投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
―――七月。
草原の緑が濃くなり、その上を光る風が吹き渡ってゆく
その風はかすかにひんやりとして、すでに秋の気配も漂わせている。―――夏という季
節の短い草原が 一番美しく映える月だ。
「桂花!」
草原を駆ける馬上で幼い声とともにカイシャンが笑顔で手を振る。
「カイシャン様!手綱をしっかり持ってねえと危ねえって!」
疾走する馬の背に一人で乗る子供は幼く、草原の生まれ育ちではない馬空などは、あん
なに走らせて、鞍から転がり落ちやしないかと半ば青ざめながら、おろおろと桂花の隣で
見守っている。
「・・・落ち着け、馬空。バヤン殿が並走されているから大丈夫だ」
声音は落ち着いているが、桂花も内心は もっと速度を落として走ってほしいと思って
いる。
知識として、草原の国の人間の習慣を理解している桂花だが、つくづくと思い知らされ
る。
ここは、人馬の国なのだ、と。
草原の子供は産まれて腰が据わると、すぐ馬の背に乗せられる。
両親あるいは年長の者の鞍の前に乗せられて、朝に、晩に草原を移動する。そうしてい
るうちに子供は馬上での姿勢の制御を体で覚えるのだ。
体が大きくなるころに、父親がよしと判断すれば、そのまま手綱を渡され、一人で馬を
乗り回すことをおぼえる。
しかも、その乗り方が、また尋常ではない。
木に布を張っただけの堅い鞍なので、優雅に座って馬を走らせるなどということは出来
ない。
『立ち鞍』といって、草原の人間は鐙(あぶみ)に全体重をあずけ、鞍をまたぐように
して立ったまま、馬を全速力で走らせる、という、凄い乗り方をする。
この時代、馬を農耕・運搬、移動の手段として使役することがほとんどだった大陸の他
国の人間の目に、地響きのような馬蹄の音をとどろかせ、すさまじい速度で攻め込んでく
る彼らの姿は 人と馬が一体化した怪物に映ったことだろう。
「―――桂花!」
草原の光と風を体いっぱいに受けて、馬上でカイシャンが笑っている。
笑い声が吹きわたる風に乗って草原に響く。 カイシャンは一人で馬を乗り回すことを
ゆるされたことが嬉しくてたまらないらしい。
高い丘陵がそこここに連なるが、そこに生えているのは草と低い灌木だけである。見渡
す限り地平線の草原の中を、川はきらきらと光りながら蛇行する。
水面の反射を背に受け、草原の生命そのもののような少年の笑顔が桂花に向けられる。
今は地下に眠る恋人の、かつての笑顔の面影を探してしまわないよう桂花はまぶしいよ
うに目もとに手をかざした。
陽が落ち、バヤンたちの泊まるゲルの持ち主が羊を屠り、宴を開いてくれた。
長時間馬を乗り回した昼間の疲れがいっぺんに出たのか、カイシャンは食事の途中で頭
が揺れ始めた。まだ飲み続ける気満々の男たちを とっとと見限って桂花のゲルに連れて
ゆくと、着くなり眠ってしまった。
少年の健やかな寝息と寝顔を見守りつつ、書物を広げたり、薬を調合する桂花の耳に、
酔った男たちの陽気な笑い声 羊や牛、馬たちの鳴き声がとぎれとぎれに風に運ばれて届
く。
やがて長く騒いでいた男たちもようやく寝静まった夜半、雨を伴わない雷雲がゲルの上
空に現れた。
雷光と轟音に、少年は目を覚ますどころか、かすかな笑みさえ浮かべて、深く寝入って
いる。
明かりを落としたゲルの中、桂花はカイシャンに寄り添って横になっていた。
風はゲルを包む布地の輪郭を丸くなぞるように吹き渡っては、過ぎてゆく。
(雷、風、・・・―――)
傍らに眠る少年の 守護の象徴―――
・・・穏やかな、震えるほど平和なこのひとときを桂花は何かに感謝すらしたいと思う。
そしてその直後に思い知る。
(いつまでこうやっていられるのだろうか―――)
馬に一人で乗れるようになれば、ほぼ一人前だ。
少年の寝顔を桂花はそっと見る。
(・・・ああ、大きくなった―――)
少年の成長に、残された時間の少なさに、桂花は胸に重苦しい つかえを感じる。
彼と未来に行くことはできない。それは最初からわかりきっていること。桂花に出来る
のは、カイシャンの『今』を守ることだけだ。
(もう少し――― )
時が止まればいいとは思わない。けれど、少しだけ、もう少しだけ、おだやかに過ぎて
ほしいと桂花は願う。
「―――・・・」
何度目かの雷光と雷鳴の下、桂花の感覚に 何かが触れた。
音もなく身を起こすと、桂花はゲルの上部に目をやった。ゲルの真上には換気兼採光口
としてゲルの骨組みに布を張らない部分がある。そこから空が見える。
有事の際の用心として、桂花はその上部の骨組みの部分に細工を施していた。
風に草原の草が波打つ。その草をかき分けるようにして、桂花のゲルに近づいてくる獣
がいた。
やわらかい子供の血肉のにおいが獣を引き寄せたのだろうか 雷光の下を接近してくる
のは、一頭の巨大な狼だった。 銅貨のように光る双眸はゲルの出入り口のはためく布の
奥に向けられ、ぞろりと牙の生えた口から血の気配を漂わせる息を吐いて舌が長く垂れ下
がっている。
その狼の進行方向に 音もなく上空から降りてきたものがあった。
雷光が視界を青白く染め上げる。
牙をむきかけた狼が、本能的に身を低くし、背中の毛をそそけ立たせた。
雷光の下、紫銀の双眸が光る。吹きわたる風に白い長い髪を生き物のようにうねらせて
立つ、人ならざるもの―――
雷鳴が響き渡る。
びりびりと大気が振動する中、光を失わない紫銀の双眸が狼を見下ろす。
そして、低く それはつぶやきにも似た声だったが、狼の鼓膜に雷鳴の振動よりもはっき
りと響いた。
「子供の眠りを さまたげるな。去ね」
―――狼が人の言葉などわかるはずもない。しかし狼は桂花の足元に完全に屈服した。
桂花は狼の眉間あたりに軽く触れ、行け、と促した。
狼が遠く走り去るのを見届け、身をひるがえしてゲルの中に入ろうとした桂花が、目を
見開いた。
ゲルの出入り口の布が風に大きくはためいている。
はためく布の奥に、夜具の上に座ってこちらを見ている子供と目が合った。
「・・・ ・・・カイシャン 様?」
魔族の姿を見られただろうか
しかし子供はゲルの外に立ちすくむ桂花にむにゃむにゃと言葉にならない何かをつぶや
き、コテンと横になって再び眠ってしまった。
翌朝、気持ちよく目覚めたカイシャンは 今年生まれた仔馬を見に行くというバヤンに
ついて、朝駆けに出かけた。
寄ってきた仔馬のたてがみを撫でてやりながら、バヤンの隣で さまざまな毛並みの仔
馬たちをカイシャンは面白そうに眺める。 良く走る丈夫な仔馬は草原の民の財産だ。
仔馬はじきに大きくなって戦士を乗せて走る。
「カイシャン様、昨日はよく眠れましたか? 夜中に雷が鳴ったから眠れなかったのでは
ないですか?」
「雷が鳴ってたのか?よく寝てたから気づかなかった」
バヤンが我らが王子は豪胆だ、と笑う。 雨を伴わない雷雲が出る そんな夜は、雷光
を頼りに狼が家畜を狙うのだそうだ。
「実際、昨夜はあちこちで子羊や仔馬が狼に襲われて大変だったそうです」
この仔馬たちは運が良かったのですよ、とバヤンがカイシャンのそばの仔馬のたてがみ
を撫でた。 それで思い出したのですが、とバヤンが懐を探り、昨夜世話になったゲルの
家族からもらったお守りですが、ぜひ王子に持っていてもらいたい、と素朴な紐にくくら
れた白い小さな塊をカイシャンの手のひらに乗せた。狼の骨だという。
「狼の骨は魔よけになるそうですよ。」
「・・・・・」
狼の骨をてのひらで転がしながら、カイシャンは 昨日の夢を思い出した。
(・・・不思議な夢 だった。)
―――狼を従えた、長い白い髪の、不思議な肌の色をした人が、カイシャンの名を呼ぶ。
ただそれだけの夢だったのだが
(・・・なんだか、とても懐かしいような・・・・・)
懐かしいと思ったのは、昔、一度夢で見たことがあるからだ、とカイシャンはようやく
思い出した。
小さいころ、病気で命が危なかった(らしい)時に、夢で見た。
その夢のあとで、カイシャンの病気は治ったのだ。(命懸けで治療してくれたのは桂花だ
ったのだけれど。)
あの時は、夢の中で 風に乗って空からおりてきて、怒ったような困ったような顔で、
カイシャンに何かを言っていた。
普通なら、怖いと思うのだろうけど、なぜか少しも怖くなかった。
とても きれいだ と思ったからかもしれない。
桂花と同じ、紫色の瞳だったからかもしれない。
(・・・・・もう一度 逢いたい )
カイシャンの夢の中に現れる、不思議な、―――人。
(・・・夢の中で 逢えるなら――― )
「カイシャン様―――」
名を呼ばれて振り向けば、桂花と馬空が馬を並べてこちらに向かってきている。桂花の
髪が草原の光で金の色に光る。馬空が馬上で大きく手を振っている。
バヤンがカイシャンのそばを離れ、二人の方へ行きながら何か言っている。
馬を下りた二人が、バヤンとともにカイシャンの方を見て笑った。
「・・・・・」
―――桂花がいて バヤンがいて 馬空がいる みんないる。 魔物が入る隙間なんて
ない。
(・・・でも、夢の中で 逢えるなら――― )
心の中でバヤンに謝りながら、今年生まれた仔馬のたてがみに お守りをそっと結びつ
けてやると、カイシャンは三人の待つほうへ笑って駆けだした。
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