投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
『夢は飛ぶことに人を慣らす──(J・コクトー)』
「よ、アシュレイ、ティアはどうした?」
まばゆい光差すテラスのテーブルにいたアシュレイに柢王が尋ねた。半そで綿パンの機長は気楽ななりだが、待機の
機長もTシャツ短パン、いつでもそのままビーチへどうぞだ。
「なんか山凍部長と出て行った。またすぐ戻るって。おまえこそ、あいつは?」
桂花、だがアシュレイはまだ名前で呼べない。が、柢王はわかっているので、
「まだ寝てる。起きるまでおいとこうと思って」
昨夜、目を覚ました後の桂花が再び目を覚ましたかは柢王にはわからない。ただ柢王が起きた時にはよく眠っていたし、
身支度しても目覚めなかった。ふだん眠りの浅い桂花にはないことだ。路線訓練の疲れも出る頃だろし……。
(昨夜のあれ、結局なんだったか教えてくんねーもんなぁ)
驚いた顔のわけ。あんな驚いた顔をするからには、何を見間違えたかでいいから知りたい。
(ま、いっか。起きてから聞けば)
心で呟き、肉を噛む柢王に、
「あ、なぁ、柢王……」
「んー?」
「俺、昨夜、変なもん見たんだけど……」
「変なもん?」
「なんかすごい服着た変なやつ。廊下のとこでうろうろしてた」
「なんだそれ、変質者か?」
尋ねた柢王はなぜか背筋に悪寒を覚えた。今日も気温は最高100℃くらいまでいきそうなのに。
「俺が声かけようとしたら走って逃げてったけど、やっぱ警察呼べばよかったかなぁ」
「でも回廊だろ? 客じゃねぇか? たまたま迷ってたとか……回廊は暗いしさ」
「でもサングラスしてたぞ。帽子も被ってたし」
「それは……」
暑くてネジが外れた人だろうか。それとも初めから外れている人。考え込むアシュレイを前に、柢王の背中にはまた
わけのわからない冷や汗が流れた。
ふたりは食事の後、ホテルを一周して、水晶を使った工芸品店やクラフト作成の建物にも行ってみた。民族館で美麗な
民族衣装を見ている途中で、ティアが戻ってきた。
「ああ、柢王、ちょうどよかった。桂花は?」
尋ねたティアに、柢王はまだ寝てると答えた。ティアは一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐにあああと頷いた。奥深い答えだ。
「じゃあ、桂花にはおまえから聞いてほしいんだけど、今夜の王宮での歓迎パーティーね。陛下がよければ機長たちも
招待したいとおっしゃって。オフなのは説明したんだけど、聞いてみてくれと言われたんだ。そんなに長い時間は取らない
はずだし、桂花が行くならおまえにも来てもらうけど……」
でもいやだよね、ふたりでいたいよね。ティアのまなざしに柢王は苦笑する。行く方がティアのためにはなるだろう。
それに、オプションの柢王には決定権がない。
「聞いてみる。でも、あいつが嫌だって言ったら、悪いけど、カンベンな」
微笑んだ柢王に、ティアはすまなさそうに頷いて、
「うん。本当に無理しなくていいからね。他の機長にはいまから聞くんだけど、アシュレイ、君は来てくれる?」
「え、俺、スーツとかないぞ?」
「うん、君は制服でいいよ。陛下はパイロットに会いたがっていらっしゃるし。誰もシャンデリアほど目立てないし」
なんでも王宮は床総水晶張りの美麗な建物らしい。
「あ、アシュレイ、街に行くって言ってたよね? 街で一緒にお昼できるかな」
「ああ、いいぞ。おまえが用済んだら電話くれたら」
「うん、わかった。柢王には後から電話するからね」
ティアはそう告げると、一度部屋に戻る、と去っていった。
「忙しそうだな」
見送った柢王に、アシュレイが頷き、
「旅行部門の企画もあるんだと。ティアのやつ、自分こそ休めばいいのに」
「それができないのがあいつだよな」
それに暇ができたらおまえの便で日帰りするし。柢王は心で呟いたが、言わず、
「んじゃ、俺そろそろ部屋に戻るし。水と生物に気をつけろよ、アシュレイ。暑かったらちゃんと日陰入って休めよな」
「わかってるって。んじゃ後でな、柢王」
「おう、後で」
*
赤いトロッコ列車が海岸線をゴトゴト走る。海風に長い髪がなびくのを頬で感じる距離感に、柢王はご機嫌だった。
柢王が部屋に戻った時、桂花はもう起きていてシャワーの後だった。
ティアの話をすると、返事は『行く』。それがティアの役に立つなら──他の機長も同様だろう。オーナーがスタッフ
思いならスタッフもそうなる。予想していた柢王にも異議はなく、ふたりは桂花が着替えて食事してからホテルを出た。
目的地は真っ白な砂浜が目にまぶしいコーラル・コースト。
この島は大抵そうなのだが、ここも伸びた椰子の木が風に高く葉を揺らすほかに視線を遮るもののない美しい浜辺だ。
足元に崩れていく白砂。透き通る海。突き抜けるような完全な青空を背景に、沖へ行く白い客船が切り絵のごとき
鮮明さで浮かび上がって見えるのが奇跡のようだ。
「さっすが路線で来てただけのことあるな。ここってまだメジャーじゃないんだろ」
海岸に降り立った柢王が、瞳を輝かせて尋ねた。うーんと伸びをすると肺いっぱいに潮の匂いがする。桂花はそれに
穏やかに、
「吾も話に聞いていただけです。海岸にはあまり来ませんでしたから」
「へぇ? でもここって中二日くらい飛ばねーんじゃないの? その間ずっとホテルか街か?」
「ホテルも設備がいいところはいいですからね。あとは文化的な施設があれば見に行ったり」
「そういうの、好きなんだ? ま、海は誰かと来た方が楽しいよな。特にコ・イ・ビ・トと」
柢王は笑って、桂花の唇に触れた。人目がないので何をしてもいいようなこの開放感がまさにリゾート。
「うわ、すげぇ、底が見える」
海底にくずおれていく砂の流れさえ見える。透明度が高い。きらきらと日差しをはじく水面が水晶のようだ。
「あー、やっぱ泳ぐ支度で来ればよかったかなぁ」
波打ち際でくやしそうな顔をした柢王に、桂花が笑って、
「ではどうして泳ぎに行くのは嫌だと答えたんですか」
「え、だっておまえの肌人に見せるのやじゃん。つか、ここでだったら見せてくれていーけど。俺しかいねぇし」
奔放男の期待に満ちたまなざしに、クールな恋人の答えは肩をすくめる、だ。柢王は笑って、
「けど、このまま見てるだけもつまんねーし。おまえ、裾あがらねーの?」
「これ以上はムリですね」
「ふくらはぎか。んじゃ、わかった。ちょっと髪前に流して。あ、おまえは俺の首に手まわしてくれてたらいーからさ」
「え…柢王っ」
桂花が声を上げるのも構わず、柢王は桂花の体を腕に抱え上げた。靴を脱ぐとそのまま海に入っていく。バシャバシャ
音が立ち、水飛沫が上がる。桂花があぜんと目を見開く。
「すげー! 見ろよ、桂花、俺の足元まで透けて見えんぞっ」
嬉しそうに叫んだ柢王は、桂花の体を傾げてその足元も海につけようとして気づいた。
「なんだよ、心配しなくたって落とさねーって。つか、もうちょっとしっかり掴まっててくれたら楽だし、嬉しいけど」
「……あなた、本当にこわいもの知らずですね──……」
桂花が、信じられないと言いたげな声で言った。初めて聞く声だ。それに初めて見る顔。柢王は笑って、
「んなの子供ん時からよくやってたぜ? ティアんちの池でアシュレイと鯉取ろうとしてすげぇ怒られてさ、一週間くらい
出入り禁止にされたよ。天気いーしさ、帰るまでに乾くって。つか、リゾートだし、誰も気にしやしねーって!」
悪びれずに宣言する柢王に、桂花はあきれたような目をしていたが……。
ふいに、その紫の瞳に笑みが宿る。それが顔いっぱいに広がって、笑い出した桂花に柢王が目を見張った。が、それもすぐに頬を紅潮させた輝くような笑顔に変わった。
「すげぇ…! おまえ、笑った顔ものすごい美人だし!」
歓声を上げて、海水を弾き飛ばしてぐるぐる回る。
「うっわ、砂だらけだなー」
砂浜に腰を下ろした柢王は、足から腰からまといつく砂に嫌な顔をしたが、隣の桂花は笑って、
「あたりまえですよ、あれだけ濡れたら。本当に、驚かされる人ですね」
手を伸ばして柢王の頬についていた砂を払った。一度満開の笑顔を見せた美人は、肩の力が抜けたような優しい顔だ。
柢王はその顔を見つめ、そして、その頬に手を伸ばした。
沈黙が続いた後で、
「潮の味がしますよ」
柢王も笑い、
「リゾート風味ってとこだな。つか、ほんと、おまえの笑顔、腰が抜けそうだった。やっぱここ来てほんとによかったよな」
「そんなにふだん笑っていませんか」
桂花が面白がるように尋ねた。柢王は砂に寝転がるとその顔を見上げて、
「笑ってねーんじゃねぇけど、今日みたいに声立てて笑ったことないじゃん。ま、あんま会えねーから見れねぇだけかも
しんねーけど」
笑っていてくれると、自分を信じてくれているようで嬉しくなる。カッコよくない言葉は省いた柢王に、桂花は笑い、
「あなたといると退屈しないですよ。いつも予想外ですからね」
「なんだ、その愛情こもらねぇコメントは? つかおまえでも退屈とかすんの?」
冗談のつもりで聞いたのに、答えは意外にも、
「していましたよ、ずっと」
「ずっと?」
「特にやりたいこともないし、関心のあることもないし、退屈してた、ずっと」
「飛ぶ、までは──?」
尋ねた柢王に、桂花は頷き、
「でも最初は…李々に恩返しもしたかったし、他にしたいこともないから飛んだ、ようなものでしたけれどね」
「ああ、前に恩返すためにパイロットになったようなもんだって言ってたもんな。でも、好きなんだろ、飛ぶのは。
おまえのフライト、ただやってきた奴の飛び方じゃねぇもん」
伺うようにそう尋ねると、桂花は静かに頷いて、
「好きですよ。コクピットにいると自分がいるべきところにいると思える。あそこにはいてもいいと思える」
「コクピット以外、居場所がなかったってことか、それ」
柢王は眉をひそめたが、桂花は穏やかに、
「そこまで突き詰めて考えたことはなかったですけれどね。李々の家での生活は、よくしてもらったし、大事にもして
もらったし、感謝もしてる。ただ、自分がいるべきところとは……たぶん、思えていなかったんでしょうね」
「重みがないとどっか行きたくなる……前におまえ言ってたよな。飛ぶことは自分を繋ぎとめる重さだって。それって
そういうことか」
「さあ、そんな風には……。時々どこかに行きたい気もしたけど、それも特定どこかじゃないし、切望していたわけでも
ないし。ただ、もし飛ばなかったら──退屈に耐えられなかったと思います。ありきたりに暮らすことに、たぶん、
耐えられなかった。パイロットにはないことですからね、それは」
他人事のように言う桂花の横顔を、柢王は見つめた。
胸のなかに、薄い氷の花を抱くように──。誰にも心に触れさせない、誰の腕も求めない。その突き放した完全さのままで、
いようと思えばきっといつまでもいられただろうに。
「どうしました、柢王?」
ふいに、抱きしめた柢王に、桂花が尋ねる。柢王はその潮の匂いのする髪に顔を埋めてささやいた。
「ありがとな、俺のこと受け入れてくれて」
生き方を変えるのは楽なことではない。
礼儀正しい他人行儀。断崖に咲く花のようだったこのパイロットは、かわし続ける気ならきっといまでも、自分を
迷路の入り口さえわからない場所に立たせておくことができただろうに。
受け入れて、初めての笑顔を見せてくれた。たぶん誰にも言わないことを教えてくれた。そしていまここにいてくれる。
腕の中に。
「ありがとな、俺とつきあってくれて」
ささやく言葉と共に抱きしめる腕に力を込めると、紫色の瞳が一度見開かれ、そして、優しい苦笑いで桂花が答える。
「可愛いこと、言わないで下さい」
『天災は忘れた頃にやって来る──(寺田寅彦)』
薔薇色だった空がオレンジ混じりの濃い紫に包まれる時刻。
中庭にぽっこりとした証明が点り、プールサイドのレストランにざわめきが宿る。満天の星空の下のそのレストランの
席で、ティアとアシュレイは柢王たちが戻るのを待っていた。
緑豊かなホテルは、桟橋を渡って突き出した小島のような敷地全てを使った高級リゾート。花咲き群れる中庭をクロスする
回廊で白い翼を広げたような客室の棟にたどり着く。部屋の広さは異なってもどこからでも海に行ける。水着のまま気楽に
寄れるレストランや乗馬コースやマリンスポーツの施設の他にも民族的な小博物館もすぐ側にあって、ホテルだけでも
十分に楽しめる造りだ。
旅行部門の兼ね合いもあって、ティアが視察がてらに選んだホテルだ。ハネムーナーなら絶対喜ぶ天蓋つき花びらを
散らしたベッドのスィートもある。もっとも天界航空のハネムーナーたちはティアが電話した時には街から戻る途中だった。
ずっと遊んでいたらしい。
(意外だったなぁ。柢王絶対桂花のこと押し倒してると思ってたのに)
禁欲生活強いられているくせに、電話の声は楽しげで、それが恋に落ちた人の姿かと思う。それに比べていくらか
わかりにくくはあるものの、桂花の薄紙を剥がすようにその内側の優しさや誠実さを現してきた変化も。
いままで一人で立ってきた人が背中合わせに立つような何がしか。機内で話す二人を見ていてティアはそう感じた。
その『何がしか』がはっきりとわかる『何か』になったら、柢王も愚痴は言わなくなるだろう。
(そのためにもおまえの席を用意したんだから、しっかりやってよね)
心の中で親友にエールを送ったティアは、もうひとりの大事な親友に目を向けた。
ホテルに戻ってすぐアシュレイのフライトの話を聞いた。頬を高潮させて話す姿に嬉しさと同時に責任も感じたのは
当然のことかもしれない。パイロットたちは常に客席にはわからせない困難を背負って誇らしげに飛ぶ。
いいわけなし、結果が全て。その重さはティアには共有できないものだけれど。
(君たちがいるから、私もがんばれるんだからね)
夢をわかちあうことは、同じキャンバスを彩ることだとティアにはわかる。同じカラーは持てないし、誰かの輝きを
真似することもできないけれど、ともに描くそのキャンバスを広げ、刺激しあい、今までに見たことのないひとつの絵を
作り上げていくのだと。
アシュレイの桂花へもフライトの話をしたいと言う気持ちも同じことだ。礼も言いたいのだ、ちゃんと。なのに
口には出さず、テーブルの下でつま先だけがそわそわしているのがとんでもなく可愛いっ。
(もー君ったら意地っ張りの癖してそういう一途なことが君なんだからーっっ)
奥歯かみ締め、頬染める天界オーナーは友達だけにどこの機長と同類。盲目ではないが、極めて近視的。
と、
「わりぃ、待たせたなっ」
「すみません、遅くなって」
柢王と桂花が連れ立ってやって来た。
「なに、どうしたの、柢王そんなに日焼けして」
驚いて尋ねたティアに、
「いや、街がすげー面白いのな。屋台とかあってさ。ぶらついて、海出て水上飛行機で島渡ってさぁ……」
答える柢王の横に腰を下ろした桂花が、アシュレイの顔を見て尋ねた。
「どうでした?」
水を向けられたアシュレイは嬉しそうに瞳を輝かせて答えた。
「ああ、おまえが言った通りだった。街が近くてすげぇ迫力あったしどきどきした。あんなの初めてだ」
「いい着陸でしたよ。天気がよくてよかったですね」
「ああ、ほんっと楽しいフライトだった。監査も受かったし。おまえのおかげだ──サンキュ」
「あなたの実力です」
ティアが柢王に笑顔を向ける。柢王も微笑んで頷く。と、礼が言えてほっとしたらしいアシュレイがふたりの顔に
気づいて頬を赤くした。
「なんだよ、おまえらっ。さっさと注文するぞっ」
メニューを取り上げるのに、柢王も笑って、
「そーそー、腹減ったし、乾杯して、たらふく食おうぜ。アシュレイの奢りでな」
「な、なんでおまえのまでっ。俺はこいつに世話になったからその礼には喜んで奢るけど、おまえただの旅行じゃないか!」
叫んだアシュレイに柢王も眉を上げ、
「おまえな、俺がどんだけあれこれ我慢したと思ってんだ? 桂花がおまえのために時間費やしてっから俺なんかメールの
返事だって貰えなかったんだぞ?」
「そんなことは俺が知るかっ。大体、大の男がメールなんかでやり取りしてるなんて情けないぞ、柢王っ」
「おまえだってティアとしてんだろーがよっ!」
「俺とティアはたた゜親友としてだなあっ」
「あーもーいーから二人ともっ! 桂花、好きに注文しちゃって」
放っておいたら遠慮なしバトルになりそうなふたりにティアが叫んで、桂花に頼む。桂花は冷静に、
「はい、オーナー」
メニューを取り上げかけた。と、ふいにその瞳がはっと見開かれる。虚を突かれたようなその表情に、
「メールだって電話だってこいつバカみたいにしてんじゃねーかっ」
「こいつがバカなのは俺のせいじゃないだろっ!」
言い争っていたふたりも、私のことっ、と憤慨しかけたティアも桂花の方を見た。
「どうした、桂花」
尋ねた柢王に、桂花がはっと瞳を動かした。
「桂花、どうしたの」
「なんか珍しいモンでもいたのか」
首をかしげたティアとアシュレイに、ああと呟く。その頬に苦笑いが浮かんだ。
「すみません、いま幻を見た気がしたので」
「幻?」
「ええ、すぐに消えましたから見間違いでしょう。それで、皆さん、何を召し上がられるんですか」
落ち着き払ったいつもの顔になって尋ねた桂花に、一同は怪訝な顔はしたものの、
「俺、フカヒレな、アシュレイ」
「だからおまえには奢らねーって」
「わかったよ、経費で出すから決めようよっ」
それぞれがオーダーを決め始める。
「あなた、ものすごく眠いんでしょう」
回廊を手を引かれて歩きながら桂花が尋ねた。濃い花の匂いが潮風に乗ってただよっている。
夕食の間はアシュレイのフライトの話やティアの王宮での歓待、柢王と桂花の見てきて街の様子など、話は盛り上がり
楽しい時間が過ぎた。が、さすがに柢王は眠くなったらしい。かくんとテーブルに突っ伏しそうになったのを見て、お開きに
なった。
ティアは更にアシュレイのフライト談義を聞くようだ。二人してラウンジに去って行った。
会社の用意した部屋でなく、自分のスィートに桂花を導く柢王は笑って、
「すげぇ眠い。昼間遊びすぎたからよけいな。でもアシュレイの監査も受かったし、ティアの仕事も順調そうだし、
街も面白かったし、いい一日だったから盛大に盛り上がって終了するべきだろ、おまえとふたりで」
「そんなに眠くて、ですか」
桂花が苦笑いする。柢王は笑って、
「フライト中に寝たこたないから心配すんなって。それにおまえだってよく眠れるから。保証する」
「本当に大丈夫ですか」
はかるように、聞かれて柢王も足を止める。月光にきらめく紫の瞳を見つめ、
「無理すんなって言ってくれる気なら頼むから拒むなよ。拒まれたらぜってー眠れないから。それに朝起きる寝方だったら、
絶対リカバーできるから、信用しろよ」
落ち着いた、優しい声でそう言った後、柢王はふと口調を変えた。
「つか、俺のことより自分のこと心配しろよ?起きらんねぇのおまえだぜ?」
挑むように笑ってみれば、苦笑い見せていた美人の瞳が真っ向見上げ、
「それは、どうかと?」
ダイナマイト級の笑みに心臓破裂の柢王は、四の五の言わずにショート・カットで部屋へ直行だ。
*
山凍に明日の予定を確認に行くティアと別れて、アシュレイは部屋と向かっていた。
アルコールの酔いとわくわくしたフライトの名残か気分が高揚して雲の上を行くようだ。桂花にも礼ができたし、ティアも
喜んでくれたし、柢王も褒めてくれたし、アシュレイとしては最高の夜だ。
あとは帰りも無事にしめくくるだけ。自分へのご褒美として明日は市内を見に行こうかな。そんなことを考えながら
歩いていると、ふと、前方にあやしい人影を発見した。
(なんだ、あれ)
客室に向かう中庭の回廊あたりに、男がうろうろしていた。長い金髪、目深にかぶった黒い帽子。こんな時刻に
真っ黒なサングラス。しかも、回廊の柱に擦り寄るようにして身を隠し、辺りをきょろきょろ伺っている。
(酔っ払い? 夢遊病? ジャンキー?)
もしもしどうしましたと声をかけるべきか、もしもし警察ですかと電話すべきか。呼ぶなら救急車かパトカーどちら
だろう。頭でピカつくオレンジライトに、そっと男の背後に近づいた。
と、気配でか、男が振り向いた。
お互いに、びっくりして立ち尽くすこと三秒。アシュレイの見張った瞳に映る豪華絢爛刺繍入り赤シャツに黒パンツ、
持っているのは紫の上着!
と、いきなり男がダッと走って逃げた。思わずビクっとしたアシュレイは、そのブーゲンビリアの残像かという後姿を
あぜんと見送るしかない。
「な、なんだ、あれ……色盲か?」
夜風に乗ってただよう残り香まで、ねっとりと暑苦しい──
「眠れねぇ?」
かすかに身を起こす気配に、柢王が眠たげな瞳を上げる。
「起こしましたか」
桂花が静かな声で尋ねる。柢王は枕に頭をつけたまま、
「なんか、おまえが起きた気がしたから。つか目覚められるとちょっとショック。絶対目が覚めないようにがんばった
つもりだったのに」
かすれた声を出す。桂花はそれに落ち着いた声で、
「目が覚めるのはいつもですよ。それに潮の音もするし。あなたこそ、ちゃんと寝たらどうです?ふざけてないで」
差し込む月光に淡い金を刷いたようなシーツの中、腰にかかる柢王の手を外そうとする。
「眠れないならいくらでもつきあうって意思表示だろ……」
「これ以上つきあうことはありませんよ。目が覚めなくなるから。さあ、目を閉じて」
「おまえ…さっきどっか行こうとしたろ? 俺が目開ける前」
柢王の腕が桂花の腰をしっかりと囲う。どこにも行かせないように。見上げる瞳はいまにも眠りに引き込まれそうなのに、
聞き出す意思だけ機能している、
「なあ…気になることとかあるなら、何でも言えよ。大したことじゃなくても……俺は知りたいから、おまえのことなら
どんなことでも」
桂花がそれに苦笑いする。意識が後ろに引き込まれそうな眠りの中で目を開けていようとする柢王の瞳を覗き込む
ようにして、
「水がほしかっただけですよ。暑かったから。いいからもう眠って」
「うそ、つけ。おまえ、いまだって体温……低い、のに」
不服そうに呟いた柢王は、だが、桂花が頭を落ち着けると安心したように目を閉じた。すぐに規則的な寝息が
聞こえる。その肩に頬をのせた桂花は、しばらく、金色の闇が踊る室内を眺めていたが……。
「おまえのことならどんなことでも知りたい…か」
その面にふしぎな表情が浮かぶ。
そして、かれはそのまま瞳を閉じた──
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