルターダウンロードの秘書たちもテキパキ協力。 すさまじい速さで仕事の進んでいく冥界航空最上階は、ある意味、どこかの航空会社の最上階より能率的だとの噂。
そんなオーナーは会議の席でも容赦なくキレた頭脳をフル回転。腰低く常識的な議論を繰り返す重役たちに、無常識な人の
大胆さでビシバシ切り込む。
その斬新なアイデアと鋭さに一同は心から感嘆するのではあるが──なにせそれ言う人は髪の毛ふたつ結びのグロスてらてら
サイケ玉虫。
とある街頭インタビューで「あなたが仕事を辞めたくなる時は?」と聞かれて、
『ものすごくまともでない人がものすごく画期的な意見を連発するときです!』
と、泣きながら答えていたモザイクのサラリーマンは冥界航空重役だという話だ。
*
美のもとに生き、美とともに働く冥界航空オーナー(美のコレクター)。
金襴緞子のクロスに金箔貼った皿でディナーを済ませた後、意気揚々と寝る前の大画面を楽しんでいたオーナーが、ふいに、
あっと叫んで椅子から立ち上がったのは真夜中のことだ。かぶったナイトキャップはサンタ式ネオンピンクのマーブル。
『思い出の桂花DVD幼少篇』を見ていたオーナーの面は驚愕に引きつっている。
「あの若造……桂花の恋人だと言ったな? ということは、あの男、うちの桂花と一緒に寝ている…と、言うことかーっ!」
叫んだオーナーはふたつ結びの代わりにキャップのぼんぼんふりまわして錯乱。
「なんてことだっ、うかつだったぞっ! 一緒に寝るなど! うちの桂花と一緒に寝るなどっ! あの男っ──あの男ーっっっ」
あああああーっと、悲鳴のような絶叫。
「桂花の寝顔写真撮ってくれないかなーーーーーっ!」
コレクターにとって一番大事なのは、コレクションの完成だ──
*
数日後──
天界航空たぶん唯一のパイロット・カップルが同居し始めたばかりの家に、冥界航空オーナーから念書の写しと菓子折りつき
詫び状のほかに桂花DVDコレクション全十巻が届いたのはたぶん他意はない。
一緒に箱に入っていた最新のデジカメに首をかしげた待機の機長が、
「菓子は食べていいですが、DVDは明日の不燃物に出してください」
前の夜、そういい置いてフライトに出た白い髪の恋人のいいつけを守らずに、菓子をゴミ箱、DVDに食いついたのは、
まあ当然のことだろう。
画面に現れる恋人の幼少時のあどけなさから次第に成長していく姿に時を忘れて食いついた黒髪の機長が、次に我に返ったのは
とっぷり日の暮れきった時刻。突然ついた部屋の明かりにはっと顔を上げた機長は、戻ってきた恋人が戸口に立ったまま腕組みして、
「吾はそれを捨ててくれと言ったはずですが──?」
と、静かな笑みを見せるのに、体細胞から凍結。次の日の可燃物と一緒に追い出されそうになったと言うのは、あくまで、
天界航空の問題だ──
そして、今日もまたふたつ結びシンメトリーにゆらす冥界航空オーナーは、届くかもしれない『桂花寝顔写真』への期待を
過剰なエネルギーにして、バリバリ業績を伸ばしていくので、あった──
「そうだ、これお前にやるよ」
「なに?」
つき出された柢王の手のひらを見ると小さな小ビンが転がっていて、その中には真珠のような粒がふたつ入っていた。
「桂花がつくった、本音を言っちまう薬だ。兄貴たちにイタズラで使ってやろうと思ってたんだけどな、そんな事してる場合じゃなくなったからさ」
柢王は決めてしまった。魔風屈へ行くことを。
「・・・・そんなのいらないよ、誰に使えって言うんだ」
「や、別にうちの兄貴らでもいいし、ここの奴らとかにでもいいし。怪しい行動してる奴に飲ませりゃ即効、一発だぜ?なぁに、そんな深刻になるほどのモンじゃねーよ。相手の本音が聞けるってだけの話」
「誰かに使ったの?」
「俺自身。も〜桂花に迫って迫って仕事ほったらかして一日中あいつのこと貪った」
「むさ・・・よく桂花がゆるしたね」
「試しに桂花に飲ませようとしたら、絶対イヤだって言うから、じゃあ俺が飲むって――――自分が飲まされるよりはマシだと思ったんだろ。実際の効果は1時間も続かないけど後は畳み掛けってやつで。おかげで次の日は立てないって怒られたけどな♪」
「――――楽しそうだね・・・・それじゃあ、一応もらっておくよ」
「飲物に混ぜりゃ絶対わかんねーよ。においも味も無いからな」
・・・・・あれから柢王はどうしているだろう。遠見鏡でも見ることが叶わない魔風窟へ行き、彼はたった一人で共生を成功させようと頑張っている。いつも助けてもらってばかりなのに彼が大変な時に手助けできないことがもどかしい。
やらねばならないことは次から次へと増えていくが、心配事がありすぎてやる気が出ない。
『この机の書類を全部片づけ、これから先絶対に仕事を溜め込まないと誓えば、お前の中で渦巻いているすべての不安を取り除いてやろう』―――――とでもいうのならためらわずに誓おう。でも・・・・誰がそんな保証をしてくれるというのだ。
柢王のことを考えると、心配で不安で気分が重くなる。ティアは引き出しから出した小ビンを手にとった。
「まるで真珠そのものだね」
透かして見ていたら扉がノックされ、応えると使い女が入室してきた。
「若様、お茶の支度が整いましたと桂花さまが・・・」
「分かった」
最近の楽しみは、アシュレイと桂花と三人でお茶を飲むこと。二人との休憩時間は心だけでなく目の保養にもなる。
(でも・・・・あの二人、最近は言い争いとか全然しなくなったけど、よそよそしいって言うか遠慮してるんだよね。お互いのこと、とっくに認めてるくせに・・・・これを飲ませたらどうなるんだろう。ケンカ・・・にはならないよね、もう)
魔がさしたとしか言いようがない。恋人や親友にこんなものを飲ませるなんて・・・・ティアはその小ビンを忍ばせると執務室を後にした。
アシュレイが選ぶ菓子を次々と取り分けてやっている桂花。その隙をついてティアは薬をすばやくカップに落とした。真珠の玉はあっという間にとけこんで、お茶の色も特に変わらない。
早鐘を打つとはまさにこういう事。胸を押さえて、ティアは二人の方をチラチラと見る。気づいていないようだ。
「ティアも食えよ、これスッゲーうまい」
「あ、うん、いただこうかな」
ティアが焼き菓子に手を伸ばしたその時、桂花がカップに口をつけた。
「あっ!」
「・・・・どうなさいました?」
一口含んでカップを皿に戻すと桂花がティアのほうに向きなおる。
「いや、なんでもない、お、美味しいなって思って」
まだ食べていなかった焼き菓子をあわてて口に放り込んでムリな言い訳をする。
「――――そうですか、たくさん召し上がってください」
にこりと微笑んで、桂花はポットに手をかけた。見れば、いつの間にかアシュレイはお茶を飲み干していたのだ。
(二人とも飲んじゃった!)
自分が仕掛けたくせに、手がふるえそうだ。八紫仙や各国の王を相手にしても毅然とした態度を貫くティアだが、アシュレイと桂花・・・どちらも怒らせたら怖いことを知っているだけに、恐ろしい。
今になって、この二人相手になんという事をしてしまったのだろう・・・と後悔先に立たずだ。
ティアはまだ熱いお茶をふぅふぅと冷まし、いっきに飲むとおもむろに席を立つ。
「用事を思い出した。ごめんね、二人はゆっくりしてて」
優雅に歩いていって扉を閉めると、モーレツダッシュで廊下を駆け抜ける。
(うわーうわーっ!危なかった〜。桂花なんて不審な目で見てたものっ!すごいスリルだよ柢王〜っっ)
とても間近でなんて見ていられない。ティアは息を切らし執務室へ飛びこむと、すぐに遠見鏡へかじりついた。
桂花と向かいあって、彼のいれたお茶を飲むアシュレイ。
「こんな日が来るとはね・・・・・」
ティアは目頭を押さえつぶやく。
「柢王にも早く見せてあげたいよ・・・」
『うまいな、このお茶も』
『体を動かした後は特にお勧めなんですよ。疲労回復を助ける働きがあるんです・・・早朝から出かけていらしたようでしたから』
『気づいてたのか・・・それにしても、お前って本当に気がきくな。柢王がいつも自慢してたの、分かる』
『・・・おかわりいかがです?』
『もらう―――前から思ってたけどお前の目って宝石みたいだよな』
『・・・宝石・・・ですか?』
柢王には、よく紫水晶にたとえられるこの瞳。まさかアシュレイにそんなことを言われるとは思わず、一瞬の間があく。
『なんか、中心の濃い紫とその回りのうすい紫が光に当たると透き通ってキラキラしてすげぇ綺麗なんだよな。前にティアが言ってたけど、本物の宝石は冷たいらしいぜ。だから尚更お前の目は宝石みたいだ』
魔族は誉められることが特に好きだ。そこへきて、ムダなおべっかなど決して使わないアシュレイに褒められるとなるとなおさら気分がいい。
『吾の目は冷たいですか?』
くすりと笑って桂花は続ける。
『あなたの瞳こそ、ですよ。澄んでいるのに燃えているような瞳・・・守天殿の仰る“冷たさ”はありませんが、まるで上等な宝石のように美しい』
いつもティアに囁かれているような文句を桂花に言われ、アシュレイはなんだか落ち着かず口を開く。
『そ、それに、その髪も、サラサラで・・・・前から触ってみたかった』
『どうぞ?』
『いいのか?』
柢王ごめん!と何故か心中で謝りをいれながらアシュレイはそっと髪に触れる。
『ぅわ、なんだこれ。ティアの髪も触り心地いいけど、あいつのより少し長い分よけいに気持ちいいかも』
『そうですか?』
何度も上下するアシュレイの手に撫でられているうちに、桂花はうっとりと目を閉じた。
『ずいぶん・・・優しく撫でるんですね・・・あなたに身を委ねる動物たちの気持ちが分かる気がしますよ』
瞳を開け至近距離でまっすぐ見つめてくる魔族の美貌にあてられ、アシュレイは咳払いをしてお茶を飲んだ。
「ふぅん・・・・・ずいぶん効きが良いんだねぇ、あの薬・・・・」
にわかに雲行があやしくなってきた遠見鏡の中の二人にティアの視線がきつくなる。
また思いっきり髪を伸ばしてやろうかと思いながらティアは遠見鏡を消した。
「・・・・・・・。私も戻ろっ」
本音を言い合う二人の様子を見てれば一目瞭然、ただの誉めちぎり大会ではないか。それならこの機会に、普段あまり誉めてくれない恋人や優秀な秘書に、誉められない手はないだろう。
ティアは急いで二人の元へと向かった。ウキウキしながら廊下を曲がると、桂花とバッタリ出会う。
「あれ?桂花・・・・・お茶の時間はもうおしまい?」
「ええ、守天殿が執務に戻られたのに吾がいつまでも休んでいては」
「仕事なんかしてないよ?」
――――――――――余計なことを言った、と後悔したのは、先刻さんざんアシュレイに褒められた紫水晶がすぅっと細くなったから。ティアはあわてて付け足した。
「もう少し休んで?ね、いつも働きすぎだよ桂花は」
「・・・・・守天殿。吾を気づかって下さるのなら仕事を溜めないで頂けるのが一番です、では。―――――― もう何度も言ってることなのに・・・」
辞儀した桂花は、すれ違いざまボソリとつぶやき、ためいきをつきながら執務室の方へと歩いて行く。
美貌の魔族の背を、呆然と見送るティアに背後からアシュレイが声をかけた。
「なにボケッとつっ立ってンだ?」
「アシュレイ!」
すぐに立ち直って恋人の肩に手をかけようとしたら・・・・
「よせって!こんないつ使い女が来るかもしれないとこで、くっつくなよ。お前のそういうとこ、ヤダ!」
『ヤダ』「ヤダ」ヤダ・・・脳に直撃した言葉が反響し、固まってしまったティアを置いてアシュレイは桂花の後を追うかのように行ってしまう。
「・・・・・私に対する二人の本音って・・・」
いつも言われて聞きなれている言葉のはずなのに、今日は特別ティアの心に深く突き刺さったことを、二人は知らない。
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