投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
ティアがにこにこと上機嫌で笑っている。
「袖はこうして肩口と手首だけ縫ってくれるかな。こう、ドレープをたっぷり取って、腕が全部見えるように」
「かしこまりましてございます」
「それからもう一着は刺繍を、・・・そうだね、蝶が飛んでいると素敵かな。桂花の刺青に映えるよう。――桂花、ちょっと脱いでくれる?」
「――あの」
懇意の仕立て屋と使い女達に囲まれているティアは、目の前に広げられた無数の布の光沢に照らされてきらきらと輝いていた。
「上半身だけでいいから。後ろ向いて、髪を上げてくれる?」
他人がいるところでは反論の言葉も思うに任せぬ桂花は、使い女達の熱すぎる期待の眼差しにおののきつつ、服の留め具に手をかけた。
「そのままそこに立ってて。すぐに写してしまうから」
桂花がそのとおりに背を露わにすると、しなやかな肩から腕への線、細い首筋から腰までが剥き出しになった。
ティアはデザイン用の画用紙に鉛筆を滑らせる。天界最高の貴人は、あらゆる芸術に造詣が深く、たしなみもあるのだった。
(使い女の視線が痛い・・・)
突き刺さるようなそれ――敵意ではなく、むしろ熱心すぎるそれに桂花はひたすら耐えた。
(これを柢王が知ったら、なんて言うだろうな)
最後にティアは、桂花の両腕の刺青を写し取った。
「そこの透ける、そうそれ。それを袖と背中にして、桂花の刺青に蝶が飛んでいるように刺繍してほしいんだ。金や銀の粉も散らしてみるといいかも」
「黒とは、桂花様のお召し物にしてはお珍しいですね。でもお似合いだと思います」
「桂花は白い服が多いからね。とても似合っているけど、たまには別の色もいいと思うんだ」
「さすが若様、センスが良いですわ」
ティアが仕立て屋や使い女たちと話す声を聞きながら、諦め顔の桂花は素早く服を着た。
(お触りがないだけましと思うべきなんだろうか・・・)
さすがにそんなことをされたら、ここを文字通り飛び出して東領のあの小さな安らげる家に帰る衝動が抑えられなくなってしまうところだった。
「あ、それで、最後の一着なんだけど」
「まだあ・・・!」
桂花は危うく叫びかける。
「・・・あの、守天殿。もうこんなにたくさん作っていただきましたから、これ以上は申し訳ないです・・・」
「気にしないで。桂花にはいつもお世話になっているんだから、ほんのお礼の気持ちだよ。ね、あと一着だけ」
感謝されるのは嬉しい。だが・・・これがお礼? お礼になっているんですか、守天殿? ご自分の楽しみのためなのでは?
そんな桂花の内心の声とは裏腹に、話は勝手に進んでいる。
「最後のはやっぱり白で行こう。襟は高くして、固めの感じで。それだけだと面白くないから、こう、前合わせをね・・・」
「まあ!」
「若様ったら! さすがですわ!」
どんなデザイン画を描いたのか、もう追求する気力が桂花にはなかった。
「上着の丈はこれくらいで、ベルトは低めの位置にしてみようか。そうすると、ちょっと色っぽい雰囲気が出ると思うんだ。それでいい? 桂花」
「なんでも結構です・・・」
守天相手に色気を出す予定は桂花にはない。もう反論する気力がないのと同じくらい確かなことだった。
刻限どおりに扉を叩いた文官のためにその扉を開けたのは、守護主天の親友の側近である魔族だった。詰襟で袖も裾も長い大人しい格好で、白い髪を緩い三つ編みにして右肩の前に流している。
視線を落としたその前を傲然と通り過ぎ、文官は守護主天ティアランディアの机の前に立った。
「守天様、上水敷設工事の計画書をお持ちいたしました」
「御苦労」
文官が説明している間、魔族は無言でティアランディアの傍らに控えている。年若き天界の主は、親友の従者がお気に入りで、事あるごとに側に置いているのだ。
「――分かった、あとで決裁したものを運ばせよう。桂花、私にお茶のお代わりを」
「かしこまりました」
魔族が茶器に向かう。その傍らで一礼して退出しようとした文官は、ぎょっとして動きを止めた。
僅かに前屈みになって茶の準備をしている魔族の、その背中。 詰襟の下から帯を巻いた腰まで、中心にスリットが入り、紫微色の肌が細く覗いている。
服の白の淡い影の下、なめらかそうな、幾分色濃い刺青との二色の肌。
白い髪に白い服と、全身の白の中で、その色が妙に目を惹く。
「どうかしたのか?」
怪訝そうな主の声にはっと我に返り、彼はそそくさと執務室を後にした。
閉まった扉を見やったティアは、二人きりになった執務室で大きく息をついて椅子の背にもたれ、天井をあおいだ。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとう。・・・あのね桂花」
「はい」
「さっきの文官。新しく引く水道の工事を担当してるんだけど」
「はい」
「西国のとある貴族の館の使い女と付き合っている、らしくて」
「で?」
「色々情報を流してるみたいなんだよね・・・。水路の予定経路とか、工事の上限価格とか」
ティアは再び溜息をついて頭を抱えた。
「君の色香に迷って正気に戻ってくれるといいんだけど。そうでないなら、本格的に工事の計画立てる前に手を打たないとならなくなる」
「・・・この背中、そのためだったんですか?」
桂花が今着ている背中心を縫い合わせていない服は、ティアが桂花に贈ったものだ。奇抜な発想は柢王で慣れているし、背中以外は顔と手しか肌の出ない大人しいデザインなので、桂花も深く考えず着ていたのだが。
「いや、それはついで。主に私の目の保養のためだよ」
「守天殿・・・」
「毎日毎日アシュレイにも会えず見るのはあんな顔で無能だったり情報外に流したり資金横領したりどっかの国に利用されたりするのの相手しなきゃならない私の身にもなってみて? 有能・誠実・美貌の秘書相手に多少の目の保養したって何が悪いんだー!」
ティアの目が据わっていた。
(壊れてる・・・?)
桂花もまた溜息をつく。
「手を打つときは教えてください。協力します。ただ首を飛ばすだけでは勿体ないですよ」
最低限でも見せしめは必須、隠れ蓑にして他のも一気に片付けるとか、横領された資金はもちろん3倍くらいにして返してもらわないと。
そう呟いた桂花にティアは手を伸ばした。
「さすが桂花、頼りになるよ。持つべきものは優秀な秘書だよね」
桂花も無言でその手を握り返した。
深紅の絹に重ねた透ける白い布は東領の最高級の生地「白雪」であると、見るものが見ればすぐ判る。
北領に多い色の薄い金髪を高く結いあげた媚明は、父の執務室に向かっていた。
「――これは、媚明様」
「まあ、江青様」
毘沙王の侍従長である江青に行きあい、ドレスの裾をつまんで膝を折る。
「お久しゅうございます。父がお世話になっておりますわ」
「こちらこそ、ご無沙汰しております。ご母堂や姉君方はお元気でいらっしゃいますか」
「はい、おかげさまで。江青様の奥様にも、姉達が良くしていただいているようで、ありがとうございます」
童顔だが妻子持ちの侍従長は、笑顔に緊張感を忍ばせながら言った。
「・・・本日はよろしくお願いいたします」
媚明は微笑んだ。
「わたくしこそ、どうぞよしなに」
会釈した侍従長が立ち去ると、媚明はさりげなく周囲を見回した。
(麒麟がいなければいいのだけれど・・・)
家で待っているペット、リスのヒスイが恋しい。
何度か見かけたことのある、毘沙王山凍の傍らに寄り添う黒麒麟が、媚明はどうしても苦手だった。
(鱗のある生き物なんて嫌だわ・・・。それもあんな大きな・・・)
「・・・憂鬱だわ・・・」
媚明の父はこの北領の大臣の一人である。媚明はその末娘だ。
六人姉妹の末娘。貴族には珍しい、全員が同母の姉妹。しかも美人揃いと評判で、数代前には王族の降嫁もあった、押しも押されもせぬ名家の、最後に残った家付き娘――それが媚明なのである。
当然、文殊塾時代から、天界中の貴族から縁談が持ち込まれた。塾の同級生を通して兄だ叔父だ従兄だと引きあわされたことは数知れず、そんな中でも媚明は、年頃の娘らしく年の近い守護主天や東領の第三王子に憧れる、至って平凡な――本人の主観では――貴族の娘として育ってきたのである。
その令嬢が、二十歳になるというのに婚約者も決まっていないのは、ここが北領であるという理由が大きい。
昨日、嫁ぎ先から媚明の様子を見に来た四番目の姉などは、その様子に苦笑したものだった。
「気が進まない?」
媚明は小さく肯いた。
「媚明は毘沙王様が嫌いかしら?」
「・・・立派な方だと思います。良く東領を治め、領民にも慕われておいでです。ただ・・・姉上方は、お嫌ではありませんか? わたくしがもし、毘沙王様に気に入られてしまったら・・・」
「わたくしは気にならないわ。皆、きっと同じよ」
姉は微笑んだ。
「お友達とのお茶会での話を聞かせてあげたいわ。毘沙王様は、殿方がお考えになるほど女性に慕われているわけではなくてよ。特に、わたくし達くらいの年の女には」
即位二年目の若き王。元服前に不祥事を起こしたとはいえ、北領の唯一の後継ぎであり、天界でただ一人黒麒麟を従えるようになってからは、彼のもとには何人もの女達が伺候した。
最初の頃は、夜会や何かで自然と知り合うよう仕向けられていたのだが、毘沙王――山凍は誰にも眼もくれず、業を煮やした先王や重臣達があからさまに妃候補として会わせる令嬢達をも無視し続けた。
『王様には忘れられない人がいるのだ』と、そんな話を喜ぶのは庶民だけだ。先王や重臣達の憂慮は時を追うごとに深く、そしてまた、『この令嬢ならば』と見込まれた身でありながら、一度会えば義務を――先王や重臣に対する義務を、果たしたとばかりに、終始儀礼的な態度を崩さぬ山凍に、令嬢達の誇りはいたく傷ついた。
最初の妃候補が誰なのか、媚明は知らない。だが恐らく、山凍と同じ年頃の、大貴族の、美貌も気品も教養も王妃として恥ずかしくないだけのものを兼ね備えた令嬢だったことだろう。
その誰かは今頃はもう、誰かの妻となり母となっているのだろう。だが狭い貴族社会で、その誰かは恐らく媚明の知っている女性なのだ。もしかしたら、一番目の姉その人なのかもしれない。年頃から言えば不思議ではない。
最も王妃にふさわしいと思われたであろうその誰かを拒んだ山凍に、媚明の姉達は皆、一度は引き合わされている。そして年上の友人達もまた。
王妃になろうという令嬢達だ。それぞれに誇れる何かがある。そんな彼女達が、『前の娘とは違う』というだけの理由で見込まれ、それに山凍は一顧だにしなかったのだ。
そして、今度は媚明の番だ。大臣の娘であり、そして貴族には珍しい多産の家系という点を見込まれている身として、山凍と見合いして断られてからでなければ、他の家に縁づくこともできないのである。
「わたくし・・・大きな動物はどうしても苦手で・・・」
しかも黒麒麟は、図鑑でしか見たことがない、西領にいる「鰐」という動物を思わせる。黒光りする鱗、細い瞳孔。
文殊塾に通っていた頃、南領の暴れん坊の王子を乗せて宙を駆けている姿を何度か見かけたことがある。跨る方も乗せる方も、あんなものにと、媚明は心底ぞっとしたものだ。
「わたくしのことだって、きっと毘沙王様はお気に召さないでしょうに・・・」
「義務を果たすのだとお考えなさいな、媚明。北領の上級貴族の娘は、毘沙王様のお気に召さないことが判ってからでないと、嫁ぎ先も見つけられないのですもの」
皮肉気に姉は言ったものだ。
「殿方は何故か、女性が皆あの方の妃になりたくて仕方がないものとお考えなのよ。皆さま、毘沙王様に心酔しておいでですもの。毘沙王様も、ご自分はしぶしぶなのに、目の前の女がしぶしぶではないと、まさか本気でお考えではないでしょうけど・・・?」
(・・・無駄なことをしているわ)
媚明は溜息をつく。
山凍に気に入られなければ、父や他の大臣達がうるさい。気に入られればそれで、これまで拒まれた女性達は面白くはあるまい。
(わたくしは、暉蚩城の女主人になりたいわけではないのに・・・)
こうして美しく装って登城したとて、心は晴れない。
「――媚明様。山凍様よりお言付けでございます」
城の侍従に掛けられた声に、媚明はびくりとして振り向く。山凍がわざわざ自分相手に伝言など。
緊張する媚明の前で、その侍従は言った。
「申し訳ないが、会食には少し遅れるので、もう少々お待ちいただきたいと」
「――はい。仰せのとおりにいたしますわ・・・」
媚明はこっそりと溜息をついた。
1306年、6月半ば。
カイシャンが率いるモンゴル高原駐留軍の戦功により、曾祖父であるフビライの即位以来
続いた帝国の内紛がようやく終息し、東西和合がなされた頃。
十代のうちから最前線で過ごすカイシャンは、25歳の夏を迎えようとしていた。
高貴な生まれでありながら辺境の戦地へ追いやられる不遇に耐えて、このアルタイの地で
苦楽を共にする仲間を得、他部族や草原の民からの厚い信頼をも得てきた。
その長い年月の間、皇族とはいえ何の後ろ盾も権力も持たない自分を支えてくれた人達に
どうやって報いていけばよいのだろう。
もどかしい葛藤や心情を、桂花に心のまま打ち明ける中で、カイシャンは初めてハーンと
なって叶えたい帝国構想の夢を自覚したのだった。
周辺国とも友好関係を築き、部族による身分の差のない平和な国を―――。
都から遠く離れた地にいる今は、まだ途方もない夢だとしても。
でも、この陣営の力があれば実現できるかもしれない、いや、なんとしても実現させたい。
厳しい死線をくぐり抜けてきたみんなのためにも。
そう幕僚会議で伝えると、腹心の部下たちの表情もみるみる感極まって。
やがて来る新しい時代への構想を、強く決意した夜だった。
会議のあと、約束どおり桂花のゲルを訪れると。
気持ちが高揚して様々に入り混じるまま、身体の熱もいつまでも引いてくれなくて。
何度も何度も、桂花の存在を肌で確かめるように求めるカイシャンを、全身で抱きとめて
応えてくれるぬくもりに、あらためて深い幸せを感じた。
「…俺についてきてくれるか?」
「ずっと、あなたのお傍におります」
このぬくもりさえあれば、どんな試練も乗り越えていける自信がある。
それほど俺にとっておまえは特別なんだと口説くように、ひときわ濃密な夜を過ごした。
*
暁を迎えるにはまだ幾分か早い、ほの暗い夜明け前。
心地よい夢から目覚めたカイシャンは、うつつに戻ってからもすぐ隣にその夢みた相手が
いることに、満ち足りた気分をかみしめた。
桂花が、傍らで眠っている。
体温を分け合う近さで、そっと寄り添って休んでいる。
それだけのことが、何にも代えがたいほど幸せでいとおしい。
安らかな寝顔を見せてくれるのは、身も心も預けてくれている証でもあるから。
静かに息づく胸に鼻先をもぐり込ませると、なめらかな肌触りと香気をじかに感じられて。
彼が、たしかにここに存在していると実感でき、嬉しさが溢れてくる。
いつまでもその眠りをそばで見守っていたいような、反面、あらん限りの力で抱きしめて
ぐちゃぐちゃに転げまわりたいような。
(どうしたもんかなー、珍しくよく寝てんのに起こしたら怒るかな…。でも、怒った顔も
たまんないし。でもでも、寝顔も捨てがたいし…)
あれこれ好き勝手に悩む時間すら楽しい。
どれほど抱き合っても、お互い身体の隅々まで余すことなく触れ合っても、好きだと思う
気持ちは一向に尽きない。
記憶もおぼつかない昔から、紫水晶のきらめきにずっと惹かれ続けている。
幼い頃は、不思議な光を宿した瞳に憧れて、いつも夢中で見上げてばかりいた。
ただまっすぐ光を追って伸びていく向日葵のように。
きれいな色合いを少しでも眺めていたい、その中に自分の姿を映してみたいと思って。
そんなに見上げてばかりいては首が疲れるでしょう、と何度言われたか。
桂花がしゃがんで目線を合わせてくれると、彼の瞳や表情が間近で見られて嬉しい気持ち
と、そうしてもらわないと届かない背丈の差がはがゆい気持ちとに挟まれたものだ。
やがて、きれいな紫の光の奥底には、はかりしれない愁いの影が揺らめいていることにも
気づき始めたのはいつのことだったろう。
ふとしたときに垣間見える、哀しさや切なさや痛ましさを湛えた瞳。
微笑んでいても桂花の心は泣いているようで、ますます目が離せなくなった。
そして、初めて自分の前で涙をこぼすのを見た日のことは、今でも忘れられない。
教育係でも薬師でもなく、素の桂花の感情に初めて触れられた気がした。
ひっそりと流れる涙をぬぐってあげたくて、だけどうまい慰め方がわからなくて、せめて
少しでも包み込んでやれたらと願いながら両腕で抱き寄せていた。
そのとき明かされた、彼の心に住み続ける恋人の存在。
何にも執着しない桂花が「吾の宝」と語るほどの。
亡くなってどれだけ季節が移ろうとも夢で呼ぶくらい、かけがえのない相手なのだろう。
そこまで今なお強く想われている男に妬かないわけではないが、それ以上に、深い喪失感
や悲哀を抱える桂花を、まるごと守ってやれるようになりたかった。
自分の前でだけは、何も我慢しなくていいように。
ともに日々を重ねるうち、いつか寂しい影も幸せな光で癒してやれるように。
そうやって慕い続けた紫の瞳が、今、腕の中でまどろみから覚醒しようとしていた。
*
しっとりと頬に陰影を落としていた睫毛がふるえ、まばたきを始める。
まだぼんやりとした眼差しが、少しずつカイシャンの輪郭をとらえ、ほっと息をついた。
「…桂花?」
「ん…」
「起きちゃったか? まだ横になってていいぞ」
「今は…、何刻です?」
「もうすぐ夜明けだ。よく眠ってたな」
「…際限を知らない誰かさんに付き合ったおかげで。さすがにもうムリって懇願しても、
あなたってば…」
吐息に交じる声は、けだるさをにじませて少し掠れてしまっている。
俺は最高に夢心地だったぞ、と笑って返すと、恨めしげな視線にひと睨みされた。
「ほら、その目がやばいんだって。昼間は違うのに、あんな艶っぽく潤ませられたら…」
どこもかしこもトロトロに溶かしちゃいたくなるって、と耳元に直接ささやく。
そのまま髪に唇をもぐらせて、敏感な耳朶のつけ根をはんでやると、肌がぴくりと跳ねて
甘い息をこらえるように首が竦められた。
「…っ、待って、これ以上はほんとに…」
お互いの身体の奥に火がつく一歩手前で秘めやかな駆け引きを仕掛け合うのも楽しいが、
今はまだ、ゆったりと昨夜の余韻にひたっていたいようだ。
長い指が黒髪に触れて、大きな獣をなだめるみたいに撫でていく。
しばらくすると、これで許してというふうに白皙の額がコツンと胸元にすり寄せられて、
向かい合った姿勢のまま目をつむってしまった。
「うぅ、こんなくっつかれてて我慢できるかな、俺…」
このままお預けなんてイジワルだよな…、あーでも昨日いじめちゃったのは俺か…、とか
なんとか唸りながらも、カイシャンは恋人の望みを優先することにした。
ちょっぴり切なそうな顔で耐えていると、桂花もついほだされてしまうようで。
「今すぐは付き合えませんが、また回復したら…、ね?」
苦笑しながら小首をかしげる仕草がたまらない。
「じゃ、早く回復するように俺の血を飲め。最近しばらくご無沙汰だっただろ、なっ」
絶好の機会とばかりに、いそいそと短剣を手元にひきよせる。
桂花のほうは最初、血を飲むだなんて気味悪がられるのではないかと心配したようだが、
カイシャンはむしろ頼ってもらえて嬉しかった。
好きな相手のためなら何でもしてやりたいし、誰にもその役目を渡すつもりはない。
だから、昨日シドルの腕に顔を伏せているのを見たときは、治療の一環とわかっていても
じりじり胸が焦がれるのを抑えられなかった。
治療であれ何であれ、桂花がほかの奴のものを口にふくむのは嫌なのだ。
その口直しもさせたかったカイシャンは、清潔な布と水と燭台を手早く用意すると、枕元
のクッションを背もたれにして座り、両脚の間に愛しい身体を抱き寄せた。
桂花の背後から腕をまわすと、すらりとした首を自分の肩にもたせかけて支える。
そうして懐深く囲い込むようにしてから、桂花の胸の前に左腕をかざし、ろうそくの火で
あぶった剣先をあてた。
真紅の珠が、つぷりと盛り上がる。
腕の内側のやわらかい部分に唇が寄せられて、鮮やかな雫を丹念に舐めとっていく。
しんと静まり返るふたりきりの空間に、ちゅ…と肌に吸いつく水音と、こくりと嚥下する
息づかいだけが響いていた。
ちろちろ見え隠れする赤い舌先。
時折、角度を変えて傾けられる扇情的なおとがい。
まばたきに合わせて影を落とす睫毛の下には、しっとりと潤んだ紫水晶の瞳。
ろうそくの灯りに照らされてあやしく揺らめいている宝石は、舐めればきっと蕩けるほど
甘いに違いない。
視界に映るどれもこれもに煽られてしまったカイシャンは、寛衣を羽織っただけの艶腰を
ぐっと自分に引き寄せると、ぴったり隙間がなくなるまで身体を密着させた。
お互いの鼓動が、熱が、重なってゆく。
次第に吐息も溶け合って、気持ちが昂ぶらずにいられない。
大好きな長い髪に顔をうずめ、桂花の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
すると、ますます五感が刺激されてしまい、たまらず絹のような髪を鼻先でかき分けると、
あらわになったうなじを目と舌で絡めとるように味わい始めた。
「…ねぇ、ちょっと。飲みづらいんですけど」
「だっておまえ、もう色っぽすぎ…」
「我慢の足りないお方ですね」
「うん、桂花には絶対かなわないもん、俺」
素直に降参して、色香ただよう肩口になついてしまう。
「はいはい、甘え上手なんだから…」
なかば呆れつつも、結局カイシャンのすべてを受け入れて甘やかしてくれるのだ。
大事すぎて、一生離したくなくて、胸の奥がぎゅうぎゅう締めつけられる。
「…もう充分いただきました。ご馳走さまでした」
優しい響きとともに向けられる微笑み。
その濡れた唇を、節の大きな親指でゆっくり愛撫するようにぬぐって視線を交わす。
いつもなら、この行為のあとはお互い身体中に熱が広まり、そのまま心ゆくまで睦みあう
ところだが、今は昨夜のなごりを感じながら疼きをこらえる。
寝台の脇に脱ぎ落とされた上衣から、桂花が黒い丸薬を取りだした。
自ら水で流し込もうとするのを制して、水差しを奪ってしまう。
「…俺が飲ませてやる」
低く告げて、後ろから細い顎をつまんで仰がせると、ドクドク脈打つカイシャンの胸板に
囲われた桂花に覆い被さり、口移しでのどの奥に注ぎ込む。
ぽたり、ぽたりと、殊更に時間をかけて。
最後の一滴がすべり落ちるまで、ふたり重なり合って至福のときを享受した。
*
夜明けとともにゲルの外へ出ると、雄大なモンゴルの大地と、濃い青から淡い紫に染まる
きれいな暁の空が、どこまでも果てしなく広がっていた。
幼い日から慕う紫の瞳と同じ、心に染み入る色彩が空に溶けてゆく。
あの頃は背丈も中身も追いつくにはまだまだだったけど、男として桂花をまるごと包んで
守ってやれる器になれたら、きちんと言葉にして伝えたい想いがあった。
ずっと言いたくて、でもまだ口にできていない、世界で一番好きな相手に伝える言葉を。
ハーンとなって、夢への一歩を実現できた暁にこそ、必ず。
そしてそのときには、カイシャンの大好きなあの瞳が、暁の空のように美しく幸せな光で
満たされることを祈って―――。
F1の新シーズンの幕開けが迫るサーキットには、そわそわ逸る気持ちを抑えきれないでいる
人々が大勢いて、その光景を目にするだけで心が浮き立ってくる。
陽が昇り、ぞくぞくと到着する関係者たち。
刻一刻と近づく開幕戦に、アシュレイも身震いするほどの高揚を感じていた。
マシン整備で慌しいピットガレージ裏のパドック広場では、各チームのスタッフが溢れ返り、
そこかしこで今シーズンの展望をにぎやかに論じている。
各種メディアやスポンサーなども入り交じるなか、アシュレイは見知った男と出くわした。
「よっ、注目のルーキー! 全身まっ赤って、遠くからでも目立ちまくりだな」
陽気な笑顔で声をかけてきたのは、カート時代からの親友で、アシュレイより2年先にF1へ
参戦している柢王だ。
若手ながら勝負ぎわの駆け引きがうまく、疾風迅雷の走りが魅力的なこの男は、近い将来に
ワールドチャンピオンの称号をも獲るだろうと目されているほどだ。
アシュレイにとっては、昔から遊びでもレースでも全力で競い合ってこられた仲間でもあり、
なにかと頼りになる兄貴分でもあり、思い描く未来を一歩先で体現している存在でもある。
そんな柢王のことで、シーズン直前に衝撃のニュースが飛び込んできた。
驚いたことに、最大のライバルチームのひとつであるマジェスティーズ・フォーミュラから
メインのレースエンジニアを自分の担当として引き抜いたというのだ。
レースエンジニアとは、レース中に高速で走り続けるドライバーと無線で交信し、最適な
パフォーマンスを発揮できるよう、瞬時の状況判断や戦略選択によって補佐する役割を担う。
狭いコックピットの中で全神経を研ぎ澄ませて戦うドライバーの、目となり耳となり、頭脳
ともなって、共に高みを目指す。
ひとりのドライバーに対し、レースエンジニアもひとりしか存在せず、まさに片腕・相棒と
呼べるほどの、密接な信頼関係の構築が欠かせない。
命の危険と隣り合わせの世界で、相互の信頼関係が戦績にも大きく影響するのだ。
そのようにチームで重要な鍵をにぎる立場にある者の突然の移籍は、通常まずありえない。
しかも、マジェスティーズのチーム代表の秘蔵とも囁かれていた人物の思いがけない離脱に、
F1界全体が驚愕を隠せなかった。
加えて、くだんのエンジニアには、ある事故から暗い憶測もつきまとっている時期だった。
その渦中の人物が柢王と連れ立っているのを見て、アシュレイの表情が険しくなる。
「…なんか知らねェけど、おまえこそヘンな噂で目立ってんじゃねーか」
(俺にひとことの相談もなく勝手に決めちまいやがって!)
柢王が先にF1の舞台へステップアップした頃から、なんだか置いていかれたような気がして
接触を避けだしたのは自分のほうなのに、理不尽に恨んでしまう気持ちを抑えられない。
でも、飄々とした態度の友人は、
「そうそう、ちょうどおまえに紹介しようと思ってたとこなんだ」
やや後ろで静かに佇んでいた細身の男の肩に、がしっと腕を回してまた向き直る。
スキンシップが大好きな褐色の腕は、くっつきすぎですとやんわり払われていたが、そんな
親しげなやりとり自体も気に食わなくて、アシュレイはさらに意固地になってしまう。
「ハッ、紹介なんかいらねー。ライバルチームに乗り換えるような奴は信用できねーからな!」
きつい言葉に柢王は頭を掻きながらも、
「まぁまぁ、俺の話も聞けって。な?」
へらりと絞まりのない笑みを浮かべている。
まいったな、という素振りで肩を竦めつつ目線を合わせて近づこうとするので、アシュレイは
うっかり気を許してしまわないよう距離を空けたまま睨みつけた。
「…なら、正直に答えろ」
「おう、なんでも聞いてくれ」
「…なんでわざわざそんな、よその奴を引っこ抜く必要があんだ!」
「なんでって、俺がこいつに一目惚れしたからさ」
「……はぁっ?! 一目ぼ…って、そ、そんなふざけた理由があるかーっ」
「そう言われてもなぁ。実際2年前から口説き続けて、やっと承諾してもらえたんだぞ?」
にやっと嬉しそうにウィンクしてくる友人に、アシュレイは空いた口が塞がらない。
正直、噂だけじゃなく根も葉もない陰口まで耳にして、すごく心配していたのに。
柢王がどういうつもりでどこまで本気なのか自分には全然わからなくて、情けなくなってくる。
うつむいて黙ってしまったアシュレイの後頭部を、力強い手のひらがポンと包んだ。
「おまえがそこまで俺のこと心配してくれてたなんてな、サンキュ」
昔と変わらず、うまく言葉にできない気持ちをちゃんと汲んでくれる親友にほっとしながらも、
「そんなんで納得すると思うなよ。そいつのこと、俺はまだ認めてねーからな!」
最後まで素直になれないまま、捨て台詞のように言い放ってその場を離れた。
*
「…なんですか、あの警戒心むきだしのサルは」
「サルって、ははっ。あいつはカート時代からの仲間なんだ。でもゴメンな、俺がちゃんと
先におまえのこと話してなかったから、あんな態度になっちまって」
「別に、気にしてません。突然の移籍で周りじゅう似た反応なのはわかっていますから」
実際アシュレイだけに限らず、F1関係者すべてが、昨シーズンまではライバルチームにいた
ふたりが今こうして連れ立っている事実に、好奇と注意の目を向けている。
覚悟して決めた道ではあるが、あることないこと騒がれるのは、煩わしくもあった。
「まぁ野次馬の奴らはともかくとして、アシュレイは昔っから正義感が人一倍つえーからな。
俺の立場や今後なんかも気にしてくれてンだろ」
悪気があるわけじゃないんだ、許してやってくれ、と人懐っこい苦笑をこぼす男に、
「そういうあなたは、そうやって人をたらし込むのが得意なんですね」
なかば呆れたような溜め息と視線が返される。
そんな怜悧な表情にも臆することなく、
「おまえも俺にほだされた?」
顔をのぞき込みつつ寄り添おうとする体を、すらりとした腕がさりげなく押し戻す。
「そもそも、あんな説得力に欠ける説明で納得させられるはずないでしょうに」
「や、でもホントのことだし。おまえに一目惚れしたのも、そこから必死に口説きまくって
ようやっと俺のモノにできたってのも、全部そのまんまだし」
取り繕うことなく言い切る男のストレートさに、気を抜くと乱されそうになる内心は伏せて、
「あなたの担当にはなっても、あなたのモノになった憶えはないですけどね」
さらりと受け流す。
そのまま颯爽と歩き出そうとする背に、めげない声が追いかけてくる。
「それもきっと時間の問題だって。まぁ見てな、信じてもらえるまで何度でも繰り返すから。
覚悟してろよ、桂花」
耳元で名を呼び、たっぷりと自信に満ちた瞳が、甘やかに紫水晶の瞳をからめとる。
一瞬、返す言葉につまった隙に、絹のような髪がひとふさ手に握られる。
「仕事上のパートナーとしてだけじゃなくて、おまえの体も、心も、この髪も、その瞳も、
全部まるごと欲しい。ずっと探してたんだ、俺と一緒に走れる奴」
真摯なささやきと、心の奥底まで射抜くほど力強いまなざしに、全身がとらわれそうになる。
(あのとき、絶望に苛まれてF1から去ろうとした吾を、引き止めたのはこの男だった…)
柢王は2年前にはじめて出会ったときから、自分の片腕になってほしいと何度も誘いにきた。
ただ桂花は、恩義のあるマジェスティーズを離れるつもりはなく、柢王の本気は感じつつも
一貫して断り続けていた。
でも、そんな折に、自らが担当していた大切なひとの選手生命が絶たれてしまう事故が…。
自分がもっと慎重にフォローしていれば、あるいは別の選択肢をドライバーに伝えていれば
事故など避けられたんじゃないかと、どんなに悔いても悔やみきれなかった。
(あの李々が、もう走れないなんて…)
ドライバーを支える役割を担うはずが、なんの手助けもしてやれないなんて。
もう二度と、かけがえのないひとを目の前で失うような思いは味わいたくなかった。
だから、この世界から完全に退くつもりだったのに。
『俺は何があっても走り続けて、必ずおまえのもとへ帰る。絶対だ。約束する』
おまえが必要なんだと、代わりはいないんだと、揺るぎない心をひたむきに伝えてくる柢王に
つかまってしまった。
この男の強靭さを信じたい気持ちと、また身近なひとが危険に晒されるかもしれない戦慄との
狭間で悩んでいた桂花を、李々の言葉が後押ししてくれた。
『私はここまで、自分の思うままに走れて幸せだったわ。あなたとふたりだったからこそ味わ
えた喜びや瞬間がたくさんあったのよ。だから、あなたの存在を求めているひとがいるのに、
辞めるだなんて言わないで』
あのとき彼らがいてくれたから、今の自分があるのだ。
(柢王とこの道を進むと決めたからには、全身全霊をかけて守って、支えて、ついていく…)
柢王と桂花、それぞれに絶対の誓いを交わし、新たな喜びと試練の道へ歩みだす。
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