投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
Weather is sometime capricious like you.
「降りますね」
レストランの窓から、晴天の空を眺めていた桂花が呟く。口一杯に皿の上のものを頬張った柢王は、答えられないので黙って頷く。
職業柄、気候にうるさいかれらはすでに、今日のフライトが上空で低気圧に出くわす事を承知している。予定より早い。夜なら遭遇しなかったのに。
「着陸二時間前の辺りと言うと、高気圧の圏内でしたよね」
尋ねられた柢王は、今度はああと答えた。
「今日は積乱雲山積みだな。あの辺りだとたまに成層圏まで続いてて、そっちに気を取られてたら迂回先も積乱雲ってこともあるよ。しっかし、初めてのフライトが雷だらけってのも気の毒だよなぁ。俺なんか雷と相性がいいのか、いっつも避けて通れんのに」
積乱雲はパイロットの『立ち入り禁止区』だ。
高気圧と低気圧が入り乱れ、雷を包含したその雲の中にまっすぐ突っ込んだら、その機体はかなりの確率で出て来ない。感電している洗濯機で回されたティッシュペーパーのように粉々になって墜落するという話だ。命のスペアがない限り、試してみたい人もいないだろうが。
「ま、機長のお手並み拝見ってことだよな」
気楽そうに笑った柢王も、目の奥まで笑う余裕はない。
「主任、307便、上空で前線に遭遇します」
通信係のアランが上司にそう報告する声に、すみの机にいたティアは顔を上げた。307便はアシュレイたちが乗る機だ。
(大丈夫だよね・・・・・・)
通信室は飛んでいる全ての自社機と交信している。ティアは決して邪魔はしないからと誓いを立てて、今日もここにいさせてもらっているのだ。大画面で雲をチェックしているスタッフに図々しく事情を確認する勇気はない。
気圧がぶつかる範囲は前線と呼ばれ、乱気流が発生し、風圧も強く、気体が揺れる。しかもその辺りはもともと積乱雲が発生しやすい場所だ。積乱雲についてはティアも少しは知っている。パイロットなら近づきたがらない危険地帯。アシュレイだってわかっているはずだ。
(アシュレイ・・・・・・)
ティアは、アシュレイが初フライトの時に買ってくれたブレスレットを握りしめて呟いた。
大丈夫。アシュレイならきっとやれる。
コクピットにいたアシュレイは、空也と空模様を見ていた。前線に遭遇する事はふたりともとっくに知っている。キャビンクルーにも伝えてあるし、必要なら退避姿勢の指示を出すとも伝えてある。適宜、雲を避け、高度を下げて航行するなどの打ち合わせももうしてある。積乱雲も、パネル全面のウェザーレーダーで確認できる。
(大丈夫だ)
アシュレイは呟いて、離陸の準備を始めた。
そんな機長たちの心配をよそに、307便は定刻通りに離陸した。晴天の空は穏やかでスムーズな航行が続いた。機内のサービスにも滞りがなく、アシュレイの挨拶もまあ滞りなく。油断なく全てを確認するコクピットのふたりとは裏腹、順調に帰着空港に近づいていく。
変化があったのは、あと二時間ほどで着陸するかという頃だ。高度は三万フィート。機体は自動操縦で飛行していた。計器を見ていたアシュレイが、眉を寄せて言った。
「空也、乗務員にベルトの確認、指示してくれ。五分後にサイン出すからって」
「了解」
空也がキャビンに指示を伝える。アシュレイは続けて、
「風が出て来た。揺れるぞ。乗客にしばらく揺れるからと伝えさせてくれ。ベルトサイン出したら、手動に切り替えて高度を下げる」
「了解しました。管制に許可を取ります」
「頼む」
アシュレイは計器をすばやくチェックした。コンピューターパネルのなかでエアプレッシャーの値が揺れている。風も強い。操縦ホイールをしっかり掴み、流される気体を左に戻しながら少しずつ高度を落とす準備をする。
視界には雲が幾筋も流れている。高気圧と低気圧がぶつかる前線の圏内に入ったのだ。ウェザーレーダーにも雲の様子が次々と映されている。
CAがベルトを確認したとの報告をよこした。アシュレイは手動に切り替えると、CAたちにも早く席に着くように指示させた。右手前方に切り立った積乱雲。それは予期していた。管制の許可通り、修正した進路に進む。耳には気象情報を告げる通信。積乱雲が発生し、気流が乱れている。テキパキと判断していくのにあわせて、空也への指示も丁寧ではなくなるが、空也も必要最低限の返事しか返さず、計器を読み上げていく。
大きな積乱雲の側を迂回して、ほっと息をつく。と、ふいに機体がぐらりと揺れた。
「やな予感が──」
アシュレイが呟いた瞬間、
「うわぁっ」
ドンッと大きな衝撃が来たかと思うと、ガガガカガガガッとすごい音とともに機体が激しく揺れ始めた。客席で悲鳴が上がる。視界がぶれ、計器画面が揺れて見えない。警告を告げる赤いランプがいくつも目の前に点滅する。
「キャビンに退避姿勢を命令! CAを絶対席から立たせるなっ」
「了解っ! キャビン、コクピット、空也ですっ。退避姿勢を取って下さい、CAも席を立たないようにっ!」
空也の声を聞きながら、アシュレイは吸い込まれるように左に傾く機体を必死で立て直そうと右に操縦ホイールを切った。レバーを引いて出力を上げる。木の葉のように揺れる機体の前に稲妻が走る。巨大な白い塊が目の前に聳え立っていた。
隠れていた積乱雲に左の羽を取られたのだ──
その直前、キャビンでも。
「揺れてきましたね」
桂花が瞳を細めた。柢王も窓の外を見て、
「やばいぞ、この雲──」
いいかけた瞬間、電灯が点滅し、機体に衝撃が走った。悲鳴が上がる。足元からすくわれるような揺れに、テーブルの上の新聞や雑誌が通路に転がり落ちる。窓の外、ピシャリと稲妻が走った。
「片翼取られやがったな!」
柢王がベルトを外して立ち上がった。とたんにぐらりと揺らいで、椅子に手をつく。エコノミーの方から鋭い悲鳴が上がった。柢王は桂花を見た。桂花も立ち上がっている。
「姿勢を低くして下さいっ」
「額に手を当て、姿勢を倒してくださいっ、ヘッダウンっ!」
CAたちが説明した退避姿勢を取らせるために大声で叫び始める。乗客たちは従いながらも揺れるたびに悲鳴をあげる。
体が斜めに押しつけられるような揺れに必死でバランスを取りながら、
「どこ行くんだ?」
柢王はコクピットとは逆の方に行きかけた桂花の腕を掴んだ。桂花は振り向き、
「あなたは先にコクピットへ。吾はエンジンを見に行きます」
「おう、気をつけろよ!」
二手に分かれて、柢王はコクピットに急いだ。とはいえ、歩こうとすると座席に突っ込みかかる揺れだ。乗客の体が伏せたまま、揺れては戻り戻っては揺れ、
「きゃあっ」
「ああっ」
「体を倒して、頭を低くして下さいっ!」
グラインダーズがジャンプシートから叫んでいるのを横目に、這うようにしてコクピットのドアを叩いた。
「アシュレイっ」
アシュレイは両手両足フル活用で目一杯だった。
空也の声が切羽詰って故障個所を報告していく。
「セカンドエンジン、ファイヤ!」
「レフトウィング、スラストダウン!」
パネルの計器の一部が赤とオレンジに激しく点滅している。非常事態だ。
視界は白と灰色の霧のように激しく揺れ動いている。客席からCAたちの声と乗客の悲鳴が聞こえてくる。ガタガタと翼がぶれる音がコクピットまで聞こえる。
(落ち着け! 落ち着け、落ち着けっ!)
視界を切り裂く閃光に身震いしながら、アシュレイは自分に言い聞かせた。
高度を下げろ! だが、出力は落とすな! 自分の体を半分に引き裂かれるように、機体が雲の方に引きずられていく。左のエンジンが火を噴いて停止したので揚力が足りず、高速で飛んでいたらどんどん左に引き込まれる。だが、パワーは落とせない。機体がバランスを崩して雲の中に失速したらアウトだ!
頭のなかを様々な情報が駆け巡る。操縦ホイールを握る手まで揺れるほど機体がガクガク上下する。アシュレイは必死で抵抗のあるホイールを切って右下へと迂回しようとした。腕が強ばり、冷や汗がどんどん流れてくるが、取り乱している暇などない!
(止まるな、絶対に止まるな、動いてくれ!)
機体にそう話しかけながら、
「空也、エルロン切れッ」
「は、はいっ」
尾翼の補助翼を切らせる。行けるか──まだ抵抗が強い。
「キャプテン、第二エンジン消火しましたっ」
「ラジャー! セカンドエンジン・アウト! 高度はっ」
「二万五千──下降していますっ」
後ろの席に滑り込んだ柢王はそのやり取りを息を呑んで見つめている。
アシュレイの両手はがっちりと操縦ホイールを掴み、肩には力が入っている。めまぐるしく動く計器を見ながらすばやく判断し、空也にオーダーする。空也もただそれに従うだけだ。
ふたたび視界に閃光が走る。切り立った巨大な雲に柢王も眉をひそめる。まるで巨大な壁のようだ。計器はまだ赤く点滅し、柢王の膝の上の手がぶれるほど揺れている。
雷のなか、大きな波に浚われるように揺れている機体が少しずつ右に旋回していく。
じれったいほどゆっくりと──
第二エンジンが止まったせいで左の出力が足りないのだ。失速を避けるにはまだまだ下降するしかない。
「高度二万二千フィートに入ります!」
「二万千、二万──」
空也のカウントが短くなっていく。高度が下がっていく。あるいはもう下げすぎだ。
「機長、高度一万八千を切りましたっ」
空也が悲鳴のような声を上げる。
「大丈夫だ! 落ち着けッ」
アシュレイが叩きつけるように叫んだ時──
ふいにふわりと機体が軽くなる。
ランプが赤からオレンジに変わる。
まだ揺れながらも機体が右に大きく迂回し、それに合わせてアシュレイが出力レバーを引き上げた。
「高度二万フィート、二万千──」
機体が上昇していく。そのバランスをホイールとペダルで取りながら、アシュレイが空也に言う。
「風速は?」
「二百二十です」
「このまま持ってあがるぞ!」
「了解!」
ゆらゆらと揺れる機体が上空を目指し始める──
ノックの音がしてコクピットのドアが開いた。入ってきたのは髪も乱れた桂花だ。こめかみを押さえている。
「どうした」
尋ねた柢王に、
「揺れてちょっとぶつけただけです。機長」
後ろの席に座った桂花は、冷静な声でアシュレイの背中に話し掛けた。
「セカンドエンジン以外のエンジンには異常はないようですが、左翼にダメージはあるかもしれないですね」
目に見えない裂傷が入っているかもしれない。アシュレイもぶっきらぼうに、
「わかってる!」
答えた後、目を見開く。まだ雲の圏内にいるから手足も目も空いてない。振り返れないし、振り返りたくもない。でも、
「見に行ってくれたのか」
桂花は落ち着き払った声で答えた。
「自社機ですからね。客室はCAが落ち着かせていますよ。グラインダーズ主任がいますから問題ないでしょう。怪我人もないようです」
「違いねぇ。姉ちゃんときたら俺らより度胸あるからな」
柢王が笑う。
ようやく視界が明るくなって雲の流れも速く、層雲の域に入ったらしい。計器のランプが緑に変わる。揺れが治まり、エンジンの音が静かに聞こえてくる。風はまだ強いが、機体に激しい損傷がなければ、まあ問題ないだろう。
柢王が手を伸ばして空也の肩に軽く触れた。緊張のあまり前かがみになっていた空也が、はっと気づいて姿勢を起こす。
やがて機体は安定し、ふたたび自動操縦に切り替えられたのだった──。
月はない。
静まりかえったその闇に映るものは、いくつかのかたまり。
無表情のまま、手にしていた花を見ると、茎はがっくりと折れ大半の花びらが散ってしまっていた。
桂花は舌打ちすると、倒れている男たちにそれを投げつけ振り返りもせずにその場を後にした。
人という生き物はおよそこんなものだ・・・・・・・いや、始めのうちはまだ良い。
自分の処方する薬がとても効くと、崇められる程度なのだから。
それが、時が経つにつれ儲け話を持ちこんで来る者、脅して配合法を聞きだそうとする者、薬を盗もうとする者・・・・・後を絶たない。
もちろん中には親切な人間もいるが、同じ所に長居することはしなくなった。
親しくなりすぎれば相手の情が厭わしくなるのは目に見えていたし、深入りしたところで、所詮寿命も異なる異種だ、年をとらない自分の容貌を怪しむ者が出てくるだろう。
まるで逃亡生活のような日々。
何かに追われているわけではないのに一定の場所に留まることができない。
「魔族なんて何のために生みだされたんだ・・・・・・」
せめて自分が人間ならば良かった。信じられないほどの短い時間の中で、人はたくましく強く、時には汚く愚かに生を尽くす・・・・・・・そして再び転生する。
魔族には望んでも無理な話だ、魂がないのだから――――――。
魂が無いというのなら・・・・この感情はなんだ?自分にだって感じる心がある、それは魂があるからこそじゃないのか・・・・・魔族など・・望んだわけでもないのに・・・。
先の世での罰だとしたら、これは転生なのか?そして、罰だから来世はないのか。
「何をもって、誰が吾を魔族とした・・・・」
月がない。
普段は押さえ込んでいられる感情の制御が上手くできない。
「ふふ、李々・・・李々が桂花なんて名をつけたりするから・・・・」
弱気な自分を誰かに見られる心配すらない今の生活に、ほんの少し疲れていた。
こういう時ばかり、ふらりと人間の男の元を訪れてしまう自分にも、嫌気がさしている。
できるだけこんな明け方は外に出ないようにしていたのだが、上客が発熱し夜中に呼び出されたのだ。医者ではないというのに。
不機嫌を隠し、処方を済ませた桂花に家人が差しだしたのは報酬のみではなかった。
庭で花を咲かせた鮮やかな赤。
それを受けとると、飾らない笑顔を桂花は返したのだった。
「せっかくの花がだいなしになった」
先ほどの不愉快な連中は今ごろ意識が戻って、また性懲りもなく待ち伏せしたりするのだろう。
「短い生をなぜもっと有意義に過ごせない」
皮肉な笑みを浮かべたまま更に歩を進める。
『月は太陽のような恵みの光を持たないわ。でも、ごらんなさい。月を見ているだけでこんなにも心が休まる・・・・そこに在るだけで安心できるの。太陽のように直視できないほど遠い存在じゃないから・・・』
氷のような月を見上げて親しげに、懐かしげに語る李々の傍らで・・・桂花は李々にとっての自分は、あの月のようでありたいと願った。
「だけど李々・・・吾は李々の月にはなれなかったんだね・・・」
じきに夜が明ける。
その時はもう、いつもの自分に戻っている。
今までそうしてきたように。
李々が去った今、彼女以外だれもいらない。
心を開く相手など、必要ない。
その日、運命の相手とめぐり合うことも知らずに桂花はひとり朝を迎えた。
<This is the only calm before the storm>?
明朝のためにチェックアウトを済ませてもらったアシュレイは、ロビーの椅子でやり残したことがないかを思い出していた。
今日は一日、フライトプランと休養に当てた。おかげで頭はすっきり体も万全だ。明日は帰着前に気圧配置の関係で雨になりそうだ。が、刻々と変わる状況に応じての予習はしたし、心配はないだろう。
そう思いながら、ふと昨日の機長たちの話を思い出す。
パイロットの事にとやかく口をはさむのはアシュレイの仕事ではない。桂花はアシュレイよりもフライト歴の長いパイロットだし、ティアを問い詰める事も出来るが、ティアはあれで口の堅いところがある。桂花を嫌っているアシュレイに桂花の事情を話すとも思えない。あのすました奴を好きらしい柢王にも話していないに違いない。
無視すればいいのだが、気にかかる。
桂花のことではなく──あんな奴はどうでもいい。何考えてるかもわからない奴だ──桂花のために天界航空がトラブルに巻き込まれるような事になるのが嫌なのだ。そんなことになったら、ティアが困る。
といっても冥界航空に知人はいない。どうやって確認したらいいだろう。
思っていると、ちょうど玄関のドアから当の桂花が入ってくる。
渡りに船だ!
アシュレイは急いでそちらに行きかけたが、慌てて椅子に身を伏せた。
桂花はひとりではなかった。真赤な髪の、スーツ姿の美しい女と一緒だった。明らかに桂花よりも年上だろうその女に、桂花が見せている笑顔がアシュレイを唖然とさせた。
大事な人に向ける優しい笑顔。いつも自分たちに見せているあのつめたーい愛想笑いはなんなのだっ。
つっこみかけて、アシュレイは首を振った。
(柢王じゃあるまいし、論点がちがうっ)
ふたりはアシュレイのいる椅子の横をすり抜けてフロントへ向かった。
(まさか連れ込むつもりじゃ)
アシュレイは慌てたが、首を振る。そんな心配してどうするっ。
が、幸いアシュレイの読みは外れたらしく、桂花が鍵をうけ取ると女に言った。
「じゃ、ここで、李々。会えてよかったよ」
微笑んだ桂花に、李々と呼ばれた女も優しい笑顔で桂花を見上げた。
「私もよ、桂花。あなたがうまくやっているようで安心したわ」
「李々のおかげだよ。李々がいなかったらこんなにスムーズに行かなかった。感謝してる」
「何を言うの、当然でしょ。うちの主人があんなにあなたに執着しなければ、あなたはいまもうちで飛んでいたのよ。それを・・・いくらあなたがきれいでも、あんなに執着するなんて。いつもはもっとましだったのに」
「いいよ、李々。もう終った事だ。天界航空ではよくしてもらってるし、飛べるなら会社はどこでもいい」
女はそれに頷いた。
「体に気を付けてね。たまには遊びに来て。主人がいない時に」
「うん。李々も気をつけて。本当に送らなくていいの?」
「いいのよ、すぐタクシーを拾うから。じゃ、またね、桂花」
「お休み、李々」
まるで恋人同士のように笑みを交わしてふたりは別れた。女はアシュレイの側をヒールを鳴らして玄関に向かい、桂花はそれを見送るとエレベーターの方へと歩き出した。
「なっなっなっっっっ」
椅子から体を起こしたアシュレイは怒りのあまり真赤になっていた。信じられない、だが、事実だ。
「あっ、あいつ、できてたんだなっ、あの女の亭主とっっっ」
個人的に揉めたいというのはそういうことなのだ。それでティアの天界航空へ移ってきたのだ!
「ティアの奴、そんなこと黙って・・・・・・」
声が震えた。そんな色恋沙汰で天界航空に移動するなんて! しかも飛べればどこの会社でもいいなんてっ!
「ふざけやがってっ」
アシュレイは叫ぶと、すごい勢いで非常階段を昇り始めた。
ティアへの文句は後だ。
まずは柢王を説教してやらなくては──
ガンガンガンカンっ!
ドアを叩く音に、ファイルをめくっていた柢王はため息をついた。
こんな時刻にノックするなら隣の美人であって欲しい。さっき桂花は帰ってきたようだ、気配がした。別に悩ましいバスローブ姿でなくてもいいから仕事のことでも何でも話にきてくれたらいーなーと、全く期待しないで願ってはいたのだが。
例え、偏頭痛で頭が割れそうでも、桂花ならこんなノックの仕方はしないだろう。となると、あとはひとりだけだ。
「柢王っ、柢王、開けろーーーっ」
ガンガンガンっ! 当たり。柢王は肩をすくめてドアに向かった。
扉を開けながら、
「あのな、アシュレイ、ホテルの廊下は公道と同じだから行儀よく──」
言おうとした柢王を遮るようにアシュレイが叫んだ。
「柢王、おまえ、あいつを好きになるのはやめろっ!」
「はいっ?」
「だからっ、あいつを好きになるのはやめろって言ったんだっ。あいつには他に男がいるんだからなっ、ちゃんと聞いたんだからなっ」
アシュレイは走ってきたのか顔は真赤で髪は乱れて息切れしている。それでも足を踏み鳴らし、叫んで、
「聞いてんのかっ、柢王っ!」
「あ、とっとにかく入れよ、声が響くからっ」
「聞こえたって構うかっ」
「まあまあまあまあまあ、とにかく入れって!」
柢王は無理やりアシュレイの腕を掴んで部屋に入れるとため息をついた。何事だ?
「とにかく座って。なんか飲むか食うかするか? おまえ飯食ったか」
なだめる柢王にアシュレイは顔を真赤にして怒った。
「飯なんかどうでもいーから聞けっ、柢王っ!」
「あーもー、わかった、聞くから座れって。ホテルに苦情来んだろーがっ」
柢王は無理やりアシュレイを座らせるとその前の席に腰掛けた。
アシュレイは怒り心頭な様子でルビー色の瞳をぎらぎらさせている。気が短いようでもめったにそんな顔はしない。柢王はため息をついて言った。
「で? 桂花に男がいるとか言ってたよな・・・・・・あいつ、って桂花のことだろ? なんでそんなこと思ったんだ?」
つか男だぞ、女じゃないんだぞと言いたいのを堪える。こともなげに「他に」と言ったが、男に男がいるのはまれだろうが。
「思ってるんじゃない。さっき、あいつ、ロビーで女と会ってて──」
「女? 男じゃなくて?」
アシュレイは柢王の問いを無視して唇を噛んだ。見聞きしたらしい情景が頭によぎったのか、口を開くと火のような勢いでさっきの話と前日のパイロットたちの話とをぶちまけた。
話し終わると息を切らせて断言する。
「だからあいつはその亭主と不倫してたんだ──冥界航空の誰かと揉めて、それで辞めたんだっ。柢王、あいつはおまえにふさわしくないからなっ!」
柢王の顔に浮かんだ表情を──
アシュレイがどう受け取っているかはわからないが、柢王が考えていたのはその話に連なる矛盾点だ。
桂花が天界航空に来たいきさつについては柢王もティアに聞いたことがある。その時、ティアは確かに困った顔をして口篭もっていたが、それが不倫問題であるとは到底思えない。
(つか、ふつー不倫ならその女を疑わねぇか?)
桂花が笑顔満開だったと言うその李々とか言う女、そちらの方がはるかに柢王には気になる。今日の電話はたぶん李々からだ。それに桂花が恩のある人と言っていたのもその女のことではないのか。
その亭主の執着云々とかいう話も気にはなるが、女房と桂花がその仲のよさならむしろ、亭主の勝手なセクハラの方が信じられる。まあ愉快な話でもないが。
(にしても、まあ──)
柢王は考え込んでいる自分を睨むように見つめているアシュレイの顔を盗み見た。
きっと、桂花に出くわさないようにエレベーターを避けて階段を昇ってきたのに違いないのだ。息せき切って、真赤な顔で。
昔から、この勝気小僧は自分の大事なものにはなにひとつ惜しまない。全力で守ろうとするのだ。
その赤毛をなでまわしたいような気持ちになったが、そんなことをしたらよけいに怒るはず。柢王は微笑むと、落ち着いた声で言った。
「知らせに来てくれてありがとうな、アシュレイ。その話は俺から桂花に確かめてみるから──」
「まだあいつと関わる気かっ」
「いや、だって、もしかして万が一ひょっとして仮に桂花に男がいたとしても過去の話らしいし」
「でもあいつはそのせいで会社を辞めたんだぞっ!」
もう確定?
「ま、まあそういうことも俺から一度──」
「なんでだっ、男とつきあってたんだぞ、男とっ!」
だから確定? つか俺も男だし。言い出せない突っ込みが柢王の腹に蓄積する。その様子を逡巡と思ったのか、アシュレイは柢王の顔を睨みつけて叫んだ。
「ふしだらだそ、柢王っ! 俺はおまえがあんな奴にだまされるのなんか絶対に嫌だからなっ!」
というより騙して欲しいくらいだ。柢王は思ったが言わなかった。
もともとアシュレイは桂花を嫌っている。だが、パイロットとしての桂花のことは嫌々でも認めていたはずなのだ。
その相手がそんなふしだらな──ふしだらの使い方は違うと思うし、第一それはまだ仮想の話だが──ことをしていたというのが許せないのだろう。そして、柢王が桂花に関わって傷つく事も許せない。
アシュレイらしいと言えばこの上なくアシュレイらしい。嬉しくもあるし、その短絡とも言いたいような素直な激情が羨ましくもある。
たが、明日はフライトなのだ。
「わかった。とにかく知らせに来てくれて感謝する。このことは俺が何とかするから、おまえはもう休めよ。帰りだからってのんきにしてらんねーだろ。ゆっくり休んでベスト尽くさねーと機長の名が泣くぞ。気にかけてくれて嬉しいよ」
にっこり笑ってそう言うと、アシュレイはようやくああと頷いた。たぶん怒り疲れたのだ。ぐったりしている。
柢王は苦笑して、その肩を抱えると席を立たせた。引きずるようにドアまで連れて行き、優しく微笑んだ。
「ゆっくり眠れよ、アシュレイ。明日も頼むぜ」
アシュレイは何か言いたそうな顔で柢王を見たが、結局、ああとだけ答えると部屋を後にした。
残された柢王は、大きなため息をついてドアにもたれかかった──
It makes my emotion to arouse.
「オールクリアだ。君たちはすばらしかった。今後の活躍を期待するよ」
監査官に笑顔で言われて、にっこり微笑んだ柢王は、会社のみならず自分の面子が守られたことにも感謝した。
ただでさえ距離を開けたがる相手に『パイロットとしてもどうだろう』と思われたらストールしそうだ。
柢王のフライトテーマは『あなたの右エンジンが二基故障したまま着陸したら?』と『乱気流が発生したら?』の二本立て。
答えは、残り二基の左エンジンのみでバランスを取りながら、低出力かつ失速して滑走路に突っ込まないように着陸する、と、発生を予見しすみやかに迂回、だ。言うは易し、行うは技術と冷静さと判断力と・・・・・・まあ、いつもと同じことだ。
朝日に向かって飛ぶまばゆいフライトで、最大風速五十ノット、機体に抵抗を受けながら、ゆるやかにすみやかに乱気流を迂回、高度を下げる。雲を突っ切り、着陸の打ち合わせをして、ゲートウェイで待機。
「スタピライズド」
計器を確認し、機体の安定性を告げる。
「ギア・ダウン、フラップチェック」
「ギア・ダウン、フラップチェック、ラジャー」
桂花の声を聞きながらぐんっと高度を下げていくと、やがて滑走路が見えてくる。
「ミニマム!」
「ランディング!」
向い風を受けるアプローチで、出力レバーと操縦ホイールを操る。右に傾く機体を足元で踏み込んで戻しながら、ゆっくりと3度の角度で車輪をつく。ドンっ、と軽い衝撃のある降り方で更に加速を押さえ、左エンジンのみで逆噴射し、ブレーキをかけるとすみやかに減速する。滑走路のオーバーランは常に危険だが、バランスの取りにくい機体は特に早く止めないと転倒しかねないからだ。
このあたりはもういちいちあれこれ悩んでいるヒマはない。というより、パイロットはどんな場面でも挑む時には瞬時に図式が出来ているものだ。後はその時の状況次第。
桂花は常に冷静だった。気を使う着陸時の荒業にも迷う気配すらない。離陸から着陸まで終始一貫すっきりとしたフライトだったのはそのおかげもあるだろう。
やがて総評などを聞き、各社のパイロットと軽く談笑し、『また今度』と約束してわかれ、全ての手続きを終えて帰り支度をしながら、柢王は桂花に感想を聞いた。
「あなたはどこかにレーダーがついているんですね。吾の読みはよく外れましたが、楽しいフライトでしたよ」
コメントは相変わらずクールだが、その紫の瞳に浮かぶ表情は何よりも確かな賛辞だ。
柢王は微笑んで礼を言った。
(けど、これでこっちもオールクリア・・・・・・ってわけにはいかねぇよなぁ)
どうやら離陸は出来たらしいが、この機長同士のフライトはどこへ行くかさえ定かではない。
「まあ、実りある研修だったってことで」
柢王はグラスを桂花の前のグラスにぶつけて微笑んだ。
研修終了祝いと称して食事と飲みに連れ出したのはむろん柢王だ。ホテルに戻ってから、アシュレイにも電話はしたが、明日がフライトの機長を連れまわすことはしない。激励だけだ。アシュレイもひとりでいたがった。
と、いうことでようやく気にかけることなしに美人とふたりきり。仕事の話は食事の時で終りにして、今度こそプライベートを聞き出さねば。
「なぁ、休みの時はなにしてんだ?」
薄暗い照明に浮かび上がるような白い髪を眺めながら尋ねる。と、
「さあ、色々ですよ。部屋を片付けたり、本を読んだり──」
「デートとか」
「それはあなたでしょう」
「やっぱ、俺のこと少しは関心持ってくれてんのか」
「吾が関心があるなしに関わらず、乗務員はあなたの話をするのが好きですよ」
穏やかに、笑みさえたたえながら──このきれいな迷宮は出口どころか入り口さえわからせてくれる気配がない。
「言っとくけど、俺だってたまには家事とかすることもあるんだぜ?」
半ば子供がすねたような顔でそう言うと、桂花がかすかに笑って、
「たまには、ですか」
照明に紫色の瞳が深くきらめいて、本気で微笑む時の瞳の優しさは反則技だ。打ちのめされるが、それで油断しているうちにもうもとの笑みを浮かべている。
この優しいつれなさが、たまらないとは自分でも呆れる。
「そ、たまには。探しもんが見つからない時とかどーしーもなく腹が減ったけど店はもう開いてない時とか」
「それは本当にたまにですね」
「あと、バスルームにカビがはえかけてる時とか着るもんがない時とか──いっっもクリーニング取りに行くの忘れてさ、向こうが痺れきらせて持って来るんだよな」
「そんなめちゃくちゃな生活をしているくせに、空の上ではよくあれだけ周到になれますね? よほどカンがいいのか、よほど極端かですか」
「責任の問題だろ。俺のうちにカビがはえても困るの俺だけだけど、仕事で俺がとちったら皆が迷惑するじゃん。それは避けたい。あ、言っとくけど、俺、合コンだって休み前しか出ねーし、一時間で帰るからなっ」
柢王は最後の部分を力説したが、桂花は軽く無視して尋ねた。
「どうしてパイロットになったんですか」
桂花が柢王に個人的なことを聞くのはむろん初めてだ。というよりまともに話をしてくれるのさえ。
「教えてもいいけど、何で聞くか教えてくれたらな」
桂花の瞳を見つめる。桂花もそれを見返して、
「なんとなくそんな気になったので」
「嘘でもいいから関心があるって言ってくれてもいいんじゃないか」
「わかりました、では関心があるので」
「嘘なんだろ?」
「嘘でもいいと言ったのはあなたですよ」
桂花は答えたが、憮然とした柢王の顔を見ると、かすかに笑みを深くして、
「わかりました、では本当に関心があるので教えてもらえますか」
「──別に隠す事じゃねーしな」
基本的に負けるのは嫌いだが、この美人の反則技が見られるのなら負けてもいい。最後に笑ったらそれが勝者なのだから。
「うちはさ、親父も腹違いの兄貴たちもみんな航空関係でさ、親父は天界航空のパイロットやってて、まあ、ガキん時から空飛ぶのがあたりまえみたいな感じだったんだよな。それにティアやアシュレイもいたし」
「それだけですか?」
「あとは力を試したかったとか? でもパイロットってみんなそんなもんだろ。他人と競ってどうこうじゃなくて、自分自身の中で一番高いところに昇ってみたいって思ってるもんじゃないのか。すげえ上手い奴がいたら参考にするし、とちったら次はちゃんとかわそうと思うし。けど別に他人をライバル視はしねぇよな、自分でやるしかない事だし。そういう風に自分を鍛えてみたかったのかも」
「オーナーと幼馴染でなかったとしても、民間機を選びました?」
「たぶんな。あいつらなしの人生ってのも考えらんねーけど・・・・・・乗客を乗せて離陸する時って機体が一番重いだろ。重みを感じながら滑走していって宙に浮く時、いっつもすげえ嬉しいんだよな。もし小型でひとり乗りの機ならもっと軽やかに自由に飛べるんだろうけど、でも、俺は重みを背負って飛ぶ方が好きだ。重みを持ったまま加速する世界の方が好きだって思う。片手に責任を持ちながら、もう一方の手で自由を掴む事もできる。そういうことも民間のパイロットになってからわかったしな」
「そうかもしれませんね」
「おまえは何でパイロットになったんだ?」
柢王は尋ねた。と、桂花の顔に表現できないような表情が浮かんだ。
「義理、ですかね、最初は」
「義理?」
「冥界航空に恩のある人がいて、いろいろ面倒見てもらったので、その礼がしたかったのかも」
「それでパイロット目指したって?」
「まあ、最初は。飛ぶようになって、これもいいかと思うようになりましたよ。責任がある仕事だし──吾も重みが欲しかった。自分を繋ぎとめる重みがね。それはあなたとは違いそうですけど」
「重みがないとどっか行きたくなるとか?」
「そうかもしれませんね。自由は大事ですよ。でも、本当に自由なのは自分が引き受けると決めた責任があるときでしょうけれどね」
水割りのグラスに口をつける。柢王はその横顔を見つめた。
短いコメントの中で想像以上の答えをくれた。だが、これは新しい迷宮の入り口だ。その胸のうち全てを聞き出せるまでどれだけこのクールな横顔を見つめる事になるのだろう。
「責任、だけか? おまえを繋ぎとめる重さって」
「いまのところそのようですよ。責任だっていつかは回避したくなるかもしれませんが」
「おまえはそんなことしないよ」
柢王は言った。桂花が瞳だけこちらを見る。
「おまえは、逃げ出したりなんかしないよ。俺にはわかる」
真顔で見つめる柢王と、計るように見返す桂花のまなざしが合う。
放電しそうなその場の空気を救ったのは、桂花のジャケットの胸から響いた鈍い振動だ。
「失礼」
桂花が断って電話に出る。
(ものすごーくいま大事なトコだったよな・・・・・・)
柢王はがっくりとカウンターに肘をつき、桂花が話す顔を見た。
「ああ。いや、平気──本当に? わかった。じゃ、そこにいて。行くから」
優しい声で話している桂花の表情に、むっとするのが自分でわかる。
「友達?」
からむように言ってしまうのがみっともない。が、もうみっともなくてもいい気がする。この美人にはいつもみっともないことしか出来た試しがないのだから。
桂花は電話をしまいながら、
「いいえ。昔からの知り合いが近くまで会いに来てくれたそうなので。話の途中ですみませんが、失礼します」
財布を取り出し、会計を済ませる。
柢王はすねた子供モードに入りながら、ああと答えた。
(このまま潰れてみよっかなー。どうせ明日フライトじゃないし)
思っていると、席の間を抜ける桂花の腕が肩に触れ、
「いろいろ話してくれてありがとう」
振り返った時にはもう桂花は出口に向けて歩いていた。
柢王は舌打ちした。どんな顔で言ってくれたか見逃した。かくなる上はもう一度あの声の響きを聞くしかない!
「次は見てるからなっ」
自分に誓うと、グラスを空にする。
まずは英気を養うために、ホテルに戻って研修のレポートを書こう──
Check your flight,check your feelings!
ティアは微笑んで受話器を置いた。
見送りで機内まで行った時には、アシュレイは余裕がなかったのか、わかったよしか言わなかったが、いまは打ち合わせ前の時間だというのに、フライトの様子を説明してくれた。
最初の便に乗れなかったのは残念だが、その嬉しそうな声を聞いているとこちらまで嬉しくなった。柢王のような同じスタンスでアシュレイと関われないティアは、せいぜい一日通信室で仕事をして、アシュレイの声が聞こえる度に「がんばって」とか「すごいよ」とか声援を送る事くらいしかない。
それが淋しい気もするが、親友がふたりも自分の会社で働いていてくれるなんてめったにない幸運なのだ。
自分を乗せてくれると言った約束通りに機長になった友人が、誇らしげに報告しに来てくれた時のことを思い出すと、胸が熱くなる。
『おまえとの約束、守れるようになったからな』
涙が止まらないほど嬉しくて、バッカだなぁと呆れられたけれど。
「ほんとうにおめでとう、アシュレイ」
過酷な訓練を終えて、責任ある夢を引き受けてくれた親友に心から祝いを送る。
アシュレイに伝えられなかった諸注意は、同じホテルの柢王から伝えてもらおう。
「つか、パイロットに食中りとか風邪とか万が一落ちたらとか不吉な注意すんなっつーの。つか、落ちたら困るのおまえだろって感じだよな」
タクシーを降りた柢王は、文句を言いながら携帯電話をしまった。
空港からそのまま研修のための施設に行き、手続きをし、一通り施設を見学して、ホテルに戻ってきたところだ。食事をして、予習をしたらもう寝る時間になる。
「ああ、もう腹減った、桂花、飯食おう、飯っ。さすがにおまえも腹減ったろ」
柢王は意図的に桂花の背中を押してロビーに入った。
と、ちょうどティールームから出て来たアシュレイと鉢合わせする。会社指定だからホテルは同じだ。
「よ、アシュレイ」
柢王は笑顔で手を上げたが、アシュレイは柢王が桂花の背を押しているのを見ると眉を上げた。
「俺ら飯行くけど、おまえも来るか」
「いや、俺はクルーと行くから・・・・・・」
アシュレイはちらりと桂花を見て、言いかけた続きを飲み込んだ。
今日のフライト、どうだった? 自分ではわかっているし、クルーも誉めてくれた。でも柢王の意見が聞いてみたい。だが、それを桂花の前で聞くのは嫌だった。自信がないと思われるのもごめんだし、こんなすました奴に批評なんかされたら最悪だ。
と、
「柢王、悪いですが、食事は先にしてください。吾は明日の内容を検討したいので」
「え、いまから?」
アシュレイも驚く。機内食の時間から言えば、もう遅いくらいだ。
「ええ、気になるので」
「飯食ってから、俺もつきあうって。どうせ俺も明後日やるんだし」
「一人の方が頭に入りますから」
桂花は冷静な顔でそう言うと、アシュレイに軽く頭を下げてから歩き出した。おいおいおいっと柢王が呼びかけるのも無視してエレベーターに向かう。アシュレイは瞳を見開いていた。
(なんだ、あいつ、まるで──)
研修のある柢王とはいまを逃したら早くても明日の夜まで会わない。──でも、まさか。自分は桂花とは視線も合わせていないのに。でも・・・・・。
「桂花の後追っかけるなら俺だぞ、アシュレイ」
「なっ、なんで俺がっ」
いきなりの言葉に顔を赤くしたが、ちょっと待てといいそうになったのば事実だ。
柢王は笑って、
「おまえなんでも顔に出るのな。でもおまえの担当はティア。あいつ、もーほんとうにおまえが好きで好きでって感じだよなぁ。あ、おまえの今日のフライト。よかったよ。離着陸もスムーズだったし、揺れもなくて、客として安心してられた。けど、おまえあの挨拶は愛想なさすぎだろ。名所とか天気とかなんか他に言ってやれよな、それがサービスじゃん」
わかったか、とアシュレイの頭を軽く叩く。
アシュレイはその顔を見上げた。振り返りもせずに言ってくれたのは気をつけていてくれたからだ。友達としてだけでなく、機長として、同じ路線を飛んだ同僚としてその言葉はとても嬉しいし、励みになる。
ただ、それとは別の優しさが桂花に対してあるとわかるのが気になる。
「あと、おまえたまに左足だけ強く踏むだろ、ランディングん時。今日はなかったけど、あれ、雨の日は特に気をつけろよ。スリップするから。ってことで、またな。アシュレイ。みんなにもよろしく」
「あ、柢王」
とめようとしたが、言うことを言った柢王はエレベーターへ小走りしている。
が、とめられなくてよかったのだ。
(おまえ、あいつのこと、好きなのか)
嫌いの返事が返らないのがわかるなら、問いなどしない方がいい。
*
実技訓練は実際のコクピットを忠実に再現したフライトシュミレーターで行われる。景色、振動、計器も実際のフライト通りに再現されるその箱の中で、失速やエンジントラブルなど様々な問題を体験する事になる。コクピットにはチェッカーが同乗し、フライトを査定することになっていた。
「HAL377便、離陸を要請します」
シートベルトを着用し、ショルダーハーネスをつけた桂花が機長の席に座っている。耳にはヘッドホン、口もにはマイク。同じなりの柢王は、桂花の右、副操縦士の席で離陸のチェックをしている。
『HAL377便、離陸を許可します』
クリアランスに応えて、機体が安定した走行でタクシーウェイから滑走路に移動する。中央のラインを真正面にいったん静止。夜間飛行だ。真っ暗闇に桂花がつけた離陸時のライトが滑走路を照らす。コクピットは最小限の明かりの中、一面の計器のパネルがほの光っている。
ゆったりと席に落ち着いている桂花が、テイク・オフを告げる。タイヤの音が大きくなり、機体が加速していく。
「ローテーション!」
機首がぐっと持ち上がる。桂花の手は静かに、だが、的確にパワーレバーを押している。加速する機体が上昇し、車輪が浮くかという瞬間、
「V2!」
柢王の報告に、桂花は操縦ホイールとスラストレバーを繰りながら、
「ギア・アップ!レーダー・オン!」
「ギア・アップ!レーダー・オン、ラジャー!」
レバーを引き下げ、レーダーを入れる。画面はまっすぐ走査線が行き交う、異常なし。車輪が引き込まれ、フラップがしまわれたのを告げるランプをすばやく確認する。
本日のお題は『あなたの機体が失速しかけたら?』。
水平を保つのも苦労な機体がストール、つまり速度を失ったらどうなるか。ものすごく最悪の場合、墜落。大概は、揺れる、パニクる、自動で修正がかかるまで待つ。
が、待っていては訓練にはならないので、エンジン出力を弱め、機首を下げ、左右のバランスをとりながら高度を下げて航行、が正解だろう。言うのは簡単だが、やるのは大変だ。
桂花はそれを見事にやった。墨のような闇に機体のライトが道を開くような夜間飛行で、白く流れる雲の中、流されて傾く機体を右に戻しながらなめらかに出力を絞り、機首を下げ、闇の中に滑り込むように下降しながら水平を保って航行した。
離陸から着陸まで、一度たりとも顔色も変えない。的確でむだのないその操作は洗練と呼ぶに値する。柢王へのオーダーも随時、的確。どんな時でも柢王自身が、そろそろこうする、と思った瞬間にぴたりと指示が来るのだ。冷静な声がピシリとオーダーをくれる度、電流が流れるように背筋がぞくぞくする震えた。
査定の結果も納得のオールクリア──ノー・プロプレムだ。
「おまえ、ほんっとすごいわ」
その日の行程を全て終えて、ホテルに帰る道すがら柢王は心から賛嘆をこめた声でそう言った。副操縦士たちに話は聞いていたが、百聞は一見に如かず。実に価値あるフライトだった。
「あんまりタイミングよすぎて愛されてるかと思ったぜ」
笑いながら伺うと、
「吾もあなたの右に座るのが楽しみですよ」
冷静だが、声に本気の響きがあって、柢王は笑った。
同じものを感じて、共有できる相手。そんな相手は実は少ない。打てば響くようなやり取りが緊張の中とても嬉しくて。
アシュレイが機長になってしばらくしたらきっと同じように感じるだろう。アシュレイとも息が合う。
だが、こんな風に心に触れてくる嬉しさは、心を覗かせてくれない相手の一番大切なところへ受け入れてもらったような気がするからだろう。
今日のところはそれで上々。
「オールクリア? 俺なんか八項目も問題点指摘されて本社に大目玉食らったのに?」
「天界航空は前も柢王がオールクリア出したよ。でも、今日はあれだろ、冥界航空から移動したって言う・・・」
「あー、あのきれーな奴? なんだよ、顔もよくてフライトも完璧? ありえないよなぁ」
(なにが完璧だ、あんなの機械みたいなもんだろっ)
植木の陰から聞いていたアシュレイはむっとしながら呟いた。
アシュレイはこの街で二日間待機だ。フライト準備に費やすつもりだったが、無理やりCAたちに誘われて観光に連れ出されたのだ。いつも通り、ティアのお土産だけ買って、食事が済むとすぐにホテルに戻った。そのロビーで研修に来ていた他社のパイロットと遭遇したのだ。
桂花のフライトは研修帰りに乗ったことがある。
印象としては、まるで機械のようだった。静かに離陸し、静かに飛び、なめらかに着陸した。飛んでいるかどうかさえわからないようなフライトだった。
『なんだよ、このすかした飛び方はっ』
客席でそう毒づいたが、本当はわかっている。
客に、飛んでいるとさえ感じさせないフライトは、旅客機最高のフライトなのだ。見回しても誰もかれもゆったりくつろいで、CAたちも余裕をもって接していた。夜間飛行で、パイロットとしては眠気との戦いなのに。
そして、空港に着いた時に絶句した。雪の降った滑走路は薄く凍結しかけていたのだ。本格的な整備の入る前、一番滑りやすい時だ。
くやしい。でも、すごいと思った。だから桂花のフライトを人前で非難した事はない。それはパイロットとして正直じゃないからだ。だが、こんな風に誉められているとむかつくのだ。
「あ、でも、かれって確か、冥界航空のオーナーと何か揉めたんじゃなかったっけ?」
え?
「揉めたって何? 問題起こしたってこと?」
「いや、何か個人的なことだったと思うけど、詳しくは知らない。ただ、あれだけ腕のあるパイロットが他社に移るのを許すなんて、よっぽど引き抜きのオファーがよかったのかなぁ」
アシュレイは眉をひそめた。桂花は引き抜かれたのではない。自分から移ってきたのだ。推薦状もあったし、腕もよかったから願ってもない人材だったとティアが言っていた。
思えばそのティアの嬉しそうな顔を見た時から、桂花への気の持ちようは決まっていたような気もするが、
(そういや、あいつ、あの時なんか隠してそうだったよな・・・・・・)
少し戸惑うような──子供の時から知っているティアの感情はわかるのだ。
(揉めたって、なんだ?)
天界航空はティアにも自分にもみんなにも大事な会社だ。そこで何か揉め事が起きるような事があれば絶対に許せない。
いつの間にか、パイロットたちがいなくなったロビーで、アシュレイはいらいらと唇をかみ締めていた──。
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