投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
発端は、小首を傾げたティアのひと言だった。
「ばけつってなに?」
文殊塾で、アシュレイは飼育係をやっている。
貴族の子弟が学ぶこの文殊塾では、子供達が学び舎を磨き上げ、食事の準備をする――ということはありえない。ともすれば、一人では着替えもしたことがない子供が入学してくる学校である。そんな中での飼育係という役目は、最も不人気なものだった。
だがアシュレイは自ら立候補し、泥まみれになるのも構わずに、楽しそうに動物達の世話を焼いている。子馬も兎も小鳥もみんなアシュレイには良く懐き、そうするとアシュレイは一層熱をこめて世話にあたる。
獣臭い、という少女達もいるが、ティアはそんなアシュレイが眩しくて羨ましくてたまらなかった。
少女達と同じ、真っ白い手。ティアは自分のそれが好きではない。
だってアシュレイの手は、日に焼けていて傷だらけで、指の付け根にはタコがある。その手で撫でられた動物達は、みんないっぺんでアシュレイのことを好きになってしまうのだ。
そんなある日、珍しくぽっかりと時間が空いたティアは、女の子達に見つからないようにこっそりと飼育小屋に向かった。
空になった飼葉桶を子馬の房から運んでいるアシュレイが、ティアを見つけて目を丸くする。
「ティア! どうしたんだ?」
「時間が空いたから来てみたんだ。私にも手伝えることある?」
腕も足も半ば以上剥き出しにしたアシュレイは、長衣のティアを見て少し考え込んだ。
「・・・じゃあ、井戸の水出してくれ」
「うん!」
ティアはたっと駆け出して先回りし、ポンプ式の井戸に張り付いた。胸の高さのレバーに手をかけて、アシュレイが差し出した桶の上に水がかかるように、何度もそれを押し下げる。
「んー・・・重いね」
「そっか?」
飛沫がかかるのも気にせず、アシュレイはタワシで勢いよく飼葉桶をこすり、服を濡らしながらすすいだ。
「よし! 終わり! ティア、そっちのバケツ持って来てくれ!」
アシュレイの手が、桶をぐるぐる回して水を切っている。その水滴から逃れながら、ティアは首を傾げた。
「ばけつってなに?」
「へ?」
思わずアシュレイは手を止めた。丁度桶は真上にある。水が入っていたら、アシュレイはずぶ濡れになってしまっていただろう。
「バケツだってば! ほら、そこにあるやつ!」
「えーと・・・?」
ティアは困った顔で辺りを見回した。
「・・・どれ?」
「これっ!」
桶を放り出したアシュレイがそれを持ち上げてティアに突きつける。
「・・・あ、これ、ばけつって言うの? 桶じゃないの?」
「・・・普通、桶ってのは木でできてるんだ」
「へえ・・・ばけつって言う名前があるんだ。私は金(かね)で出来ている桶だと思ってた」
全く知らなかったわけではない。ただ、独自の名前があるとは思っていなかっただけだ。
アシュレイはがっくりと小さな肩を落とした。
「ティア。おまえなあ・・・。俺よりずっと頭いいくせに、ときどきバカだよな」
「・・・し、仕方ないじゃないか。誰も教えてくれなかったんだから!」
白皙の滑らかな頬が紅潮する。
「普通は教えられなくたって知ってるんだぞ! やーい、ティアのバカ!」
アシュレイが胸を張ってそっくり返った。普段、頭のよさでは敵わないティアの意外な弱点に、鼻高々な様子だ。
守護主天として、天主塔で大切に育てられているティア。とはいえ、アシュレイとて南領の跡取りであり、ティアに並ぶ高貴な身のはずなのである。それがこれだけ逞しく育っているのは、父王のスパルタに加え、本人の性格のせいだった。
幼馴染のストロベリーブロンドにも負けないくらい、ティアの顔が赤くなる。
「・・・どうせ私はバカだよ! アシュレイのバカっ! 大嫌いだ!」
「・・・えっ?」
止める間もあらばこそ。
火がついたような勢いで走り去るティアの後ろ姿を、アシュレイは呆然と見つめた。
勢いのまま輿に乗ったティアが、いつになく子供っぽく、目を真っ赤にして鼻をぐすぐすいわせて帰ってきたのを見て、使い女達は色めきたった。
「まあ、若様! いかがなさいました!」
「塾でいじめられたのですか? こんなにお泣きあそばして・・・」
「ああほら、男の子なのだから、泣いてはいけませんよ。おいしいおやつがございますから、召し上がって元気をお出しくださいな」
「先に湯浴みをなさいませ。こちらにおいでになって・・・」
「お怪我はございませんか? 侍医を呼びましょう」
塾にいる少女達に似た、ふわふわと甘い空気をまとった女達。ティアを大事に大事にしてくれる、生まれたときから包まれている空気だ。ささくれだった気持ちがゆっくりと静まってくる。
「塾で何があったのです? 貴族の子弟ばかりとはいえ、中には乱暴な子供もいると聞き及んでおりますが・・・まさか、本当にいじめられたのですか? わたくしどもにお教えくださいまし。天界に並びなき尊き御身を傷つけるなど、あってはならないこと。叱りつけておかねばなりません」
「んー・・・」
ティアはごしごしと眼をこすった。その手をやんわりとつかまれ、いけませんよ、と諭される。
「こすっては駄目です。もっと痛くなってしまいますよ。さあ、お顔を洗って、おやつを召し上がってくださいまし。その後で結構ですから、何があったのか仰ってくださいましね」
掴んだ手と掴まれた手は、ともに白かった。
アシュレイの手は、日に焼けていて傷だらけで、指の付け根にはタコがあって。その手で撫でられた動物達は、みんないっぺんでアシュレイのことを好きになってしまうのだ。
(私の手はこんなに白い・・・)
急にティアは恥ずかしくなった。
そっと使い女の手を外し、微笑んでみせる。
「――もう大丈夫だよ。ちょっと、塾の子と言い合いしたんだ。でも、明日ちゃんと仲直りするから」
「本当ですの? 若様」
「どうかご無理はなさらないで。わたくしどもには正直に仰ってくださいな」
「本当だよ。心配しないで。ありがとう」
さらににっこりと笑ってみせて、ティアはおやつをねだった。
次の日。
授業が終わるのを待って、女の子達に捕まるより早く教室を出たティアは、再び飼育小屋に足を運んだ。
「・・・アシュレイ?」
朝、顔を合わせてから、言葉を交わすのはこれが初めてだった。
ティアはいつも女の子達に囲まれているので、喧嘩していなくても、普段はあまり話せはしない。
「・・・ティア」
アシュレイはむっつりした顔でそれだけを言う。彼の手には、草で一杯の飼葉桶があった。
ティアはアシュレイの日に焼けた傷だらけの手をじっと見て大きく息を吸う。
「――昨日は大嫌いなんて言ってごめんっ! うそだから、信じないで」
滅多にない大きな声を出して、それだけで肩で息をしているティアを、アシュレイは驚いた瞳で見つめた。
「・・・俺もごめん。バカなんて言った。俺もうそだ。おまえはバカじゃないからな!」
「・・・うん」
ティアはほっとして笑う。
「もう、バケツ覚えたよ。他にも色々教えて?」
「うん」
子馬の前に飼葉桶を置いたアシュレイは、今度は小鳥のえさ箱を持った。
「もう・・・笑わないから。ごめんな」
「私も、ごめん」
二人は顔を見合わせて――笑った。
「とりあえず座下座して謝ったほうがいいよな…うん」
宙であぐらをかいたアシュレイは、啖呵をきって飛び出た手前、どうやって戻ろうか、城を見下ろしながら考えていた。
「…でっ。仕事は仕事、でも、それだけの毎日じゃなく、ティアはもっと休んでいいはずだ。外に出て、遊んだり、もっと自由にできるように。少しずつ…少しずつ。手始めに父上を説得する。…うん」
少しずつ、という計画は、猪突猛進なアシュレイにしては格段の進歩と言える。父王や姉や乳母や…他、アシュレイを知る全ての者が腰を抜かすほどの譲歩だ。それだけアシュレイにとって、ティアは大切な存在になっていた。
「よし…! そうと決まればまずは土下座だっ」
考えが決まったアシュレイは組んだ足をのばして立ち上がり、振り返って森を見る。
(ティア…)
おまえのこと、父上はもちろん、他のジジイたちになんか任せておかない。
絶対後悔させない。
ひとりにしない。
「…誓うよ」
塔で手にしたティアからこぼれた金色の一房に、夜風に吹かれながら、アシュレイは小さくささやきかけていた。
ただの道具に知識は必要ない。
ただの道具に情は必要ない。
だが、市井を知らねば祈りはできない。
だから、"目"だけを与えられた。
道具に不必要な"感情"を持たぬよう、余計な言葉は与えられず、音も与えられず。
たまに鏡に映るもので心が動かされても、音が、声がなければ分からない。
気になって動く口元をじっと見つめた。
『あいしてる』って読み取れた。
『すき』ってくちびるが動いた。
『こいびと』って抱き合ってた。
あい、って?
すき、って?
こい、って?
意味は分からなくても、胸がドキドキした。
鏡に映る人たちの、強い感情に憧れた。
ずっと…ずっと…私も大切な誰かに出会いたかった。
私の名前を呼んでくれる誰かに。
……君に会いたかったんだ。
ティアは額の印にそっと手をやり、初めて優しい気持ちで触れていた。
そうすると、彼の熱い熱が自分にも伝わる気がした。
終。
「アシュレイ…!? どうしたの、いったい」
コツコツと窓を叩く音にティアが目をやれば、そこには数刻前に帰ったはずのアシュレイがいた。
ティアの元を訪れるようになって数年が経っていたが、アシュレイが夜訪ねたことは一度もなかった。
心配げに自分を見つめるティアに、アシュレイは言葉がなかった。
衝動的にここに来てしまったが、どうすればいいのか。
ただ、許せない気持ちだけで父王に反抗し、どうしようもなくティアに会いたかった。
でも、どうすればいいのか分からない。
「ティア…」
「アシュレイ? どうしたの? なにかあったの? どこか痛い?」
はじめて見たアシュレイの涙に、ティアはなにごとかを察し不安になった。
「ティア、ここを出よう…!」
「……とりあえず、中に入って」
「ティア…っ!」
「待って、…ね? まず話を聞かせて」
そう言うと、いつものようにティアは奥の小窓に向かって結界を張る。
(そういえば…)
初めて会ったときからずっと、アシュレイがこの部屋を訪れたときには、ティアは必ず結界を張っていた。今まであまり気にも留めていなかったが、さっきの父王とのやり取りで、八紫仙がただの世話係ではないのだとようやく思い至る。
(ティアだって、お目付け…って言ってたじゃないかっ)
自分の単純で能天気な脳みそに腹が立つ。
(あいつはずっと見張られてた…監視されてたんだ…っ)
「おまえが…犠牲になることなんてないっ…!」
「犠牲…?」
「世界のための祈りって…。それだけのために…祈れなくなったら代わりがいるなんて…そんなのっ…そんなのっ…!」
ティアが、どんなに一生懸命祈っていたか。
いつ尋ねても、ティアは祈りを捧げていた。ティアが祈らない日はなかった。
いつだったか、すごく具合が悪そうなティアに訳を訊けば、祈りのほかにも、世界の苦しみや悲しみをその身で浄化する仕事もあり、そのため心身ともにひどく消耗することを知った。
「そう……」
アシュレイの言葉に、ティアは一瞬驚きはしたものの、すぐにその表情は悲しく曇った。
「行こう!!」
ティアの腕を取り、窓の外へといざなおうとするアシュレイの手を、ティアは静かに振りほどいた。
「ティア…!?」
「私はここにいるよ」
「ティア!!」
「ここを出てどうするの? どこに行くの? なにをするの?」
「あ…」
激情のまま父のもとを飛び出し駆けつけたアシュレイに、なんの手立てがあるわけもない。
ただ、ここから連れ出さねば、とその一心だった。
「とにかく…出よう。行き先は…そうだ、俺の乳母の実家がいま空家のはずだから、そこへ…!」
アシュレイの言葉にティアは静かに首を振った。
「ここに、いるよ」
「なんでっ…!」
君に迷惑はかけられないし、ここにいれば…君を…君のいるこの世界を守れる。
たとえ、二度と会えなくなっても…。
それだけでいいんだ。
そう心の中だけでささやくと、ティアは言った。
「……気持ち、悪く…ない?」
「え……」
「アシュレイは、私が気持ち悪くはないの…? 私は…私は自分でもよく分からないんだ。物心ついたときからここにいて、ここで祈りを捧げてた。この世界の人々の苦痛と悲しみを浄化してた。私が消えるまでそれは続く。でも、私にはわからないんだ。自分がいつから存在して、いつ無に帰すのか…誰も知らない、誰も答えてくれない。私は…君達とは違う生き物なんだ…」
「ティア…」
「気持ち悪いよね…いいんだ。それでも」
それでも、私は君が好きだよ……。
心でだけティアは宣言した。
「おまえはバカか!!」
「…ばっ…?」
「おまえはバカだ!!」
「……アシュレイ」
「俺は…姉上や父上や乳母やウサギやリスや…好きなものがいっぱいある。もちろん、嫌いなものもあるし、つか、父上や姉上を森のウサギたちと一緒にしたのがバレたらスゲー怒られるだろうけど、でも、好きなもんは好きなんだっ、俺とウサギは違う生き物だけど、関係なねぇっ! この世界は、ひとつの生き物だけの世界じゃないっ。俺とおまえがちょっとくらい違ってたって…俺とおまえは友達だろっ」
「アシュレイ…」
アシュレイが怒るのは何度も見たが、怒りながら泣くのは初めて見た。
「俺は、おまえに自分をもっと大事にしてもらいたい。俺の大事な友達だから、もっと大事に考えてもらいんだ…っ」
「アシュレイ…」
……いつも、感じていた。
君が外に連れ出してくれても、本当に自由にはなれない、私には鎖がある、と。
この塔から、本当の意味で出られることはない。
ここを出るのは、『私』が消えるときなんだ。
まるで最初から存在しなかったかのように『無』となって、新しい『祈り』を捧げるものが現れる。
それだけのこと。
すべてはあらかじめ決められたことで、それに従うだけ。
…それでいいと思ってた。
でも今は、できるだけ長くこの世界を守る『祈りを捧げるもの』でありたいと願ってる。
―――君が私を変えたんだよ。
君だけが、私を変えた。
「…ありがとう」
ティアは、心からの感謝を込めて言った。
「すごく…嬉しいよ。君がいなかったら…きっとこの世界を本当には愛せなかったと思う」
「ティア…」
「…本当言うと、私は、神の使いなんかじゃなく、罪人なんかじゃないかと思ったことがあるんだ。この印も…」
そう言って、さらり…とティアは前髪をかきあげ自分の額に手をやった。
「ほんとは神様が私につけた罪の証なんじゃないかって…」
「バカなこと言うなっ!!!」
ティアの告白に、アシュレイはただもう悔しくてたまらなかった。
ティアにそんな思いを抱かせたのが"神"なら、絶対許さないと思った。
ギリ…ッと、制御しきれない感情をおさえるために噛み締めた奥歯がきしんで嫌な音をたてる。
「うん…ごめんね。でも、いま私が心からの祈りを捧げられるのは、君がいるから。君が、うわべだけじゃない、心を私にぶつけてくれたから。…だから、わかってほしい。強がりでもなんでもない、私の意思で、ここにいたいと思ってる」
「…でも、おまえばっかり損してる…っ。おまえ、浄化とかしてるとき凄いつらそうだし…っ。なのに、おまえ絶対そんなこと俺に言わないし。でも、そんなティアを見るのは、俺だってつらい…つらいんだっ!」
「…ごめんね」
ティアの謝罪の言葉に、アシュレイは気がついた。
(俺は…)
俺は、自分がつらいのがいやなんじゃないのか?
ティアが、じゃなく、俺が…。
俺が…我慢できないだけで…。
「アシュレイ。これだけはわかって。私は、君がいるからこの世界を守りたいと思う。君がいる世界の幸せを心から祈りたいと思うんだ。…私に、君のことを、君の世界を守らせて」
(俺に、そんな価値ない…!)
ティアの言葉に首を振りながら、アシュレイは新たな涙をこらえ切れなかった。
「俺は…俺は…っ、おまえがそんな思ってくれるほどの奴じゃない…。俺が、お前を守りたいって…そう思ってたのに…なんでっ…俺がおまえを縛ってるんだ…っ!」
「…アシュレイ」
アシュレイの叫びに、ティアは決心したようにテーブルから刃先の丸いハサミを取り出した。
はらはら…と、金色が揺れて床に落ちる。
「なっ…」
「ああ、すっきりした」
「お…まえっ、なにをっ…!!」
「こんな髪だから、アシュレイは私のことをひ弱なお姫様だと思ってしまうんだ」
だっておまえはお姫様じゃないかっ!
と、ティアの外見に心で文句を言う。
「私はね、アシュレイ、お姫様なんかじゃないって何度も言っただろう?」
「…う」
「第一、……君の夢を壊すようで言えなかったけど、私は男だよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・は?」
「聴こえなかった? 私は…」
「なんだとーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっ!?!」
「…き、聴こえてたみたいだね」
耳を押さえてティアが言う。
「うっ…嘘だっ! そんな…そんなことっ」
途端、うろたえるアシュレイをティアがギューッ!と抱きしめる。
「ほら、ね?」
「うわっ…!」
確かに…、女ではなかった。
初めて会った頃は、こんな…こんなじゃなかったのに。
さっきまで、ティアの立場やおのれのご都合主義的思考に苛立ったり打ちのめされたりしていたアシュレイだったが、今は全く違ったことで錯乱していた。
「アシュレイ…!?」
ティアの青い目が、黙って固まってしまったアシュレイを心配げに見つめてくる。
ふと、ティアの肩先で跳ねる金色が目に入った。
心なしか、錯覚か、…なぜだか男らしく…見えなくもない。
(髪…切ったからかな…)
「アシュレイ。君は、私が姫だと…女だと思ってたから、助けてくれようとしたの?」
「…違うっ」
ティアの言葉にビックリしてアシュレイは否定する。
「俺は…、確かに最初は、お姫様なのにこんなとこでひとりで…って思ってたけど。でも…おまえはおまえだ。男でも女でも…お姫様でも、変わらない、関係ない!」
「アシュレイ…」
少しだけ、ティアから肩の力が抜ける。
「でも、」
「でも?」
アシュレイの続けた言葉にティアは思わず凝り返す。
「でも…そうだな…。よく考えたら、…おまえ、そんなに姫らしくなかったよな…」
少し笑いながらアシュレイは呟いた。
(なによりティアには最強の結界がある…)
「俺が…おまえを守りやすいように、そういうとこ見ないようにしてたのかもな。俺が、おまえのそばにいやすいように」
ティアは女で、お姫様で、ひとりでずっとこの塔の中でみんなのための仕事をしている。
つらくてさびしい、ティア。
だから、俺が守る。
俺は、ティアの友達だから。
でも、友達を守るのに男とか女とか関係ない。
なんで俺はこだわっていたんだろう…。
「アシュレイ…! 嬉しい…よ…」
ただ立ち尽くし、静かに涙をこぼすティアに、アシュレイはなぜだか胸が騒ぐ。
「…な、泣くなよ。なんで泣くんだよ」
「だって…」
「ああ…なんかもういいや」
「え…」
「おまえがここで頑張るってんなら、そうすればいい」
アシュレイの突然の容認に、ティアは少し不安な顔を見せる。
「その代わり、つらいときや泣きたいときは、絶対俺に言え!」
ティアの肩をつかんで、きっちり目を合わせてアシュレイが言う。
「絶対、ひとりで我慢するな」
「……」
「おまえが、俺のために祈るなら、俺はそんなおまえの心を守る」
「アシュレイ…。顔、真っ赤だよ…」
「…わ、わかったな!? じゃあ、また来るから!」
そういうと、アシュレイは窓から暗闇へと飛び立ち、ふと振り返り、言った。
「おまえの額の印」
「え…」
「この塔の外側の壁にもでっかく書いてあってさ。…ここはおまえのウチだって、そういう意味かと思ってた。名前の代わりに、おまえの印が入ってんのかなって。いろんな考え方できんなら、いい方に考えたほうがいいよな!」
それだけ言うと、最後に力強い笑顔でティアを見て、今度こそ本当にアシュレイは帰って行った。
来たとき同様、突然に。
「…ふ、ふふっ、あははははっ」
アシュレイの言葉が、凄く嬉しかった。
赤面したアシュレイが、凄く愛しかった。
照れて、そそくさと帰るアシュレイが凄く可愛くて…おかしかった。
…この、額の印を、そんなふうに考えてくれてたアシュレイが、大好きだと思った。
「アシュレイ…」
声を出して笑うことは、アシュレイが教えてくれた。
楽しいとき、おかしいとき、自然と笑い声が出るものなんだと、ティアはアシュレイに会うまで知らなかった。
アシュレイといると、全てがプラスの方向に向かうような気がする。
「ぜんぶ…君が私に教えてくれたんだよ」
誰かと触れ合うことも、その手が熱いことも。
暗闇の中飛び立ったアシュレイの軌跡が見えているかのように、窓の外へとティアは呼びかけた。
季節は巡り、度々アシュレイはティアを塔の外――と言っても森の中限定でだが――へと連れ出すようになっていた。
初めて外へと出たときあんなに喜んだくせに、それでもティアは外に出ることをためらった。そんなティアも、回を重ねるごとに、自分で見たいものや行きたい場所を、遠慮がちにアシュレイに申し出るようになった。
そんなとき、アシュレイが塔に出入りしていることが父王にバレた。
珍しく父王が王子宮を訪ねてきたと思えば、アシュレイの顔を見るなり開口一番怒鳴られた。
「アシュレイ! おまえ…森の中の白い塔に行ったというのは本当か!?」
「…行っちゃいけないのか」
父王の訪問に喜んだ自分がバカみたいだと思ったのも束の間、意外な詰問にアシュレイは戸惑いを隠せない。
「当たり前だ!」
「…んなこと聞いたことねーっ!」
「お父様っ、申し訳ありません、私が…!」
「…人払いを命じておいたはずだが?」
声のした方を見ようともせず、炎王の不快気な声が低く室内に響く。
父の突然の王子宮訪問が気になり、そっと物陰から伺っていたグラインダーズだったが、険悪な雰囲気につい口を挟んでしまった。
「姉上は関係ないっ!」
「…グラインダーズ、下がれ」
「でもお父様…っ!」
「姉上っ…!」
アシュレイなりに姉を庇おうと、目でグラインダーズを退出させようとする。
「父上! ティアは、なぜあんなとこにひとりで祈りを捧げねばならないのですかっ」
「…おまえ…会ったのか!? では、音楽催でおまえと一緒にいて、そのまま森の中へと向かったというその子供は…もしや…!」
「やっぱり…父上もあの子を知ってるんだ…!」
「………」
息子の指摘に、炎王は一瞬言葉につまり苦虫を噛み潰したような顔を見せた。
一度でいいから奏器の演奏を聴いてみたいともらしたティアの呟きを、アシュレイは聞き流せなかった。
遠見鏡で見るだけの奏器がどんな音を奏でるのか、聴いている人々の表情に、その素晴らしさを思い憧れる少女の願いをかなえてやりたかった。
森から出ることを躊躇う少女を説得して、自国の音楽催へと誘い出しのはアシュレイだった。
「父上、ティアを塔から出して下さい!」
「ならん! …第一、私の関知するところではない」
「なんでだよっ。父上はこの南の王じゃないかっ。森はちょうど真ん中にあってどこの国にもかかってないけど、父上の力なら…っ」
「あれは、この世界のためにある。どの国も、口出しはできぬ」
「どうして…っ!?」
「…あの方の祈りがなければ、この世界は崩壊する。世界のために存在する、それがあの方の、あの方々の宿命なのだ」
「かたがた、って…」
「お前は私の次に王となる者。だから、言っておく。あの方の存在はこの世界の最大の隠事、神の使いとしてこの世界につかわされている神の代理。祈り続け、祈り疲れれば、代わりがつかわされる。だが、このことは各国の王しか知らぬこと。八紫仙以外、塔に近寄ってはならん決まりだ」
その八紫仙すら、直接の接触はない。
神秘の存在と力は世界を脅かす。
また、知れば人々の崇敬は王室ではなく塔へと向かう。
もっともらしい理由のほかに、各国の思惑もあった。
「……なんだよ、それ…!!」
代理? 代わりって…。
神だと言いながら、父王の言葉にはなんの崇敬の念も感じられない。
ティアは…道具じゃない!!
ティアに代わりなんてない!!
言いたいことが喉元にせりあがり、悲しくて苦しくて悔しくて、アシュレイは声に出来なかった。ただ、ただ、涙があふれて止まらない。
「…もう頼まねぇっ…! クソジジイ…!!」
ほえるような一言を父王に叩きつけると、アシュレイは城を飛び出した。
実のところ炎王は、息子の塔通いをそれほど問題視してはいなかった。
アシュレイひとりが塔に通ったくらいで、どうにもなるものではない。
第一アシュレイ以外に、あの森の中を進み入り、天を突くほど高い塔の天辺にいる神の代理の元に通える者が、そうそういるはずがないのだ。
問題は、塔と塔の中の存在が明らかになることだけで、その点、炎王はアシュレイの口の堅さを信用していた。
ただ熱心に噛み付いてくる息子に、しばし親子喧嘩を楽しもうと決め込んだだけの話で。
炎王としては、普段王子宮で離れて暮らす息子を思いきり甘やかせてるつもりだった。…息子には全く伝わらなかったが。
「なんと…口の悪い。本当に王子か、我が息子は。…グラインダーズ」
「………」
「そこで聞いておったのだろう? 出て来い」
「…父上。アシュレイは、」
「フン。甘い奴だ。捨て置け。どうせなにもできん。…できても困るがな」
独り言のように呟くと、炎王はほんの少し楽しそうに笑った。
「駄目になれば次が来る。どちらにしろ、この世界に変わりはない」
それからアシュレイは、姉のグラインダーズにも誰にも内緒で、森の中の白い塔を訪ねるようになった。
いつ訪ねて行っても、少女は窓際の生成り色の布の上に跪き祈りを捧げていた。
少女の仕事を邪魔したくなくて、祈りが一段落着くまで外で待っていると、やがて窓の外に気がついた少女が中に迎え入れてくれる。
そして「もう少し待っててくれる?」という少女の申し訳なさそうな声に、「気にすんな!」と勝手に椅子に座って転寝する振りで、そのままアシュレイは祈る少女を見ていた。
それから、祈り終えた少女の淹れたお茶を飲みながら、アシュレイが持ってきた菓子を食べる。
アシュレイのたわいない話を、微笑みながら楽しそうに嬉しそうに少女が聴く。
ガキ大将なアシュレイの塾での自称・武勇伝や、老元帥たちの話す魔物との戦闘、乳母に聞いた物語。
特別なことはなにもない。
一緒にいるだけで、よかった。
一度、こんなことがあった。
中を覗けば、いつもいるはずの窓際の生成りの場所に少女の姿が見えず、訪れた窓の外、浮き立った心が一瞬で冷え、窓(というか結界)を叩いて名前を叫んだ。
「どっ、どうしたの、アシュレイ!?」
壁の本棚の陰から現れたティアは、まさに風呂の途中、急いでタオルだけ巻いて出てきたといった姿だった。
無造作に巻かれたタオルからこぼれる、湯の雫と金色の長い髪の筋。ほんのり上気した真珠の肌からはまだ湯気が立ちのぼる。
アシュレイは、安心と、驚きと…わけのわからないドキドキで瞬間湯沸かし器のように沸騰し、真っ赤になった。
「ごめんね。お風呂に入ってたんだ。この本棚…」
そう言ってティアは説明してくれた。
「こうすると動いてもうひとつ小部屋に通じてるんだ」
可動式のそれは、奥にお風呂場とか洗面所とか、日常生活で必要な、今までどうしてるんだろうと心配していたアシュレイの疑問を解いてくれるものだった。
(とりあえず、不自由はない…のか)
ほんの少し安堵したアシュレイだった。
「すげぇー!」
その日、アシュレイはティアに初めて遠見鏡を覗かせてもらった。
机の脇の、真っ暗な鏡。
その鏡面に突然浮かぶさまざまな景色に、人、人、人。
驚くアシュレイに、ティアは嬉しそうに話して聞かせた。
「ここが、君の国。そして……ここが君がこの前壊した休火山」
切り替わった画面を見ながら、ついそのときのアシュレイの様子を思い出したティアが、その姿のまま、愛くるしい声で笑う。
「…見てたのかよ」
「だって……。ごめんね」
アシュレイと出会ってから、ティアは無意識のうちに遠見鏡でアシュレイを探し追うのが習慣になっていた。
口ごもり許しを請う上目遣いに、アシュレイは、怒ってない、と告げる。
「でも、音とか声が聴こえないのって不便だよなー」
「前は音も聴けたらしいんだけど」
「ふーん」
なんで今は聞けないんだろう、と一瞬思ったアシュレイだったが、聞かれていたら、それはそれで恥ずかしいかも…と思った。
「キキッ!」
突然子リスが一匹、アシュレイの足元にからんできた。
「うわっ…と、なんだ、おまえ、探検はもう終わりか?」
森の動物も遠見鏡でしか見たことがないティアに、来る途中で見つけた子リスを懐に入れ連れてきたのだが、中に入った途端、子リスは勝手にそこらじゅうを走り回りだした。
「この子がこんな声で鳴くことも、知らなかったんだ」
「…そうか」
「かわいいね」
子リスがティアの床まで伸びた髪にじゃれつく。
「よかったな」
アシュレイの返答に、ティアは少し不思議そうな顔をしながら、ふと思いついて言った。
「どうしてアシュレイはこんなに私によくしてくれるの?」
「どうして、って…」
「私は嬉しいけど、アシュレイは大変じゃない? ここは森の中で、私しかいないし、退屈じゃない?」
退屈?
「おまえがいるじゃないか。俺とおまえは友達だろ? 友達に会いにくるのが大変だなんて思うほど、俺はまだそんな年寄りじゃないぞっ」
「ともだち…?」
大きく頷く赤い瞳に、ティアはどう返していいか分からなかった。
「ともだち…って、なに?」
ティアの言葉にアシュレイは胸を打たれた思いがした。
ティアは、おそらくとても賢い子供なのだとアシュレイは感じていた。
塾に通う自分の知識とは全く質が違う。
自分のことだけで精一杯の自分と違い、ティアは自分のやるべき仕事を知り勤め続けている。ティアの言葉にはとても力があったし、重みがあった。
書棚にはアシュレイが題名さえも到底直視したい日が来るとは思えないような分厚い本が何冊も並んでいる。
なのに、ときどきこんなふうに当たり前のことを知らない。
子リスの鳴き声も、『友達』の意味も。
(…俺が乳母から聞いた物語の話してやると、すごい喜んでた)
ここにある本にはそんなこと書いてないし、…こいつにそんな話聞かせてくれる奴もいなかったってこと…だったんだよな。
「…友達ってのは、ずっと心が一緒だって意味だ。俺とおまえは、友達だから、離れてても寂しくない、心が一緒だからな。でも、会えたほうがもっと嬉しいだろ」
「ずっと…一緒…?」
「ああ…!」
母親がいなくて、耳がとがってて、角があって。
たとえ直接耳に入らなくても、そいつらの目で、態度で分かる。
南の王子は、不吉だって。気味が悪いって。
父上とも姉上とも、他の誰とも違う姿。
俺はひとりだと思ってた。
でも、俺には父上もいて、姉上もいて、斬妖槍もある。
乳母に使い女たちだっている。
遠見鏡があったって、本があったって、こんな…こんなところにずっとひとりだったら…俺ならきっと気が狂っただろう…。
一度、冠帽がずれてティアに角を見られたことがある。
ティアは、小首を傾げて「ふふ、アシュレイのこと、またひとつ知ったよ」って嬉しそうに笑った。「こんなとこに可愛い角を隠してたんだね」って。「可愛いなんて…未来の武将に対して、ちっとも誉め言葉なんかじゃないぞ!」ってあの時は言ってしまったけど……。
アシュレイは、ぐっとこみあげてきた涙をこらえるとティアの手を取った。
「ここから出よう」
「でも…私にはここで仕事があるから」
「そんなのっ…!」
なんでおまえだけが、祈り続けなきゃならない!?
ひとりで、みんなのために、なんでおまえひとりがこんなさびしいところで…っ。
そんなの理不尽だ…っ!
「私は大丈夫だよ。…でも、君がそう言ってくれて、凄く嬉しい。君の気持ちが嬉しいよ。ありがとう」
「…ティア」
「今までは、私もよく分からなかった。けど、今度からは、君へのこの気持ちのままに祈りたいと思う。君が…皆が幸せで過ごせますように、って」
そう言って、ティアこそが幸せそうに微笑んだ。
(駄目だ…っ!)
アシュレイは、無理やりティアの体を引き寄せると、そのまま窓枠に飛び移り、宙へと踏み出した。
「…うわぁ…!」
アシュレイの突然の行動に一瞬言葉を失ったティアだったが、すぐに今度は感動で声が出なくなる。
今まで、ただ眺めることしかできなかった、外。
これが大気…。
知らず、ティアの身体がブルッ…と震える。
「空気が…動いてるよ…?」
肌を撫でる、髪が乱れる、これは何だろう。
「ああ…えっと、もしかして"風"のことか…? 下はそんなに強くないはずだけど、上はやっぱり風があるからな」
「そうか…これが…」
風。
遠見鏡に映る風景に、洗濯物や木の葉が揺れたり、女の子達の髪が踊ったりしてたのは、こんな感じだったんだ。
「寒いか?」
「ううん…」
風。
これが、風。
(アシュレイは、いつもこんな風を感じなから、ここまで訪ねてきてくれてたんだね…)
「…アシュレイには、塾にも『ともだち』がいるの?」
「塾!?」
乱暴者で喧嘩っ早く、しかも南の国の太子であるアシュレイに、対等な友達と呼べる級友はいなかった。
(喧嘩友達ならいるけどな…)
そういえばアイツなら塔の部屋ん中でも風が呼べるかも…と、風雷を操る二歳年上の少年を思い浮かべて即行で打ち消した。
(アイツはダメだっ!)
あんなタラシ紹介できねぇっ!
「俺の友達は、おまえだけだ」
だが、ティアの目を見つめてそう言い切るアシュレイ自身、喧嘩友達が見たら「テメェこそ無意識にタラシてんじゃねーよ」と言われても仕方がないほど、ティアの顔は真っ赤になっていた。
「…? 熱いのか?」
「そ、そうじゃなくて…。あ…っ!」
ヒクッ…とティアの鼻をならすようなしぐさに、アシュレイがニコッと笑って言った。
「梔子だ。どっかに咲いてんだな。風が運んできたんだ。…おまえとおんなじ香りだな」
はじめて会ったときから、ティアはいつも梔子の香りの玉を身につけていた。
「ほんとだ…同じ…」
でも…。
同じだけど、違う。
私のつけてる香玉は、もっと…静かだ。
こっちのほうが、すごく生きてる感じがする…。
空気も、温度も、香りも違う。
ただ、自分をとりまく実体のないものが、こんなに愛しく感じられるなんて思わなかった。
外の空気は、こんなに自由なんだ。
「ティア…?」
黙ってしまったティアに、アシュレイは少し後悔しかけた。
(…いきなり連れ出したりして…強引だったかな)
「アシュレイ…」
そのとき、どこか遠くを見たままのティアに呼ばれた。
「な、なんだ…うわっ!!」
「ありがとうっ…ありがとう、アシュレイ!!」
「ティア…っ!?」
突然強く抱きつかれ、うろたえる。
「外って…全然違うんだね。すごく綺麗で優しくて…。すごく、嬉しいよ。ありがとう…」
初めて会ったときより、少し背が伸びたティア。
(俺が守ってやる…!)
ティアを抱く腕に力が入る。
絶対このままじゃいけないと、子供心にアシュレイは強く思った。
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