投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
ゲルの中は賑やかな笑い声に満ちている。
夕方、桂花のいるゲルにカイシャンが共を連れてやってきたのだ。
従ってきた者の中にはバヤンもいて、ゲルに集った兵士たちが王子のために昔語りをしていた。過去の華々しい活躍ぶりを、多少の誇張は交えながら身振り手振りを加えて話す兵たちに、幼い王子は瞳を輝かせ聞き入っていた。
桂花はその側にいて、食事も取りこぼすほど熱中しているカイシャンの世話を、いつもながら冷静な顔で焼きながら、聞くとはなしに聞いていた。
もっとも、御前でありながら酒の入った兵士たちの声は大きく、聞きたくなくても聞こえたし、熱気に満ちたゲルの中は蒸し暑いほどだった。
ちょうど、兵士のうちでもやや壮年のひとりが、若い頃の武勇伝を得々として語った後、苦笑いで言葉を継いだ。
「とは言え、あんな無茶ができたのは若さゆえと申すものでしょうな。いま同じ事をしろといわれては腰が立たぬわ。戻れるものならあの頃に戻りたいものだ」
戦上手で、戦闘を恐れないのはモンゴルの血だ。その誇りは歳がいくつであろうと変わらない。だからこそ、男の言葉に周囲はどっと笑い崩れた。
と、カイシャンが桂花の顔を見上げて尋ねた。
「歳を取ったら、みんな昔に戻りたいと思うものなのか、桂花」
居合わせた一堂はその言葉にまたも声を上げて笑った。少し離れていた席にいたバヤンが、その男の言葉の奥行きを説明しようとしかけたが、それより早く、カイシャンが言葉を継いだ。
「おまえも、戻りたいと思う時があるのか」
視界の隅で、瞬間、バヤンの顔がなにかいいたげに動いた。が、桂花は落ち着き払った顔で答えた。
「吾にはありません」
漏れ聞いた兵が笑い声を立てる。
「それはそうだ、桂花殿はお若いから」
「まったくだ。そこへ行くとわしなどはもう・・・・・・」
と、話を引き取った兵が自らを肴に場を沸き立たせた。
が、カイシャンはそっと桂花の袖を引くと囁いた。
「本当に、戻りたい時はないのか」
その瞳が真剣といいたいように光る。桂花はそれを見つめたまま答えた。
「ございません」
カイシャンの顔いっぱいに笑みが広がった。
「では、桂花はいまが一番幸せなのだな」
誇らしげにそう尋ねたカイシャンに、桂花は微笑んだだけで何も答えなかった。
夜が更けて、寝付いたカイシャンを寝台に運び、兵たちもおのおのの寝場所に戻った後──
桂花は外へと出た。
目の前に暗く広がる草原。露の匂いが感じられる。かすかに肌寒い大気に空を仰ぐと、濃い群青色の空に満天の星がこぼれおちそうな輝きを宿している。
足を踏み出せば、それが壊れて落ちてきそうな錯覚を抱きながら、桂花は夜露にぬれた草を踏みしだいて、歩いた。さわさわと、草原のざわめきが聞こえるほどの静寂。膚をすぎる冷たい風。
(こうして──)
草原の中を、地上の星のような輝く草を踏みしめて歩いた時があった。
懐かしむように、瞳を細めてそこに佇む。
と、草を踏む音がして、
「桂花殿」
「バヤン殿か」
桂花は振り向きもしなかった。先程の席で、この男がなにかいいたげな目をしていたのは気づいていた。
「どうなされたのです」
尋ねると、バヤンは桂花の隣にきて、
「お聞きしたいことがあったので」
桂花は草原に目を向けたまま、
「聞きたいこと?」
「先程、カイシャン様に桂花殿が言われていた言葉が気になって。桂花殿には、これまでのうちに戻りたいと思う時はないと」
「ええ」
「しかし、私には桂花殿はいささかためらわれたように見えた。あれは、カイシャン様のためにそう答えられたのか」
咎めているわけではない、気がかりそうにそう尋ねたバヤンに、桂花はかすかに微笑した。
(何事もよく気のつく男だ)
たぶん、そう聞きたいのだろうと、声をかけられた時から察していた。桂花は、いいえと答えると、初めて、バヤンの顔を見た。
「確かに、吾がいまより他にないと答えれば、カイシャン様は喜ばれたでしょう。ですが、嘘をついたわけではありません」
「では、桂花殿はいまが一番よい時だと思っておられると言うことか」
疑うのではないが、確信の持てぬようなバヤンの言葉に、桂花はかすかに肩をすくめた。
(ずいぶんと、酷な問いだな)
心の呟きはかけらも見せず、いつもの冷静な顔で答える。
「あいにくと、吾は夢を見ぬ性質なのですよ、バヤン殿。他の時に戻りたいなど、思って見ても仕方のないことでは? 吾はいまあるところにある、それだけですよ」
「では、心には戻ってみたい時があると言うことか」
バヤンが畳み掛けるように聞いた。桂花はそれに再び、肩をすくめた。バヤンが頷いた。
「やはり。それはいつ──幸せだったときのことか」
桂花は今度こそ、小さく声を上げて笑った。
「一体どうしたというのです、バヤン殿。まるで吾が道で迷った子供でもあるかのような言いようだ」
桂花の言葉に、バヤンはかすかに頬を赤くした。が、すぐに真顔に返ると言った。
「私はあなたがカイシャン様の側にいて欲しいと思っているだけだ。カイシャン様にはあなたが必要なのだ。だから、もしも、過去のなにがしかのためにあなたがある日、カイシャン様の元を離れることがあったらと、それが案じられてならぬだけなのだ」
その言葉に、桂花は瞳を鋭くした。
もしも、過去がなかったら──
桂花はそもそもここにはいなかった。過去の何がしかのために、いつかここを去る──それは正確ではないだろう。過去のためではなく、いつも、ただひとりのためだ。そのひとりのためにここにいて、そのひとりを想う気持ちのために愚かな選択をした。
「バヤン殿」
桂花の頬に冷たい笑みが浮かんだ。
「吾はカイシャン様のお側を離れることはありません、少なくとも黙っては。それに、ご心配なさらずとも、吾が戻りたいのは幸せだった時、などではありませんから」
バヤンは桂花の冷ややかさにいくらか戸惑った顔をした。
「では、どのような時に戻りたいと──」
「花の咲いていた夜に」
桂花は答えると、微笑んで、
「もうお休みになられては? また明日」
きびすを返すと、ゲルへと向かった。
ゲルに戻ると、こらえていた想いが胸を突き上げた。
桂花は天幕を握りしめて、切れ切れの息を漏らした。
他愛もない一幕に、こんなにも耐えがたい思いをするなど──絶望などもう慣れたはずなのに。それでも、死んだはずの胸が痛むのは、なんという皮肉なのだろうと、その唇がゆがんだ笑みを宿す。
戻りたいと思う時はないかと聞かれて、否と答えたのは誰かのためではない。過去は語れない、そのためでもない。
戻ることはできない。それが絶対の真実だからだ。
「戻りたい時など・・・・・・」
ない、と言うより他に答えなどあるのだろうか。
戻れるなら──
過去を巻き戻すことができるなら──
(あの、花の咲いていた春の夜に・・・・・)
巨大な月が冴え冴えと輝いていたあの夜に、戻りたい。
やりなおすためではなく、終らせるために。
いつか生まれ変わるかれを、さだめのままに生かせるために──かれを妨げる生よりも、かれの手にかかる生を選びたい。
願いが適うのなら、全てをあの時に終らせて欲しい。
「ふ、馬鹿げている・・・・・・」
桂花は呟いて、唇を歪めた。
そんな願いがことごとく適うというなら、そもそもそんなことを願うことなどなかっただろうに。
「願いなど、死者のものではない・・・・・・・」
過去はまだ遠くない。過去と言い切れるほどなにも終ってなどいない。
それでもいまは、ここにいる。
二度とは戻れない、場所にいるのだ──
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