投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
It makes my emotion to arouse.
「オールクリアだ。君たちはすばらしかった。今後の活躍を期待するよ」
監査官に笑顔で言われて、にっこり微笑んだ柢王は、会社のみならず自分の面子が守られたことにも感謝した。
ただでさえ距離を開けたがる相手に『パイロットとしてもどうだろう』と思われたらストールしそうだ。
柢王のフライトテーマは『あなたの右エンジンが二基故障したまま着陸したら?』と『乱気流が発生したら?』の二本立て。
答えは、残り二基の左エンジンのみでバランスを取りながら、低出力かつ失速して滑走路に突っ込まないように着陸する、と、発生を予見しすみやかに迂回、だ。言うは易し、行うは技術と冷静さと判断力と・・・・・・まあ、いつもと同じことだ。
朝日に向かって飛ぶまばゆいフライトで、最大風速五十ノット、機体に抵抗を受けながら、ゆるやかにすみやかに乱気流を迂回、高度を下げる。雲を突っ切り、着陸の打ち合わせをして、ゲートウェイで待機。
「スタピライズド」
計器を確認し、機体の安定性を告げる。
「ギア・ダウン、フラップチェック」
「ギア・ダウン、フラップチェック、ラジャー」
桂花の声を聞きながらぐんっと高度を下げていくと、やがて滑走路が見えてくる。
「ミニマム!」
「ランディング!」
向い風を受けるアプローチで、出力レバーと操縦ホイールを操る。右に傾く機体を足元で踏み込んで戻しながら、ゆっくりと3度の角度で車輪をつく。ドンっ、と軽い衝撃のある降り方で更に加速を押さえ、左エンジンのみで逆噴射し、ブレーキをかけるとすみやかに減速する。滑走路のオーバーランは常に危険だが、バランスの取りにくい機体は特に早く止めないと転倒しかねないからだ。
このあたりはもういちいちあれこれ悩んでいるヒマはない。というより、パイロットはどんな場面でも挑む時には瞬時に図式が出来ているものだ。後はその時の状況次第。
桂花は常に冷静だった。気を使う着陸時の荒業にも迷う気配すらない。離陸から着陸まで終始一貫すっきりとしたフライトだったのはそのおかげもあるだろう。
やがて総評などを聞き、各社のパイロットと軽く談笑し、『また今度』と約束してわかれ、全ての手続きを終えて帰り支度をしながら、柢王は桂花に感想を聞いた。
「あなたはどこかにレーダーがついているんですね。吾の読みはよく外れましたが、楽しいフライトでしたよ」
コメントは相変わらずクールだが、その紫の瞳に浮かぶ表情は何よりも確かな賛辞だ。
柢王は微笑んで礼を言った。
(けど、これでこっちもオールクリア・・・・・・ってわけにはいかねぇよなぁ)
どうやら離陸は出来たらしいが、この機長同士のフライトはどこへ行くかさえ定かではない。
「まあ、実りある研修だったってことで」
柢王はグラスを桂花の前のグラスにぶつけて微笑んだ。
研修終了祝いと称して食事と飲みに連れ出したのはむろん柢王だ。ホテルに戻ってから、アシュレイにも電話はしたが、明日がフライトの機長を連れまわすことはしない。激励だけだ。アシュレイもひとりでいたがった。
と、いうことでようやく気にかけることなしに美人とふたりきり。仕事の話は食事の時で終りにして、今度こそプライベートを聞き出さねば。
「なぁ、休みの時はなにしてんだ?」
薄暗い照明に浮かび上がるような白い髪を眺めながら尋ねる。と、
「さあ、色々ですよ。部屋を片付けたり、本を読んだり──」
「デートとか」
「それはあなたでしょう」
「やっぱ、俺のこと少しは関心持ってくれてんのか」
「吾が関心があるなしに関わらず、乗務員はあなたの話をするのが好きですよ」
穏やかに、笑みさえたたえながら──このきれいな迷宮は出口どころか入り口さえわからせてくれる気配がない。
「言っとくけど、俺だってたまには家事とかすることもあるんだぜ?」
半ば子供がすねたような顔でそう言うと、桂花がかすかに笑って、
「たまには、ですか」
照明に紫色の瞳が深くきらめいて、本気で微笑む時の瞳の優しさは反則技だ。打ちのめされるが、それで油断しているうちにもうもとの笑みを浮かべている。
この優しいつれなさが、たまらないとは自分でも呆れる。
「そ、たまには。探しもんが見つからない時とかどーしーもなく腹が減ったけど店はもう開いてない時とか」
「それは本当にたまにですね」
「あと、バスルームにカビがはえかけてる時とか着るもんがない時とか──いっっもクリーニング取りに行くの忘れてさ、向こうが痺れきらせて持って来るんだよな」
「そんなめちゃくちゃな生活をしているくせに、空の上ではよくあれだけ周到になれますね? よほどカンがいいのか、よほど極端かですか」
「責任の問題だろ。俺のうちにカビがはえても困るの俺だけだけど、仕事で俺がとちったら皆が迷惑するじゃん。それは避けたい。あ、言っとくけど、俺、合コンだって休み前しか出ねーし、一時間で帰るからなっ」
柢王は最後の部分を力説したが、桂花は軽く無視して尋ねた。
「どうしてパイロットになったんですか」
桂花が柢王に個人的なことを聞くのはむろん初めてだ。というよりまともに話をしてくれるのさえ。
「教えてもいいけど、何で聞くか教えてくれたらな」
桂花の瞳を見つめる。桂花もそれを見返して、
「なんとなくそんな気になったので」
「嘘でもいいから関心があるって言ってくれてもいいんじゃないか」
「わかりました、では関心があるので」
「嘘なんだろ?」
「嘘でもいいと言ったのはあなたですよ」
桂花は答えたが、憮然とした柢王の顔を見ると、かすかに笑みを深くして、
「わかりました、では本当に関心があるので教えてもらえますか」
「──別に隠す事じゃねーしな」
基本的に負けるのは嫌いだが、この美人の反則技が見られるのなら負けてもいい。最後に笑ったらそれが勝者なのだから。
「うちはさ、親父も腹違いの兄貴たちもみんな航空関係でさ、親父は天界航空のパイロットやってて、まあ、ガキん時から空飛ぶのがあたりまえみたいな感じだったんだよな。それにティアやアシュレイもいたし」
「それだけですか?」
「あとは力を試したかったとか? でもパイロットってみんなそんなもんだろ。他人と競ってどうこうじゃなくて、自分自身の中で一番高いところに昇ってみたいって思ってるもんじゃないのか。すげえ上手い奴がいたら参考にするし、とちったら次はちゃんとかわそうと思うし。けど別に他人をライバル視はしねぇよな、自分でやるしかない事だし。そういう風に自分を鍛えてみたかったのかも」
「オーナーと幼馴染でなかったとしても、民間機を選びました?」
「たぶんな。あいつらなしの人生ってのも考えらんねーけど・・・・・・乗客を乗せて離陸する時って機体が一番重いだろ。重みを感じながら滑走していって宙に浮く時、いっつもすげえ嬉しいんだよな。もし小型でひとり乗りの機ならもっと軽やかに自由に飛べるんだろうけど、でも、俺は重みを背負って飛ぶ方が好きだ。重みを持ったまま加速する世界の方が好きだって思う。片手に責任を持ちながら、もう一方の手で自由を掴む事もできる。そういうことも民間のパイロットになってからわかったしな」
「そうかもしれませんね」
「おまえは何でパイロットになったんだ?」
柢王は尋ねた。と、桂花の顔に表現できないような表情が浮かんだ。
「義理、ですかね、最初は」
「義理?」
「冥界航空に恩のある人がいて、いろいろ面倒見てもらったので、その礼がしたかったのかも」
「それでパイロット目指したって?」
「まあ、最初は。飛ぶようになって、これもいいかと思うようになりましたよ。責任がある仕事だし──吾も重みが欲しかった。自分を繋ぎとめる重みがね。それはあなたとは違いそうですけど」
「重みがないとどっか行きたくなるとか?」
「そうかもしれませんね。自由は大事ですよ。でも、本当に自由なのは自分が引き受けると決めた責任があるときでしょうけれどね」
水割りのグラスに口をつける。柢王はその横顔を見つめた。
短いコメントの中で想像以上の答えをくれた。だが、これは新しい迷宮の入り口だ。その胸のうち全てを聞き出せるまでどれだけこのクールな横顔を見つめる事になるのだろう。
「責任、だけか? おまえを繋ぎとめる重さって」
「いまのところそのようですよ。責任だっていつかは回避したくなるかもしれませんが」
「おまえはそんなことしないよ」
柢王は言った。桂花が瞳だけこちらを見る。
「おまえは、逃げ出したりなんかしないよ。俺にはわかる」
真顔で見つめる柢王と、計るように見返す桂花のまなざしが合う。
放電しそうなその場の空気を救ったのは、桂花のジャケットの胸から響いた鈍い振動だ。
「失礼」
桂花が断って電話に出る。
(ものすごーくいま大事なトコだったよな・・・・・・)
柢王はがっくりとカウンターに肘をつき、桂花が話す顔を見た。
「ああ。いや、平気──本当に? わかった。じゃ、そこにいて。行くから」
優しい声で話している桂花の表情に、むっとするのが自分でわかる。
「友達?」
からむように言ってしまうのがみっともない。が、もうみっともなくてもいい気がする。この美人にはいつもみっともないことしか出来た試しがないのだから。
桂花は電話をしまいながら、
「いいえ。昔からの知り合いが近くまで会いに来てくれたそうなので。話の途中ですみませんが、失礼します」
財布を取り出し、会計を済ませる。
柢王はすねた子供モードに入りながら、ああと答えた。
(このまま潰れてみよっかなー。どうせ明日フライトじゃないし)
思っていると、席の間を抜ける桂花の腕が肩に触れ、
「いろいろ話してくれてありがとう」
振り返った時にはもう桂花は出口に向けて歩いていた。
柢王は舌打ちした。どんな顔で言ってくれたか見逃した。かくなる上はもう一度あの声の響きを聞くしかない!
「次は見てるからなっ」
自分に誓うと、グラスを空にする。
まずは英気を養うために、ホテルに戻って研修のレポートを書こう──
Check your flight,check your feelings!
ティアは微笑んで受話器を置いた。
見送りで機内まで行った時には、アシュレイは余裕がなかったのか、わかったよしか言わなかったが、いまは打ち合わせ前の時間だというのに、フライトの様子を説明してくれた。
最初の便に乗れなかったのは残念だが、その嬉しそうな声を聞いているとこちらまで嬉しくなった。柢王のような同じスタンスでアシュレイと関われないティアは、せいぜい一日通信室で仕事をして、アシュレイの声が聞こえる度に「がんばって」とか「すごいよ」とか声援を送る事くらいしかない。
それが淋しい気もするが、親友がふたりも自分の会社で働いていてくれるなんてめったにない幸運なのだ。
自分を乗せてくれると言った約束通りに機長になった友人が、誇らしげに報告しに来てくれた時のことを思い出すと、胸が熱くなる。
『おまえとの約束、守れるようになったからな』
涙が止まらないほど嬉しくて、バッカだなぁと呆れられたけれど。
「ほんとうにおめでとう、アシュレイ」
過酷な訓練を終えて、責任ある夢を引き受けてくれた親友に心から祝いを送る。
アシュレイに伝えられなかった諸注意は、同じホテルの柢王から伝えてもらおう。
「つか、パイロットに食中りとか風邪とか万が一落ちたらとか不吉な注意すんなっつーの。つか、落ちたら困るのおまえだろって感じだよな」
タクシーを降りた柢王は、文句を言いながら携帯電話をしまった。
空港からそのまま研修のための施設に行き、手続きをし、一通り施設を見学して、ホテルに戻ってきたところだ。食事をして、予習をしたらもう寝る時間になる。
「ああ、もう腹減った、桂花、飯食おう、飯っ。さすがにおまえも腹減ったろ」
柢王は意図的に桂花の背中を押してロビーに入った。
と、ちょうどティールームから出て来たアシュレイと鉢合わせする。会社指定だからホテルは同じだ。
「よ、アシュレイ」
柢王は笑顔で手を上げたが、アシュレイは柢王が桂花の背を押しているのを見ると眉を上げた。
「俺ら飯行くけど、おまえも来るか」
「いや、俺はクルーと行くから・・・・・・」
アシュレイはちらりと桂花を見て、言いかけた続きを飲み込んだ。
今日のフライト、どうだった? 自分ではわかっているし、クルーも誉めてくれた。でも柢王の意見が聞いてみたい。だが、それを桂花の前で聞くのは嫌だった。自信がないと思われるのもごめんだし、こんなすました奴に批評なんかされたら最悪だ。
と、
「柢王、悪いですが、食事は先にしてください。吾は明日の内容を検討したいので」
「え、いまから?」
アシュレイも驚く。機内食の時間から言えば、もう遅いくらいだ。
「ええ、気になるので」
「飯食ってから、俺もつきあうって。どうせ俺も明後日やるんだし」
「一人の方が頭に入りますから」
桂花は冷静な顔でそう言うと、アシュレイに軽く頭を下げてから歩き出した。おいおいおいっと柢王が呼びかけるのも無視してエレベーターに向かう。アシュレイは瞳を見開いていた。
(なんだ、あいつ、まるで──)
研修のある柢王とはいまを逃したら早くても明日の夜まで会わない。──でも、まさか。自分は桂花とは視線も合わせていないのに。でも・・・・・。
「桂花の後追っかけるなら俺だぞ、アシュレイ」
「なっ、なんで俺がっ」
いきなりの言葉に顔を赤くしたが、ちょっと待てといいそうになったのば事実だ。
柢王は笑って、
「おまえなんでも顔に出るのな。でもおまえの担当はティア。あいつ、もーほんとうにおまえが好きで好きでって感じだよなぁ。あ、おまえの今日のフライト。よかったよ。離着陸もスムーズだったし、揺れもなくて、客として安心してられた。けど、おまえあの挨拶は愛想なさすぎだろ。名所とか天気とかなんか他に言ってやれよな、それがサービスじゃん」
わかったか、とアシュレイの頭を軽く叩く。
アシュレイはその顔を見上げた。振り返りもせずに言ってくれたのは気をつけていてくれたからだ。友達としてだけでなく、機長として、同じ路線を飛んだ同僚としてその言葉はとても嬉しいし、励みになる。
ただ、それとは別の優しさが桂花に対してあるとわかるのが気になる。
「あと、おまえたまに左足だけ強く踏むだろ、ランディングん時。今日はなかったけど、あれ、雨の日は特に気をつけろよ。スリップするから。ってことで、またな。アシュレイ。みんなにもよろしく」
「あ、柢王」
とめようとしたが、言うことを言った柢王はエレベーターへ小走りしている。
が、とめられなくてよかったのだ。
(おまえ、あいつのこと、好きなのか)
嫌いの返事が返らないのがわかるなら、問いなどしない方がいい。
*
実技訓練は実際のコクピットを忠実に再現したフライトシュミレーターで行われる。景色、振動、計器も実際のフライト通りに再現されるその箱の中で、失速やエンジントラブルなど様々な問題を体験する事になる。コクピットにはチェッカーが同乗し、フライトを査定することになっていた。
「HAL377便、離陸を要請します」
シートベルトを着用し、ショルダーハーネスをつけた桂花が機長の席に座っている。耳にはヘッドホン、口もにはマイク。同じなりの柢王は、桂花の右、副操縦士の席で離陸のチェックをしている。
『HAL377便、離陸を許可します』
クリアランスに応えて、機体が安定した走行でタクシーウェイから滑走路に移動する。中央のラインを真正面にいったん静止。夜間飛行だ。真っ暗闇に桂花がつけた離陸時のライトが滑走路を照らす。コクピットは最小限の明かりの中、一面の計器のパネルがほの光っている。
ゆったりと席に落ち着いている桂花が、テイク・オフを告げる。タイヤの音が大きくなり、機体が加速していく。
「ローテーション!」
機首がぐっと持ち上がる。桂花の手は静かに、だが、的確にパワーレバーを押している。加速する機体が上昇し、車輪が浮くかという瞬間、
「V2!」
柢王の報告に、桂花は操縦ホイールとスラストレバーを繰りながら、
「ギア・アップ!レーダー・オン!」
「ギア・アップ!レーダー・オン、ラジャー!」
レバーを引き下げ、レーダーを入れる。画面はまっすぐ走査線が行き交う、異常なし。車輪が引き込まれ、フラップがしまわれたのを告げるランプをすばやく確認する。
本日のお題は『あなたの機体が失速しかけたら?』。
水平を保つのも苦労な機体がストール、つまり速度を失ったらどうなるか。ものすごく最悪の場合、墜落。大概は、揺れる、パニクる、自動で修正がかかるまで待つ。
が、待っていては訓練にはならないので、エンジン出力を弱め、機首を下げ、左右のバランスをとりながら高度を下げて航行、が正解だろう。言うのは簡単だが、やるのは大変だ。
桂花はそれを見事にやった。墨のような闇に機体のライトが道を開くような夜間飛行で、白く流れる雲の中、流されて傾く機体を右に戻しながらなめらかに出力を絞り、機首を下げ、闇の中に滑り込むように下降しながら水平を保って航行した。
離陸から着陸まで、一度たりとも顔色も変えない。的確でむだのないその操作は洗練と呼ぶに値する。柢王へのオーダーも随時、的確。どんな時でも柢王自身が、そろそろこうする、と思った瞬間にぴたりと指示が来るのだ。冷静な声がピシリとオーダーをくれる度、電流が流れるように背筋がぞくぞくする震えた。
査定の結果も納得のオールクリア──ノー・プロプレムだ。
「おまえ、ほんっとすごいわ」
その日の行程を全て終えて、ホテルに帰る道すがら柢王は心から賛嘆をこめた声でそう言った。副操縦士たちに話は聞いていたが、百聞は一見に如かず。実に価値あるフライトだった。
「あんまりタイミングよすぎて愛されてるかと思ったぜ」
笑いながら伺うと、
「吾もあなたの右に座るのが楽しみですよ」
冷静だが、声に本気の響きがあって、柢王は笑った。
同じものを感じて、共有できる相手。そんな相手は実は少ない。打てば響くようなやり取りが緊張の中とても嬉しくて。
アシュレイが機長になってしばらくしたらきっと同じように感じるだろう。アシュレイとも息が合う。
だが、こんな風に心に触れてくる嬉しさは、心を覗かせてくれない相手の一番大切なところへ受け入れてもらったような気がするからだろう。
今日のところはそれで上々。
「オールクリア? 俺なんか八項目も問題点指摘されて本社に大目玉食らったのに?」
「天界航空は前も柢王がオールクリア出したよ。でも、今日はあれだろ、冥界航空から移動したって言う・・・」
「あー、あのきれーな奴? なんだよ、顔もよくてフライトも完璧? ありえないよなぁ」
(なにが完璧だ、あんなの機械みたいなもんだろっ)
植木の陰から聞いていたアシュレイはむっとしながら呟いた。
アシュレイはこの街で二日間待機だ。フライト準備に費やすつもりだったが、無理やりCAたちに誘われて観光に連れ出されたのだ。いつも通り、ティアのお土産だけ買って、食事が済むとすぐにホテルに戻った。そのロビーで研修に来ていた他社のパイロットと遭遇したのだ。
桂花のフライトは研修帰りに乗ったことがある。
印象としては、まるで機械のようだった。静かに離陸し、静かに飛び、なめらかに着陸した。飛んでいるかどうかさえわからないようなフライトだった。
『なんだよ、このすかした飛び方はっ』
客席でそう毒づいたが、本当はわかっている。
客に、飛んでいるとさえ感じさせないフライトは、旅客機最高のフライトなのだ。見回しても誰もかれもゆったりくつろいで、CAたちも余裕をもって接していた。夜間飛行で、パイロットとしては眠気との戦いなのに。
そして、空港に着いた時に絶句した。雪の降った滑走路は薄く凍結しかけていたのだ。本格的な整備の入る前、一番滑りやすい時だ。
くやしい。でも、すごいと思った。だから桂花のフライトを人前で非難した事はない。それはパイロットとして正直じゃないからだ。だが、こんな風に誉められているとむかつくのだ。
「あ、でも、かれって確か、冥界航空のオーナーと何か揉めたんじゃなかったっけ?」
え?
「揉めたって何? 問題起こしたってこと?」
「いや、何か個人的なことだったと思うけど、詳しくは知らない。ただ、あれだけ腕のあるパイロットが他社に移るのを許すなんて、よっぽど引き抜きのオファーがよかったのかなぁ」
アシュレイは眉をひそめた。桂花は引き抜かれたのではない。自分から移ってきたのだ。推薦状もあったし、腕もよかったから願ってもない人材だったとティアが言っていた。
思えばそのティアの嬉しそうな顔を見た時から、桂花への気の持ちようは決まっていたような気もするが、
(そういや、あいつ、あの時なんか隠してそうだったよな・・・・・・)
少し戸惑うような──子供の時から知っているティアの感情はわかるのだ。
(揉めたって、なんだ?)
天界航空はティアにも自分にもみんなにも大事な会社だ。そこで何か揉め事が起きるような事があれば絶対に許せない。
いつの間にか、パイロットたちがいなくなったロビーで、アシュレイはいらいらと唇をかみ締めていた──。
Everything All Right? Yes, All Green!
「よし、これで大丈夫、か」
エンジニアたちが動き回る機体を、アシュレイは鋭い目で見ながら最後の点検をしていた。
後数時間後にはこの機体を操って、機長最初のフライトに出るのだ。予習復習イメトレもぱっちり、体調も万全だし、シュミレーターで訓練もした。南回りは気圧の関係で積乱雲が多いところだが、気をつけていれば迂回できる。機長たちが迂回するのも見てきた。
朝日の中で金色の機体はきらきらと輝いている。その機体の下の部分にそっと手を触れて、
「頼むぜ」
囁く。
と、後ろから聞きなれた声がかかった。
「機長、点検ですか」
振り向いたアシュレイの前に空港整備士のナセルが笑顔で立っていた。
「機長の初フライト、楽しみにしてますよ」
額に汗した整備士ににっこり微笑まれて、アシュレイは顔を赤くした。昔馴染みの整備士に機長と呼ばれるのは面映い。それもあってぶっきらぼうに、
「なんだよ、楽しみって。俺は仕事するんだぞ」
「いやあ。アシュレイ機長だとなんか面白い事がありそうなんで。ま、念入りにチェックしましたから、大事に連れてってやって下さいね、機長」
食えない整備士はそう笑う。
「あったりまえだろっ」
アシュレイは答えたが、軽いやりとりが緊張をほぐしてくれる。相手もそれがわかっているのか、
「よい旅を」
Good Luckと微笑んで背を向けた。背中に目がないとわかっているアシュレイの頬に、ようやく小さな笑みが浮かぶ。
コクピットで副操縦士の空也と一緒になった。同乗は初めてでもこの前まで同じ立場の同僚だった。挨拶をして、コクピットを点検する。百項目以上のチェックリストも確認し、キャビンスタッフとのミーティング。時間はどんどん過ぎていく。
「HAL703便、A空港までの航行を要請します」
『HAL703便、許可します』
管制塔のクリアランスが終り、アシュレイはエンジンを作動させた。低いうねりのような振動がする。
(よし、行こう)
自分と機体に言い聞かせ、右隣の空也に頷くと、計器を確認。ゆっくりパワーレバーを押し、ラダーペダルを踏んだ。機体がタクシーウェイを動き出す。離陸前のチェック項目を確認する声だけがする。
離陸のクリアランス。滑走路を前にし、加速をはじめる。足元でバランスを取りながら、スラストレバーを引き、操縦ホイールを操る。タイヤがゴトゴト音を立て、速度がV1を超えた。
もう、飛ぶしかない──
ビジネスシートにもたれた柢王は、ようやく詰めていた息を吐き出した。
パイロットになって何が困るといって、自分がシップにいる時でも無意識に他人の操縦を査定してしまう事だ。車好きが他人の車に乗る時と同じだろう。離着陸は機長が一番神経を使う時間だ。親友の初フライトに思わぬ力が入ったか、自分がテイク・オフしたかのように疲れを感じた。
が、離陸の出来はほぼ上等。加速の仕方も悪くない。
(ま、もともと技術はうまいからな)
感情的にならなければ、アシュレイは素質のいいパイロットだ。トラブルが起きなければ問題なく着陸するだろう。
腕は知っているし、隣で操縦を任せた事もあるのだが、気になるものはなるのだから仕方ない。
やがて機体が翼のぶれもなく上昇していくのを機に、柢王はもうひとりの気になる人物に目を向けた。
込み合った機内、隣のシートに腰掛けた桂花は『エアマンの諸注意』最新版に目を通している。
ようやく昨日連絡が取れて、迎えに行こうかとの問いにも『ラウンジで会いましょう』とさらりかわしてくれた機長は、今日は白っぽいスーツ姿でいつもより少し優しく見える。柢王は足の先まで黒尽くめで、並ぶ二人はさながらチェスボードかチェッカーフラッグ。いつ勝負が始まってもおかしくない微弱電流は健在だ。
「離陸ん時に近くを凝視してると三半規管が狂って酔うって聞いたぞ」
いまさらながらにそう言うと、紫色した瞳がわずかにこちらを向いて、
「振動が激しい場合にはでしょう。いまのは悪くなかったですよ」
無意識にチェックしていても顔には出さないらしく冷静だ。
柢王がそれに口を開くより早く、
「柢王機長、桂花機長、ようこそ」
CAが二人の席の側で足を止めた。燃えるような赤い髪、くっきりしたこの美女はアシュレイの姉、グラインダーズだ。男嫌いで、並みの機長より肝の据わった主任CA。
子供の頃からあれやこれや知られているその才媛に、
「乗っていらしたんですね。あなたがいらしたらアシュレイも安心するでしょう」
社交辞令だけでなく誉めてみたが、敵はにっこりとぴっしりと、
「機長の事はいつでも信用していますのよ。ご用がありましたらお呼びください」
「こえーなー・・・」
柢王は、去って行く背中に呟いたが、再び紙面に顔を落としている桂花を見ると唇を歪めた。
「なあ、勉強はいいが、せっかく四日も一緒にいるんだし、口きいてくれても損はしないぞ」
「吾が相手をしなくてもCAたちが話し相手になってくれそうですが」
「あれは俺じゃなくておまえ目当て。さっきおまえのサービス誰がいくかキャビンで揉めてるの聞いたから」
柢王は、行き交いながらちらちらとこちらに視線を向けるCAたちに、にっこり微笑むと、手を伸ばして桂花のマニュアルをテーブルに伏せた。ようやく桂花がこちらを向く。
「気が立っているんですか」
「いーや。天気もいいしパイロットは親友だしCAは美人だし、何の不満もないよ。隣の美人が相手をしてくれたらな」
からむようににじり寄ると、隣の美人はいつもの笑みを見せて答えた。
「楽しみにしてきましたよ、あなたの、フライトを」
フライトだけかよ──例のごとくクールな答えに、
「俺も楽しみにしてきたよ。おまえとの、絡みを」
負けず嫌いの笑みを浮かべた柢王は、いつの電流がビリビリ放電するのに気もとめてない。
「誰かが電波出してんな」
乱れている計器の針に目をやって、アシュレイは眉をしかめて舌打ちした。トリムが安定してきたからそろそろ自動操縦にしようかというころあいだ。視界は良好、薄い雲が流れる他はまばゆい快晴だ。
「空也、CA呼んで、誰か携帯電話使ってないか確認してもらってくれ」
隣の空也は、はいと答えて、キャビンに電話をした。やって来たCAに、指示を伝えて帰らせると微笑んだ。
「いいテイク・オフでしたね、機長」
離着陸はパイロットの戦場だ。禁止命令がなくても私語などしているひまはない。機体が安定してようやく息をついたアシュレイも空也に向けて笑顔を見せた。
「おまえが的確に動いてくれたからだ。やりやすかった、サンキュ」
機長は手足ともに目いっぱいだから、残りの操作は機長のオーダーで副操縦士がすることになる。間合いが合うと絶妙だが、合わないと最悪だ。まあそこまで合わないこともまたないが。
「機長の指示がよかったからですよ。やっぱり空の上では冷静ですね」
「頭に血が上ったら操縦できねーだろ」
さんざん言われた言葉を言ってみる。おかげで空の上では何とかいつも冷静でいられるようになったのだが。
CAが戻ってきて、やはり使っていらっしゃいましたと告げた。計器の針は安定した。
「機長、そろそろ挨拶ですね。楽しみにしています」
去り際そう言って笑ったCAに自動操縦に切り替えたアシュレイの顔が強張る。用意万端のこのフライトだが、挨拶だけは何度練習してもかみかみで本当に嫌だった。でもしないわけにはいかない。
CAのコメントが終ると、アシュレイは息を吸ってマイクを入れた。
『HAL703便にご搭乗の皆様、誠にありがとうございます。機長のアシュレイ・ロー・ラ・ダイです。当機は目的地A空港まで七時間二十分ののフライトを予定しております。どうぞおくろぎになって空の旅をお楽しみください』
スイッチを切って大きく息をつく。隣の空也が笑って、
「機長、大丈夫でしたよ」
「あー、くそっねこんなん喋らなくたっていーじゃんかっ」
アシュレイは罵った。喋るだけで喉がからからだ。
食事も終って機内はくつろいだ空気が流れている。窓の外は快晴、揺れのない安定したフライトだ。
柢王は、CAがこっそり持ってきてくれたFクラスのシャンパンを飲みながら、桂花の方に視線を向けた。柢王の機内食はいつも通り肉だったが、桂花はベジタリアンミールだった。飲み物は水。
「あんなの飯食ったうちに入るのか」
尋ねた柢王に向けた視線が冷たく思えるのは、離陸前に誘ったレストランでステーキ二人前平らげたのを知られているからだろう。
「この前、ティアとアシュレイと飯食ったら、三人で十五人前焼肉食ってたらしいよ」
からから笑う柢王に、桂花は黙って目を伏せかけたが、
「そういえば、空港でオーナーを見ました」
「ああ、あれだろ。管制塔が立ち入り断ってきたから、見送りだろ。つか、遅いって。おまえが見る時間なら、機長は機内だろうに」
「いえ、見たのは滑走路上です」
「まじでっ?」
「止めようがなかったので止めませんでしたが」
「いーよ止めなくて。どうせとまらねーから。あいつ子供ん時からアシュレイのことには敏感だからなぁ。ステイ先にまで電話してんのにまだ心配するかって感じだよなぁ」
柢王は頭をがりがり掻いた。桂花がかすかに面白そうな顔をする。
「心配性なんですか」
「アシュレイのことに関してだけな。ティアにとってアシュレイはずっとアイドルだから」
柢王は子供の頃の話をいくつか聞かせた。アシュレイが子供らしからぬ生活を送っていたティアを喜ばせるためにした小さな冒険。ティアがどんなにその親友を好きで誇らしく思っているのかを。桂花はそれを黙って聞いていたが、話が終ると、ふ、と微笑んで、
「私のものだ、私のものだ──ですね」
「なんだ、それ」
「テニスンですよ。・・・まだ、話し足りないんですか」
桂花は取り上げようとしたマニュアルを押さえた柢王の顔を見た。
「おまえから話してくれたら解放する」
挑むように見つめる柢王に、クールな機長は微笑んで、
「では、南洋上の高気圧圏内で右手前方に積乱雲、左手前方に乱気流がある場合、あなたの取る航路はどうですか」
「テストかよ」
柢王は突っ込んだが、すぐにいくつか適切な質問をしてさっさと答えた。
「じゃ、燃料がぎりぎりの混み合ったS空港上空で車輪が降りなくなったらどうする?」
全く意図に反した色っぽくない会話なのだが──
すぐに的確な質問と答えを返す相手に刺激され、次から次へと問いを投げ合うふたりの様子は、チェスボードのようだけに丁丁発止。機長VS機長の対決は、尽きることなく延々続いた。
そんなふたりを載せた機体は、やがて機長アシュレイの的確な判断の元、ナイス・ランディングで定刻通りに空港に到着したのだった。
Let's go to your dream!
真っ青な空がどこまでも広がっている。ゴオオオと低い音を立て、重い機体が舞い上がっていく。
展望台からその様を眺めながら、アシュレイはため息をついた。
フライトならもう何度も経験がある。どころか、三千時間超は機長になる条件の一つだ。
テイク・オフの瞬間の、車輪が滑走路を離れる時のあの高揚に似た胸の高鳴り。ふわり浮いて上昇していく時の、やったと叫びたいような爽快感ははじめてコクピットに乗った時から何も変わらない。
なのに、どうしていま、それが不安に思えるなど──
社内で一番若い機長。だが、他人の評価などどうでもいい。問題は、その責任の重さだ。
乗客を乗せ、目的地に辿り着くまで自分の責任であの重い機体を操縦するのだ。過ちは即座に事故に連結しかねない、その責任の重さが胸を締めつける。
「っ、なんでだよ、ようやく夢がかなったのに」
アシュレイは唇をかみしめた。
焔のようなストロベリーブロンドにキラキラ輝く勝気なルビー色の瞳。年若いこのコー・パイロットはあと十日ほどで機長になる。
それはかれが、子供の時に大好きな親友に誓った大切な夢がかなう目前だった。
『大きくなったら、俺がおまえを乗せて飛んでやるから』
子供の頃のティアは、学校が終ると家で経営の勉強をさせられていた。当然の英才教育ではあったろうが、親友のアシュレイや柢王が泥だらけで外で遊んでいてもティアは勉強だ。
アシュレイはそんなティアを不憫に思って、柢王共々よく誘いに行ったものだ。
『ホール遊び? お怪我なさったらどうするんです』
『木登りっ。論外ですっ!』
明らかにそれ目的の時には家政婦に追い返されたが、そうでないときにはまあまあ歓迎された。が、機長の息子とオーナーの跡取、周囲が気を使って気ままには遊ばせてもらえなかった事も多い。
幸い、先代のオーナーという人は寛大だったようで、ティアがアシュレイや柢王とひそかに寄り道したり、こっそり飛行機を見に行ったりする程度の道草は『あの子にも信頼できる友達がいることは大事だから』と大目に見てくれていたらしい。
が、そこで調子に乗ったのが悪かった。
あれはアシュレイが十歳の時の事だ。
一週間、学校からまっすぐ家に帰っていたティアに、どうしても最新の航空図鑑が見せたかったアシュレイは、ティアの家に訪ねていった。
玄関先で断られ、それで帰ればよかったのに、こっそり中庭に忍び込むと、ティアの部屋の前にある木に昇ってテラスから声をかけたのだ。
が、その瞬間、ドアからお茶を持って入ってきた家政婦に見つかった。慌てて逃げようとしたアシュレイは、足を滑らして転落。気絶した。
目を覚ますと病院で、心配と怒りで真赤になった父親にこっぴどく叱られた。
『アシュレイ、若様は将来会社を継がれる大事な方だ、その方の勉強を邪魔するのは、若様の将来を邪魔するのと同じことだっ!』
幸いかすり傷しか負わなかったアシュレイは憤然と言い返した。
『子供の時に遊ばなかったら、ティアはずっと遊べないじゃないか。そんな先のことなんか知るかよっ』
とたんにびったんと張り倒され、強く響く声でこう言われた。
『そんなことが言えるのはおまえが責任を持っていないからだ。世の中には生まれた時から負うべき責任をもっている人がいる。その重みがわかっていたら、おまえはこそこそと会いになど行かなかったはずだぞっ。おまえがテラスから落ちて、若様がどんなに驚かれたと思う? 家政婦も心配していた。若様を友達だと思うなら、若様の心を痛めるようなことなどするな!』
その言葉は胸に応えた。
悔しくて──いや、十の子供にそんな責任云々言われても困るがそうでなく、自分のしたことで大事な人を傷つけてしまったのがくやしくて。
それに、ティアはアシュレイたちと遊ぶのを心から楽しんでくれていたが、だからといって勉強を投げ出したことはなかった。それは、ティアにとってはたぶん大事なものだからだ。
『・・・ティアに謝って来る』
俯きながら、そう言ったアシュレイを父親は黙ってティアの家まで連れて行ってくれた。
玄関先で家政婦がエプロンに顔をうずめて『よかったです』と言ってくれた時も胸が痛んだ。木に登ったこと自体は子供らしい一途さといえなくもないが、そうして過ちを咎めることなく許されるのは、やはりこちらが何もわかってない子供だからだ。
小さい時から負けず嫌いでごめんなさいを言えないアシュレイが、その時は本心からごめんなさいと言った。
居間に出て来たティアも、泣き出しそうな顔でアシュレイに抱きついて、
『ごめんね、アシュレイ! 私が止めてたらあんなこと──』
『ティアのせいじゃない。俺が悪かったんだ。今度からはちゃんと玄関から来る。おまえが勉強してたら邪魔はしないから、ごめん、ティア』
『アシュレイ!』
その後、ふたりで庭に出てもいいといわれて、ティアの部屋の前にある木のところまで言った。青々と葉を茂らせた大木に、ティアがまぶしそうな目を注いで言った。
『こんな大きな木に登るなんて、アシュレイはすごいね。私には無理だよ。勇気があるなぁ』
『俺はおまえの顔が見たかったんだ。ティア、おまえ、勉強好きなのか』
尋ねると、ティアは困った顔をして、
『好きかって言われると・・・・・・でもね、飛行機が飛ぶのを見るのは好きだよ。君や柢王のお父さんが乗っている飛行機を見るのはとてもわくわくするんだ。私は大きくなっても飛行機を操縦する事はないと思うけど、でも、あの大きな金色の翼の飛行機に乗って色々なところに行けたらすごく嬉しいと思う。だからそのために勉強しようと思うんだ』
『飛行機に乗るために?』
『うん。自分の会社の飛行機に乗るために』
『じゃあ、もし俺が親父みたいなパイロットになったら、俺の飛行機に乗ってくれるか』
アシュレイは尋ねた。ティアが瞳を見開く。頬にいままで見たことのない笑みが浮かんだ。
『うん! 君が操縦する飛行機なら絶対に乗りたい!』
『じゃあ、約束だ。大きくなったら、俺がおまえを乗せて飛んでやるから』
『約束だよ!』
「あれが転機だよな」
記憶からいまに心を引き戻して、アシュレイは呟いた。
もともと父親のようにパイロットになるという夢はあった。柢王もそのつもりだったし、アシュレイも黄金の翼を広げて空へ向かう飛行機を見るたびに、そここそが自分の居場所のように思ってきたのだ。
が、その日からはそれはティアの夢にもなった。
だから勉強もした。たまには柢王と三人、ティアの家でも。柢王が学校に行くとふたりで。その頃にはアシュレイは出入り自由になっていた。こまめに連絡をくれる柢王とも絆を保ったまま、やがてティアは経営を、アシュレイは飛行を学ぶために学校に入り──。
やがて柢王の後を追うように天界航空に入った。父親はもう引退していたが、憧れの現場で毎日大好きな飛行機とともに過ごした。
パイロットというのは派手に見えて、地味で忍耐強い仕事だ。
誰より早くコクピットに入り、ずっとコクピットにいて、皆が降りた最後に降りる。その間はずっと神経を使っている。
搭乗する機体や路線が変わるたびに訓練と試験がある。査定試験もあり、健康診断もある。どれかひとつでも落ちると飛べない。会議もあり、機長ともなれば変更の多い諸事情を把握しながら飛行経路を確認する作業もあるから休みも休みでない事もある。
フライトに関しては出たこと勝負は通用しない。予習復習イメトレの上に実際のフライトは成り立っているのだ。空の上は常に渋滞、判断ミスが大事故を引き起こす可能性は常にある。
いままでは機長任せにしていた諸手続きを進めながら、アシュレイはそのプレッシャーを感じ始めていた。
むろん、飛行機は大勢の力があって飛ぶものだ。
それでも、空の上で決断が下せるのは自分だけなのだ。
おかしなものだと自分で思う。初めてひとりで機体を動かした時でもアシュレイはこわいとは思わなかったのだ。自分が翼を持っているような自由さとスピードに感動したほどだった。
パイロットにも他のこと同様にカンのよしあしはある。その意味ではアシュレイはとてもカンがよかった。それにパイロットはいわゆるセンスのある人がセンスにおぼれて努力しなくなる事は少ない職業環境だ。
が、それが全てではない。経験は何よりの宝だ。それに冷静さ──学校でも訓練中にも何度も『おまえはもっと全体を見ろ』とか『感情的になるな』とか叱られた──正確さ、判断の早さ、こだわらなさ。
そして、何より自分が乗客を乗せて飛んでいるのだという自覚だ。
旅客機は客を乗せるのだ。自分だけが満足しても意味がない。パイロットが空を飛べるのはあたりまえ。要はいかに快適で安全な空の旅を与えられるかなのだ。
二年違うだけの柢王を見ていてもその差がわかる。柢王もカンのいい男で、どこかにセンサーでもついているようにどんな状況でもぴたりと決めて迷わない。ふだんは陽気でどちらかと言えば大雑把な性格なのに、空の上では落ち着き払っていて冷静だ。
アシュレイにしても慌てふためきはしないが、それだけ落ち着いていられるかは自信がない。経験、あるいは物事の捉え方。どちらにしろ、これから学ぶべきことだ。
「ここがスタートなんだからな」
アシュレイは自分に言い聞かせた。
初めてのフライトが緊張するのは当然なのだ。機長の重みを感じなければ、責任の重みもまたないがしろにするだろう。
最初の便にティアは乗ることはできないが、たまたま研修に行く柢王と桂花が日程の関係で往復乗ることになった。
「柢王はいいけど、なんであんな奴が」
初めて会った時から嫌いだった桂花の顔を思い出して嫌な顔をしたが、すぐに思い返して首を振った。
「あいつなんか関係ない。俺は機長としての責任をもって仕事するだけだからな」
そう、誰が乗るかは関係ない。自分は自分の役割を果たすだけだ。
機長の試験に受かった時に、あんなに喜んでくれたティアのために。
『夢がかなったんだね、アシュレイ!』
目に涙を浮かべて抱きしめてくれたティアのために。
「よし、負けないぞっ」
アシュレイは空に向かって宣言すると、展望台を後にしたのだった──。
アシュレイの人指し指に小さいけれど深い傷あとがある。
保護したばかりのうさぎに噛まれた時のものだ。
彼にとって初めて自分で保護して塾に連れてきた動物。
人馴れしてなかったうさぎは彼の指に噛みついたが、それを叱りもせずに根気よく世話を続けたアシュレイ。
当時、自分とはあまり口をきいてくれない彼だったので、ティアがその傷が残ってしまっている事に気づいたのはかなり後になってからのことだった。
親友と認めてもらえたあたりから何度か傷あとを消そうかと申し出たが「いい」とそっけない返事ばかり。
どうやらアシュレイはその傷あとを見ては、もう亡くなってしまったうさぎのことを思い出しているらしいのだった。
意外な一面を発見するたび、ますます彼に惹かれたティアだったが、彼の指に残る痕は解せなかった。
その原因をはっきりと悟ったのは―――――。
アシュレイが窓際の席で外に視線をやりながらその指をそっとさすって、無意識なのだろう、唇を押し当てたのを見た瞬間どうしようもない感情に突き動かされた。
ティアは無言で彼の前へ行くと、その傷あとを手光で消してしまおうとしたのだ。
いきなりの事に驚いたアシュレイがティアを突き飛ばし華奢な体が床に転がると、悲鳴をあげた女子がティアの元へと駆けつけた。
思わず逃げ出した彼を追おうとしたが、自分に群がってくる女子に邪魔されて、彼女達の間から見送るだけとなってしまう。
遠ざかる赤い髪を見つめたままティアは唇をかみしめた。
―――――――彼の体に一生残る傷あとを、私もつけたい。
守護するために存在する自分が、何かを傷つけることなど出来ないのはじゅうぶん過ぎるほど承知している。
しかし、うさぎにつけられた傷をあんな風に愛しそうに扱われたらたまらなくなってしまった。
誰よりも大切にしたい存在だからこそ、誰よりも自分のものだけにしたいと思う自我にティアは愕然とした。
人を想うという気持ちには・・・・こんな昏い、濁った感情もあるのかと。
「アシュレイが怪我っ!?」
朝、ティアに会うなり柢王がアシュレイ情報を流してきた。
「昨日な。また魔族狩りに行ってたらしい、しばらく塾休むってよ」
「それで!?ケガってどんな?!」
「わかんね。俺も今朝早くに見舞いに行ったけど謝絶されたから会ってねンだ」
・・・・・どうしよう、自分があんな事を・・・・。
「行かなきゃ!」
「へっ?塾は?八紫仙に怒られんぞ」
「アシュレイの方が大事だよ!」
「・・・・・分かった」
柢王は焦るティアをなだめて、文殊先生から天守塔の方へ連絡を入れて欲しいと頼んでくれた。
「ありがとう、柢王」
「そんな顔すんなよ、アシュレイなんて殺したって死にゃあしね―よ」
ティアの、あまりの顔色の悪さに柢王はアシュレイよりこっちの方がヤベェんじゃないかと、気を揉んだ。
しばらくして、天守塔から護衛の者がやってくると、柢王は「じゃあな、うまくあいつの機嫌直して来いよ」とウィンクをよこした。
「・・・・・やっぱり・・・ばれてる」
最近アシュレイに避けられ続けている自分を気にしてくれていたに違いない。
アシュレイに対するこの気持ちだって、柢王はきっと感づいている。
謝絶されたと言っていたから、本当のところは柢王だって同行して見舞いたいはずだ。
しかしどこまでも気のまわる親友は、自分にアシュレイと二人きりになるチャンスをくれたのだ。
こんな時は本当に守護主天でよかったと思う。
自分が行けば、謝絶されるどころか喜んで招き入れられるに違いない。
「待ってて、アシュレイ」
「なんだよ、思い出し笑いなんて気味悪ぃ」
「―――え?」
手を切ってしまったアシュレイに、手光を当てながら懐かしいことを思い出していたティアは、声をかけられて我にかえる。
「ああ、ごめん・・・ちょっとね」
こうして何度この手に手光を当ててきただろう。
あのころ頑なに、うさぎの噛み傷を消すことを拒んでいたアシュレイだったが、彼が例のシュラムで瀕死状態となったとき、ドサクサにまぎれてとうとう傷あとを消してしまった。
アシュレイは気づいていたようだが、何も言ってこなかったので、ティアも敢えて口にはしなかった。
「――――――そういやお前・・・この指の傷、消したな」
「・・・・き、傷?」
まさにたった今、思い出していたことを指摘され少なからずうろたえてしまう。
「とぼけんな。お前、異様にここの傷あと消したがってたよな・・・そんなに傷あとあるの・・・・嫌か?」
何か勘違いしているようにアシュレイはチラッとティアを見た。
あれは・・・初めて嫉妬という感情を知った日だったのだ。
まだまだ子供の自分に「嫉妬する気持ち」というのは取り扱いが難しく、なんという心の狭い情けない守護主天なのだと自己嫌悪に陥ったものだった。
けれど、今なら甘えついでにかるく「嫉妬してる」と告白できるし、今でも我ながらあきれるくらい色んな物に(者にも)嫉妬し続けている。
「嫉妬だよ。うさぎの噛み傷に嫉妬してたんだ」
「へえぇ?」
アシュレイが間の抜けた声をあげた。
「だって、私には君に傷あとを残すことなんてできないし、それを残して君に一生覚えててもらうことすら不可能だったんだもの」
「・・・なんだそりゃ?」
「でも、もういいんだ。だって・・・・大切な君に傷あとなんて残せるわけないよ。それに今ならこうして・・・」
ティアは素早くアシュレイの首筋に吸いつくと、鉄拳が繰り出される前に凶暴な両手を掴んだ。
「この『あと』はすぐ消えてしまうけど、一生つけ続けるつもりでいるから・・・ね」
何の目的で何をされたのか分からなかったアシュレイが、ハッと気づいた時にはすでにティアのベッドに移動された後だった。
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