投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
深紅の絹に重ねた透ける白い布は東領の最高級の生地「白雪」であると、見るものが見ればすぐ判る。
北領に多い色の薄い金髪を高く結いあげた媚明は、父の執務室に向かっていた。
「――これは、媚明様」
「まあ、江青様」
毘沙王の侍従長である江青に行きあい、ドレスの裾をつまんで膝を折る。
「お久しゅうございます。父がお世話になっておりますわ」
「こちらこそ、ご無沙汰しております。ご母堂や姉君方はお元気でいらっしゃいますか」
「はい、おかげさまで。江青様の奥様にも、姉達が良くしていただいているようで、ありがとうございます」
童顔だが妻子持ちの侍従長は、笑顔に緊張感を忍ばせながら言った。
「・・・本日はよろしくお願いいたします」
媚明は微笑んだ。
「わたくしこそ、どうぞよしなに」
会釈した侍従長が立ち去ると、媚明はさりげなく周囲を見回した。
(麒麟がいなければいいのだけれど・・・)
家で待っているペット、リスのヒスイが恋しい。
何度か見かけたことのある、毘沙王山凍の傍らに寄り添う黒麒麟が、媚明はどうしても苦手だった。
(鱗のある生き物なんて嫌だわ・・・。それもあんな大きな・・・)
「・・・憂鬱だわ・・・」
媚明の父はこの北領の大臣の一人である。媚明はその末娘だ。
六人姉妹の末娘。貴族には珍しい、全員が同母の姉妹。しかも美人揃いと評判で、数代前には王族の降嫁もあった、押しも押されもせぬ名家の、最後に残った家付き娘――それが媚明なのである。
当然、文殊塾時代から、天界中の貴族から縁談が持ち込まれた。塾の同級生を通して兄だ叔父だ従兄だと引きあわされたことは数知れず、そんな中でも媚明は、年頃の娘らしく年の近い守護主天や東領の第三王子に憧れる、至って平凡な――本人の主観では――貴族の娘として育ってきたのである。
その令嬢が、二十歳になるというのに婚約者も決まっていないのは、ここが北領であるという理由が大きい。
昨日、嫁ぎ先から媚明の様子を見に来た四番目の姉などは、その様子に苦笑したものだった。
「気が進まない?」
媚明は小さく肯いた。
「媚明は毘沙王様が嫌いかしら?」
「・・・立派な方だと思います。良く東領を治め、領民にも慕われておいでです。ただ・・・姉上方は、お嫌ではありませんか? わたくしがもし、毘沙王様に気に入られてしまったら・・・」
「わたくしは気にならないわ。皆、きっと同じよ」
姉は微笑んだ。
「お友達とのお茶会での話を聞かせてあげたいわ。毘沙王様は、殿方がお考えになるほど女性に慕われているわけではなくてよ。特に、わたくし達くらいの年の女には」
即位二年目の若き王。元服前に不祥事を起こしたとはいえ、北領の唯一の後継ぎであり、天界でただ一人黒麒麟を従えるようになってからは、彼のもとには何人もの女達が伺候した。
最初の頃は、夜会や何かで自然と知り合うよう仕向けられていたのだが、毘沙王――山凍は誰にも眼もくれず、業を煮やした先王や重臣達があからさまに妃候補として会わせる令嬢達をも無視し続けた。
『王様には忘れられない人がいるのだ』と、そんな話を喜ぶのは庶民だけだ。先王や重臣達の憂慮は時を追うごとに深く、そしてまた、『この令嬢ならば』と見込まれた身でありながら、一度会えば義務を――先王や重臣に対する義務を、果たしたとばかりに、終始儀礼的な態度を崩さぬ山凍に、令嬢達の誇りはいたく傷ついた。
最初の妃候補が誰なのか、媚明は知らない。だが恐らく、山凍と同じ年頃の、大貴族の、美貌も気品も教養も王妃として恥ずかしくないだけのものを兼ね備えた令嬢だったことだろう。
その誰かは今頃はもう、誰かの妻となり母となっているのだろう。だが狭い貴族社会で、その誰かは恐らく媚明の知っている女性なのだ。もしかしたら、一番目の姉その人なのかもしれない。年頃から言えば不思議ではない。
最も王妃にふさわしいと思われたであろうその誰かを拒んだ山凍に、媚明の姉達は皆、一度は引き合わされている。そして年上の友人達もまた。
王妃になろうという令嬢達だ。それぞれに誇れる何かがある。そんな彼女達が、『前の娘とは違う』というだけの理由で見込まれ、それに山凍は一顧だにしなかったのだ。
そして、今度は媚明の番だ。大臣の娘であり、そして貴族には珍しい多産の家系という点を見込まれている身として、山凍と見合いして断られてからでなければ、他の家に縁づくこともできないのである。
「わたくし・・・大きな動物はどうしても苦手で・・・」
しかも黒麒麟は、図鑑でしか見たことがない、西領にいる「鰐」という動物を思わせる。黒光りする鱗、細い瞳孔。
文殊塾に通っていた頃、南領の暴れん坊の王子を乗せて宙を駆けている姿を何度か見かけたことがある。跨る方も乗せる方も、あんなものにと、媚明は心底ぞっとしたものだ。
「わたくしのことだって、きっと毘沙王様はお気に召さないでしょうに・・・」
「義務を果たすのだとお考えなさいな、媚明。北領の上級貴族の娘は、毘沙王様のお気に召さないことが判ってからでないと、嫁ぎ先も見つけられないのですもの」
皮肉気に姉は言ったものだ。
「殿方は何故か、女性が皆あの方の妃になりたくて仕方がないものとお考えなのよ。皆さま、毘沙王様に心酔しておいでですもの。毘沙王様も、ご自分はしぶしぶなのに、目の前の女がしぶしぶではないと、まさか本気でお考えではないでしょうけど・・・?」
(・・・無駄なことをしているわ)
媚明は溜息をつく。
山凍に気に入られなければ、父や他の大臣達がうるさい。気に入られればそれで、これまで拒まれた女性達は面白くはあるまい。
(わたくしは、暉蚩城の女主人になりたいわけではないのに・・・)
こうして美しく装って登城したとて、心は晴れない。
「――媚明様。山凍様よりお言付けでございます」
城の侍従に掛けられた声に、媚明はびくりとして振り向く。山凍がわざわざ自分相手に伝言など。
緊張する媚明の前で、その侍従は言った。
「申し訳ないが、会食には少し遅れるので、もう少々お待ちいただきたいと」
「――はい。仰せのとおりにいたしますわ・・・」
媚明はこっそりと溜息をついた。
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