投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
Trust your operation,and your team!
機体には他の部分への激しい損傷はなかったらしい。それを確認して、空也は明らかにほっとした顔になったが、アシュレイはまだ体を強ばらせて操縦ホイールを掴んでいる。
「やれやれだったなぁ。だけど、まあ上出来だよ、よくやったな」
柢王は微笑んだが、
「おまえらならもっとうまく回避できただろ──」
アシュレイの声はふるえていた。前を見たまま、叩きつけるように、
「わかってんだろ、翼取られたのは俺が判断が甘かったからだ──ちゃんと見てたらわかったのにっ、俺が見逃したから・・・・・・こんなの上出来なんかじゃない! おまえたちなら客はこんな危険な目にあわなくてすんだんだっ!」
感情が、溢れ返りそうで、アシュレイはホイールを握る手をふるわせた。
初めての非常事態で、無我夢中になりながらも回避は出来た。それはわかっている。
だが、それを上出来だなんて思えるはずがない。
問題はそれ以前──よく見ているつもりなのに。よく見て確認したはずなのに。いや。はずなのになんていい訳だ。気をつけて、確認して、でも積乱雲に翼を突っ込んだのは自分のミスなのだ。
落雷を受けない加工はしてあっても、飛行機は鉄の塊だ。気流で翼が破損していたら、あるいは他にも深刻なダメージが生じたら、失墜していたかもしれないのだ。
(客を乗せてるのに・・・・・・!)
(指揮が取れたのは俺だけだったのに・・・・・・!)
どんな時でもアクシデントの可能性はある。それが空の上だ。それでも、回避できることもある。それが出来なかったのが、くやしくて、申し訳なくて。ほんの数分、だが、乗客はどんなに怖かっただろう。CAたちもどんなに慌てただろう。一歩間違えば怪我人が出たかもしれないのだ。
過ぎた事にこだわってはダメだ。少なくとも、いま、飛んでいるうちは。
なのにいまになって気持ちが高ぶって。くやしくて──どうしてもくやしくて。
(そんな奴、機長失格だ・・・!)
「機長、機長の判断は正しかったと思います」
空也は言ったが、後ろのふたりは黙ったままだ。アシュレイの言葉をどう受け止めているのか──甘えと取られても仕方がないのは自分でもわかっている。ふたりがあんな揺れのなかで手を貸してくれたのは、自分がふがいないからではなく、パイロットなら誰でもそうするから。それだけなのに。
本当は後ろにいてくれて心強かった。
桂花のことも──トラブルが回避できたかは計器を見ればわかるし、エンジンの火災は自動でただちに消火する仕組みになっている。それでも、気がかりだし、心に余裕がないときに、そうわかっているから見に行ってくれたのだと。揺れている機内を全部。
わかっている。でもその余裕がくやしい。客を危険な目に合わせて、空也にもプレッシャーをかけて、助けてくれた相手にまで八つ当たりをして・・・・・・。
「おまえたちが機長だったら──」
「機長はあなただけです」
ふいに後ろから桂花が言った。
「いまこの便に乗っている乗客にも、乗務員にも、離陸から着陸まで、コクピットに機長はあなただけしかいない。代打はありません」
「でもっ、俺はこんな──」
「信頼に応えるのは容易じゃない。でもその重さがあるから応えなくてはならないとわかる。反省は後からでも出来ますが、いま回避できたのはあなたが適切だったからです」
「桂花の言う通りだぞ、アシュレイ。初めから何でも出来る奴はいない。反省と後悔は違う。自分を責めるより、正直に現実と向き合って改めていく方が誠実だ。それに・・・・・・」
柢王は一度言葉を切ると、優しい声で続けた。
「誰もおまえ一人で完全にやれなんて言ってないんだよ、アシュレイ。旅客機は客を乗せる。空の上でのミスは他でのミスとは意味が違う。その意味で、機長の責任は確かに重いけど、それをサポートしてくれるスタッフは常にいる。空也も、CAたちも、陸にも、ティアだってそうだ。皆おまえがその責任を果たせるようにサポートしてくれてるんだぜ。アシュレイ、完璧なフライトなんてないんだ。あるのは常にベストを尽くしたフライトだけだ。確実に飛びたいのなら、自分を信じて、仲間を信じて、経験から学ぶ自分のベストを更新し続けていくしかない。それが信頼に応える唯一の道だ。桂花も、俺も、他の機長たちだってそう思ってるから飛べるんだぜ。ひとりで完璧にするんだなんて思ったら、怖くて飛べねーよ」
「──」
「大体、おまえみたいな勝気なのがしおれたりなんかするから積乱雲に突っ込んだりするんだってーの。ほら、とっとと進めて早く降りようぜ。ティアもきっと心配してるから」
「柢王・・・」
ふいに視界が鈍くなった気がして、アシュレイは首を振った。振り向きは出来ない。でもわかってくれているとわかる。隣で空也も微笑んでいる。
まるで子供の時みたいに一人よがりになった──そんな自分が恥ずかしくてよけいに悔しくて。でも、そのことさえ、オーケー、わかったよと受け止めてくれる仲間がいる。柢王も空也も、そして、たぶん桂花も。
未熟でひよっこで、そんな自分に腹を立てることさえ腹だたしい。でも、そのことさえ含めて、オーライと言ってくれる相手がいる。
だったら、きっと正解はそれを恥ずかしいとは思わないでおくことだ。受け止めてもらった自分の姿を、反省して、変えていく。その積み重ねがきっと、いい機長を作るのだろうから。
「あ、どこ行くんだ?」
桂花がふいに立ち上がった。尋ねた柢王に、
「客席に戻ります。吾は客ですから、機長を信用して客席で着陸を待ちますよ」
答えると、コクピットを出て行く。
大嫌いだった奴なのに──大嫌いな落ち着き払った声なのに。泣きそうになるなんて・・・・・・。
「お、おまえは戻らないのか」
ようやく柢王に向けて声が出せた。
と、幼馴染の親友は、いつものあたたかい声で、
「着陸態勢まではいてやるよ。俺も客だけど──友達でもあるから」
「HAL307便、着陸を要請します」
『307便、許可します』
管制塔のクリアランスを受けて、アシュレイは隣の空也に頷いた。ゲートウェイに到着。順番を待って、機体を下降させていく。徐々に見えてくる空港の建物。滑走路。雨はやんで滑走路が光っている。
(おまえ左足だけ強く踏む事あるから気をつけろ)
柢王のしてくれた注意を思い出しながら、その滑走路へ向けて降りていく。滑るように機体が近づき、タイヤがトンッと触れた。空也の顔が輝く。
『ナイス・ランディング、307便。B3から出て下さい』
管制塔の指示に従い、タクシーウェイに入る。ゴトゴトタイヤの音がして、やがて機体が駐機場にぴったりと止まった。ほっと息をつく。その耳に管制の声が入る。
『お疲れ様でした、307便。お帰りなさい──』
見も知らない相手の声が、トラブルを知っているのだろう、あたたかくそう告げてくれるのに目頭が熱くなる。ありがとう、その言葉を言う時は、いつも本気だ。
「アシュレイっ」
ロビーを駆けて来たティアが肩にしがみついた。
空港では、コクピットをチェックした後、整備士たちに機体を預けてきた。黄金の翼に触れて、
「ごめんな。ありがとう」
そう囁いた。
そして、皆と一緒に本社のロビーに入ったとたんに、ティアやスタッフたちに取り囲まれたのだ。
「無事でよかったよ、アシュレイ!」
涙をにじませて微笑むティアと、
「お疲れ様でした」「よくがんばったな、アシュレイ」
微笑んでいるスタッフたち。本気で心配して、本気で安心して。誰も責めない。責めなくてもわかっていると知っているから。また視界がぼやけた。もう揺れてなどいないのに。
「申し訳ありませんでした」
本気で、頭を下げた。後ろにいる空也、揺れが治まった後は何事もなかったようににこにこ接してくれたCAたち。ついて来てくれた柢王と桂花。みんなのサポートでいまこうしていられるのだ。
「無事で帰ってくれたらそれでいいよ。本当にみんな無事でよかった」
ティアが瞳をこすりながら微笑を浮かべた。航務課長も微笑んで、
「まあ、説教は明日にしてやる。みんなよくがんばってくれた。お疲れさん」
「お疲れ様でした」
CAたちがにこやかに通路を去っていく。グラインダーズも誇らしげな笑みを見せてくれた。空也も微笑んで、
「さあ、機長、手続きに行きましょう」
柢王たちとはそこで別れた。
「んじゃ、またな」
微笑んだ柢王に、アシュレイは振り返ったが、柢王はティアを差し、唇だけで頼むよと囁いてウィンクをよこした。桂花はすました顔のままだ。その顔に、心の中で礼を言う。助けてくれて──ありがとう。
伝わったかどうかはわからないが、顔が赤くなった気がして、アシュレイは慌ててティアのほうを向いた。
「さ、そんじゃ俺らはうちに帰るってことで」
スタッフたちを見送った柢王は、笑顔で言った。ティアのあの笑顔。今日は絶対にアシュレイを側から離さないだろう。心配して心配して。側にいられないからよけいにだ。当分、顔を合わせる度に、最初のフライトに同乗できなかった事を愚痴られるに決まっている。
(やれやれだよな)
笑いながら振り向いて、柢王は眉をひそめた。
「桂花、どうした?」
真っ青な顔でふらついている桂花の腕を掴む。と、桂花の持っていたスーツケースが手から離れて倒れる音に、周囲の人間が振り向く。
「桂花ッ、桂花! 誰かっ、救急車呼んでくれっ!」
腕の中に倒れこんできた体を抱きとめて、柢王は叫んだ。
「ったく、脳震盪なんか我慢できるもんかぁ?」
柢王は呆れた顔で言った。
空港病院のベッドに寝かされた桂花は、静かな声で答えた。
「我慢はしていないですよ。社に着くまで頭痛もしませんでしたし。そんなに強くぶつけた覚えもないんですが、気が緩んだのかもしれませんね」
桂花は、軽い脳震盪だったらしい。機内でぶつけたのが原因のようだ。検査にまわされ、脳波も異常なかったが、病院の勧めで今日は泊まることになる。柢王はつきそいを申し出たが、完全介護を理由にきっぱりと断られた。柢王的にははなはだ不満だ。
が、それを疲れているだろう桂花に言うつもりもない。いつものように軽く笑って、
「どーせ腕に倒れてくれるならもっと色っぽいほうがよかったけどな。でもまあ、今日はゆっくり休めよ。荷物、俺の車に乗せとくから。朝、退院できるんだろ。迎えに来るよ」
「吾のことは構いませんから休んでいて下さい。明日はフライトの翌日と変わらないですよ」
「どっちみちレポートあるから早起きすんだよ。つか、You haveで甘えろよ、こんな時くらい。他にいるもんあったら持って来るけど」
「いえ、大丈夫です」
桂花は青白かった顔色も元に戻り、クールな様子もいつも通り。ただ肩の力が抜けたのか少しやわらかな表情をしている。
「んじゃ、明日な」
その顔をいつまでも見ていたくなりそうで、柢王は腰を上げた。ドアに手をかけた時、桂花が、
「柢王」
「ああ?」
「ありがとう」
激変、ではないものの、浮かんだその微笑が胸を貫いて──
眠れないこと決定の柢王は、なんと答えたかもわからないまま、よろよろと自宅に戻ったのだった。
Weather is sometime capricious like you.
「降りますね」
レストランの窓から、晴天の空を眺めていた桂花が呟く。口一杯に皿の上のものを頬張った柢王は、答えられないので黙って頷く。
職業柄、気候にうるさいかれらはすでに、今日のフライトが上空で低気圧に出くわす事を承知している。予定より早い。夜なら遭遇しなかったのに。
「着陸二時間前の辺りと言うと、高気圧の圏内でしたよね」
尋ねられた柢王は、今度はああと答えた。
「今日は積乱雲山積みだな。あの辺りだとたまに成層圏まで続いてて、そっちに気を取られてたら迂回先も積乱雲ってこともあるよ。しっかし、初めてのフライトが雷だらけってのも気の毒だよなぁ。俺なんか雷と相性がいいのか、いっつも避けて通れんのに」
積乱雲はパイロットの『立ち入り禁止区』だ。
高気圧と低気圧が入り乱れ、雷を包含したその雲の中にまっすぐ突っ込んだら、その機体はかなりの確率で出て来ない。感電している洗濯機で回されたティッシュペーパーのように粉々になって墜落するという話だ。命のスペアがない限り、試してみたい人もいないだろうが。
「ま、機長のお手並み拝見ってことだよな」
気楽そうに笑った柢王も、目の奥まで笑う余裕はない。
「主任、307便、上空で前線に遭遇します」
通信係のアランが上司にそう報告する声に、すみの机にいたティアは顔を上げた。307便はアシュレイたちが乗る機だ。
(大丈夫だよね・・・・・・)
通信室は飛んでいる全ての自社機と交信している。ティアは決して邪魔はしないからと誓いを立てて、今日もここにいさせてもらっているのだ。大画面で雲をチェックしているスタッフに図々しく事情を確認する勇気はない。
気圧がぶつかる範囲は前線と呼ばれ、乱気流が発生し、風圧も強く、気体が揺れる。しかもその辺りはもともと積乱雲が発生しやすい場所だ。積乱雲についてはティアも少しは知っている。パイロットなら近づきたがらない危険地帯。アシュレイだってわかっているはずだ。
(アシュレイ・・・・・・)
ティアは、アシュレイが初フライトの時に買ってくれたブレスレットを握りしめて呟いた。
大丈夫。アシュレイならきっとやれる。
コクピットにいたアシュレイは、空也と空模様を見ていた。前線に遭遇する事はふたりともとっくに知っている。キャビンクルーにも伝えてあるし、必要なら退避姿勢の指示を出すとも伝えてある。適宜、雲を避け、高度を下げて航行するなどの打ち合わせももうしてある。積乱雲も、パネル全面のウェザーレーダーで確認できる。
(大丈夫だ)
アシュレイは呟いて、離陸の準備を始めた。
そんな機長たちの心配をよそに、307便は定刻通りに離陸した。晴天の空は穏やかでスムーズな航行が続いた。機内のサービスにも滞りがなく、アシュレイの挨拶もまあ滞りなく。油断なく全てを確認するコクピットのふたりとは裏腹、順調に帰着空港に近づいていく。
変化があったのは、あと二時間ほどで着陸するかという頃だ。高度は三万フィート。機体は自動操縦で飛行していた。計器を見ていたアシュレイが、眉を寄せて言った。
「空也、乗務員にベルトの確認、指示してくれ。五分後にサイン出すからって」
「了解」
空也がキャビンに指示を伝える。アシュレイは続けて、
「風が出て来た。揺れるぞ。乗客にしばらく揺れるからと伝えさせてくれ。ベルトサイン出したら、手動に切り替えて高度を下げる」
「了解しました。管制に許可を取ります」
「頼む」
アシュレイは計器をすばやくチェックした。コンピューターパネルのなかでエアプレッシャーの値が揺れている。風も強い。操縦ホイールをしっかり掴み、流される気体を左に戻しながら少しずつ高度を落とす準備をする。
視界には雲が幾筋も流れている。高気圧と低気圧がぶつかる前線の圏内に入ったのだ。ウェザーレーダーにも雲の様子が次々と映されている。
CAがベルトを確認したとの報告をよこした。アシュレイは手動に切り替えると、CAたちにも早く席に着くように指示させた。右手前方に切り立った積乱雲。それは予期していた。管制の許可通り、修正した進路に進む。耳には気象情報を告げる通信。積乱雲が発生し、気流が乱れている。テキパキと判断していくのにあわせて、空也への指示も丁寧ではなくなるが、空也も必要最低限の返事しか返さず、計器を読み上げていく。
大きな積乱雲の側を迂回して、ほっと息をつく。と、ふいに機体がぐらりと揺れた。
「やな予感が──」
アシュレイが呟いた瞬間、
「うわぁっ」
ドンッと大きな衝撃が来たかと思うと、ガガガカガガガッとすごい音とともに機体が激しく揺れ始めた。客席で悲鳴が上がる。視界がぶれ、計器画面が揺れて見えない。警告を告げる赤いランプがいくつも目の前に点滅する。
「キャビンに退避姿勢を命令! CAを絶対席から立たせるなっ」
「了解っ! キャビン、コクピット、空也ですっ。退避姿勢を取って下さい、CAも席を立たないようにっ!」
空也の声を聞きながら、アシュレイは吸い込まれるように左に傾く機体を必死で立て直そうと右に操縦ホイールを切った。レバーを引いて出力を上げる。木の葉のように揺れる機体の前に稲妻が走る。巨大な白い塊が目の前に聳え立っていた。
隠れていた積乱雲に左の羽を取られたのだ──
その直前、キャビンでも。
「揺れてきましたね」
桂花が瞳を細めた。柢王も窓の外を見て、
「やばいぞ、この雲──」
いいかけた瞬間、電灯が点滅し、機体に衝撃が走った。悲鳴が上がる。足元からすくわれるような揺れに、テーブルの上の新聞や雑誌が通路に転がり落ちる。窓の外、ピシャリと稲妻が走った。
「片翼取られやがったな!」
柢王がベルトを外して立ち上がった。とたんにぐらりと揺らいで、椅子に手をつく。エコノミーの方から鋭い悲鳴が上がった。柢王は桂花を見た。桂花も立ち上がっている。
「姿勢を低くして下さいっ」
「額に手を当て、姿勢を倒してくださいっ、ヘッダウンっ!」
CAたちが説明した退避姿勢を取らせるために大声で叫び始める。乗客たちは従いながらも揺れるたびに悲鳴をあげる。
体が斜めに押しつけられるような揺れに必死でバランスを取りながら、
「どこ行くんだ?」
柢王はコクピットとは逆の方に行きかけた桂花の腕を掴んだ。桂花は振り向き、
「あなたは先にコクピットへ。吾はエンジンを見に行きます」
「おう、気をつけろよ!」
二手に分かれて、柢王はコクピットに急いだ。とはいえ、歩こうとすると座席に突っ込みかかる揺れだ。乗客の体が伏せたまま、揺れては戻り戻っては揺れ、
「きゃあっ」
「ああっ」
「体を倒して、頭を低くして下さいっ!」
グラインダーズがジャンプシートから叫んでいるのを横目に、這うようにしてコクピットのドアを叩いた。
「アシュレイっ」
アシュレイは両手両足フル活用で目一杯だった。
空也の声が切羽詰って故障個所を報告していく。
「セカンドエンジン、ファイヤ!」
「レフトウィング、スラストダウン!」
パネルの計器の一部が赤とオレンジに激しく点滅している。非常事態だ。
視界は白と灰色の霧のように激しく揺れ動いている。客席からCAたちの声と乗客の悲鳴が聞こえてくる。ガタガタと翼がぶれる音がコクピットまで聞こえる。
(落ち着け! 落ち着け、落ち着けっ!)
視界を切り裂く閃光に身震いしながら、アシュレイは自分に言い聞かせた。
高度を下げろ! だが、出力は落とすな! 自分の体を半分に引き裂かれるように、機体が雲の方に引きずられていく。左のエンジンが火を噴いて停止したので揚力が足りず、高速で飛んでいたらどんどん左に引き込まれる。だが、パワーは落とせない。機体がバランスを崩して雲の中に失速したらアウトだ!
頭のなかを様々な情報が駆け巡る。操縦ホイールを握る手まで揺れるほど機体がガクガク上下する。アシュレイは必死で抵抗のあるホイールを切って右下へと迂回しようとした。腕が強ばり、冷や汗がどんどん流れてくるが、取り乱している暇などない!
(止まるな、絶対に止まるな、動いてくれ!)
機体にそう話しかけながら、
「空也、エルロン切れッ」
「は、はいっ」
尾翼の補助翼を切らせる。行けるか──まだ抵抗が強い。
「キャプテン、第二エンジン消火しましたっ」
「ラジャー! セカンドエンジン・アウト! 高度はっ」
「二万五千──下降していますっ」
後ろの席に滑り込んだ柢王はそのやり取りを息を呑んで見つめている。
アシュレイの両手はがっちりと操縦ホイールを掴み、肩には力が入っている。めまぐるしく動く計器を見ながらすばやく判断し、空也にオーダーする。空也もただそれに従うだけだ。
ふたたび視界に閃光が走る。切り立った巨大な雲に柢王も眉をひそめる。まるで巨大な壁のようだ。計器はまだ赤く点滅し、柢王の膝の上の手がぶれるほど揺れている。
雷のなか、大きな波に浚われるように揺れている機体が少しずつ右に旋回していく。
じれったいほどゆっくりと──
第二エンジンが止まったせいで左の出力が足りないのだ。失速を避けるにはまだまだ下降するしかない。
「高度二万二千フィートに入ります!」
「二万千、二万──」
空也のカウントが短くなっていく。高度が下がっていく。あるいはもう下げすぎだ。
「機長、高度一万八千を切りましたっ」
空也が悲鳴のような声を上げる。
「大丈夫だ! 落ち着けッ」
アシュレイが叩きつけるように叫んだ時──
ふいにふわりと機体が軽くなる。
ランプが赤からオレンジに変わる。
まだ揺れながらも機体が右に大きく迂回し、それに合わせてアシュレイが出力レバーを引き上げた。
「高度二万フィート、二万千──」
機体が上昇していく。そのバランスをホイールとペダルで取りながら、アシュレイが空也に言う。
「風速は?」
「二百二十です」
「このまま持ってあがるぞ!」
「了解!」
ゆらゆらと揺れる機体が上空を目指し始める──
ノックの音がしてコクピットのドアが開いた。入ってきたのは髪も乱れた桂花だ。こめかみを押さえている。
「どうした」
尋ねた柢王に、
「揺れてちょっとぶつけただけです。機長」
後ろの席に座った桂花は、冷静な声でアシュレイの背中に話し掛けた。
「セカンドエンジン以外のエンジンには異常はないようですが、左翼にダメージはあるかもしれないですね」
目に見えない裂傷が入っているかもしれない。アシュレイもぶっきらぼうに、
「わかってる!」
答えた後、目を見開く。まだ雲の圏内にいるから手足も目も空いてない。振り返れないし、振り返りたくもない。でも、
「見に行ってくれたのか」
桂花は落ち着き払った声で答えた。
「自社機ですからね。客室はCAが落ち着かせていますよ。グラインダーズ主任がいますから問題ないでしょう。怪我人もないようです」
「違いねぇ。姉ちゃんときたら俺らより度胸あるからな」
柢王が笑う。
ようやく視界が明るくなって雲の流れも速く、層雲の域に入ったらしい。計器のランプが緑に変わる。揺れが治まり、エンジンの音が静かに聞こえてくる。風はまだ強いが、機体に激しい損傷がなければ、まあ問題ないだろう。
柢王が手を伸ばして空也の肩に軽く触れた。緊張のあまり前かがみになっていた空也が、はっと気づいて姿勢を起こす。
やがて機体は安定し、ふたたび自動操縦に切り替えられたのだった──。
月はない。
静まりかえったその闇に映るものは、いくつかのかたまり。
無表情のまま、手にしていた花を見ると、茎はがっくりと折れ大半の花びらが散ってしまっていた。
桂花は舌打ちすると、倒れている男たちにそれを投げつけ振り返りもせずにその場を後にした。
人という生き物はおよそこんなものだ・・・・・・・いや、始めのうちはまだ良い。
自分の処方する薬がとても効くと、崇められる程度なのだから。
それが、時が経つにつれ儲け話を持ちこんで来る者、脅して配合法を聞きだそうとする者、薬を盗もうとする者・・・・・後を絶たない。
もちろん中には親切な人間もいるが、同じ所に長居することはしなくなった。
親しくなりすぎれば相手の情が厭わしくなるのは目に見えていたし、深入りしたところで、所詮寿命も異なる異種だ、年をとらない自分の容貌を怪しむ者が出てくるだろう。
まるで逃亡生活のような日々。
何かに追われているわけではないのに一定の場所に留まることができない。
「魔族なんて何のために生みだされたんだ・・・・・・」
せめて自分が人間ならば良かった。信じられないほどの短い時間の中で、人はたくましく強く、時には汚く愚かに生を尽くす・・・・・・・そして再び転生する。
魔族には望んでも無理な話だ、魂がないのだから――――――。
魂が無いというのなら・・・・この感情はなんだ?自分にだって感じる心がある、それは魂があるからこそじゃないのか・・・・・魔族など・・望んだわけでもないのに・・・。
先の世での罰だとしたら、これは転生なのか?そして、罰だから来世はないのか。
「何をもって、誰が吾を魔族とした・・・・」
月がない。
普段は押さえ込んでいられる感情の制御が上手くできない。
「ふふ、李々・・・李々が桂花なんて名をつけたりするから・・・・」
弱気な自分を誰かに見られる心配すらない今の生活に、ほんの少し疲れていた。
こういう時ばかり、ふらりと人間の男の元を訪れてしまう自分にも、嫌気がさしている。
できるだけこんな明け方は外に出ないようにしていたのだが、上客が発熱し夜中に呼び出されたのだ。医者ではないというのに。
不機嫌を隠し、処方を済ませた桂花に家人が差しだしたのは報酬のみではなかった。
庭で花を咲かせた鮮やかな赤。
それを受けとると、飾らない笑顔を桂花は返したのだった。
「せっかくの花がだいなしになった」
先ほどの不愉快な連中は今ごろ意識が戻って、また性懲りもなく待ち伏せしたりするのだろう。
「短い生をなぜもっと有意義に過ごせない」
皮肉な笑みを浮かべたまま更に歩を進める。
『月は太陽のような恵みの光を持たないわ。でも、ごらんなさい。月を見ているだけでこんなにも心が休まる・・・・そこに在るだけで安心できるの。太陽のように直視できないほど遠い存在じゃないから・・・』
氷のような月を見上げて親しげに、懐かしげに語る李々の傍らで・・・桂花は李々にとっての自分は、あの月のようでありたいと願った。
「だけど李々・・・吾は李々の月にはなれなかったんだね・・・」
じきに夜が明ける。
その時はもう、いつもの自分に戻っている。
今までそうしてきたように。
李々が去った今、彼女以外だれもいらない。
心を開く相手など、必要ない。
その日、運命の相手とめぐり合うことも知らずに桂花はひとり朝を迎えた。
<This is the only calm before the storm>?
明朝のためにチェックアウトを済ませてもらったアシュレイは、ロビーの椅子でやり残したことがないかを思い出していた。
今日は一日、フライトプランと休養に当てた。おかげで頭はすっきり体も万全だ。明日は帰着前に気圧配置の関係で雨になりそうだ。が、刻々と変わる状況に応じての予習はしたし、心配はないだろう。
そう思いながら、ふと昨日の機長たちの話を思い出す。
パイロットの事にとやかく口をはさむのはアシュレイの仕事ではない。桂花はアシュレイよりもフライト歴の長いパイロットだし、ティアを問い詰める事も出来るが、ティアはあれで口の堅いところがある。桂花を嫌っているアシュレイに桂花の事情を話すとも思えない。あのすました奴を好きらしい柢王にも話していないに違いない。
無視すればいいのだが、気にかかる。
桂花のことではなく──あんな奴はどうでもいい。何考えてるかもわからない奴だ──桂花のために天界航空がトラブルに巻き込まれるような事になるのが嫌なのだ。そんなことになったら、ティアが困る。
といっても冥界航空に知人はいない。どうやって確認したらいいだろう。
思っていると、ちょうど玄関のドアから当の桂花が入ってくる。
渡りに船だ!
アシュレイは急いでそちらに行きかけたが、慌てて椅子に身を伏せた。
桂花はひとりではなかった。真赤な髪の、スーツ姿の美しい女と一緒だった。明らかに桂花よりも年上だろうその女に、桂花が見せている笑顔がアシュレイを唖然とさせた。
大事な人に向ける優しい笑顔。いつも自分たちに見せているあのつめたーい愛想笑いはなんなのだっ。
つっこみかけて、アシュレイは首を振った。
(柢王じゃあるまいし、論点がちがうっ)
ふたりはアシュレイのいる椅子の横をすり抜けてフロントへ向かった。
(まさか連れ込むつもりじゃ)
アシュレイは慌てたが、首を振る。そんな心配してどうするっ。
が、幸いアシュレイの読みは外れたらしく、桂花が鍵をうけ取ると女に言った。
「じゃ、ここで、李々。会えてよかったよ」
微笑んだ桂花に、李々と呼ばれた女も優しい笑顔で桂花を見上げた。
「私もよ、桂花。あなたがうまくやっているようで安心したわ」
「李々のおかげだよ。李々がいなかったらこんなにスムーズに行かなかった。感謝してる」
「何を言うの、当然でしょ。うちの主人があんなにあなたに執着しなければ、あなたはいまもうちで飛んでいたのよ。それを・・・いくらあなたがきれいでも、あんなに執着するなんて。いつもはもっとましだったのに」
「いいよ、李々。もう終った事だ。天界航空ではよくしてもらってるし、飛べるなら会社はどこでもいい」
女はそれに頷いた。
「体に気を付けてね。たまには遊びに来て。主人がいない時に」
「うん。李々も気をつけて。本当に送らなくていいの?」
「いいのよ、すぐタクシーを拾うから。じゃ、またね、桂花」
「お休み、李々」
まるで恋人同士のように笑みを交わしてふたりは別れた。女はアシュレイの側をヒールを鳴らして玄関に向かい、桂花はそれを見送るとエレベーターの方へと歩き出した。
「なっなっなっっっっ」
椅子から体を起こしたアシュレイは怒りのあまり真赤になっていた。信じられない、だが、事実だ。
「あっ、あいつ、できてたんだなっ、あの女の亭主とっっっ」
個人的に揉めたいというのはそういうことなのだ。それでティアの天界航空へ移ってきたのだ!
「ティアの奴、そんなこと黙って・・・・・・」
声が震えた。そんな色恋沙汰で天界航空に移動するなんて! しかも飛べればどこの会社でもいいなんてっ!
「ふざけやがってっ」
アシュレイは叫ぶと、すごい勢いで非常階段を昇り始めた。
ティアへの文句は後だ。
まずは柢王を説教してやらなくては──
ガンガンガンカンっ!
ドアを叩く音に、ファイルをめくっていた柢王はため息をついた。
こんな時刻にノックするなら隣の美人であって欲しい。さっき桂花は帰ってきたようだ、気配がした。別に悩ましいバスローブ姿でなくてもいいから仕事のことでも何でも話にきてくれたらいーなーと、全く期待しないで願ってはいたのだが。
例え、偏頭痛で頭が割れそうでも、桂花ならこんなノックの仕方はしないだろう。となると、あとはひとりだけだ。
「柢王っ、柢王、開けろーーーっ」
ガンガンガンっ! 当たり。柢王は肩をすくめてドアに向かった。
扉を開けながら、
「あのな、アシュレイ、ホテルの廊下は公道と同じだから行儀よく──」
言おうとした柢王を遮るようにアシュレイが叫んだ。
「柢王、おまえ、あいつを好きになるのはやめろっ!」
「はいっ?」
「だからっ、あいつを好きになるのはやめろって言ったんだっ。あいつには他に男がいるんだからなっ、ちゃんと聞いたんだからなっ」
アシュレイは走ってきたのか顔は真赤で髪は乱れて息切れしている。それでも足を踏み鳴らし、叫んで、
「聞いてんのかっ、柢王っ!」
「あ、とっとにかく入れよ、声が響くからっ」
「聞こえたって構うかっ」
「まあまあまあまあまあ、とにかく入れって!」
柢王は無理やりアシュレイの腕を掴んで部屋に入れるとため息をついた。何事だ?
「とにかく座って。なんか飲むか食うかするか? おまえ飯食ったか」
なだめる柢王にアシュレイは顔を真赤にして怒った。
「飯なんかどうでもいーから聞けっ、柢王っ!」
「あーもー、わかった、聞くから座れって。ホテルに苦情来んだろーがっ」
柢王は無理やりアシュレイを座らせるとその前の席に腰掛けた。
アシュレイは怒り心頭な様子でルビー色の瞳をぎらぎらさせている。気が短いようでもめったにそんな顔はしない。柢王はため息をついて言った。
「で? 桂花に男がいるとか言ってたよな・・・・・・あいつ、って桂花のことだろ? なんでそんなこと思ったんだ?」
つか男だぞ、女じゃないんだぞと言いたいのを堪える。こともなげに「他に」と言ったが、男に男がいるのはまれだろうが。
「思ってるんじゃない。さっき、あいつ、ロビーで女と会ってて──」
「女? 男じゃなくて?」
アシュレイは柢王の問いを無視して唇を噛んだ。見聞きしたらしい情景が頭によぎったのか、口を開くと火のような勢いでさっきの話と前日のパイロットたちの話とをぶちまけた。
話し終わると息を切らせて断言する。
「だからあいつはその亭主と不倫してたんだ──冥界航空の誰かと揉めて、それで辞めたんだっ。柢王、あいつはおまえにふさわしくないからなっ!」
柢王の顔に浮かんだ表情を──
アシュレイがどう受け取っているかはわからないが、柢王が考えていたのはその話に連なる矛盾点だ。
桂花が天界航空に来たいきさつについては柢王もティアに聞いたことがある。その時、ティアは確かに困った顔をして口篭もっていたが、それが不倫問題であるとは到底思えない。
(つか、ふつー不倫ならその女を疑わねぇか?)
桂花が笑顔満開だったと言うその李々とか言う女、そちらの方がはるかに柢王には気になる。今日の電話はたぶん李々からだ。それに桂花が恩のある人と言っていたのもその女のことではないのか。
その亭主の執着云々とかいう話も気にはなるが、女房と桂花がその仲のよさならむしろ、亭主の勝手なセクハラの方が信じられる。まあ愉快な話でもないが。
(にしても、まあ──)
柢王は考え込んでいる自分を睨むように見つめているアシュレイの顔を盗み見た。
きっと、桂花に出くわさないようにエレベーターを避けて階段を昇ってきたのに違いないのだ。息せき切って、真赤な顔で。
昔から、この勝気小僧は自分の大事なものにはなにひとつ惜しまない。全力で守ろうとするのだ。
その赤毛をなでまわしたいような気持ちになったが、そんなことをしたらよけいに怒るはず。柢王は微笑むと、落ち着いた声で言った。
「知らせに来てくれてありがとうな、アシュレイ。その話は俺から桂花に確かめてみるから──」
「まだあいつと関わる気かっ」
「いや、だって、もしかして万が一ひょっとして仮に桂花に男がいたとしても過去の話らしいし」
「でもあいつはそのせいで会社を辞めたんだぞっ!」
もう確定?
「ま、まあそういうことも俺から一度──」
「なんでだっ、男とつきあってたんだぞ、男とっ!」
だから確定? つか俺も男だし。言い出せない突っ込みが柢王の腹に蓄積する。その様子を逡巡と思ったのか、アシュレイは柢王の顔を睨みつけて叫んだ。
「ふしだらだそ、柢王っ! 俺はおまえがあんな奴にだまされるのなんか絶対に嫌だからなっ!」
というより騙して欲しいくらいだ。柢王は思ったが言わなかった。
もともとアシュレイは桂花を嫌っている。だが、パイロットとしての桂花のことは嫌々でも認めていたはずなのだ。
その相手がそんなふしだらな──ふしだらの使い方は違うと思うし、第一それはまだ仮想の話だが──ことをしていたというのが許せないのだろう。そして、柢王が桂花に関わって傷つく事も許せない。
アシュレイらしいと言えばこの上なくアシュレイらしい。嬉しくもあるし、その短絡とも言いたいような素直な激情が羨ましくもある。
たが、明日はフライトなのだ。
「わかった。とにかく知らせに来てくれて感謝する。このことは俺が何とかするから、おまえはもう休めよ。帰りだからってのんきにしてらんねーだろ。ゆっくり休んでベスト尽くさねーと機長の名が泣くぞ。気にかけてくれて嬉しいよ」
にっこり笑ってそう言うと、アシュレイはようやくああと頷いた。たぶん怒り疲れたのだ。ぐったりしている。
柢王は苦笑して、その肩を抱えると席を立たせた。引きずるようにドアまで連れて行き、優しく微笑んだ。
「ゆっくり眠れよ、アシュレイ。明日も頼むぜ」
アシュレイは何か言いたそうな顔で柢王を見たが、結局、ああとだけ答えると部屋を後にした。
残された柢王は、大きなため息をついてドアにもたれかかった──
It makes my emotion to arouse.
「オールクリアだ。君たちはすばらしかった。今後の活躍を期待するよ」
監査官に笑顔で言われて、にっこり微笑んだ柢王は、会社のみならず自分の面子が守られたことにも感謝した。
ただでさえ距離を開けたがる相手に『パイロットとしてもどうだろう』と思われたらストールしそうだ。
柢王のフライトテーマは『あなたの右エンジンが二基故障したまま着陸したら?』と『乱気流が発生したら?』の二本立て。
答えは、残り二基の左エンジンのみでバランスを取りながら、低出力かつ失速して滑走路に突っ込まないように着陸する、と、発生を予見しすみやかに迂回、だ。言うは易し、行うは技術と冷静さと判断力と・・・・・・まあ、いつもと同じことだ。
朝日に向かって飛ぶまばゆいフライトで、最大風速五十ノット、機体に抵抗を受けながら、ゆるやかにすみやかに乱気流を迂回、高度を下げる。雲を突っ切り、着陸の打ち合わせをして、ゲートウェイで待機。
「スタピライズド」
計器を確認し、機体の安定性を告げる。
「ギア・ダウン、フラップチェック」
「ギア・ダウン、フラップチェック、ラジャー」
桂花の声を聞きながらぐんっと高度を下げていくと、やがて滑走路が見えてくる。
「ミニマム!」
「ランディング!」
向い風を受けるアプローチで、出力レバーと操縦ホイールを操る。右に傾く機体を足元で踏み込んで戻しながら、ゆっくりと3度の角度で車輪をつく。ドンっ、と軽い衝撃のある降り方で更に加速を押さえ、左エンジンのみで逆噴射し、ブレーキをかけるとすみやかに減速する。滑走路のオーバーランは常に危険だが、バランスの取りにくい機体は特に早く止めないと転倒しかねないからだ。
このあたりはもういちいちあれこれ悩んでいるヒマはない。というより、パイロットはどんな場面でも挑む時には瞬時に図式が出来ているものだ。後はその時の状況次第。
桂花は常に冷静だった。気を使う着陸時の荒業にも迷う気配すらない。離陸から着陸まで終始一貫すっきりとしたフライトだったのはそのおかげもあるだろう。
やがて総評などを聞き、各社のパイロットと軽く談笑し、『また今度』と約束してわかれ、全ての手続きを終えて帰り支度をしながら、柢王は桂花に感想を聞いた。
「あなたはどこかにレーダーがついているんですね。吾の読みはよく外れましたが、楽しいフライトでしたよ」
コメントは相変わらずクールだが、その紫の瞳に浮かぶ表情は何よりも確かな賛辞だ。
柢王は微笑んで礼を言った。
(けど、これでこっちもオールクリア・・・・・・ってわけにはいかねぇよなぁ)
どうやら離陸は出来たらしいが、この機長同士のフライトはどこへ行くかさえ定かではない。
「まあ、実りある研修だったってことで」
柢王はグラスを桂花の前のグラスにぶつけて微笑んだ。
研修終了祝いと称して食事と飲みに連れ出したのはむろん柢王だ。ホテルに戻ってから、アシュレイにも電話はしたが、明日がフライトの機長を連れまわすことはしない。激励だけだ。アシュレイもひとりでいたがった。
と、いうことでようやく気にかけることなしに美人とふたりきり。仕事の話は食事の時で終りにして、今度こそプライベートを聞き出さねば。
「なぁ、休みの時はなにしてんだ?」
薄暗い照明に浮かび上がるような白い髪を眺めながら尋ねる。と、
「さあ、色々ですよ。部屋を片付けたり、本を読んだり──」
「デートとか」
「それはあなたでしょう」
「やっぱ、俺のこと少しは関心持ってくれてんのか」
「吾が関心があるなしに関わらず、乗務員はあなたの話をするのが好きですよ」
穏やかに、笑みさえたたえながら──このきれいな迷宮は出口どころか入り口さえわからせてくれる気配がない。
「言っとくけど、俺だってたまには家事とかすることもあるんだぜ?」
半ば子供がすねたような顔でそう言うと、桂花がかすかに笑って、
「たまには、ですか」
照明に紫色の瞳が深くきらめいて、本気で微笑む時の瞳の優しさは反則技だ。打ちのめされるが、それで油断しているうちにもうもとの笑みを浮かべている。
この優しいつれなさが、たまらないとは自分でも呆れる。
「そ、たまには。探しもんが見つからない時とかどーしーもなく腹が減ったけど店はもう開いてない時とか」
「それは本当にたまにですね」
「あと、バスルームにカビがはえかけてる時とか着るもんがない時とか──いっっもクリーニング取りに行くの忘れてさ、向こうが痺れきらせて持って来るんだよな」
「そんなめちゃくちゃな生活をしているくせに、空の上ではよくあれだけ周到になれますね? よほどカンがいいのか、よほど極端かですか」
「責任の問題だろ。俺のうちにカビがはえても困るの俺だけだけど、仕事で俺がとちったら皆が迷惑するじゃん。それは避けたい。あ、言っとくけど、俺、合コンだって休み前しか出ねーし、一時間で帰るからなっ」
柢王は最後の部分を力説したが、桂花は軽く無視して尋ねた。
「どうしてパイロットになったんですか」
桂花が柢王に個人的なことを聞くのはむろん初めてだ。というよりまともに話をしてくれるのさえ。
「教えてもいいけど、何で聞くか教えてくれたらな」
桂花の瞳を見つめる。桂花もそれを見返して、
「なんとなくそんな気になったので」
「嘘でもいいから関心があるって言ってくれてもいいんじゃないか」
「わかりました、では関心があるので」
「嘘なんだろ?」
「嘘でもいいと言ったのはあなたですよ」
桂花は答えたが、憮然とした柢王の顔を見ると、かすかに笑みを深くして、
「わかりました、では本当に関心があるので教えてもらえますか」
「──別に隠す事じゃねーしな」
基本的に負けるのは嫌いだが、この美人の反則技が見られるのなら負けてもいい。最後に笑ったらそれが勝者なのだから。
「うちはさ、親父も腹違いの兄貴たちもみんな航空関係でさ、親父は天界航空のパイロットやってて、まあ、ガキん時から空飛ぶのがあたりまえみたいな感じだったんだよな。それにティアやアシュレイもいたし」
「それだけですか?」
「あとは力を試したかったとか? でもパイロットってみんなそんなもんだろ。他人と競ってどうこうじゃなくて、自分自身の中で一番高いところに昇ってみたいって思ってるもんじゃないのか。すげえ上手い奴がいたら参考にするし、とちったら次はちゃんとかわそうと思うし。けど別に他人をライバル視はしねぇよな、自分でやるしかない事だし。そういう風に自分を鍛えてみたかったのかも」
「オーナーと幼馴染でなかったとしても、民間機を選びました?」
「たぶんな。あいつらなしの人生ってのも考えらんねーけど・・・・・・乗客を乗せて離陸する時って機体が一番重いだろ。重みを感じながら滑走していって宙に浮く時、いっつもすげえ嬉しいんだよな。もし小型でひとり乗りの機ならもっと軽やかに自由に飛べるんだろうけど、でも、俺は重みを背負って飛ぶ方が好きだ。重みを持ったまま加速する世界の方が好きだって思う。片手に責任を持ちながら、もう一方の手で自由を掴む事もできる。そういうことも民間のパイロットになってからわかったしな」
「そうかもしれませんね」
「おまえは何でパイロットになったんだ?」
柢王は尋ねた。と、桂花の顔に表現できないような表情が浮かんだ。
「義理、ですかね、最初は」
「義理?」
「冥界航空に恩のある人がいて、いろいろ面倒見てもらったので、その礼がしたかったのかも」
「それでパイロット目指したって?」
「まあ、最初は。飛ぶようになって、これもいいかと思うようになりましたよ。責任がある仕事だし──吾も重みが欲しかった。自分を繋ぎとめる重みがね。それはあなたとは違いそうですけど」
「重みがないとどっか行きたくなるとか?」
「そうかもしれませんね。自由は大事ですよ。でも、本当に自由なのは自分が引き受けると決めた責任があるときでしょうけれどね」
水割りのグラスに口をつける。柢王はその横顔を見つめた。
短いコメントの中で想像以上の答えをくれた。だが、これは新しい迷宮の入り口だ。その胸のうち全てを聞き出せるまでどれだけこのクールな横顔を見つめる事になるのだろう。
「責任、だけか? おまえを繋ぎとめる重さって」
「いまのところそのようですよ。責任だっていつかは回避したくなるかもしれませんが」
「おまえはそんなことしないよ」
柢王は言った。桂花が瞳だけこちらを見る。
「おまえは、逃げ出したりなんかしないよ。俺にはわかる」
真顔で見つめる柢王と、計るように見返す桂花のまなざしが合う。
放電しそうなその場の空気を救ったのは、桂花のジャケットの胸から響いた鈍い振動だ。
「失礼」
桂花が断って電話に出る。
(ものすごーくいま大事なトコだったよな・・・・・・)
柢王はがっくりとカウンターに肘をつき、桂花が話す顔を見た。
「ああ。いや、平気──本当に? わかった。じゃ、そこにいて。行くから」
優しい声で話している桂花の表情に、むっとするのが自分でわかる。
「友達?」
からむように言ってしまうのがみっともない。が、もうみっともなくてもいい気がする。この美人にはいつもみっともないことしか出来た試しがないのだから。
桂花は電話をしまいながら、
「いいえ。昔からの知り合いが近くまで会いに来てくれたそうなので。話の途中ですみませんが、失礼します」
財布を取り出し、会計を済ませる。
柢王はすねた子供モードに入りながら、ああと答えた。
(このまま潰れてみよっかなー。どうせ明日フライトじゃないし)
思っていると、席の間を抜ける桂花の腕が肩に触れ、
「いろいろ話してくれてありがとう」
振り返った時にはもう桂花は出口に向けて歩いていた。
柢王は舌打ちした。どんな顔で言ってくれたか見逃した。かくなる上はもう一度あの声の響きを聞くしかない!
「次は見てるからなっ」
自分に誓うと、グラスを空にする。
まずは英気を養うために、ホテルに戻って研修のレポートを書こう──
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