投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
グラインダーズが柢王にエスコートを申し入れた日からきっかり7日後、グラインダー
ズからの極めて丁寧な内容の書状を託された(ふくれっつらの)アシュレイの案内で、柢
王は採寸のために一度だけ南領に訪れた。
南領の離宮の一室でグラインダーズの丁重な出迎えを受け、アシュレイにからかわれつ
つ、柢王は如才のない態度で頭周りから足首周りにまで至る細かい採寸を耐えた。
採寸の中休みで、柢王はアシュレイとグラインダーズとお相伴に預かるデザイナー達と
テーブルを囲み、よく冷えた後味がすっきりとする香草入りの清涼飲料水と香辛料の良く
効いた甘味の強い南領の菓子をつまみながら、とりとめのない話をした。
デザイナー達は良く笑い、たくさんの話題を提供したが、どういった仮装衣装になるの
かについては何も言わなかった。ただ笑って当日のお楽しみと言っただけだった。
柢王は終始おとなしい態度でほとんど何も聞かなかったが、採寸が終わってから、デザ
イナー達へ3つだけ条件を出して帰っていった。
曰く、
補正下着の類は一切駄目!
ヒールの高い靴も却下!
肌も極力見せないこと!
だった。
いっそ思いっきり大胆な仮装にしてやろうと考えていた(何のことはない。単にまだ何
一つ決まっていなかったのである)デザイナー達は足下をすくわれた形になり、「なぜ
〜?!」と半泣きになる中、「やっぱり男の子さんですわね」と、 柢王と同じくらいの歳
の男児を子に持つデザイナーがくすくす笑いながら頷いた。
その隣で、グラインダーズもくすくす笑っていた。奇しくも柢王が示した条件は、グラ
インダーズがデザイナー達に事前に提案した衣装と条件がほとんど一致するものだった
からである。
「・・・では、私のアイディアどおりに進めてちょうだい」
くすくす笑うグラインダーズに、デザイナーの一人が、デザイン画を見ながら言った。
「・・・姫様、本当によろしいのでしょうか? こう言っては何ですが、前回に比べると面
白味に欠ける感は否めません。」
「いいのよ。今回は奇をてらう必要はないのだから。」
前回のアシュレイと揃いの鳥の衣装は、立体感や羽の動きになめらかさを見せるため、
最後の最後までデザイナーとパタンナー達が額を付き合わせて喧々囂々しながら作り上
げた良いものだった。 しかし今回は豪奢さこそあれ、本当に「ただの服」なのだ。デザ
イナー達としては腕の奮いどころがないので、がっくり来るのは仕方ないことと言えた。
「・・・なんだか今回のお題は、いまいち主体性がありませんわね。何だか意味合いが広す
ぎて曖昧ですわ。そもそも仮装向きのお題ではありませんわ」
「そうね でも」
グラインダーズは肩に降りかかった髪をかき上げながら挑戦的な笑みを浮かべた。
「いろんな意味に取れるからこそ やりやすいって事もあるのよ」
その夜、グラインダーズの寝支度を手伝っていた彼女の乳母が、ふと何かを考える仕草
をして問いかけてきた。
「姫様、そろそろではありませんか?」
グラインダーズは下腹部に手をやり、わずかに考え、そして頷いた。
「・・・そうね。そろそろ来るわ」
憂鬱な顔をして、グラインダーズは頷いた。月に一度訪れる「アレ」だ。始まれば文殊
塾を2.3日休まねばなるまい。腹が立つくらい毎月正確に訪れるたび、憂鬱になる。
乳母は、それはどんな女性も大なり小なりそんなものですよ、と慰めてくれるが、グラ
インダーズの憂鬱に拍車をかけるのは、毎回それが訪れるたび、初めて血を流した頃に起
きたあのことを思い出してしまうからだった。
・・・その日は なぜだか 朝からイライラしていた。
それは文殊塾の武術の時間に小休止を言い渡した武術師範が、汗をぬぐうために場を離
れたわずかな時間のことだった。 子供達が大人のいない間に悪ふざけをするのはいつも
のことだ。数人でふざけあいながら長棒を振り回す男児の棒先が、たまたま近くを歩いて
いたグラインダーズのとりまきの女児の肩口をかすり、その痛みに女児は泣き出した。
それを見たグラインダーズが、その男児に棒先を突きつけて謝罪を求めた。それが発端
だった。
その男児はグラインダーズよりも年長で、体も大きかった。自分よりも小さな、しかも
女児の権高な言葉と棒先にカッとなったのだろう。侮辱の言葉を吐きながら、男児は突き
出された棒先を横合いから打ち落とした。
・・・痺れる手を、呆然とグラインダーズは見つめた。力一杯握りしめていたはずの棒は
グラインダーズの手を離れて地面に落ち、甲高い音を立てて転がっている。 女児達の悲
鳴と、どっと男児達が周りで囃し立てる声に、カッと頭に血が上るのをグラインダーズは
感じた。
やれるものならやってみろとこれ見よがしに棒先を繰り出してくる男児に、とり落とし
た長棒を拾い上げてグラインダーズは打ちかかった。たちまちのうちに打ち返される棒先
の鋭さに長棒を握る手が痺れ、足がもつれかかる。
「・・・・・ッ!」
―――悔しかった。 女だからとか、そう言われて悔しかったのではなく、本当に力で
は叶わなくなっている自分の力が悔しかった。
負けたくないと、この時、初めて痛切に思った。
だから、本来避けられるはずの棒先を避けずに、わざと顔で受けたのだ。頬を薙ぎ、鼻
先をかすめた棒先にしぶいた血に驚いたのはグラインダーズではなく、相手の方だった。
ここまでして勝ちたいという、負けず嫌いというよりも、もはや意地としか言えない感情
を自分か持っていたことにも少し驚いたが、その動揺の隙をついて相手をたたきのめした
事についてはグラインダーズは今でも後悔していないし満足している。
力で勝てないのなら、相手の虚を突く勝ち方もあると分かったからだ。
・・・しかしその後がいけなかった。グラインダーズは南領の王女、相手は貴族の子息だ
った。文殊塾から城に帰り、グラインダーズが乳母に小言を言われながら、それでも勝
ったという満足感に密かにひたりながら擦りむいた鼻先と頬の再手当と鼻血で汚れた衣
装の着替えをしている時に、息子の首根っこを掴んだその父親が、父王に謝罪の面会を泡
食って申し込んできたのだった。
(・・・どうして子供の喧嘩に親が出てこなければならないの?!)
乳母の制止の声を背中に聞きながら、ワンピースタイプの肌着一枚の姿でグラインダー
ズは部屋を飛び出した。午後の日ざしが差し込む回廊の美しいモザイク模様を描き出すタ
イルの床の熱さを素足の足裏に感じながら謁見の間へと走る。
謁見の間の扉に向かうよりも、謁見の間の隣室である控えの間を通り抜けるほうが、父
の元に早くたどり着ける、と判断したグラインダーズは控えの間に飛び込んだ。
彼女の父親はちょうど控えの間から進み出て、床に頭がつくほど平伏している親子の前
に立って、彼らに頭を上げるよう促しているところだった。
「父上!」
娘の声に父親は振り向き、控えの間から走り出ようとしている娘の姿を認め、その格好
に目を見開いた。
グラインダーズの着ているなめらかな肌触りの裏地がつく白い肌着の表地には、布の色
と同じ色の糸でびっしりと刺繍がされている。その豪奢なつくりのそれは一般市民の晴れ
着にも相当するものだった。
だが肌着は肌着であり、そして、断じて王女が人前にさらして良い姿であるわけがなか
った。
「 一国の王女がそのようななりで人前に姿を見せるでない!引っ込んでおれ!」
叩き付けるような大音声だった。 そのすさまじさに頭を上げかけていた親子は再び平
伏し、グラインダーズは思わず足を止めた。
数歩で控えの間の入り口まで戻った父親に、その肩からむしり取ったマントをかぶせる
ように投げつけられ、立ちふさがるように自分に背を向けたその背中は、なぜだか異様に
大きく見えて、自分の言葉など届きもしないように思えて。
「あ・・・」
立ち竦んだところを追いついた乳母達に抱えるようにして連れ戻された。体を二つに折
って足に力を入れて抵抗しようにも、足先から力が抜けていって、声が喉から先に行かず、
きれいに磨かれた床と引きずられる自分の足先ばかりが目に入って、ひどく惨めだった。
・・・その足先に 赤いものが滴滴と落ちて流れ落ち、かかとに引きずられて床に赤い線
を引くのを見た時、堰を切ったようにグラインダーズは自分の声を喉から迸らせた。
悲鳴だった。
バヤンは武人のわりに文学を好んで読む男だったし、四年前に亡くなったチンキムの愛読書は唐の太宗と臣下との政治論議をまとめた『貞観政要』だった。
チンキムの残した大量の蔵書のうち、フビライの許可を得てバヤンに譲られた書物の中に、唐代の小説家、段成式の『酉陽雜俎』全三十巻があり、それを譲り受け拝読したバヤンが、その中の一篇を是非にとカイシャンに贈ってきたのは自然なことだった。
「桂花……」
カラコルムから届いた本の話を早く桂花にしたくて、カイシャンは走った。
「桂花…っ!」
「どうしたんですか、カイシャン様」
いきなり宮廷内の廊下で大声で呼びかけられ、驚いて桂花は足を止めた。
「月の桂樹の話を知ってるか?」
弾む息でそう尋ねられ、桂花は「いいえ」と答えた。
「バヤンからチンキム様の本が届いて、それを読んだんだ」
「読めましたか?」
「…まだ少し難しかったけど、おもしろかった」
子供の満足げな顔に、桂花も微笑んで返す。
「それで?」
「月には桂樹がある」
「ええ……」
「月の桂樹は五百丈もあって、斬っても傷つけても、すぐにその傷口がふさがるんだ。それで、桂樹は『再生』や『不死』を象徴するようになったんだって」
――― 再生?
――― 不死?
「だから、」
――― だから?
「同じ名前の桂花がいるから、ずっと陛下はお元気でいられるんだ!」
……誇らしげなその笑顔がにじんで映るのはなぜだろう。
この子は、自分を慕ってくれている。
わかっている。
(だから…)
だから、その説話を知って、嬉しくてすぐに自分の元に走ってきたのだろう。
「……桂花?」
名前を呼ばれたが、桂花はカイシャンの顔を見ることができず、前へと足を踏み出した。
「桂花?」
「……お茶を淹れますから、一緒にいかがですか?」
「うんっ!」
宮廷には、桂花用に整えられた小部屋がある。
その部屋へと向かう一歩一歩を踏みしめる。
歩く。
呼吸をする。
話をする。
「カイシャン様…」
「なんだ?」
嬉しそうに自分を見上げてくる子供。
(……この身体も、斬られても傷つけられても、傷口はすぐにふさがるのです。痛みもなく、元に戻るのですよ…)
なんの感慨もない、不死の身体。
それでも、手ばなすことのできない生。
吾こそが、あなたの完全な「再生」と「不死」を妨げている。
あの人の右腕を奪い、作られた人形を糧にし質にされ、あなたの肉体も魂も、本当の意味での再生も不死もない、……ありえない事態を招いてしまった。
(吾こそが………)
後悔しているのだろうか。
しても詮無いことなのに。
ただ、自分にはそれしかなかった。
その道しか、なかった。
後悔も罪も、だから吾だけのもの。
あの人形のような柢王にも、あなたにも、なんの責任も咎もない。
(……あるとすれば、吾を置いて行ってしまった男の傲慢さが許せない)
「桂花?」
「カイシャン様は、不死をお望みですか?」
カイシャンの顔は見ずに、前を向いたまま問いかける。
「俺だけが長生きしたって仕方ない」
「は…。ませたことを」
「だったらおまえはどうなんだ」
桂花に子供扱いされ、少しむくれたようにカイシャンが尋ねる。
「吾は……。そうですね。吾も同じです。ひとりでは生きていけませんから」
「………」
「……カイシャン様?」
いきなり熱い手に腕を取られて、視線を下げ子供を見る。
声の感じで、今までずっと見上げるように自分に話しかけていた子は、うつむいていた。
「カイシャン様…」
「桂花は寂しいのか?」
「……は?」
そう真剣に問いかけてくる子供のほうが寂しそうに見えた。
それでも桂花を気遣うような声音の子供に、なぜか無性に愛しさが募る。
「いまは一人じゃありませんから…」
寂しくないですよ、と言外にほのめかすと、子供は安心したように顔を上げた。
数日後。
宮廷内に住むことを断り続ける桂花に、フビライが用意した館が一般居住区にある。
そこにカイシャンから手紙が届いた。
――― 秋になって白い花が咲いたら、一緒に見に行こう。
――― 橙色に比べたら香りは少し弱いけど、俺は白いほうが好きなんだ。
読みながら、まだ幼いカイシャンに、文字とは、手紙とは、と説いたことを思い出した。
口にできぬ想いを伝えるものだと、そう教えた。
人の生は短い。
終わると分かっているものに、心を残してはならない。自分がつらいだけだ。
それでも……。
桂花は刹那の幸せを噛み締めるように、カイシャンからの手紙を胸に抱いていた。
一般に木犀と言えば、銀木犀を指す。
金木犀は銀木犀の変種で、オレンジ色の花をつけ、その香りは銀木犀を凌ぎ、夏の梔子と並ぶ。
銀木犀の中国名は桂花。
白い花をつけ、漢名を銀桂と言う。
風をきりながら胸元に抱いた幼馴染の様子を伺う。こんな不安定な状態だというのにしがみついても来ない。
泉でアシュレイについた糸を洗い流す間、再びネコにマタタビ状態にならない様に気をつけたおかげで、今のところ怪しげな行動は起こしていない・・・・と思う。
アシュレイが所有している布。これがあると移動時間が短縮できる。
『アシュレイが、アウスレーゼ様からいただいたんだ。大丈夫。あの方はアシュレイのことを気に入ってくださってるから危ないものではないよ、心配いらない』
最上界の人物とはいえ、会ったことも無い者を簡単に信じるわけにはいかない。しかし、何事においても慎重に事を運ぶティアが全面的に信用しているようだし、その男が自分の大切な友人達に危害を加える輩でないのなら・・・・それどころか力となってくれているのなら、ありがたい。
アシュレイや自分以外に、ティアにとっての拠り所があるということは嬉しいことだ。
あの出来た幼馴染は、なんでも自分の内にしまいこんで苦悩するのがクセになっている・・・というより、そうせざるを得ない立場にある。
誰にでも愚痴をこぼせる立場でも無いし、簡単に人を信用してよい立場でも無い。
天守塔の中には各国のスパイが送り込まれている状況だ、油断ならない。
彼が守護主天などという面倒な立場でなければ、自分もこういう類の心配はしていなかっただろう。
アシュレイとティア、二人とも比べようがないほど大切だ。それでもティアの方が、目が離せないのは事実。ティアは・・・・・謎なところがまだまだある。
時折みせる彼の眼差しがひっかかる。
これだけ近くにいても救いきれない何かがある。そう感じる。
そんな複雑な男に惚れられたアシュレイは責任重大だ。
守天の在り方ひとつで人間界が変わってしまう。ティアがいつでも穏やかでいられる条件からアシュレイは切っても切り離せない存在。
「お前が絡むとあいつ、豹変するからなァ・・・・・」
あどけなさの残る頬に軽く唇を押し当てて、感謝の気持ちを贈る。その気持ちに色めいた感情はない。(・・・・と、柢王は思っていたが、やはり残念ながら少し薬の影響は残っているようだった)
彼は友人でありライバルであり、弟のような存在。
意識があるときにこんな事をしたらあっという間に両手から武器を出し、本気で切りかかってくるだろう。淋しがり屋のくせしてスキンシップに慣れていないのだ。
「・・・・・・あ、やべっ。もし遠見鏡で見られてたら二人がかりで殺されんな――――てか、俺がこいつに迫ったの見られてねーだろうな・・・・」
ついつい足取りが重くなりがちの自分に気合を入れなおし、柢王は天守塔を目指した。
会議に必要な書類の支度をしていた二人は、その様子を見て同時に席を立った。
息を切らした柢王の腕にはアシュレイがスヤスヤと寝息をたてている。その様子はなにか怪我をしたとか、具合が悪くなったとかいうようなものではなかった。
恋人の腕の中で安心しきって眠っている・・・・そんな風にしか、見えない。
「柢王・・・・・・・どういうこと。場合によっては・・・」
いつになく物騒な瞳で柢王を見据えたまま、ふらりと歩み寄ったティアに柢王は慌てる。
「お、落ち着けよティア、どこもケガなんかさせてねぇよ。寝てるだけだから安心しろって」
「・・・・・寝てる?そんなの見れば分かるよ、疑問に思うのはなんで柢王の腕の中でこ・・・こ、こんなっ、こんな無防備な寝姿を晒しているのかっていう事だよ!」
簡単に「寝てるだけ」と言われても、こんな風に自分以外の腕の中で眠るなんてアシュレイに限ってありえない。
「とにかくこっちにっ」
柢王からアシュレイを取りあげるようにティアが手を伸ばす。
こんなに騒がしいのに、ゆるやかな呼吸を繰り返し寝ているアシュレイ。
「―――――このにおい・・・・なんですか?」
天敵が、目を覚ます気配がないと分かると、それまで黙っていた桂花がアシュレイの顔を覗き込むようにスンスンと鼻を鳴らした。
言われてティアも顔を寄せると、アシュレイの体からかすかに甘い香りが漂ってくる。
「バカ、嗅ぐなって!」
柢王は二人をアシュレイから離すと、慎重に言葉を選び、なおかつ自分が媚薬にかかった事は伏せながらさっきまでの経緯を話した。
「何てことしてくれたんだ、柢王〜〜〜」
ティアが書類の山に手をついてうなだれる。
いつもいつも問題をしょいこんでくるのはアシュレイ――――と、相場は決まっていたが、今回ばかりは柢王が原因のトラブルだった。
「どうりで苗の数があわないと思った・・・・で?吾の苗を勝手に持ち出したコソ泥の尻拭いのために、こちらを監視しておけと?この方が目覚めるまでならお役に立てますが、気がついたら最後、修羅場になる事に責任はもてませんが。それともあなたは吾が炭になっても構わないと?」
「そう言うなよぉ〜頼む。俺はもっかい戻ってホントに全部燃えきったか見てくるからサ」
いちおう綺麗に糸は取り除いたものの、一向に目を覚まさないアシュレイが気になる。
なにか副作用などがあるかもしれないし、このまま一人で寝かせておくのは不安だった。
「私からも頼むよ桂花。指輪も渡しておくから」
ティアは寝ているアシュレイに、手光をあてて霊力を補ってやりながら桂花を見た。
守天のスケジュールはもちろん把握している。このあと大事な会議が控えていることも。
「――――仕方ありませんね、守天殿の頼みとなっては」
しぶしぶ承諾した桂花に礼を言うと、ティアは自室へアシュレイを運んだ。
「悪ぃな、じゃ、行ってくる」
柢王の事は軽く無視してティアの後を追うと、揃えた書類を手渡し会議へ送り出す。
静かになった部屋の中、ホッと息をついた桂花は不平をもらした。
「・・・・・なんで吾が」
どうせなら執務室で監視していたかった。そうすれば仕事をしながら様子を見ればいいので気もまぎれたのに。
「ん・・・」
寝返りをうったアシュレイに、桂花はギクリと動きを止めて様子をうかがう。
―――――起きる気配はなさそうだ。
「はぁ・・・柢王、守天殿、うらみますよ」
いくら守天の指輪に守られていても嫌なものは嫌だ。
武将である自分が意識を失い、いつの間にかベッドに寝かされていて、起きぬけに大嫌いな魔族と目が合う――――その後どうなるかぐらい想像がつくというのに。
壁の方を向いたアシュレイの頭に冠帽がついていない事に気づき、桂花は眉をしかめたが、幸な事に守天が持ってきてくれたのだろう、サイドテーブルの上に置いてあった。
彼が自分に角を見られたと知ったら守天の、所有物の被害が増えるだけだ。今のうちにつけてしまおうと、冠帽を手にとってアシュレイにかぶせようとした時、中に何かが詰まっている事に気づいた。
「何だ?」
ひっくり返して中を見ると、綿のようなものが詰まっている。
指を入れてたぐり寄せると、細い糸が絡まって、玉のようになっていた。
「これは・・・例の糸か」
桂花はやわらかな糸に火をつけて、燃やしてしまう。周囲に甘い香りが漂った。
「あの人は、時々詰めが甘い」
受け皿として使ったものを軽く懐紙でぬぐい、再びアシュレイの方を見ると、なんと彼は半身起こしてこちらの方をジッと見つめていた。
「!」
桂花は即座に扉へと走ったが、それよりも速くアシュレイが立ちはだかる。
「・・・・・・・」
無言で見つめ合ったまま数秒が過ぎる。
桂花がサッと扉に手を伸ばすと体で阻止される。
「柢王のとこ行くつもりだろ?・・・ダメだ・・・・俺と一緒にいろぉ〜」
「!?」
「・・・・桂花・・・・綺麗・・・お前って、綺麗〜」
桂花の腰に手を回し、抱きついてくるその目はトロ〜ンと果てしない所までイっている。
「・・・冠帽の糸か!」
アシュレイの豹変振りに桂花は、この糸の香りを嗅いだもの全てが媚薬にかかるわけではないのだと悟った。
それを体につけた者に直接効果はない。つけた者が周りの者に好かれる効力、つまりほれ薬の類なのだと。
「は、離せ!」
すがり付いてくるアシュレイを腰にぶら下げたまま、ドアに手を伸ばす。
「行かさないぃ・・・お前がいてくれるんなら、何でも言うこと聞く・・・桂花・・・よくわかんねぇけど・・・お前のこと、たまらなく好・・」
バッとアシュレイの口を袖でふさぐと、桂花はそのままベッドへ彼を引きずった。
「いいですか!それ以上喋るんじゃありません!」
もしも彼が正気に戻った後、今のこの記憶が残っていたら自分(桂花)の身だけではなく柢王の身も危ないだろう。
プライドの高い王子のことだ、自分から魔族に言い寄ったなんて許せるはずがない。
「桂花・・・やっぱり俺のこと嫌いか?俺を・・・置いていくのか?」
桂花の服を引っぱりおどおどと訊いてくるアシュレイに怖気が走る。 あんな少量で加工もされていないのに、なんて恐ろしい効き目だ。アシュレイ自身、正気に戻ったら自害しかねない。
「そ、そこから動かなければ、どこへも行きません」
「分かった、動かない」
こんなに素直なアシュレイは見たことがない。
無邪気な顔でニコッと微笑まれて、一瞬カワイイかもしれないと思いそうになってしまった自分も恐ろしい。
大人しくベッドの上で膝を抱えているアシュレイを横目で見ながら桂花は薬袋を探る。
媚薬がまわっている体のため記憶を完璧に消すとまでは行かないかもしれないが、何も手を打たないよりはマシだ。
「目を閉じてください」
言われるがまま目を閉じたアシュレイの頭から粉を振りかけた。
「桂花?」
目を開けたアシュレイだったが、すぐに焦点が合わなくなり再び眠ってしまう。
「―――頼むから効いてくれ・・・」
小さな寝息をたてているアシュレイに今度こそ冠帽をつけて、崩れるようにソファーへ倒れこむ。
「・・・・・いっそ吾の記憶を消してしまいたい」
守天のことといい、アシュレイのことといい、誰にも言えない秘密がまた増えてしまった事実に、桂花は頭を抱えた。
その後、まる一日、柢王と口をきかなかった桂花だったが、守天からの手紙でアシュレイの記憶が飛んでいる事を知らされて、ようやく恋人を許してやったのだった。
水滴を含み、しっとり濡れた髪が首や頬にまといつく。
「くそっ、うざったい!またティアに切ってもらわね―と」
人界にいた頃、部下にカットを頼んだが、どいつもこいつもバカみたいに緊張して手をふるわせるものだから、結局自分でハサミをいれた事が一度だけある。
その直後、定期報告で天界に戻ったときアシュレイを見たティアが絶句し、理容師を呼びつけ大騒ぎとなったのだ。以来、決して自分で切らないと約束をさせられた。
「あのときのティア・・・おかしかったな」
クク、と声を殺して笑いアシュレイは前に立ちはだかる草をなぎ払った。
払うたび水滴が散り、既にアシュレイの服は上から下まで濡れてピッタリと体に張り付いていた。
「しかし柢王の奴・・・人を呼び出しといて何してやがる」
せっかくの休日なのに頼みごとがあるからと、一方的に待ち合わせ場所を指定してきた。滅多にない親友の頼みに、何だかんだ言ってもアシュレイは張り切っていたのだ。
いつも世話になってばかりの自分が役に立てるのなら何だってしてやりたいし、いくらでも相談に乗るつもりだったのに・・・・・。
既に三十分は待っている。短気なアシュレイにしては大変なことだ。
もう待てない!と思ったところで、すぐ後ろの繁みから悲鳴が聞こえた。
男とも女とも区別がつかないような悲鳴は気味が悪かったが、放っておくわけにも行かずアシュレイは飛んだ。
しかし、上から見ても鬱蒼と生い茂る草ばかりでなにも見えない。
空耳か?と下りたところで二度目の悲鳴。
「チッ、何なんだよ、ったく」
正体不明の悲鳴にどこだ!?と声をかけるが全く応答がない。
「はぁ〜・・・くそっ」
こんなことに朱光剣を使うなんて・・・とアシュレイは嘆息しながら草を次々なぎ払うこととなったのだ。
「燃やしちまった方が早いけど・・・奥に誰かいるのにヤバイよな」
人を焼き殺す趣味はない。
ブツブツ文句をたれながら突き進んでいく間、アシュレイは自分の体がだんだん重くなってきている事に気づいた。
「何だ・・・・?」
手も足も、思うように動かない。
よく見てみると、全身に蜘蛛の糸のようなものがいくつも絡んでいて、それを取ろうと動くたび、体の自由をうばわれていった。
「な、何だよこれっ!?」
声をあげたとたん四方からいっせいに糸が体に巻きついてきた為、アシュレイは体を浮かし発火した。
ボッと炎が全身を包み、糸が熔けて体の自由が戻る。
「どーなってんだ・・・」
訝しむアシュレイの耳に三度目の悲鳴。
しかしそれは誰かに助けを求めている人のものでも、恐怖にかられた人のものでもなかった。
「―――――なんだよ気味悪ぃ・・・この植物・・・・悲鳴あげてやがる・・・・・」
「アイツ怒ってんだろうなァ」
柢王はアシュレイとの待ち合わせ場所へと急いでいた。
ムリヤリ約束をさせたのは自分のほうだったのに、寝過ごしてしまった。
桂花が天守塔に行くとき声をかけてもらったのだが、二度寝をしてしまったらしい。
「せっかく貴重な時間もらったのにな。このチャンス逃したら次はいつになるんだ?それまでアレを放っておくわけにもいかねぇし・・・・やべぇぞコリャ」
柢王はため息をつきながら頭をガシガシかいて、速度をあげた。
やっと約束の場所の上空まで来ると、地上の方でボッと火の手が上がった。
急降下すると、そこにちょうどアシュレイが草むらから転がり出てくる。
「アシュレイ!」
「〜〜〜〜柢・・王・・・貴様ぁ・・・・何なん・・・だ、コレ・・・・霊力が・・」
力が抜けた状態のアシュレイが、ヨロヨロと柢王の胸に倒れこんできた。
「おい、しっかりしろアシュレイ!・・・・・・・」
抱え込んだアシュレイの体から甘い香りが漂う。彼の好物だった、マシュマロのような匂いだ。
「なんだ?お前の体、甘いにおいするぞ・・・それにこんなベタついて・・・・いったい何が・・・・・お前・・・・こんなに可愛かったっけ・・・・アシュレイ、かわいい・・・・・」
「は!?」
柢王の語尾にギョッとして、肩で息をしていたアシュレイが顔をあげると、ふらふらぁ〜と柢王の顔がアシュレイの唇を求めて急接近してくる。
「やめ・・・ろっ!・・・バカ野郎・・・・なに血迷って・・・」
力の入らない手で迫る頬をグイグイと押し戻すが、すっかり目がとろけている柢王はへこたれない。
「アシュレイ・・・なんで今まで気づかなかったんだ・・・・・」
「や・・・・・桂花!あそこに桂花がっ!!」
ピク。と一瞬柢王の動きが止まったが、すぐにヘロヘロ〜と迫ってきた。
「アシュレイ、食べちゃいたい」
「よさ・・・・ないかっ!」
ブワッと炎が柢王の体を包む。
「ぅわっちち―――っっ!あ、あちっ、あちいっ、アシュレイッ!消してくれっ正気に戻った!戻ったから!!」
疑わしい目を向けたままアシュレイがまやかしの火を消してやると、柢王は風上に立ってアシュレイから距離をおく。
「なんて恐ろしい・・・」
「どっちがだ!」
「いや、お前の事じゃねぇよ。その植物」
言いながら柢王はアシュレイの後ろの繁みを指さす。
「これ?お前が言ってたのって、この植物なのか?こいつ、悲鳴あげたぞ。気味悪ぃ」
「だろ?俺も昨日聞いた。多分これ・・・俺のせいなんだよなぁ。実はサ、桂花の持ってた媚薬のもとになる草の苗をこっそりここで栽培してみようとしたら、別の奴と混合しちまったらしくてサ」
「別の?」
「う〜ん、推測だけどな?苗を植えた日、俺、魔風屈に行ってたんだよ。その時なんかの種が服にくっついたんだと思う――――で、それくっつけたまま苗を植えて・・・・その時種が落ちたんじゃねーかと。あっちには声あげて獲物をおびき寄せる植物とかあるからな、そいつが苗に寄生したっつーか共生したっつーか」
「全く、何でそんなもの・・び、媚薬なんて、テメーには必要ねーだろ」
「だってあれ結構いい値で売れるんだぜ?種類によって程度が違うんだ。俺の勘ではこいつが一番効くと見た。何しろ桂花の管理が厳重だったからな」
「ンなもん育てたところであいつの手ぇ借りなきゃ媚薬なんて作れねーだろ」
「そりゃそーだ。だから、大量生産できるように協力したってコト、作っちゃったもんは怒ったってしょーがねーだろ?」
「・・・・・・確信犯か、あきれた野郎だ。だいたいこっそり盗んできといてなにが協力だ。いつもの事ながら適当なこと言いやがって―――――で?俺になに頼むってンだ」
「魔界のもんが混じってるしここで育てるのはヤベェだろ。それに繁殖力が強すぎる。ここまで育つのにたった七日だぜ?最初はこんな広範囲じゃなかった」
「なんだと?じゃあ・・・上に伸びるだけじゃなく、範囲を広げてるってことか」
「そ。も〜いくら切ってもキリがない。あっという間に蘇生するからよ、お前の火で焼き払ってもらおうと思ったわけ。こいつ、昨日より確実にパワーアップしてる。俺が昨日切ったときはこんな症状は出なかったし、甘い匂いもなかった」
「・・・・・くだらねぇ。しかも結局失敗してんじゃねーか」
アシュレイはガックリと肩を落とす。
せっかく柢王の相談にのろうと、力を貸そうと思っていたのに・・・・こんな草を燃やすだけだなんて・・・・。
「じゃ、早速焼いちまってくれっか?」
「・・・・・」
「よろしくっ」
人懐こい笑顔でアシュレイの背中を軽くたたく。
「ったく、あ――っ、バカバカしいっ!てめぇ、さっさと土の下から根こそぎこいつらを掘り起こせ!」
「了解〜♪」
柢王が次々と小さな旋風をおこし根元を切らないよう気をつけながら掘り起こすと、アシュレイがそこに業火を放つ。
キェェ〜〜、ギャ〜〜と断末魔の叫びが響きわたり、その気味悪さに我慢できずアシュレイは柢王の脛を蹴っ飛ばした。
流れ作業の要領で次々とこなしていき、最後の一角に火を放った直後アシュレイが柢王を突き飛ばす。
「―――っだよ!?そこまで腹立てること・・・アシュレイ!」
とっさに受身をとった柢王の目の前でアシュレイの体が宙に舞う。
その光景は、シュラムにアシュレイが振り飛ばされた時を髣髴とさせるものだった。
細い糸がいっせいにその体を包み込み、白繭が宙に浮いている。
「アシュレイッ」
首に下がっていた鎌鼬の剣を構え、葉の切断面から伸びた蔓のような糸を切り離した柢王はアシュレイの体を受け止めて、すぐに空へ逃げた。
息を止めて体を包み込んでいる糸をむしり取っていく。
ほとんどが、千切れて下へと落ちていったが、アシュレイの体にはまだ蜘蛛の糸のような細いものが絡み付いていて、それが甘く香っているようだった。恐らく、この糸が霊力を吸いとっているのだろう。
地上ではアシュレイが最後に放った炎がメラメラと手を広げていき、さっきまで彼の体を拘束していた糸を吐き出した葉も、一つ残らず飲みこまれていった。これで落着だろう。
昨日まではここまでの威力は無かった。異常なほどの急成長・・・このまま放っておいたらどうなっていたか分からない。
柢王は改めて己の迂闊さに舌打ちした。
命の危険を感じるほど霊力の消耗はないが、アシュレイは完全に気を失っている。ティアの所へ連れて行ったほうが良さそうだ。
「・・・・・参ったな、天守塔には桂花も居るってのに・・・・・・にしても、こいつの睫、長ぇな・・・あどけない顔しやがって・・・かわいい」
口をついた台詞にギョッとして、柢王は頭を振る。気をつけたはずなのに、少し媚薬にやられているようだ。
「体中ベタベタだし、早いとこアシュレイのこの匂い落とさねぇと」
飛んでいる間、息つぎをしたり風上に自分の身をおいたりと工夫をしながら柢王はどうしても可愛く見えてしまうアシュレイを抱いて泉を探した。
「とにかく、出店も、入会も、お断りします」
そう言うと、桂花は柢王とアシュレイに目配せして立ち上がろうとした。
「そなたの男は、そなたが首を縦に振るまでここに滞在するようだが」
途端に、こちらとあちらの部屋の間、上から鉄柵が降りてきた。
「柢王っ…!!」
突然のことに桂花の目配せでそちらに行こうとした柢王を鉄柵が掠めた。
肩や腕から血がしたたる。
「もうちょっとだったんだけどなぁ…。桂花、アシュレイ、悪い」
「かすり傷のようだが、消毒くらいはしたほうがよいかもな。たまに身体によくないものが塗ってある柵ゆえ…」
「なっ……!」
教主の言葉に初めて桂花が顔色を変える。
「桂花殿の髪、赤いところは染めておるのか? 手入れはいつもどうしておる? 頭皮マッサージはどのように? 一度毛根をじっくり見せてもらえぬか」
「…そんなバカげたことで」
「ん? なにか言うたか?」
「そんなバカげたことで、吾の柢王を!?」
「こらこらっ、桂花っ、危ない人に危険なこと言うなっ!」
「ふふふ、そなたの男の言うとおり」
「なにが危ないんですか、なにが危険なんですかっ!?」
いや、たぶん、おまえが……。
と、蚊帳の外状態のアシュレイは桂花を見て心でつぶやく。
「こんな髪くらいのことで、柢王を、吾の仕事を…っ」
「け、桂花っ」
「サル、出刃っ!」
「お、おおっ!」
サルと呼ばれたことすら気づかせないほどの桂花の勢いに、アシュレイは素直に出された右手に取り出した愛用の包丁を渡す。
――――――――ザクッ!!
バサバサバサ…。
「ひ、ひ、ひぃぃぃぃぃぃ………」
「けっ桂花っ!!」
「…………」
絶叫する全ロン会会長と、驚きの声をあげる柢王、アシュレイと李々は声すら出ない。
「髪なんてものは、切れば伸びるし、一度剃れば綺麗な髪がまた生えてきます。あなたも一度丸ごと剃ってみますか」
桂花はアシュレイを見て、バリカンは? と訊く。
アシュレイは首をブンブン振って否定の意を表す。
「仕方ありませんね。…今日のところは柢王は置いていきます。が、」
鉄柵の隙間から毒消しを差し入れると、振り返り教主の目を見て続けた。
「次は、吾はバリカン持参で来ますから。言っておきますが、初めて使うので下手ですよ。一応毒消しと切り傷用の軟膏と化膿止めは用意してさしあげますが」
最後を氷の笑みで締めくくると、失礼しました、と立ち去ろうとする。
「ま、まま、待て!」
聞こえぬそぶりで尚も足を止めない桂花に、
「待ってくれ! 桂花殿。…李々、あれを」
声に、李々と呼ばれた赤毛の女が柢王を閉じ込めた鉄柵の鍵を開ける。
「へぇ…。んなとこに出入り口があったんだ」
開いた鉄柵の出口から、柢王が出てくる。
「帰っていいのか」
「仕方あるまい」
「今回は、諦める」
「今回は?」
「人の心は移ろいやすい。桂花殿の心も変わるやもしれぬ。髪もまた伸びるしの」
「伸びても、また切りますから」
「もったいねぇ…」
「…そんなこと言える立場ですか」
桂花の言葉に隣に立った柢王が、すまねぇ…と小さく謝りながら、短くなった桂花の髪を痛ましげに見つめる。
「それではもう二度とお会いすることもないと思いますが」
辞去の言葉を残し去ろうとする桂花たちに、
「ではまた」
懲りない声が響く。
「『また』なんてあるかっ!!」
憤慨しつつのアシュレイ、珍しく恐縮気味の柢王、そしてたぶん静かに怒れる桂花の三人は、冥界センターをあとにした。
「そういや、ティアはどうしたんだ?」
冥界センターを出て少し歩いたところで発せられた柢王の疑問に、指輪から弱く低い声が響いた。
『ごめん…。ずっと聞こえてはいたんだけど…。桂花の髪のこと、なんて言っていいか…。会ってから、顔を見て謝罪するべきだと思って…』
「守天殿のせいではありませんよ」
『いや。私はまだまだ若輩者だけど、これでも自治会と商店街の会長なんだ。ほんとなら、私が君達を守るべきだった。なのに全部桂花に任せてしまって…。あんなに綺麗な髪だったのに。だいぶん切ってしまったの? 本当に、本当になんて言っていいか…』
「守天殿…」
そこへ、アシュレイがさっきの出刃を持ち出して、やおら自分の赤毛にあてた。
「アシュレイ…!!」
「サルっ…なにをっ!!」
「サルじゃねぇっ!! …男にとって髪なんてなぁ、そんなに大事なもんでもねぇし、切ったからって、気にするもんじゃねーんだ!」
そういって、威勢よくザクザクザク…………。
『…ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ』
声と擬音だけでアシュレイがなにをしているか分かったのか、続けて指輪から『バタン!!』と音が響いた。
たぶん守天が卒倒したのだろう。
「しゅ、守天殿!!」
「心配すんな。あそこには、八紫仙の爺やどもが聞き耳立ててティアの様子をうかがってるからな。倒れたってそのままにはしとかねーさ。それより…」
柢王はアシュレイの手をつかんだ。
「もういい。やめろ、アシュレイ」
「…かっ髪の毛くらいでっ…」
「わかった。わかったから…」
「吾にとっても、髪の毛はそんなに大事じゃありません。守天殿の気持ちは大変ありがたいですが、強いて言えば女を餌に捕獲されたバカが悪いだけで、守天殿にはなんの責任もありません」
ただ、そのバカが、吾の長い髪が好きだと言ったから、少し胸が痛むだけで……。
「髪には、なんの未練もありません。帰ったら守天殿にもそう言いますよ」
「…すまねぇ。頼む」
守天はああいう人だから、なんでも自分のせいにしたがる。
会長補佐兼任の桂花にはそれがよくわかっていたし、なにかといえば自分に対して敵愾心剥き出しで決して相性がいいとは言えない猪突猛進なこの赤毛のサルが、そんな守天をとても大切に思っていることもわかっていた。
「あ。…これ、いただきものですが、よかったらどうぞ」
桂花の申し出を、珍しくアシュレイが受け取る。
「甘っ…」
「おまえ、辛党だもんなーっ」
「うん…でもいいな、なんか。力、出そうな気がする」
「元気が出るからって、ここに来る前にもらったんです」
「…………それって、あのガキか?」
いやそうな顔で柢王が尋ねる。
「ええそうです。だからあなたの分はありませんよ」
「いいぜ。嘗めなくても、どうせあとでおまえで味見すっから」
「…あなたの万年常春な頭、一度さっぱり刈り上げて脳を冷やしてあげるのもいいかもしれませんね」
やっぱりバリカンは必要ですね、と言いながらカイシャンからもらった元気玉を口に入れると桂花はさっさと前を歩き出す。
それを追って幾分柢王とアシュレイがスピードをあげる。
そのうち前を歩く桂花から、冰玉が飛び立った。
「一応、先に冰玉を飛ばしました」
天主塔ベッドを出るときに、守天に「気をつけて」とそっと手をとられたときに渡された指輪のことは、誰にも内緒のことに違いない。
だったら、心配して待っているだろう商店街の皆への伝達の手段は冰玉でなければならない。
たった一言、「全てうまくいきました」としか書かなかったが、それだけで皆にはわかるはず。
「あなたにも、今回は世話になりました」
桂花が、アシュレイに礼を言う。
「べっ別に…」
「なんだおまえ、照れてんのか!?」
「うっ、うるさいっ!」
突然軽く殴りあいだしたふたりは、商店街にたどり着くまでに、無駄に生傷が増えそうな気配だ。
(俺のほうこそ…。流れ者だから信用できないと思ってた。商店街にいるのもただの腰掛程度にしか思ってないんだろうって。うちより条件が良ければ簡単に出てく奴に違いないって…)
口に出しては絶対言わないが、心でアシュレイは桂花に頭を下げていた。
「しっかし、魚くせぇなー」
桂花の短くなった髪のひと房を取って柢王が悲しげにつぶやく。
「おまえが文句言うなっ」
「さすが『街の鍛冶屋・ビノ』の逸品だけあって切れ味抜群でしたよ」
「ったりまえだろっ。俺んとこのこの出刃『朱光』と目打ちの『斬妖』、山凍んとこの肉きり包丁『八星』は、ビノにも二度とは打てない渾身の一本なんだぞ!」
自慢げに語るアシュレイをよそに、柢王は、でも俺の桂花が魚くせぇってのはなぁ、と尚もブツブツ言ってアシュレイの怒りを買う。
桂花はそんなふたりの話を聞いているのかいないのか……。
「あっ、待てよ! 桂花」
「逃げんのかっ柢王!」
「子供の遠足じゃないんですから、外を歩くときくらい静かにして下さい」
口調は怒っているようだが、前を行く桂花のその面には、柔らかい笑みが浮かんでいた。
『なにと引き換えにしても、俺はおまえが欲しい。どこにも行くな。傍にいてくれ』
そう口説かれても初めは絶対うまくいくわけなんかないと思ってた。
自分みたいな余所者が、昔ながらの商店街の人たちに受け入れられるはずがないと。
そして自分もそんな水に染まれるはずがないと。
だが、違った。
『住めば都っていうだろ? それになんてったって俺が一緒だしなっ』
桂花の心の変化を見抜いてか、柢王にもからかうように言われたことを思い出す。
(商店街のことはもちろんだけど、なによりあなたが無事でよかった…)
「あ、そうだ」
突然柢王が声をあげる。
「ティアは全部知ってっから仕方ねぇけど、帰ったら、全ロン会とかのことは言うなよ」
「…なんでだよ」
「いいから、言うな」
なんでなんだよ!! と叫ぶアシュレイに、柢王が「帰ったら理由話すから、つか、おまえ行ってないことにしろ、こっからひとりで先帰れ」などと勝手なことを言いだす。
「だから、なんでかわけを言えってば!!」
喚き続けるアシュレイに、桂花がつぶやいた。
「全ロン会のことを話せば、吾の髪が原因だとわかりますからね…。柢王は、全て自分のせいだということにしたいんですよ…」
「あ…そうか…。おまえのこと…」
桂花をかばうためか、と納得いったアシュレイとは違い、柢王はガシガシと頭をかく。
「でもさー、俺もお前もこんな頭でさ…。どう言い訳すんだ?」
「吾のは、話だけでは埒があかないので実力行使に出たときに髪があちこちにひっかかって、とでも言います」
「じゃあ俺は、魚焼いてたら飛び火で髪まで焼けたってことにしとくか!」
どっちもすげぇ無理あんだろ…と、ドッと疲れを感じた柢王だったが、好きにさせることにした。
「わかったら、さっさと先行け!」
「なんだよ、大通り抜けてからで大丈夫だろっ」
「だから……子供の遠足じゃないんですから……」
皆が待つ商店街まで、もうすぐ。
上着の袖は焼け焦げ腕にはくっきり緊縛のあとが残る柢王に、散切り頭の桂花とアシュレイ――。
見るからに怪しげな三人に、道行く人たちも避けて通る。
それでも商店街の皆は、自分達を心から迎えてくれるだろう。
心は軽く晴れ晴れとした足取りで、三人は夕暮れの帰路を急いだ。
終。
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