投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
『天災は忘れた頃にやって来る──(寺田寅彦)』
薔薇色だった空がオレンジ混じりの濃い紫に包まれる時刻。
中庭にぽっこりとした証明が点り、プールサイドのレストランにざわめきが宿る。満天の星空の下のそのレストランの
席で、ティアとアシュレイは柢王たちが戻るのを待っていた。
緑豊かなホテルは、桟橋を渡って突き出した小島のような敷地全てを使った高級リゾート。花咲き群れる中庭をクロスする
回廊で白い翼を広げたような客室の棟にたどり着く。部屋の広さは異なってもどこからでも海に行ける。水着のまま気楽に
寄れるレストランや乗馬コースやマリンスポーツの施設の他にも民族的な小博物館もすぐ側にあって、ホテルだけでも
十分に楽しめる造りだ。
旅行部門の兼ね合いもあって、ティアが視察がてらに選んだホテルだ。ハネムーナーなら絶対喜ぶ天蓋つき花びらを
散らしたベッドのスィートもある。もっとも天界航空のハネムーナーたちはティアが電話した時には街から戻る途中だった。
ずっと遊んでいたらしい。
(意外だったなぁ。柢王絶対桂花のこと押し倒してると思ってたのに)
禁欲生活強いられているくせに、電話の声は楽しげで、それが恋に落ちた人の姿かと思う。それに比べていくらか
わかりにくくはあるものの、桂花の薄紙を剥がすようにその内側の優しさや誠実さを現してきた変化も。
いままで一人で立ってきた人が背中合わせに立つような何がしか。機内で話す二人を見ていてティアはそう感じた。
その『何がしか』がはっきりとわかる『何か』になったら、柢王も愚痴は言わなくなるだろう。
(そのためにもおまえの席を用意したんだから、しっかりやってよね)
心の中で親友にエールを送ったティアは、もうひとりの大事な親友に目を向けた。
ホテルに戻ってすぐアシュレイのフライトの話を聞いた。頬を高潮させて話す姿に嬉しさと同時に責任も感じたのは
当然のことかもしれない。パイロットたちは常に客席にはわからせない困難を背負って誇らしげに飛ぶ。
いいわけなし、結果が全て。その重さはティアには共有できないものだけれど。
(君たちがいるから、私もがんばれるんだからね)
夢をわかちあうことは、同じキャンバスを彩ることだとティアにはわかる。同じカラーは持てないし、誰かの輝きを
真似することもできないけれど、ともに描くそのキャンバスを広げ、刺激しあい、今までに見たことのないひとつの絵を
作り上げていくのだと。
アシュレイの桂花へもフライトの話をしたいと言う気持ちも同じことだ。礼も言いたいのだ、ちゃんと。なのに
口には出さず、テーブルの下でつま先だけがそわそわしているのがとんでもなく可愛いっ。
(もー君ったら意地っ張りの癖してそういう一途なことが君なんだからーっっ)
奥歯かみ締め、頬染める天界オーナーは友達だけにどこの機長と同類。盲目ではないが、極めて近視的。
と、
「わりぃ、待たせたなっ」
「すみません、遅くなって」
柢王と桂花が連れ立ってやって来た。
「なに、どうしたの、柢王そんなに日焼けして」
驚いて尋ねたティアに、
「いや、街がすげー面白いのな。屋台とかあってさ。ぶらついて、海出て水上飛行機で島渡ってさぁ……」
答える柢王の横に腰を下ろした桂花が、アシュレイの顔を見て尋ねた。
「どうでした?」
水を向けられたアシュレイは嬉しそうに瞳を輝かせて答えた。
「ああ、おまえが言った通りだった。街が近くてすげぇ迫力あったしどきどきした。あんなの初めてだ」
「いい着陸でしたよ。天気がよくてよかったですね」
「ああ、ほんっと楽しいフライトだった。監査も受かったし。おまえのおかげだ──サンキュ」
「あなたの実力です」
ティアが柢王に笑顔を向ける。柢王も微笑んで頷く。と、礼が言えてほっとしたらしいアシュレイがふたりの顔に
気づいて頬を赤くした。
「なんだよ、おまえらっ。さっさと注文するぞっ」
メニューを取り上げるのに、柢王も笑って、
「そーそー、腹減ったし、乾杯して、たらふく食おうぜ。アシュレイの奢りでな」
「な、なんでおまえのまでっ。俺はこいつに世話になったからその礼には喜んで奢るけど、おまえただの旅行じゃないか!」
叫んだアシュレイに柢王も眉を上げ、
「おまえな、俺がどんだけあれこれ我慢したと思ってんだ? 桂花がおまえのために時間費やしてっから俺なんかメールの
返事だって貰えなかったんだぞ?」
「そんなことは俺が知るかっ。大体、大の男がメールなんかでやり取りしてるなんて情けないぞ、柢王っ」
「おまえだってティアとしてんだろーがよっ!」
「俺とティアはたた゜親友としてだなあっ」
「あーもーいーから二人ともっ! 桂花、好きに注文しちゃって」
放っておいたら遠慮なしバトルになりそうなふたりにティアが叫んで、桂花に頼む。桂花は冷静に、
「はい、オーナー」
メニューを取り上げかけた。と、ふいにその瞳がはっと見開かれる。虚を突かれたようなその表情に、
「メールだって電話だってこいつバカみたいにしてんじゃねーかっ」
「こいつがバカなのは俺のせいじゃないだろっ!」
言い争っていたふたりも、私のことっ、と憤慨しかけたティアも桂花の方を見た。
「どうした、桂花」
尋ねた柢王に、桂花がはっと瞳を動かした。
「桂花、どうしたの」
「なんか珍しいモンでもいたのか」
首をかしげたティアとアシュレイに、ああと呟く。その頬に苦笑いが浮かんだ。
「すみません、いま幻を見た気がしたので」
「幻?」
「ええ、すぐに消えましたから見間違いでしょう。それで、皆さん、何を召し上がられるんですか」
落ち着き払ったいつもの顔になって尋ねた桂花に、一同は怪訝な顔はしたものの、
「俺、フカヒレな、アシュレイ」
「だからおまえには奢らねーって」
「わかったよ、経費で出すから決めようよっ」
それぞれがオーダーを決め始める。
「あなた、ものすごく眠いんでしょう」
回廊を手を引かれて歩きながら桂花が尋ねた。濃い花の匂いが潮風に乗ってただよっている。
夕食の間はアシュレイのフライトの話やティアの王宮での歓待、柢王と桂花の見てきて街の様子など、話は盛り上がり
楽しい時間が過ぎた。が、さすがに柢王は眠くなったらしい。かくんとテーブルに突っ伏しそうになったのを見て、お開きに
なった。
ティアは更にアシュレイのフライト談義を聞くようだ。二人してラウンジに去って行った。
会社の用意した部屋でなく、自分のスィートに桂花を導く柢王は笑って、
「すげぇ眠い。昼間遊びすぎたからよけいな。でもアシュレイの監査も受かったし、ティアの仕事も順調そうだし、
街も面白かったし、いい一日だったから盛大に盛り上がって終了するべきだろ、おまえとふたりで」
「そんなに眠くて、ですか」
桂花が苦笑いする。柢王は笑って、
「フライト中に寝たこたないから心配すんなって。それにおまえだってよく眠れるから。保証する」
「本当に大丈夫ですか」
はかるように、聞かれて柢王も足を止める。月光にきらめく紫の瞳を見つめ、
「無理すんなって言ってくれる気なら頼むから拒むなよ。拒まれたらぜってー眠れないから。それに朝起きる寝方だったら、
絶対リカバーできるから、信用しろよ」
落ち着いた、優しい声でそう言った後、柢王はふと口調を変えた。
「つか、俺のことより自分のこと心配しろよ?起きらんねぇのおまえだぜ?」
挑むように笑ってみれば、苦笑い見せていた美人の瞳が真っ向見上げ、
「それは、どうかと?」
ダイナマイト級の笑みに心臓破裂の柢王は、四の五の言わずにショート・カットで部屋へ直行だ。
*
山凍に明日の予定を確認に行くティアと別れて、アシュレイは部屋と向かっていた。
アルコールの酔いとわくわくしたフライトの名残か気分が高揚して雲の上を行くようだ。桂花にも礼ができたし、ティアも
喜んでくれたし、柢王も褒めてくれたし、アシュレイとしては最高の夜だ。
あとは帰りも無事にしめくくるだけ。自分へのご褒美として明日は市内を見に行こうかな。そんなことを考えながら
歩いていると、ふと、前方にあやしい人影を発見した。
(なんだ、あれ)
客室に向かう中庭の回廊あたりに、男がうろうろしていた。長い金髪、目深にかぶった黒い帽子。こんな時刻に
真っ黒なサングラス。しかも、回廊の柱に擦り寄るようにして身を隠し、辺りをきょろきょろ伺っている。
(酔っ払い? 夢遊病? ジャンキー?)
もしもしどうしましたと声をかけるべきか、もしもし警察ですかと電話すべきか。呼ぶなら救急車かパトカーどちら
だろう。頭でピカつくオレンジライトに、そっと男の背後に近づいた。
と、気配でか、男が振り向いた。
お互いに、びっくりして立ち尽くすこと三秒。アシュレイの見張った瞳に映る豪華絢爛刺繍入り赤シャツに黒パンツ、
持っているのは紫の上着!
と、いきなり男がダッと走って逃げた。思わずビクっとしたアシュレイは、そのブーゲンビリアの残像かという後姿を
あぜんと見送るしかない。
「な、なんだ、あれ……色盲か?」
夜風に乗ってただよう残り香まで、ねっとりと暑苦しい──
「眠れねぇ?」
かすかに身を起こす気配に、柢王が眠たげな瞳を上げる。
「起こしましたか」
桂花が静かな声で尋ねる。柢王は枕に頭をつけたまま、
「なんか、おまえが起きた気がしたから。つか目覚められるとちょっとショック。絶対目が覚めないようにがんばった
つもりだったのに」
かすれた声を出す。桂花はそれに落ち着いた声で、
「目が覚めるのはいつもですよ。それに潮の音もするし。あなたこそ、ちゃんと寝たらどうです?ふざけてないで」
差し込む月光に淡い金を刷いたようなシーツの中、腰にかかる柢王の手を外そうとする。
「眠れないならいくらでもつきあうって意思表示だろ……」
「これ以上つきあうことはありませんよ。目が覚めなくなるから。さあ、目を閉じて」
「おまえ…さっきどっか行こうとしたろ? 俺が目開ける前」
柢王の腕が桂花の腰をしっかりと囲う。どこにも行かせないように。見上げる瞳はいまにも眠りに引き込まれそうなのに、
聞き出す意思だけ機能している、
「なあ…気になることとかあるなら、何でも言えよ。大したことじゃなくても……俺は知りたいから、おまえのことなら
どんなことでも」
桂花がそれに苦笑いする。意識が後ろに引き込まれそうな眠りの中で目を開けていようとする柢王の瞳を覗き込む
ようにして、
「水がほしかっただけですよ。暑かったから。いいからもう眠って」
「うそ、つけ。おまえ、いまだって体温……低い、のに」
不服そうに呟いた柢王は、だが、桂花が頭を落ち着けると安心したように目を閉じた。すぐに規則的な寝息が
聞こえる。その肩に頬をのせた桂花は、しばらく、金色の闇が踊る室内を眺めていたが……。
「おまえのことならどんなことでも知りたい…か」
その面にふしぎな表情が浮かぶ。
そして、かれはそのまま瞳を閉じた──
さらさらと水の流れる音が聞こえる昏く冷たい地下の闇。
死者たちが偽りの生を与えられる黒く謎めく湖の水。
冥界は、肌をしとらす霧の中、今日も美貌の主の見えざる手に支配されている。
暗闇に浮かぶその滴るような容貌、黄金の髪。無慈悲を刷いた金黒色の瞳は支配者の愉悦をたたえて崇める者たちを
睥睨している。
幾度殺されようとも蘇る冷たい生を与えられた者たちは、その美貌の主の命を受け、地上に現れ、様々な、
絵物語の一端を彩る。そのタペストリーの全貌は被支配者にはわからない。おのれが織り成すパーツの図柄さえ、
かれらは知らない。全ての絵柄は昏い企みに酔いしれる美貌の主の胸のうち。
その企みを口にしようとしたならば、すぐさまおのれが灰と化して消滅することを被支配者たちは知っている。
『全ての声は、地下にある限りわれに届く』
暗闇に妖しく佇む美貌の主の言葉通り、死者たちの命運は常に主のもの。生ではない生、偽りの命。だが命に
執着する者には、夢だろうが真だろうが生きていることには変わりがない。それゆえに死者たちは主の逆鱗に
触れぬよう、常に恐れ、注意を払っている。
だが、ふいに、なにゆえと思われる時でも死者たちの偽りの肉体が一瞬にして灰と化す時がある。
それは、
『おい、今日の肉はうまかったな、あれはどこの肉だ』
『ああ、鹿のヒレ肉……』
シュボッ。
『なんとそのような非礼なことがっ』
シュボッ。
『この鍋はどこに置いたらよいのか』
『ああ、炉辺に──』
シュボッ。
居合わせた人間たちが驚くのも当然だが、死者たちはもっと驚く。いまのはなにゆえにっ。見えざる支配者の
冷たい怒りの理由が知れぬかれらは恐れおののき、口を慎む。それでもときたま、
『ウサギは耳をつかんで捕獲──』
『カタツムリの触覚は伸縮自在だなぁ』
など日常会話の中で消されていく仲間の姿に戦慄する。そこには一体どのような秘密があるのだろーかっ?
秘密ではない。『耳に関する78項目の禁言』のうち、『ヒレ』と『ロバ』とが冥界の二大禁句であるのは、
知る人なら皆知っている。ただ口に出したら塵になるから他の者に伝えようがないだけだ。『ウサギ』や『ミミズク』も
同様にデンジャラス。『伸縮自在』も時に際どい。
ましてや『頭隠して耳隠さず』とか『王様の耳はロバの耳ぃ〜』など、ナノ単位のチリと化す大罪である。
水の流れる昏い地下。
そこでは今日も、主の地獄耳にまつわる禁句を口走った者たちが、名簿から消されてゆくのであった──
ゴリゴリゴリゴリ・・・
床に膝をついて薬研(やげん)でさまざまな植物を干したものをゴリゴリと一心にすりつぶしてい
る桂花の背中に、柢王はおそるおそる問いかけた。
「・・・も・猛毒でも作ってんのか?桂花」
呼びかけられた桂花は「何を馬鹿なことを言っているんですか」とでも言いたげな視線でちらりと
振り向いて柢王を見、さっさと作業に戻った。柢王は冷や汗をかきながらゆっくりと桂花の横に回り
込む。
(こ・怖えぇ〜〜・・・)
・・・何というか、目が怖い。というか背中に殺気が漂っている。 場所が場所でなければ、ついに自
分の女遊びに耐えかねた桂花が猛毒を作っている現場に鉢合わせた・・・としか考えられなかったかも
しれない。
―――そう、場所が天主塔の大厨房でなければ。
薬研ですりつぶしたモノを桂花はスプーンですくい上げ、横に置いた紙の上に落とす。20センチ
四方の小さな紙の上には、今まですりつぶしたスパイスが小さな山となって積まれていた。
「そんなちょっとの量で大丈夫なのか?」
「量が多ければいいというものではありません」
柢王の問いかけに振り向きもせずに桂花は返す。右手を伸ばして持ち込んだ袋の中から干した植物
を2.3個つかみ取り、薬研に放り込んですりつぶし続ける。
「おい・・・さっきの・・・・」
薬研に放り込んだそれが、蛍光グリーンと紫と蛍光ピンクのまだら模様をしたイボイボの突起を持
つ実であったのを見て、柢王が慌てる。どう見ても魔界植物だ。
「毒性はありません」
何の感情も込めずに言い放つ桂花に、柢王は冷や汗をかきながらゆっくりと後ずさった。
・・・そして、桂花が薬研を扱っているその反対側の調理台の前で、火にかけられた大鍋の中身をかき
混ぜるアシュレイの姿があった。
「・・・・・・アシュレイ・・」
彼から少し離れたところからアシュレイを見つめるティアの瞳に涙が浮かんでいるのは、額に汗し
て料理を作る恋人の横顔に感動しているからだけではない。
アシュレイの周りには何やら赤い靄のようなモノが立ちこめている。そしてそれは、まちがいなく
彼がかき回す鍋から発生しているのだった。
大厨房は天主塔始まって以来2度目の避難勧告。最後に出た料理長は厨房を振り返って目尻に涙を
浮かべながら悄然と去っていった。
大厨房にいるのは、アシュレイ、桂花、ティア、柢王(五十音順)の四人のみ。
そしておそろしく広い厨房に立ちこめるのは、強烈激烈苛烈にスパイシーな匂い。
・・いや、もはや匂いという次元ではなく すでに目に来ている。だからティアは泣いているのだっ
た。そして、露出している肌がピリピリしている。
ティアはハンカチで目元を押さえながらゆっくりと後ずさった。
・・・事の発端は霊界から遣わされた天主塔の監査人に対し、意趣返しとしてアシュレイが手を加えた
激辛料理についてだった。 愛妻料理を味わえたティアはご満悦だったが、その後の処理に追われま
くった桂花はいい迷惑だった。
その話をたまたまティアが二人のいる前で蒸し返してしまったのだ。ティアがまたアシュレイの手
料理を食べたいと言った時に、桂花が体調を崩されてはたまらないと止めたのがアシュレイの癇に障
ったらしい。 その後はおなじみの罵詈雑言の嵐、そして、
「てめえは 根性が曲がるほど苦い薬しかつくれねえだろうがっ!」
と、アシュレイが言い放ったこの言葉が桂花の逆鱗に触れた。あとは売り言葉に買い言葉、最終的
には守護主天を巻き込んで激辛料理対決を行うことになってしまったのだった。
そうして彼らは大厨房の端と端の調理台に陣取って激辛料理対決をしている。
・・・といっても、公平を期すために料理長が自らダシをとったブイヨンスープに季節の野菜の角切り
を加えて煮込んだものをつかうから、彼らはそれにスパイスを加えて調味すればよいだけだ。
―――よいだけなのだが。
(うわああああああぁぁぁぁぁ・・・・・)
内心で悲鳴を上げるティアが見守るその目の前で、アシュレイは実に無造作に真っ赤な粉末が入っ
た袋(業務用1kg)を逆さにしてその中身を全部大鍋の中にあけた。
(・・・アレ入れるのって、確かコレで3回目・・・)
・・・3kg+α(王家秘伝のスパイスだそうだ)ものスパイスを投入され、もはや煮えたぎるマグマ
の様相を呈した大鍋の中身は、新たに加えられた粉末をゆっくりと飲み込み、赤い蒸気を噴きあげた。
「おい! トロいやつだな! まだかよ!」
鍋のふちをお玉でガンガン鳴らしてアシュレイが桂花に怒鳴る。
すりつぶしたスパイスの山が盛り上がる紙を慎重に持ち上げながら桂花がうるさそうに言った。
「こちらもコレを入れれば終わりです」
・・・ここでようやく桂花が自ら調合した調味料を小鍋の中に投入した。
投入したその際に、ジュゥーッ!という音を立てて、煤煙とも噴煙ともつかない真っ黒な蒸気が小
鍋から噴き上がったのを、ティアと柢王はしっかりと見た。
鍋の中身はあっという間に黒緑色に変じ、周囲に強烈激烈苛烈にスパイシーな匂いをまき散らし始
めたのだった。
・・・・・厨房内の空気は赤とも緑とも灰色とも言えない摩訶不思議な色になった。壁際に伏せてある竹
製の蒸籠は真っ黒に変じ、野菜はしおしおとしなび、卵は真っ赤に染まって表面が溶けかけている。
もはやここまで来ると激辛料理も猛毒と大差ない。
・・・ゆっくりと後ずさり続けていたティアと柢王の背中が当たった。二人は顔を見合わせた。
「・・・どうしよう。確実に死人が出ちゃうよ、コレ」
涙目のティアが言うのに、冷や汗をかき続けている柢王が言った。
「・・・いや、死人云々以前に、・・・誰が喰って、誰が判定すんだ?」
ティアと柢王は青ざめた顔で視線を交わした。 そしてゆっくりと2.3歩後退すると、回れ右し
て入り口に向かって猛ダッシュをかけたのだった・・・
『起こり得る可能性のあることは全て起こり得る──(マーフィー)』
『ヘブンリー707、CGAで着陸を誘導します、ファイナル・コントローラーと交信して下さい』
管制官の指示に、アシュレイの背中は寒くなる。理想的な着陸を誘導するILS無線はやはり使えないらしい。
しかも、周波数にあわせて交信した管制誘導官はこともなげに、
『アプローチング・ストレート。迂回せず進路120度、高度2500で水平飛行してください』
ツララが入った気分のアシュレイの隣で、監査官がにやにやした。
ILSと呼ばれる二大無線は、コクピットのモニター上に機体バランスや進入角度を映すシステムを含んでいる。パイロッ
トは自分の状態を画像で見られるので修正がしやすく、着陸がスムーズに行きやすい。
それが使えない時は、画像の役割を地上でレーダーを見ている管制官が声で果たしてくれる。その差はまさにテレビとラ
ジオ、情報の伝達量が桁違いに少ない。それだけにパイロットの視界と感覚が頼りになるのだが・・・・・・。
もともと、この空港が困難な理由は、市街地の中に空港があるといってもいいぼと街が近いことなのだ。ちょっと間違え
ば大惨事につながりかねない。
なのに、管制は上空からまっすぐ滑走路へ向かうショートカットを許可してくれた! 経費と時間削減の親切だが、
初着陸の監査の新米機長はすぐさまビルを目指すそのラインを喜ばない。
が、やるしかないアシュレイはせいいっぱい冷静を保って、監査官にオーダーした。
「セットCDU、インターセプト、ランウェイ12ファイナルコース」
「ラジャー、セットCDU。スタンバイ・フォー・エクスキュート」
「エクスキュート」
アシュレイもセットされた画面を確認、頷いた。
高度を下げていくと雲のなかにあざやかな海が見えてくる。浮かんでいる宝石のようなエメラルドの島。客だったらす
てきな眺めだ。
『ビギニング・ディセント』
下降開始の声に従い、機体がどんどん降りていく。視界がどんどん開けていく。緑の島の先端に金色の尖塔のようなものが
混じる高い建物の群れが見えてくる。小高い丘の斜面に白い平屋がいくつも見える。油断なく全てを見ながら指示を聞く。
『オン・コース、オン・グライドパス』
コースも進入角度もよし。管制の声に続いて江青が1000フィートのコールをする。自動操縦から手動に切り替え
る。視界は良好、良好すぎる。街の姿が見えてくる。管制の微調整に合わせて機体を左右に繰りながら降りていく。
「アプローチング・ミニマム!」
目の下に、飛び込んでくる。くすんだベージュのビルが竹林のように立ち並んでいる街。古びたレンガの寺院。丸く尖った
帽子のような尖塔。色とりどりの看板。道路を走る車の列。こんなに見えたことはいままでない。
「ミニマム!」
「ランディング!」
声がかすれた。風にはためく屋上の国旗。鐘楼の鐘がすぐそこに見える。テラスにいる人の顔さえ見えそうな上を、ジェッ
ト機の腹が拭っていくのだ、冗談抜きで近すぎるっ!
(触れるなよーーーっ)
そんなわけはないのにうなぎ昇りの心拍数とは裏腹に、手足の感覚に集中してホィールをぐうっと水平に引く。
陽光に黒く煙る滑走路が目の前。向い風、出力なしで滑り込む。
『3、2、1──』
ドンッ、車輪が滑走路に着いた。
(よ、よかったぁぁ・・・・・・)
ガタガタ走るランウェイで、思わず、心でつぶやいた。
こんなにどきどきしたフライトは、久しぶりかもしれなかった。
「やるね、今日の機長は」
「うん、ぶれてなかったし、いい着陸だったよ」
機長たちが口々に誉める様子に、ティアは嬉しさを噛みしめた。
着陸前に機長たちに勧められ窓辺の席に移ったのだが、実際、海が見えたと見るや、小高い丘、目のすぐ下に街が飛び込ん
でくるような眺めにびっくりした。柢王も驚いたようで、後ろの席からすげぇとつぶやいていたのが聞こえた。
「今日は特に近かったんですよ。ふだんはもう少し南側からアプローチしますから。いい着陸でしたね」
説明してくれる桂花は当然ながら驚いた様子はない。ただよくできたのは事実らしい、誰もが誉める。ティアは単純に嬉
しかったが、ラックから桂花と自分の上着を取り出した柢王は肩をすくめ、
「こんなとこ頻繁菜飛んでたらうまくもなるって。俺もうかうかしてらんねーよ、早く入れてもらわねーと」
あくまで機長、あくまで負けず嫌いな幼馴染にティアの笑顔は満開になった。
まばゆい光差すロビーはこじんまりしているがどこからともなく潮風の吹くリゾートの様相。サンドレスの女性たちが、
ご一行さまの首にレイならぬ細石のような首飾りをかけてくれた。
「すげぇ、これ水晶だよな」
きらきら輝く石を日に透かして尋ねた柢王に、
「この島は水晶の産地でもあるんだぞ、規模は小さいが。サンゴ礁も美しいし、リゾートにはもってこいだ」
答えたのは、こんなリゾートなのにネクタイつけたスーツ姿の山凍部長。堅苦しいのか暑苦しいのかにわかに判断に苦しむのはそ
の開放的でない顔のせいだろうか。だが、かれは仕事なのだ。ティアが側に来て、ホテルの場所がわかるかと尋ねた。桂花が、は
いと答えるとティアは頷いて、
「私たちはこれから王宮に伺うけど、夕方にはホテルに入るから。着いたらまた連絡するから、それまでゆっくり楽しんでね」
「君たちには本当に頑張ってもらったからな。ゆっくり骨休めしてくれ。柢王、おまえは羽目を外すなよ」
笑顔のティアと共に去って行く部長は、その背中に、差別待遇された機長が舌を出したのはご存じなかった。
「一度ホテルに入って休みますか」
尋ねた桂花に、柢王はうーんと唸った。
眠いのは確かだ。ふだん、柢王は夜間の後は、一気に五時間ぐらい仮眠してから動くのだ。桂花も知っているから聞いてくれ
たのだろう。が、桂花がいるのに先に仮眠などするわけがないとわかる柢王は、あげく爆睡、目が醒めない予感がする。
別に、桂花が一緒に爆睡してくれるなら構わないが、寝不足でもないのに半端に寝たらペースが乱れるから絶対に起きて
動くに決まっている。すれ違うのはふだんだけで充分だ。
実際、フライト前夜には絶対に会ってくれないし、飛ぶ可能性がある時には会っても指も触れさせてくれない恋人を持っ
たのは初めてだ。桂花自身のフライトだけでなく、柢王がフライト前でも同様だ。絶対に無理はさせてくれない。なにがあっ
ても飛ぶこと優先──そういう面ではとことんシビア、絶対に妥協してくれない。
が、それは柢王にも納得はできる。同じ立場にいる相手だから、言わなくても通じることもたくさんある。フライトの遅着
で約束が流れても不可抗力だとわかっているからそれで終り、後に引かない。パイロットはある意味割り切りの早い人種だ
から、無理なことにこだわるより可能なことを見つけるのがうまい。
それに、つきあってくれる時の桂花は、全然負けてない感じがこの上なく刺激的な恋人だ。あまりに嬉しくてつい度を越
すので、結果、フライト前には遠ざけられるのは自業自得だろう。柢王もわかっている。
限られた時間で会って、触れて、話をしたり、観察したり。新しいことがわかる度にどきどきする。そんな相手は今まで
にない。一目惚れではあったけれど、実際つきあいだしてからの方が桂花に惹かれていると実感できる。
だからもっといろんなことを知って、話して、できれば一緒に暮らして私生活でも同じものを共有したい──そしてメールは返してもらいたい!
そのためにもいまは寝ている場合じゃない。
「観光──夕方まで観光して、ホテルに入って、飯」
刺激的な緊迫戦はその後で盛大にやろう。自分に言い聞かせるようにそういうと、
「大丈夫ですか、柢王」
紫色の瞳が伺うように光る。フライトの時なら、桂花がそんなことを聞くことはない。柢王は笑って、
「へーきへーき。どうしても眠かったらホテル入るけど、ちょっと歩こうぜ」
何事にも聡い恋人の瞳を覗き込む。と、
「無理はしないで下さい」
言ってくれるまなざしが優しくて、思わず前言撤回したくなった。
そんなオプション機長の葛藤をご存知ない皆さんは、別行動を快諾してくれたばかりか、スーツケースだけ先にホテルに運
んであげるよとまで言って下さった。さすがにサービス業だ。
明後日の昼ぐらいに皆で一度ご飯でも食べようかと、さらり約束しあってタクシー乗り場で解散。
見送り終わって、街へ出て行く柢王たちの背後で、
「間違いない、あんなの他にいないからなぁ。でも、何でこんな島にいるんだろうな。バカンスか?」
「今日の便にはいらっしゃらなかったですよね。いたらCAが何か言ってくるし。他社ですかね」
「あー、なんか悪目立ちするから自社機に乗るなって奥さんに言われてるらしいよ。でもあれで他社に乗られたら恥ずかし
くて、他社のクルーと顔合わせられないよなぁ。せめてホテルは一緒じゃない事祈ろうぜ」
玄関から出てきた黒っぽい制服姿のパイロットたちが、何事か心配顔でタクシーに乗り込んでいく。
海の匂いと、埃っぽい街の匂い。けばけばしいほどカラフルな看板や店舗がビルのテナントに入っている。込み合って窮屈
そうなビルの街。なのにちょっと視線を反らせば、古いレンガの寺院らしい建物が厳かに建っていたり、くすんだ金色の
尖塔が覗いていたり。つややかな緑に目が醒めるような黄色やピンクの花を豊かに咲かせた木々が揺れて、人々も鮮やか
な民族衣装に見を包んだり、スーツだったりまちまちで、飛ばして過ぎるポンコツ車の間を器用に縫って道を渡る。
「おもしれー」
柢王が眠気と欲求を忘れて瞳を輝かせる。日差しの強さの割に湿度はあまり感じないのは潮風のせいか。桂花はサングラスを
かけているが、柢王にはこの開放的なまばゆさはむしろ歓迎だ。
「よし、そんじゃぐるって見てまわろうぜ」
ご機嫌な笑顔を見せて、桂花の手を取った。
「技術面では心配ありません。有視界飛行も初めてにしては正確で安定していました。あとはアプローチの際の指示に
若干ためらいがありましたが、すぐに慣れるでしょう。合格です」
「ありがとうございますっ!」
アシュレイは心から礼を言うと大きくため息をついた。江青が笑ってその肩を叩く。
「いや、実際よくできましたよ。初めての空港でいきなりショート・カットを命じられたらベテランの機長でも迷うものです。
でも、あなたは実に落ち着いてできた。訓練した甲斐がありましたね。今後も楽しみです」
監査書類に結果を記入する機長の隣、自分もフライト日誌に署名しながら、アシュレイは安堵のため息をついた。
これで飛べる。
(あいつのおかげだよな──)
自分の判断で機体を運ぶ有視界飛行の重さと快感。パイロットになってよかった。パイロットとしての視野がまた開けた
フライトだった。
「これでアシュレイもこの路線の人ですね」
王宮に向かうリムジンのなか、ティアは嬉しそうに山凍部長に告げた。長年、ティアの側にいる山凍もアシュレイたちの
ことはよく知っている。嬉しそうに、
「ここは難しい路線だと聞いていますが、これから活躍してくれそうですね」
「王室の方も良くして下さっているし、大事に育てて行きたい路線ですね」
窓の外は美しい木々が揺れる海岸線が続いている。込み合った街を過ぎるとすぐに透き通ったブルーに真っ白な砂浜の
続く海に出られる。そのギャップがまた将来滞在型になるだろうこのリゾートの魅力だ。
「うちがここへ入ることで、ご親切にお応えできる結果になれるといいんだけど」
その風景を見ながらつぶやいたティアに、
「いい結果にできますよ、うちのスタッフたちなら」
「本当だよね」
微笑みあうオーナーと広報部長を乗せたリムジンは、やがて小高い丘の上に建つ、白亜の大理石ときらきら輝く水晶
の王宮へと到着したのであった。
過去モノを見つけました、と蔵書室に足を踏み入れるなりティアはナセルにすれ違い様にささやか
れた。ティアは目線を交わさないまま頷き、蔵書を見回る振りをして本棚を回り込むと蔵書室の一角
に設けられた個人用の小さな閲覧室に入り、腰を下ろした。ほどなくしてナセルが小冊子を持って現
れた。
「ありがとう、ナセル。いつもすまない。君のおかげで本当に助かっているよ」
小冊子を受け取ったティアが、その表紙に刻印された守護主天の御印を確認し、ほっとため息をつ
いた。・・・時々、蔵書室には歴代の守護主天が書いた覚え書きや、その私生活に関する事が他人の筆致
で書き連ねられたものが出土するのだ。守護主天の私室にあるべきそれらが何故蔵書室の蔵書の中に
埋もれているのかは謎なのだが、内容が内容なだけに他人の目に触れ、それが白日の下にさらされる
ことを考えると怖い。非常に怖い。
今までは十メートル歩くのに何分かかっているのだ?というヨイヨイの爺さま司書がほとんどで蔵
書の整理がはかどらない分、出土も少なかったのだが、ナセルという若い才気煥発型の天才司書が蔵
書室に配備されて以来、蔵書の整理が日を追うごとに改善されてゆく分、出土件数も増えた。
ティアはナセルにそれらのモノが出てきたら、自分に渡してくれるよう頼んでいたのだ。
「いえ、これも仕事の一環と思っていますから」
過去に自分にかけられた冤罪をはらしてくれたティアに恩義があるナセルは謙虚に応え、何事もな
かったように仕事に戻っていった。
一応コレはティアとナセルの間に交わされた秘密なのだ。だからナセルはそれらの本を見つけても
執務室に連絡をしてきたり持っていったりはしない。ティアが蔵書室に現れるとそれとなく耳打ちし、
人目の少ない閲覧室でティアが待っていると、仕事で回ってきた振りをしたナセルがそっとそれらを
置いて去ってゆく。何事もなかったように。
アシュレイのことに関しては一切譲るつもりはないけれど、ティアは彼の仕事に関する情熱は認め
ているし、信頼している。
「・・・・・」
ティアは気むずかしい顔で小冊子を見おろし、それから意を決したようにパラパラッとめくってみ
た。それは本型のスケッチブックのようで中の白い紙の上にはさまざまな人物が素描で描かれていた。
「・・・・・?」一旦閉じて一番最初のページをめくってみる。
そこに描かれた胡桃色の長い髪と宝石じゃらじゃら&レースびらびらのゴージャスな服をまとって
こちらに色気と情欲ムンムンの淫蕩なまなざしを送ってくる人物を目にした途端、ティアは顔を背け
て音高くスケッチブックを閉じた。
「・・・・・・・・ まさか、『愛人大全』の草稿 とかじゃないよね?」
先代ならやりかねない。
意を決してもう一度ページをめくり、素描の人物のあちこちに走り書きされた文字を慎重に追って
みて、やがてティアは安堵のため息をついた。
何のことはない。『生誕祭』の出席者のスケッチだったのだ。
服装の感じからして、おそらく何十年か前のものだろう。
先代の愛人の一人が描いたのだろうが、なかなかリアルに描けている。シンプルな線の中にその人
物の特徴をうまく捉えているので、この人は南の大貴族の○○公で、その隣にいるこの人は西の芸術
家の○○師の若かりし姿だな、など、実在する人物と簡単にマッチングすることが出来た。
愛人が気に入ったのだろう人物は、よりリアルに丁寧に描かれ、着色もされていた。
その中に壮年期の蒼龍王を見つけ、苦笑する。・・・女性にもてる男は、総じてそういう男にももてる
ものだ。
「・・・こういうのなら、悪くないね。」
少し楽しくなってさらにめくると、まだ文殊塾生であろう年頃の少年たちが描かれていた。赤い瞳
と赤い髪の少年と黒髪と黒い瞳の少年。ティアは浅黒い肌とややきつい印象を受ける赤い瞳の少年を
のぞき込み、首をかしげた。
「・・・もしかして、炎王殿、か?」
成長期前の骨格がまだまだ細い少年なので面影は辿りにくいが、多分間違いない。
「・・・アシュレイが見たらきっと喜ぶよね」
天主塔に誘い出す口実が出来たことにティアは笑った。そして今度は炎王の隣の黒髪の少年に視線
を移す。
炎王の隣に立つ黒髪の少年は、ぬけるような白さの肌とやや大きめだがすっと通った鼻梁や、意志
の強さを感じられる形の良い太めの眉、そして黒曜石を削りだしたかのような瞳をしている。
やや厚めの唇を引き結んださまは ともすれば尊大さすら感じ取られ、それが少年の地位の高さを物
語っていた。 背は炎王より高い。
・・・なかなか押し出しの良い容貌の美少年である。 黒系統の色で品良く統一された長衣がよく似合
っている。
ティアは首をかしげた。 王族の隣に並べられるとしたら、大貴族の子息が普通だが・・
(・・・・こんな風貌の人がいただろうか・・・?)
役職上、大貴族とも顔を合わせる機会が多く、一度会ったすべての人の顔と名を合致させているほ
ど記憶力の良いティアだが、この人物に見覚えがなかった。
そこにたまたま本を抱えてヨロヨロと進んでくる老司書と目があった。大貴族ならば蔵書室に訪れ
る機会も多い。この年代なら文殊塾で出された課題を解くために蔵書室に来ていた可能性もあるから、
もしかしたら勤続年数の長そうなこの老司書が知っているかもしれないとティアが彼を呼び止めて素
描を見せて尋ねてみた。
「おや、お懐かしいですな」
「知っているのか?」
一目見てあっさりと解ったらしい老司書に、どこの大貴族か?と問うと、彼は一瞬きょとんとし、
嘆かわしげに首を振った。
「何を言われますか。 この方は貴方様がよくご存じのお方です」
「え?」
きょとんとしたティアに、老司書は言った。
「貴方様の父君であらせられます、元服前の閻魔大王様ではありませんか」
・・・・・・・
本を掴んだまま椅子ごと後ろに倒れて気絶した守護主天と、それに驚いて腰を抜かした拍子に壁に
頭を打ちつけて脳震盪を起こした老司書に、閲覧室は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
ティアランディアはそのまま半日寝込み、夕方に駆けつけた南の太子に脳みそが飛び散るくらい頭
を揺すぶられてようやく目を覚ました。 しかしそれから3日間ほど放心状態が続き、付き添いの南
の太子を青ざめさせることになった。
頭を打った老司書は、事の前後のあらましをすっかり忘れ果てていた。
「・・・・・」
そしてナセル。 私室で気むずかしい顔をして彼が睨み付けているのは、机の上に鎮座している
今日の大騒ぎの原因になった本である。 あの時、騒ぎを利用して、ティアの手から本を抜き取って
おいたのだ。
(・・・天界最高の貴人にして天界最高の頭脳の持ち主である守護主天をショックで気絶させる程の
衝撃的な内容とは 一体・・・・・)
おそらく一般人である自分が読めば一発で呪いが百ダースも降りかかってくるような恐ろしい事柄
が記されていたに違いない。
「・・・・・・書架で寝るか・・」
置いておくのも恐ろしいが動かすのも恐ろしい、ましてや同じ部屋で一緒に寝ることなど出来るわ
けがないその本を目の前にして、ナセルは一日も早く守護主天がこの本を引き取ってくれるよう願っ
たのだった。
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