投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
発端は、小首を傾げたティアのひと言だった。
「ばけつってなに?」
文殊塾で、アシュレイは飼育係をやっている。
貴族の子弟が学ぶこの文殊塾では、子供達が学び舎を磨き上げ、食事の準備をする――ということはありえない。ともすれば、一人では着替えもしたことがない子供が入学してくる学校である。そんな中での飼育係という役目は、最も不人気なものだった。
だがアシュレイは自ら立候補し、泥まみれになるのも構わずに、楽しそうに動物達の世話を焼いている。子馬も兎も小鳥もみんなアシュレイには良く懐き、そうするとアシュレイは一層熱をこめて世話にあたる。
獣臭い、という少女達もいるが、ティアはそんなアシュレイが眩しくて羨ましくてたまらなかった。
少女達と同じ、真っ白い手。ティアは自分のそれが好きではない。
だってアシュレイの手は、日に焼けていて傷だらけで、指の付け根にはタコがある。その手で撫でられた動物達は、みんないっぺんでアシュレイのことを好きになってしまうのだ。
そんなある日、珍しくぽっかりと時間が空いたティアは、女の子達に見つからないようにこっそりと飼育小屋に向かった。
空になった飼葉桶を子馬の房から運んでいるアシュレイが、ティアを見つけて目を丸くする。
「ティア! どうしたんだ?」
「時間が空いたから来てみたんだ。私にも手伝えることある?」
腕も足も半ば以上剥き出しにしたアシュレイは、長衣のティアを見て少し考え込んだ。
「・・・じゃあ、井戸の水出してくれ」
「うん!」
ティアはたっと駆け出して先回りし、ポンプ式の井戸に張り付いた。胸の高さのレバーに手をかけて、アシュレイが差し出した桶の上に水がかかるように、何度もそれを押し下げる。
「んー・・・重いね」
「そっか?」
飛沫がかかるのも気にせず、アシュレイはタワシで勢いよく飼葉桶をこすり、服を濡らしながらすすいだ。
「よし! 終わり! ティア、そっちのバケツ持って来てくれ!」
アシュレイの手が、桶をぐるぐる回して水を切っている。その水滴から逃れながら、ティアは首を傾げた。
「ばけつってなに?」
「へ?」
思わずアシュレイは手を止めた。丁度桶は真上にある。水が入っていたら、アシュレイはずぶ濡れになってしまっていただろう。
「バケツだってば! ほら、そこにあるやつ!」
「えーと・・・?」
ティアは困った顔で辺りを見回した。
「・・・どれ?」
「これっ!」
桶を放り出したアシュレイがそれを持ち上げてティアに突きつける。
「・・・あ、これ、ばけつって言うの? 桶じゃないの?」
「・・・普通、桶ってのは木でできてるんだ」
「へえ・・・ばけつって言う名前があるんだ。私は金(かね)で出来ている桶だと思ってた」
全く知らなかったわけではない。ただ、独自の名前があるとは思っていなかっただけだ。
アシュレイはがっくりと小さな肩を落とした。
「ティア。おまえなあ・・・。俺よりずっと頭いいくせに、ときどきバカだよな」
「・・・し、仕方ないじゃないか。誰も教えてくれなかったんだから!」
白皙の滑らかな頬が紅潮する。
「普通は教えられなくたって知ってるんだぞ! やーい、ティアのバカ!」
アシュレイが胸を張ってそっくり返った。普段、頭のよさでは敵わないティアの意外な弱点に、鼻高々な様子だ。
守護主天として、天主塔で大切に育てられているティア。とはいえ、アシュレイとて南領の跡取りであり、ティアに並ぶ高貴な身のはずなのである。それがこれだけ逞しく育っているのは、父王のスパルタに加え、本人の性格のせいだった。
幼馴染のストロベリーブロンドにも負けないくらい、ティアの顔が赤くなる。
「・・・どうせ私はバカだよ! アシュレイのバカっ! 大嫌いだ!」
「・・・えっ?」
止める間もあらばこそ。
火がついたような勢いで走り去るティアの後ろ姿を、アシュレイは呆然と見つめた。
勢いのまま輿に乗ったティアが、いつになく子供っぽく、目を真っ赤にして鼻をぐすぐすいわせて帰ってきたのを見て、使い女達は色めきたった。
「まあ、若様! いかがなさいました!」
「塾でいじめられたのですか? こんなにお泣きあそばして・・・」
「ああほら、男の子なのだから、泣いてはいけませんよ。おいしいおやつがございますから、召し上がって元気をお出しくださいな」
「先に湯浴みをなさいませ。こちらにおいでになって・・・」
「お怪我はございませんか? 侍医を呼びましょう」
塾にいる少女達に似た、ふわふわと甘い空気をまとった女達。ティアを大事に大事にしてくれる、生まれたときから包まれている空気だ。ささくれだった気持ちがゆっくりと静まってくる。
「塾で何があったのです? 貴族の子弟ばかりとはいえ、中には乱暴な子供もいると聞き及んでおりますが・・・まさか、本当にいじめられたのですか? わたくしどもにお教えくださいまし。天界に並びなき尊き御身を傷つけるなど、あってはならないこと。叱りつけておかねばなりません」
「んー・・・」
ティアはごしごしと眼をこすった。その手をやんわりとつかまれ、いけませんよ、と諭される。
「こすっては駄目です。もっと痛くなってしまいますよ。さあ、お顔を洗って、おやつを召し上がってくださいまし。その後で結構ですから、何があったのか仰ってくださいましね」
掴んだ手と掴まれた手は、ともに白かった。
アシュレイの手は、日に焼けていて傷だらけで、指の付け根にはタコがあって。その手で撫でられた動物達は、みんないっぺんでアシュレイのことを好きになってしまうのだ。
(私の手はこんなに白い・・・)
急にティアは恥ずかしくなった。
そっと使い女の手を外し、微笑んでみせる。
「――もう大丈夫だよ。ちょっと、塾の子と言い合いしたんだ。でも、明日ちゃんと仲直りするから」
「本当ですの? 若様」
「どうかご無理はなさらないで。わたくしどもには正直に仰ってくださいな」
「本当だよ。心配しないで。ありがとう」
さらににっこりと笑ってみせて、ティアはおやつをねだった。
次の日。
授業が終わるのを待って、女の子達に捕まるより早く教室を出たティアは、再び飼育小屋に足を運んだ。
「・・・アシュレイ?」
朝、顔を合わせてから、言葉を交わすのはこれが初めてだった。
ティアはいつも女の子達に囲まれているので、喧嘩していなくても、普段はあまり話せはしない。
「・・・ティア」
アシュレイはむっつりした顔でそれだけを言う。彼の手には、草で一杯の飼葉桶があった。
ティアはアシュレイの日に焼けた傷だらけの手をじっと見て大きく息を吸う。
「――昨日は大嫌いなんて言ってごめんっ! うそだから、信じないで」
滅多にない大きな声を出して、それだけで肩で息をしているティアを、アシュレイは驚いた瞳で見つめた。
「・・・俺もごめん。バカなんて言った。俺もうそだ。おまえはバカじゃないからな!」
「・・・うん」
ティアはほっとして笑う。
「もう、バケツ覚えたよ。他にも色々教えて?」
「うん」
子馬の前に飼葉桶を置いたアシュレイは、今度は小鳥のえさ箱を持った。
「もう・・・笑わないから。ごめんな」
「私も、ごめん」
二人は顔を見合わせて――笑った。
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