投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
理事長室に通された柢王は、革張りのソファで行儀悪く足を組んで理事長と向かい合っていた。
出されたコーヒーに手をつけようともしない。
高価な調度品がセンス良く配置された居心地の良いはずの部屋の空気は、柢王の放つ気配よって極限まで張り詰めていた。
「留学生の件、きかせてもらえるんでしょうね、守天サマ」
「そう怒らないで、柢王。彼に関しては、仕方がないんだ」
愁いを含んだ瞳が、そっと伏せられる。
「さっき、あいつの担任つかまえて聞いたら、
ちょっとでも問題起こしたら即退学で政府に突き出すことになってるって抜かしやがったぜ。
おまえが絡んでないわけねーだろ。
最終的に受け入れ許可書に判ついたのはおまえと校長なんだ。
いったい、なに考えてる?」
納得のいく答えを得るまで、柢王は引き下がるつもりはなかった。
しばらく沈黙が続いた後、守天は諦めたように息をつき、顔を上げた。
「あの子、いくつくらいに見える?」
「いくつって……同い年か、違っても1つか2つだろ? 17か、18くらいか」
「28だよ」
「は?」
「28歳。書類上はそうなっているし、本人もそう言った。
大学なんかもう十年以上も前にスキップで卒業しているんだ。
本来なら、この国へは外交の使者として入ってくるはずだった。表向きはね」
「で、裏で何で留学生になってんだ?」
「この処置は裏じゃない。裏向きはもっと非道いよ。彼は、国に売られてきたんだ」
なんともきな臭い、物騒な話になってきた。
「いつまでも対等な外交にならない、交渉も一方的な要求を突きつけられるだけ。
向こうもいい加減、痺れを切らしていたし、こちらとしても、
あれだけ力をつけてきた国にいつまでも無茶を言い続けられはしない。
そんなとき、たまたま向こうに渡っていた我が国の宰相が、
付き人だか見習いだか……とにかく、向こうの国の高級官僚に従えられていた桂花を気に入ってしまってね」
「まさかとは思うけど、国王に顔繋いで欲しかったらその兄ちゃん俺によこせって具合に話が進んじまったのか?」
「恐ろしいことに、そのまさか、なんだ」
あまりのことに、柢王は思わず頭を抱えていた。
仮にも一国の宰相である。
そんな頭の悪い要求を突きつけるとは何事か。
そして、言う方も言う方なら、受ける方も受ける方である。
「あのオッサン……そろそろ首飛ばした方が良いな」
柢王は本気で呟いた。
しかし、それなら桂花はこんなところで十歳以上も年をごまかして不自由な留学生活を送っているはずがない。
この話にはまだ続きがあるのだ。
「宰相の処置については私が口を出せることではないけれど。
どうしようもない要求を厚顔無恥に突きつけてしまったことを考えると、同情の余地はないだろうね。
そういう経緯で、桂花は我が国に差し出される運びとなったのだけど、あれだけ有能な人材だもの。
向こうもただどうぞと、こちらによこしたわけではない」
中途半端なところで意味深に言葉を切った守天は、試すように柢王を見てくる。
「人身御供と見せかけて、スパイに仕立て上げたか」
「その通り。だから、国政の中心にいる宰相に個人的に囲わせるなんて論外だった」
「あいつ、頭良さそうだったしな。ネジの弛んだオッサンなんかイチコロだろ」
「そう。国家機密ごと骨抜きにされて、気付いたら宰相の屋敷からあの子は消えてる」
さぞ頭の痛い話だったに違いない。
報告を受けた時の父親――つまりは国王の気苦労を考えると少し笑える。
こちらからよこせといった者を、証拠もなしに送り返せるはずがないし、
少しでも国力を充実させなければならない今、捕らえて拷問にかけるのもまずい。
前者も後者も、相手の神経を逆なでする事になる。
そもそも、桂花の素性を報告してきたのがこちらが潜りこませているスパイなのだから、堂々と指摘できるようなことでもない。
「で、なんでこんなところでスパイが高校生やってるんだ?」
「翔王様が陛下に進言なさったんだ。
国政に携わる愚か者のそばには置けないし、そもそも城内を使者として歩き回らせること自体が危険だと。
適度に拘束されて、監視が容易な環境で飼い殺しにするのが宜しいでしょう、
問題を起こせばそれを理由に国に返すか、こちらで処分してしまえばいい、と」
大学ではまずい。行動範囲が広がりすぎるし、この国に関する資料も大量に揃ってしまっている。
情報端末の使用も、表向きには制限できない。
そこで候補に挙がってきたのが、いくつかの施設の職員と、留学生として高等部に放り込むという案だったというのだ。
「その時、たまたま私が、卒業生の士官学校への推薦の件で登城していてね。
処理を押しつけられていた事務官に話を聞いて引き受けたというわけ」
国立の教育機関であるこの学校のトップを任されている守天は、当然ながら政府との関わりが深い。
今の話も、まさかすべてその事務官が話したとは柢王も思っていない。
どうせいつものように、巧みな話術と百戦錬磨の笑顔で何人かの高級官僚を籠絡して得た情報に決まっている。
ただ、詮索する必要がないので黙っているだけだ。
「でも、高校なんて3年で終わりだぜ。その後はどうするつもりなんだ」
「だから……上には彼の件について、そんなに長くかけるつもりはないってことだよ」
つまり桂花は、問題を起こすことを待ち望まれているということだ。
たったひとりですべてを抱え込もうとしていた桂花の強い眼を思い出した柢王は、なんともやりきれない気持ちになった。
望んで来たわけでもない異国で、すべての抵抗を封じ込められ、男の慰み物になるのは免れたものの、
こんなところで飼い殺されることになった。
国に与えられた任務も果たせずに失態を待たれるだけなのだ。あの美しく誇り高い青年は。
「あいつは、どこまで知ってる?」
「使者とは名ばかりで、実際は人質として城に軟禁される覚悟で来ていたみたいだけれど……。
留学生として城を出されるとは予想していなかったようだ。
当たり前だけど。相当困惑していたけれど、拒否権がないことは悟っていて、素直に承諾書にサインをしてくれた。
可哀想だけど、私にはここで彼を監視する以外に出来ることはない」
守天は諦めたように首を振った。
「今更、スパイと分かっている者を野放しにできないことは、おまえも分かるだろう」
「ああ」
「この件に関しては、どうしようもないんだ。きみは蒼龍王の三男で、私の大切な親友だ。
将来、深く国政にも関わることになるきみに、こんなところで傷を作ってもらいたくない」
異国の哀れなスパイよりきみの方がずっと大切だと言外に言われ、柢王はため息をついた。
もう、遅い。
「彼には、深入りしないで欲しい」
「……」
「わかった」
「すまない。ありがとう」
返事をせず一拍おいて立ち上がった柢王は、もう覚悟を決めていた。
「わかった。リミットは3年。それまでに、あいつをこっち側に寝返らせれば良いってコトだ」
「柢王っ!」
守天の顔色が変わったが、柢王に譲るつもりはなかった。
「頼む。協力してくれ。おまえの監視が、逆にあいつを守る盾になる。
つけいる隙を与えたら、もう終わりなんだろう。
この学校って檻にいる限り、少なくともあいつの自由を奪う鉄格子が、あいつの命を守る。
それ以上の口添えは今はいらないから、頼む」
「柢王……どうして」
「惚れちまった」
あっけらかんとした告白に、守天は呆然としていた。
「き、きみは。きみという男は! 相手は敵国のスパイだと言っただろう! そもそも彼は男だぞ!?」
「性別に関して、守天サマに突っ込まれるいわれはねーけどなぁ?」
身に覚えがありすぎる守天は、言葉に詰まった。
「俺がそうそう、マヌケなヘマすると思うか? 思わないだろう?
だからうんって言ってくれ。この通りだ」
引き下がるつもりはなかった。今諦めたら、桂花は近いうちに間違いなく処分されてしまう。
守天にも立場がある。庇うことは難しいだろう。
「きみに、国政の裏を覗いてもらいたくないんだ。まだ、早い」
「俺が正式に発言権を持つまで待ってたら、あいつは殺されるんだろ? なぁティア、頼む」
この場で額ずいてでも承諾をもらうつもりだった。
しかし、その必要はなかったようだ。
「……何かあったら、その時は本当に諦めてもらうよ。約束できる?」
「何も起こさせないさ。俺が守る」
「不当に桂花を外に渡したりしない。このことは、蒼龍王陛下には伏せておく……これで良いね」
「サンキュ! ティア。この恩はいつか絶対返す」
諦めたように、守天は笑った。
この学校の最高権力者に最低限の約束を取りつけたところで、柢王の目的は果たされた。
「本当に、無茶だけはしないで」
「わかってる。そのうち、あいつを連れて遊びに来るから、そしたら会ってやってくれ」
返事を待たずに柢王は部屋を出た。
保健室に、桂花を迎えに行かなければならない。
大変なのは、これからだった。
外から伸びてくる魔の手をかわしつつ自分以外はすべて敵だと信じているような青年の心を溶かし、
口説き落とさねばならないのだから。
どんなに大変でも、柢王には諦めるつもりなどこれっぽっちもなかった。
見つけたのだ。自分の隣を走ることが出来るであろう存在を。
大丈夫、なんとかなるという根拠のない確信を胸に、柢王は足取りも軽く保健室に向かって歩き出した。
「・・・あなたときたら、また 人界から 」
人界から帰ってきた柢王を東領の『家』で出迎えた桂花は、彼が結界に包んだマントを小わきに抱
えているのを見て呆れたようにため息をついた。
彼は時折、禁じられているにもかかわらず土産と言って人界の物を自分の結界に包んだ状態で持ち
帰ってくる。他愛のない花や木の実、―――そして、桂花の内側に爪を立てるような、懐かしい愛し
い女の残した品物を一度だけ持ち帰った。
それ以来、桂花は柢王が人界から物を持ち帰るたびに心の奥で一瞬身構える癖が出来てしまった。
「怒ンなよ。何もモノは持って帰ってやしないって」
「では、どうしてマントを結界で包んでいるのですか?」
桂花のきついまなざしに肩をすくめながら扉を閉めた柢王は、マントを包んでいた結界を解くと、
桂花の前で広げて見せた。
「・・・な? 何にもないだろ?」
確かに何もなかった。虚をつかれた桂花に笑ってマントを頭からかぶせると、そのまま抱き寄せた。
「・・あ・・ッ・?」
途端押し寄せてきた香りに桂花は小さく声を立てた。
「今回の土産はコレ。今、人界にはティアみたいな趣味の奴らが多くてな。自分で自分の香りを作っ
てそれを服に焚きしめる遊びが流行ってんだよ。 コレが一番お前に似合いそうだったから、持ち主
の隙をついてこのマントに焚きしめといたんだ。」
そして、香りが飛ばぬよう、結界で包んで持ち帰ってきたとのことだった。
桂花の体温とそれを包む柢王の高い体温で、焚きしめられていた香は眠りから覚めるように香り立
ち始める。
「・・・・・・」
人界の、この時代にはおそろしく高価な材料である香木・香料をふんだんに使って作られたのだろ
うそれは、かすかな甘みを含んだ、深く冴えわたる真冬の夜空を思わせる香だった。
「・・・どうせ、どこぞの高貴な姫君とやらの香でしょうが」
「いや、下ぶくれのモテモテ女たらしのヤローだった」
柢王の言葉に桂花は吹き出した。
「モテモテの女たらしヤローの香だったら、どうしてあなたがこの香をまとわないんですか?」
「俺はいいんだよ。そういうの面倒だし。それに」
小さく笑う桂花の額に自分の額を押し当てる。手を伸ばして自分を見上げる桂花の形のよい頭から
マントを押し下げて、長い白い髪に指を絡める。
「それに、どうせなら、お前から移してもらうほうが楽しいだろ」
柢王は桂花の髪に顔を埋めた。
・・・持ち帰った香りのその奥に いつもの桂花の匂いがした―――。
―――――・・・・・
「・・・・香、飛んじまったな」
花街の調香師の所に持ち込んでこれと同じ香りを作ってもらおうと思っていた柢王は、いささか呆
然と座り込んだ足下でぐしゃぐしゃになったマントを見おろした。
「・・・・・何を今さら・・・・・あなたのせいでしょうが」
狭いマントの上で柢王と背中合わせに座り込んでいる桂花は、何度も柢王の手でかきあげられて乱
れに乱れた髪を手櫛で梳きながらあきれたように返す。
・・・彼らの下で即席シーツとなったマントは、彼らの重みと熱でもみくちゃにされて とっくの昔に
香りが飛んでしまっていた。
「・・・全くいきなり何なんですか あなたは 」
「・・・・・」
もつれた髪と格闘しながら桂花が聞くのに、柢王は黙って頭をかいた。背中合わせに座っているため、原因を思い出して真っ赤になった顔色を覗かれなかったのは幸いだった。
・・・・・言えない。桂花の髪の匂いを嗅いだ瞬間、理性が吹っ飛んだなど。
夕陽が差し込みはじめた部屋の中にほのかに漂う甘い香り。
それがオレの好きな貴方の香り。
その香りが、ふわりとオレの身体を包むと同時に温もりが背に伝わる。
「ごめん、忍。起こしてしまったね」
微かに身動ぎしたオレの耳元に一樹さんの声が滑り込んだ。
ひと時の戯れのあと、気だるい心地よさの中に響く甘い吐息のような貴方の声。
でも、もう時間が…とでもいうように背に伝わる温もりがゆっくりと遠ざかる。
もう少し。
もう少しだけこうしていたい。
身体に回されていた片腕を拘束する。
その腕を掴むオレの指はほんの少しだけ震えていて、慌てた貴方がオレの顔を覗き込んだ。
「ごめん…なさい」
きょうはいつになくナーバスなオレ。
「絶対…」
それだけ言うのが精一杯で、あとの声は嗚咽になる。
でも。
貴方は続けてくれた。
「離さないよ、忍」
一樹さんの温もりがオレの胸元に戻ってくる。
そして。
貴方の唇がオレの唇に落とされる。
愛しくて
愛しくて
その想いが強くなればなるほど、同じように不安も強くなる。
公にできない
同性同士の恋愛。
『決して予測はしないこと。特に未来に関しては──(S・ゴールドウィン)』
秋晴れの上天気。遮るもののない空が広がっている。
機長の席に座ったアシュレイは、改めて、右隣の監査官に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
監査官である江青は、それへ笑顔でこちらこそと答えると続けた。
「だいぶ訓練されたそうですね。今回はお客様はいらっしゃいませんが、オーナーや機長たちが乗っていますから緊張する条件としては同じでしょう。ベストを尽くしてください」
アシュレイの便はそのままいま乗っている社員たちを連れ帰る日程だ。経費削減対策だが、ある意味監査官盛りだくさん。緊張するが仕方ない。アシュレイは冷静に、はいと答えた。
実際、この路線のためにはかなりの努力をしてきた。だから、落ち着いて飛べばいい。それが応援してくれている全ての人への応えになるから。
そう自分に頷いて、アシュレイはふと昨夜の電話のことを思い出した。
電話をしたのは、最後に聞きたい事があったのと、この二ヶ月の礼が言いたかったからだ。だが、正面切って感謝を表すのはどうしても出来なくて、電話の最後にこう言えただけだった。
『もし、明日で監査受かったら飯奢るからな、いままでの礼に』
と、電話の向こうの桂花は冷静に、
『もし、はありません、合格しますよ。いいフライトを』
確信しているのだ、幸運を『祈る』とは言われなかった。
機長になって四ヶ月。コー・パイの時にはわからなかった責任と喜びが日々実感されていくのは、自分も少しは大人になったという事かと思う。腕とカンは初めからよかったが、パイロットは性格がかなりものを言う仕事でもあるのだ。
シップ全体の責任を背負って飛ぶうちに、他人の重みや優しさに気づく機会も増えた。目に見える事だけが真実ではないということも。
自分が路線開発で忙しい時期に、つい数ヶ月前まで自分を毛嫌いしていた相手の相談に応じ、シュミレーター訓練までつきあってくれるのは並みの親切ではない。
実際、桂花に相談に行くにはものすごい勇気が要った。虫が良すぎる気がして何日も迷った。
でも、桂花は拍子抜けするくらいあっさりと協力してくれた。しかもアシュレイの飛び方を即座に把握して、アシュレイのやり方にあわせて指導してくれたのだ。
桂花は、飛ぶこと全てに神経を注いでいる。飛ぶことに対して、自分という存在を突き放したようなはっきりとした責任感と自己規律がある。それはただ好きだという以上に、飛ぶことを大事にしてきた人のスタンスだ。飛ぶことに自らを注いできた人のスタンスなのだ。
アシュレイの、よく飛びたい、安全に、確実にこの路線を飛びたいという気持ちを、何も聞かずに理解し受けとめてくれたのは、かれもまた飛ぶことを真摯に受けとめているからだ。
飛び方に色々あるように、あり方にも色々ある。
人を感嘆させる完璧に近いフライト。だがそれは黙っていて手に入るものでもない。誰かの理解を求めない、ワンウェイの生き方。ワンウェイの優しさ。そういうものも存在するのだ。
それがわかった時から、アシュレイは桂花の言うことを正面で聞けるようになった。
いまだそのクールな頭が何を考えているかはわからないし、フライト以外の話などまともにできもしないが、パイロットとして、同じチームの一員として、尊敬しているし、感謝もしている。
だからパイロットなら、よく飛ぶことこそが、最大の礼だ──
監査官の質問が飛び交い始めたコクピットとは対照的に、キャビンには和やかな空気が漂っている。
Fクラスの席を使い、それぞれ好きなところに座って、時折移動しては会話したりののんびりフライト。訓練ではあるがCAたちも楽しげだ。
乗客は、ティアと航務部長の伯黄、その部下で路線担当の数人。それに桂花を含めた機長が数人。企画のため同行する広報部長、山凍。そして、
「柢王、よく寝てるね」
斜め前の席に移って来たティアに、桂花は書物から顔を上げた。隣の席のブランケットの山は、耳栓アイマスクの完全装備で爆睡している柢王だ。
今朝方、十二時間のフライトから戻った機長は、ベルトサインが消えるなり、周囲に断り、寝に入った。三連休とは稼働日の今日を除いた三日間だったのだ。それで皆より一日早く戻ることで、最終日は次のフライト準備に当てる。実に見上げた根性だ。
「でも二時間たったら起きるって・・・大丈夫なのかな、そんな短時間で」
空港に着いたらちょうど正午ぐらいの時差だ。長い一日になるのに、とティアは心配したが、桂花はあっさりと、
「ロングだとサブ・キャプテンがいますから、途中で何時間かは休んでいるはずですし、向こうは昼ですから」
つまり本人計算済み。とはいえ連続何時間か寝た訳でもないはずだ。自己管理が基本とは言え、大変だねえ、とは、オーナーの自分が言ってもいい言葉ではないのだが。
「桂花、君たちは向こうに着いたらゆっくり楽しんでね。本当はこんなのじゃ休みにならないかもしれないけど、何かお礼がしたかったんだ」
他のスタッフたちへの報奨もあるから、今回は休みだけあげて、後はふたりでお好きにどうぞとは言えない。自腹でスィートルームを奮発した柢王のためにも、ティアは桂花が楽しんでくれることを祈るだけだ。
「ありがとうございます、オーナー。観光はあまりしたことがないので楽しませてもらいます」
穏やかに微笑む機長に、ラブラブ旅行に浮かれた気配は微塵もないが、あったとしてもティアに見せることもないだろう。ティアも微笑み、
「うん。私も夜は空いているから皆でごはん食べようね」
和やかな美人同士の会話は、フライト同様、円滑に進んでいく。
「あーすっげえよく寝た。頭くらくらする」
起こしたシートの上で伸びをした柢王はすぐさま視線を横に向けた。
体内時計は信用しているが、ぱっと目が醒めたのは食事の匂いがしたからだ。窓から差す光で白い髪が透けて、隣の美人は今日もものすごく美人だ。思わずどきどきしてしまう。
と、桂花が本を置いて聞いてくれた。
「コーヒーでも頼みますか」
「ん、いまはいい。すぐ飯だろ? それよりずっとこっち見ててくれる方が目が醒める。おまえの顔見るの久しぶりだし」
Fクラスの席の間隔などものともせずに長い髪に指を絡めると、クールな機長は冷静に、
「あなたが寝る前にも会いましたよ」
「んなの、一瞬だろ? その前なんか先週末じゃん。おまえこそ会えて嬉しいとか一緒に旅が出来て嬉しいとか言ってくれてもいいのに」
人目もはばからずに訴えると、桂花は苦笑いして目を伏せた。どきりとするほど色っぽい。思わず柢王は網膜シャッター・オンだ。与えてくれるデータは残らず全部取り込まなくては。
なにせ会える時間が絶対的に少ないので、いまだわからないことが山積みなのだ。この旅行を機に、もう少し全体的に親密度を上げたいのが柢王の本音だった。
「おまえ、ガイドブックとか読んだか?」
「いいえ、その時間はなかったですね。小さな島ですから特別なものがあるとは思いませんが」
「でも街は賑やかなんだろう? ホテルもプライベート・ビーチもあるし飯もうまいらしいし」
「そうですね。街は小さいですが雑駁でエネルギッシュだと思います。ビルと古い寺院とが混在しているようなちょっとエキゾチックな趣がある街ですよ。リゾートはこれから滞在型の大きなホテルが増えていくでしょうね。ラグーンもきれいですから、マリンスポーツもできるし。ただ、いまはまだ発展途上な気もしますが」
「だからうちが参入して観光客の動員を手伝うってことだよな。何事も最初に運送手段ありき、冥界航空には先見の明があったのかもな」
「そうかもしれません。オーナーはカンのいい方でしたから」
「でも変態だったんだよな、きれいなもん好きの」
柢王は思い出して言った。が、桂花は冷静に、
「個人の趣味の内なら吾に意見はありませんよ。そういう方だと思っていましたから」
冥界航空のオーナーとこのクールな美人機長の間には、なんともバカらしいというか気の毒というかな過去がある。おかげで桂花は天界航空に移って来たのだが、それは会社にも柢王にもありがたいことだった。柢王はそれを言葉に出した。
「俺は個人的には感謝するけどな、そのオーナーには。じゃなきゃおまえと会えなかったし。でも、そのオーナーっておまえが移動するときには何も言わなかったのか」
「ご挨拶に伺った折には泣いておられましたが、基本的に李々には頭が上がらないですから、特に問題はなかったですね。それ以降はお会いしていないですし」
「会わなくていいだろ、さすがに。つか、泣いてたとかありえねぇし。やっぱおまえ、俺と住んだ方がいいんじゃねーの、安全のためにも」
どさくさまぎれにもっともらしく提案したが、クールな機長はごまかされず、
「うちの玄関セキュリティは虹彩紋理ですから」
指紋に継ぐ最新本人確認システムだ。おかげで柢王もひとりで入れない。柢王は舌打ちして、
「ハイテクが進化してるからって油断してっと犯罪が起こるんだぜ? つか夜道で待ち伏せされたらどうすんだ?」
「あなたも吾もハイテクの機長ですが、過信が危険なのは承知していると思いますよ。それにいまさら夜道で待ち伏せはしないでしょう、一年近く前のことですし」
「変態は忘れた頃にやって来るって言うじゃんか」
「天災ですよ、それは。それに何が起きるのかわからないのが人生です。いずれにせよ、冥界航空ではもう飛んでいないんですから構いませんよ」
桂花はクールに言い切った。飛べれば他のことなんかどうでもいい、と言いたげだ。
柢王は口論に勝てなかった事とは別に、むっとした。パイロットだから飛ぶことは大事だ。パイロットの生活は飛ぶためにある。そんなにことは誰よりわかっているが、変質者から恋人を遠ざけたいのだって当然の心理なのに。
(少しぐらい考えてくれたっていいじゃねーかよ)
バカンスなんだから、隙全開でイチャイチャしてくれたり、いちゃいちゃしてくれたりしても罰は当たらないのに。
なかばすねながら、恋人の髪をぐるぐる指に巻くオプション機長の瞳には、周囲の様子は映ってない。
恋は盲目というが、その飛び方はパイロットには禁じ手だ。
体細胞が染まるようなコバルトの視界。太陽が手で掴めそうに近い。
コクピットはどこより空に近い。この世にあるとも思わなかった、そのあざやかな色彩に身を任せていると、空の上では自由だといつも思う。
空は広くて、のびやかで、自由で──ちょっと気まぐれ。
計器に目をやり、アシュレイは言った。
「ベルトサインをお願いします」
ポーンと音がしてサインがついて数秒後。
機体が、ぐわんぐわん揺れる。波乗りするように。計器の目盛りがぶれる。
が、予期していた機長は冷静に、ホイールを引いて機体を流れの上へと運んだ。とたんに嘘のようにぴたりと揺れが止まり、速度が上がる。
幅が狭く、強い流れのジェットストリームは予測が難しく、危険ではあるが、うまく乗ると時間が短縮できるのだ。
別にいまがお急ぎなわけではないが、CO2削減は航空業の命題、加えてエコノミー。今日の高度は高いので、下に避けるより適切だ。
監査官の頬に笑みが浮かぶ。書類になにやら書き込みながら、
「いい判断でした。これで第一関門はクリアです。あとは有視界ですね」
どうかショート・カットだけは勘弁してください。
心で神様に祈りながら、アシュレイは、はいと答えたのだった──。
―――――――光?
覚醒は突然だった。
私は―――ティア。ティアランディア・フェイ・ギ・エメロード。
気づいた時は守護主天という任についていた。
赤子の思考は徐々に育っていくものだと聞く。
だが私は違う。
必要な思考は既に身についていた。
作られたものだから?
だが組み込まれなかった事柄は、時と共に分かってきた。
『道草しないで帰るよういったでしょ!!』
『―――――』
『母さんは、母さんハッ・・・』
『―――ウワァーン!!ごめんなさい』
―――なんで、あの大人はあんなに怒るんだろう?―――
遠見鏡をのぞき不思議に思う。
だが次の瞬間、胸が熱くなる。
ギュッと子供を胸に抱きしめる母親の姿。
―――あれは?―――
―――ああ、そうか、あれが肉親というものなのだろう―――
手をつなぎ帰途する二人の姿は脳裏に色濃く焼きついた。
『守天さま、ごきげんよう。お茶はいかがですか?』
『守天さま、どうぞお先にお使いください』
『寒くありませんか?』
天主塔から出て、通うようになった文殊塾。
そこでは皆、優しくしてくれた。
『あなた様は特別な方ですから』
『誰も傷つけることができないのです』
特別だから?・・・同情?・・・哀れみ?・・・
私だけ、私は異種人種?
魔族に仲間意識があるとは思わないが、時に羨ましく思う。
『あれで男かよっ』
『仕方ないよ、守護主天さまなんだから』
『あたらず、さわらずが一番さ』
年を重ねるうち耳にする陰口。だが面と向って言ってくる者はなかった。
いや、一人だけ、彼だけだった。
『やい!ティアランディアってどいつだ』
アシュレイ。彼の存在は曇った空に射す一筋の光ように鮮明だった。
彼は身をもって私に自信をくれた。
シュラムによって蝕まれた肉体、毒素。この御印付きの力でなければ救うことはできなかっただろう。
愛するもの、大切なものを救えた喜び。
はじめて我が身の存在を肯定できた。
―――よかった、よかった。守護主天でよかった―――
二つ年上の親友は巧みな言葉でもって私に自信をくれた。
『おまえの口添えがあったから、おまえの援護射撃のおかげで今の俺たちがあるんだ』
蓋天城を飛び出し、桂花と二人で暮らすようになった柢王はそう笑った。
『大変なことは、すべて御印のせいにしちまえ』
『おまえはもっと、我儘言っていいぞ。我慢なんかするな。自分の意見を通して道を作れ。まわりになんか言われたら、結果なんかすぐ出るわけないだろって言い返せ』
最後まで心配してくれた。
その親友は、もういない。
魂は転生した。だか、それは柢王ではない。
アシュレイも自分の道を見出した。
おまえの為に王になる―――と。
私はどうしたらいい?
繰り返し続く山凍殿との関係。翌日には跡形もなく消える記憶。
だが身体は忘れない。消えず幾重にも積もっていく。
私はそう長くないだろう。
歴代の守護主天がそうだったように。
私には転生などない。心も身体も次代へと再生されるだけのもの。
誰の記憶に残ることもなく、すべてのものから忘れ去れ、すべてのものから。
アシュレイっ、アシュレイにも?
いやだ、それはいやだ。
忘れないで―――
ずっと愛してる。
『虜石を握らせようか』
誰?―――私?―――私の本心か?
この醜い心、逝ってしまった親友が知ったらどう思うだろう。
朽ちていく、朽ち果てて・・・
助けて―――
―――誰、私を呼ぶのは誰?
ティアランディア
我が兄弟よ
悲しまないで我らがいる
いつまでも我らが見護っているよ
兄弟よ、やらねばならぬことは、まだある
それが我ら守護主天に果せられた使命だから
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