投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
七夕の夜に降る雨を洒涙雨というらしい。
天の川の両端に、引き裂かれた恋人たちが流す涙が雨になるのだと──
「──っていうか、それ以前に、年に一度しか会えねぇって時点で泣きたくなるよなぁ」
と、敷布にこぼれた桂花の髪を弄びながら、柢王が言った。
いつものように予告なしで、突然、人間界から戻って来た柢王が、ようやく肌の熱は引いたものの、まだ眠るのではない
暗がりのなかで話してくれた人間界の行事は、桂花にも聞き覚えのあるものだった。
天帝の娘である職女と牽牛という夫婦が、天帝の怒りに触れて天の川の両端に住まわることを強制された。
ふたりが互いに触れ合えるのは年に一度の七夕の夜だけ。かささぎが架ける橋を渡って、恋人に会いに行くのだ。
ところが、雨が降ると河の水が増して橋を架けることができなくなる。
だから、七夕の雨は引き裂かれた恋人たちの涙を誘う雨なのだと──。
およそふだんはロマンティックなことなど、軽くけり飛ばして飯だの剣だの現実的なことの方を選ぶ男が、なぜだかいつも、
戻ってくると人間界のささやかな行事だとか、有りようだとかを口にしたがるのはどういうわけなのか。
長い間、李々を探して人間界をあてもなくさまよっていた桂花も、人間の事情には通じている。
その七夕と呼ばれる行事のことも、知るにはもちろん知っていたが、そのころは別段、人間にも興味がなく、
(相手の居所がわかっているのに、年に一度会うだけでいいなんて悠長な話だな──)
皮肉でもなくそう聞き流したのは、自分が居所どころか生死もわからぬ人を探し求めていたからなのか。いずれにしても、
その頃の桂花は李々を探す自分の気持ちの切実さも痛みも、極力見ないふりで平静を装っていたから、それがどういう気持ち
だったのかなど考えてもみなかったのだが──。
「な、おまえが年に一回しか俺に会えなくなったらどうする?」
と、暗がりのなか、瞳にいたずらっぽい色を浮かべて、柢王が桂花の顔を覗き込む。弄んでいる髪の先を、自分の指に巻き
つけながら、
「もちろん、こーゆーことも年に一回。ストレス溜まるよなぁ?」
と、重なり合う裸の胸を指してにやにやと笑うのに、
「ま、あなたの場合、いろんなとこでストレス解消するから平気でしょうけれどね」
桂花は仰向けのまま、その男の顔に軽く顎を突き出して見せた。
柢王は、突然、人間界から戻ってはくるけれど、それは少しの間だけ。夜を過ごしたら大抵、次の朝にはまた出て行って、
桂花は残される。その人間界の行事だって、明日の朝、かれが人間界に向かえば、向こうがその時期だという話だ。
それが、かれの役割で、それを妨げる自分でいたくないのも真実だけれど、その無神経な笑顔は癇に障る。
と、冷たく答えた桂花に、柢王は慌てたように声を大きくして、
「んなことないって! つか、おまえだけだっていつも言ってんだろっ!」
言うだけならいつも──と、言ってどうなるものでもない。桂花はどうでもいいように、そうでした、と答えた。と、柢王は続けて、
「つか、俺なら年に一回なんて絶対我慢できねぇ。そんなに長く、おまえと会えないなんて考えたくもない」
それでも、あなたは出かけて行くんでしょう? と、心のなかの声に蓋をして、桂花は微笑む。
心がどこにあっても、それがやるべきことなら柢王はためらわずに出かけて行く。いま、そこにあるもの、必要とされていること。
それが柢王の優先順位だし、かれの生き方だ。自分がかれの世界のすべてでないことぐらい、桂花はとうにわかっている。
それでも、リスクを冒し、全力で、求めてくれたのもかれだけだ。地位も身分もすべてを捨てて、自分を求めてくれた男は
きっと、何度同じことがあっても同じ道を選ぶだろう。そう確信している。そのことも嘘じゃない。
愛しているということは、言葉ではなくあり方だ。柢王は誰よりそれを示してくれている。自分を選ぶというやり方で。
だから……いや、だからこそ。
消えない苦しさは胸に抑える。かれの生き方、かれの在り方、信じているという気持ち。妨げたくない、これ以上。それでも、
(吾の側にいて──)
気持ちだけでなく存在も。他の何にも目をくれないで、側にいて。自分の世界がかれだけのように、
(吾だけのものでいて欲しい──)
矛盾した、そんな思いをかき消す術が見つからなくて、
「まぁ、そんな話はどうでもいいけど……」
桂花は、柢王の首に腕を回すと引き寄せた。
一緒にいられる時間は短い。だから、と──
熱に溺れる時間のなかで、感じるものだけをすべてにする。たしかなもの、いまここにあるもの。その真実をさまたげる
すべての思いに蓋をかぶせて──。
藍色の空には、銀の粒を撒き散らしたような星空が広がっている。
七夕、と人間たちが呼ぶ日の夜。
柢王は人里を離れた場所から、夜空を眺めていた。
今夜は、幸いにして雨は降らず、薄い弓なりの月の光が遮らない上空では、あざやかな光の帯のような銀河が流れているのが
地上からでもよくわかる。伝説によれば、恋人たちはいまが逢瀬の真っただ中、というわけだ。
「ま、他人事だけどよかった、ってことだな──」
と、呟いて、肩をすくめた後、ふと視線を落とした柢王の口元に苦笑いに似た笑みが浮かんだ。低く、
「けど、おまえがいないと、さみしいよな──」
言ったかれは、再び視線を上げた。
頭上にきらめく満天の星たち。手を伸ばせばこぼれおちそうなその雄大で、崇高な輝き。それを、
「おまえと見たいって、いつも、思ってんだけどなぁ……」
と、柢王は呟いて、苦笑いを深めた。
天界に行ってから、桂花は星空を見ていない。柢王だって、人間界に降りなければ同じだ。人間界に来なければ、あんな話を
わざわざ桂花に聞かせることもないのだが──
人間界を守るのは天界人の役目。元帥として、武人として、任務に当たるのは柢王の務めだ。
だが、それだけでなく、本能に似た感情で天界人は地上と繋がっている。武人としてのプライド。そして、王族の正しい誇り。
いろいろなものが混じり合っていて、だから人間のために地上に降りることを、渋々だとは、柢王にもとても言えない。桂花にも
きっとそれはわかっている。
桂花を天界に連れて来たのは自分で、任務だからと置いて行くのも自分で、それは仕方のないことと言い訳はできても、
(きっと、俺のわがまま──)
側にいてやりたい、そして自分も側にいたい。そう思いながらも好きなようにふるまってしまうのは、きっと、甘えなのだと
わかっているのだが。
それでも──
天界で、自分が見てきたもののことを話すのは、桂花にそれを知らせたいからだ。
この、こぼれおちそうな満天の星。人間界の、壊れやすい、繊細な自然の美しさ。美しいものも、優しいものも、清らかなものも。
心を奪われるものは、全て、桂花とふたりでわかちあい、桂花とふたりで感じたい。
そんな風に、何かを、瞬間にいとおしむ気持ち。美しいものに、足をとめさせ、視線をとめるようになったのは──
「おまえがいるから、なんだぜ……──」
宝石も飾り物も、自分ひとりなら興味がない。桂花のその美しい姿に映えるから。その美しさを胸に抱いて、呼吸の間に間に、
思い出せるように。
網膜の奥にではなく、魂の奥に、刻みつけられるように──。
きっと、思う以上のさみしさを与えている。気丈なふりで、胸に抱えた気持ちすべてを吐き出させてやれる器量も器用さもまだ
持ち合わせてもいなくて。
苦しい思いをかわす苦しさを、どうしてやることもできていないけれど……。
(でも、知っててくれよな)
自分が見たもの、触れたもの。それは桂花と共有したいと望んだものだ。自分が伝えたいと話すことは、すべて桂花とわかちあい
たかったものだ。そのことを、わかってくれるといいと願う。
側にいない時、そこで思うどんな気持ちも、形はなくて、証立てることはできないけれど──
「おまえがいないと、俺だってさみしいんだぜ……」
おまえと同じ、そのさみしさを、俺も共有しているから──
窓の外はこんなにいい天気なのに。
アシュレイは雲ひとつない空を見あげ、それとは対照的などんより淀んだ室内で、しきりに背後を気にしていた。
ティアが訪れてから、どのくらい経っただろう?
氷暉に忠告されたばかりだ。ティアがなにに対して苛立っているかくらい見当がつく。だから、家の中には入れたくなかったのに・・・。
「やあ、帰ってたんだ?私が待っててって言ったのに、いなかったから心配したよ」
棒読みのような口調が怖くて、一瞬ひるんだアシュレイを押して「お邪魔するよ」とティアは強引にあがり込んで来たのだ。
掃除当番だったアシュレイに「私も用事を済ませてくるね。もしかしたら、私の方が遅くなるかもしれないけど、待ってて」と言ったティア。
分かったと応えたけれど、掃除が終わって昇降口に行ってもティアの姿はなかったので、その間に氷暉に断りを入れておこうとアシュレイは室内プールへ向かった。
そこで、自分が来る少し前に、ティアが氷暉にくぎを刺しに来ていたことを知り、彼の勝手な振るまいにムッとして、一人で帰宅してしまった結果が―――これだ。
「君さ・・・あの男のこと、好きなの?」
くぐもった声でティアが切り出す。
それまでの沈黙の方が気まずかったアシュレイは、一呼吸おいてからふり向き、思わず後ずさってしまう。真後ろまでティアが接近していたのだ。
「あ、あの男?」
「・・・私にあいつの名前を言わせるつもり?ずいぶん意地悪だねアシュレイ」
「氷暉・・・のことか?」
「やめてよ、君の口からあいつの名なんて聞きたくない」
「〜〜〜どうしろってンだ。言っとくけど俺はお前に責められるようなことは何もしてないぞ」
氷暉が溺れていたと勘違いしただけだとか、人工呼吸になっていなかったとか、そんなことは置いといて。誰がなんと言おうとアシュレイにとっては人命救助以外のなにものでもなかったのだから、きっぱりと言い放つ。
「そうだよね・・・何もしてないよ、私には。あいつには君からしたっていうのにね」
「だからあれは人命救助だったって―――」
「・・・・本当にしたんだね・・・ひどいショックだよ。なんだって君からあんな奴に・・永遠に沈ませておけばいいものを!!・・・クッ」
アシュレイのベッドに顔を突っ伏したティアの背中を恐る恐る叩くと、ガバッと起き上がった彼に体をつかまれ、組み敷かれてしまう。
「なにすんだよ!」
またか?また、よからぬことをしようと?!アシュレイが睨みつけても、ティアは動じない。アシュレイに負ず劣らず強い瞳でまっすぐ見つめ返してくる。
「アシュレイ。確かに君が怒るのも無理はない。大勢がいる教室であんなことをして、君のプライドを傷つけて、退路も断った。それは悪かったと思ってる」
それなら・・・と、口を開きかけたアシュレイの言葉を阻止してティアは続ける。
「私の気持ちを受け止める気がないのなら、全力で逃げて」
「え?」
「本気なんだよ。君が軽く受けとっている私の気持ちより、ずっとずっと本気なんだアシュレイ。君が好きなんだよ・・・もう、自分でもどうにもできないくらい」
ごくりとティアの白い喉が動いて、彼の真剣さが伝わってくる。
「他の誰かに渡したくないんだ。無茶なこと言ってる自覚はある・・でも、我慢できない」
浮かされたように、君を愛しているんだと何度もつぶやく唇が、髪から耳へと移動してそれを食む。
「ぅあ」
くすぐったくて首をすくめると、今度は首筋におりてきた。余計にゾクゾクして暴れだしたアシュレイに、ティアは隙間がないほど密着して動かなくなった。
互いの胸の鼓動が共鳴したかのようにはげしく打ちつけ合う。このままでは、ティアのペースに流されてしまう、とアシュレイは口火を切った。
「お前の気持ちはちゃんと分かってるつもりだ、でも、ちょっと、こういうのは俺・・」
「分かってないよ。分かってたら下心ある私をこんな簡単に部屋へあげたりするものか」
「し、下心ってお前・・・だいたいお前が勝手に上がってきただけだろーが!」
「ベッドがある部屋に・・・そんなことで信用されても私は嬉しくないからね。君って人は無防備にもほどがある。だからあんな奴に付け込まれるんだ・・・・逃げないの?」
赤い髪を優しく払いながら、現れた額に唇をよせる。
「つけこむとか言うな、氷暉はそんなことしねぇよ」
「どうだか。ねぇ、あいつにこんなふうにされたら、とっくに殴り飛ばしてない?私が相手だから・・嫌じゃないから、戸惑うんじゃないの?」
切羽詰まっていた声が、だんだん甘さを含み始めていることに、アシュレイは気づかない。
「うるさい、殴っていいなら殴るぞ。もうどけよ、重いんだよっ」
「じゃあ・・・私がアシュレイ以外の人に、こんなことしているところを見たらどう思う?君は何ともないの?」
「・・・・・・・」
体をぴったり重ねあって、額に唇を押しつけたりして。
端正な顔が、すぐそばで甘い言葉を囁きつづけ、繊細な指がやさしく髪を梳く。
―――――それを、自分以外の・・他のやつに・・・?
「そんな事しやがったら二度と口きかねーぞっ、この色欲魔!サッサと出てけっ!」
容赦のない蹴りを入れ、悲鳴をあげてひっくり返ったティアの腕をひっつかむと、部屋の外へ追い出し、ドアを閉めた。
「アシュレイ!ごめん、例え話だよ!開けてアシュレイ、誤解だってば。こんなに君一筋だって言ってる私が、そんなことするわけがないよ!」
ドンドン叩くティアに、耳を貸さず「帰れ!しばらくその面、見せんな」と冷たい言葉を浴びせたアシュレイは、とうとうドアを開けてはくれなかった。
しかたなく家に帰ることにしたティアだったが、その顔は落ちこむどころか締りのない二ヤけた表情をしていた。
「アシュレイってば、自分で気づいていないんだ・・・あんな焼きもち妬いちゃって。フ、氷暉なんか目じゃないかも。フフフ・・・フフ・・・」
道行く人に怪訝な顔で見られても、自信を持てたティアにとっては、どうでもよいことなのであった。
昔、昔、あるところに、後に冥界教主様と呼ばれた、金髪で、妖艶なシンデレラがいました。
ある日、シンデレラの父が再婚し、新しい家族が増えました。
しかし、シンデレラは、新しい家族の、桂花とアシュレイに、常識も知らないのかと、冷たく扱われておりました。
「ご自分の部屋くらい、ご自分で掃除して下さい」
と、桂花が言えば、
「掃除とはなんだ?」
怪訝な顔のシンデレラに、アシュレイは、びっくりした。
「そうじも知らないのかっ!?」
「そんな言葉は、我の辞書にはないわ」
完全に開き直る、シンデレラ…
「…この人を、片付けてもいいですか…」
桂花は、氷の微笑を浮かべ呟いた。
その言葉に、アシュレイが、「じゃ、俺がっ」とウキウキするので…
「本当に片付けてはいけませんよ…」
ひとつため息をついた桂花は、脱力感からなんとか立ち直って、
「まさか、アシュレイができることを、あなたができないなどと、おっしゃいませんよね?」
「その手にはのらぬ」
「自信がないなら、仕方ないですね」
「サルにできる事を、我ができぬわけがない」
「それは、証明して頂かないと。
それが終わるまで、今日の王宮主催の舞踏会には、参加させませんよ」
目が笑っていない微笑を浮かべる桂花と、踏ん反り返るシンデレラの間に、
絶対零度の青白い火花が飛び散った。
…怖っ
近くにいたアシュレイは、凍傷になりそうな気がして、後じさった。
王宮の舞踏会に出かける、継子達を見送って、シンデレラは、掃除とは何の事だ?と首を傾げておりました。
わからぬものは仕方ない。
町に行って、我のこの美貌で、代わりにそうじとやらをさせる下僕を見つければよい。
窓から出掛けようとしていたところへ、魔法使いアウスレーゼ様があらわれて、
「そなたの望みを叶えてやろう」
と、超棒読みでおっしゃった。
「なんでも?」
キラリと目を光らせたシンデレラに、肩をすくめる魔法使い様。
「仕方あるまい、それが、仕事だそうだ」
「ならば、我の美貌を引き立てる衣装と、王宮までの足が欲しい。あぁ、そうじとやらもな」
「ただで、と言うのはつまらないね…毒花も良いが…
今は、野に咲く花の気分なのだよ」
扇で優雅に仰ぎながら魔法使い様。
「それならば、うちのアシュレイを差し出そう」
「それは愉しみだ」
ふっと笑って、魔法使い様が、魔法を使うと、シンデレラの望みは叶っていた。
シンデレラは、その美貌を最大限に利用して、王子をたぶらかし、
一度引く方が効果的と考えて、わざとガラスのくつを忘れて帰り、
まんまと王女となりました。
王子が王様になると、シンデレラは、国の名前を「冥界」と改めさせ、自らを「教主様」と呼ばせました。
王様は王座の飾りとも囁かれ、絶対教主様制度が作られた。
教主様の気に入らない者は、即刻、処刑…
国が滅ぶまで、酒池肉林…
めでたし、めでたし。
………………………
柢王「めでたくねぇだろ。桂花は、どうなったんだ!」
桂花「どうにもなりませんよ」
冥界教主様「残念ながら、何もしてはいないよ。その前に、国が滅びてしまったのでな」
アシュレイ「お前、人を勝手に取引に使うな!」
ティア「アシュレイ、何もされてない???アウスレーゼ様、アシュレイには、手を出さない約束でしょう」
アウスレーゼ「手を出してはいないよ。あやつが、約束を違えたからな」
冥界教主「あなたが、我の楽園を、滅ぼしたのか!?」
アウスレーゼ「約束を守らぬ、そなたが悪い」
冥界教主「約束は違えるものよ」
アウスレーゼ「罰が当たったのではないかな」
………………………
むかし、むかし、あるところに、王様を篭絡し、国を自らの楽園とし、
魔法使いとの約束を違えて、国を滅ぼされる原因を作った、
冥界教主様と言う名の傾国の美女がいた。
めでたし、めでたし?
「わざわざ空港まで迎えに来るから何事かと思えば、花見だなんて……」
呆れた、とも驚いた、ともいうような苦笑いで、桂花が柢王の顔を見あげた。
空港から車で30分ほどの河川敷では、両岸に一面、淡い薄紅色を刷いた連なりの下、大勢の人たちが座敷を並べていた。
賑やかな笑い声。木々の間に灯されている赤いリボンのような提灯と照らされた満開の花が暗い水面に幻想的に浮かび上がり、
花見の宴はたけなわ、というところだろう。
土手の緩やかな勾配を桂花の手を引いて降りる柢王は、器用に肩をすくめて、
「ほんとはどっかおまえとふたりで休みがてら見に行きたかったんだけど。シフト合わねぇし、雨が降る前に、近場で我慢ってことでさ」
言葉通り、仕方なさそうな目で見上げる先では、雲の早い濃紺の空を背景に、遠い月が淡い金に輪郭をにじませていて、
吹く風も水気を含んで肌に冷たい。夜半から雨になるという天気予報は、たしかに当たりそうだ。
リゾート便で今日の昼に戻り、明日の午後には近場の往復便に乗る予定の柢王は、本来ならば今の時間は自宅でフライトプランか
遅めの夕食、あるいは早めの就寝。いずれにしても、意気揚々と花見、という感覚でもなかっただろうに──
税関を出たところで待っていた柢王に、ロング便で戻った桂花が何事かと思ったのは当然のことだ。
それに、他愛のないような口調で、
『あのさ、ものすごい疲れてる? もし、すぐに家に帰りたいなら構わないけど、ちょっと余裕あるなら、寄り道して帰らねぇ? 』
ま、それはどっちでも構わないけど、とにかく本社の前で待ってるから、帰るのは一緒に帰ろうぜ。と、それだけ言い置いて、
さっさと踵を返した男の態度は、一応、配慮なのだろう。パイロットの仕事の終わりは本社で手続きを終えるまで。その後は距離に関係なく、
早く家に帰りたいのがごく自然な心理なことは予測するのも簡単なこと。
だが、それでも、端から本社の前でなく、空港の税関前まで来たことがその本心を露呈している。それに超長距離の後のパイロットは
大抵その後数日連休、というのは天界航空の通例だ。自分の仕事の段取りは確実に済ませておけば、桂花がそのことで文句を言うことはない。
と、まで踏んでのことかどうかはわからない。そして、その背中を見送ったクールな機長がなにをどう解釈したかもまた外からはわからないが──。
『寄り道するのは構わないけど、あなた、薄着で風邪ひきますよ』
約束通り、本社前に車を止めて待っていた柢王に、ドアを開けた桂花はそう答え、それを聞いた柢王は笑って、車を走らせたのだった。
花に酔っているのか酒に酔っているのかわからない賑やかさを横目に、
「やっぱ、今夜が終わりだな」
柢王がくぐり抜ける枝を見上げる。
早い新芽がところどころ覗く、丸いぼんぼりのような花をびっしりとつけた枝先がその重さにかたわむように揺れていて、
淡い色の花弁がはらはらと柢王の肩先にこぼれてくる。
寄り道の予定などなかったから、コートの下は制服姿の桂花もそれにならって枝をくぐりながら、
「でも、きれいですよ。桜はやはり満開が一番豪勢ですね」
きれいな頬に笑みを浮かべて花を見上げる。
ぼんぼりの明かりのせいか、その紫水晶の瞳にも揺れる花影が宿る。白い長い髪がその花の色に溶け込むようで、
「……たしかに、すげぇ、きれいだよな」
柢王も笑みを浮かべて、瞳を細めた。
しかし、ふたりが、そこからいくばくも歩かないうちに、最初の水滴がぽつりと川面に落ちた。
と、見る間にさあぁっと音がして、雨が落ち始めた。
「って、マジ? まだ八時だろっ?」
天気予報は九時ごろから雨だったのに、と慌てたように時計を見る柢王の周囲でも、にわかの雨に驚いた人たちがわっと天を仰ぎ、
悲鳴を上げる。大急ぎで席を片づけて、
「やだ、せっかくの満開なのに」
「こんなに早く降るなんて詐欺だろっ」
バタバタと雨を避ける人たちを避けるように、柢王は桂花の腕を掴むと、大木の下に身を隠した。
ざぁぁっ…と雨脚が強くなり、枝が揺れる。
「最悪……」
蜘蛛の子を散らすように人々の姿が消えていき、雨に打たれた花が無残に散らされていく眺めに、柢王はがっくりと首を振った。
ふたりのいる大木の枝間からも雨のしずくが落ちて下草を濡らす。ため息をついて、
「ごめん、桂花。風邪ひくから車戻ろう」
せっかくの花見だったけど、今年は仕方ないな。と、促した柢王の腕を、桂花が軽く掴む。花びらを含んだしずくがひとつ、
その髪に落ちて、艶やかな彩りを宿す。その唇に、静かな笑みを浮かべて、
「きれいですよ」
言った桂花の言葉に、柢王もその視線の方に顔を向けて、はっと目を見開いた。
まだ残りの人がいくらか片付けをする河川敷。雨に打たれて、ゆれる赤い提灯の光の中で。
濡れた下草の上に見る間に淡いピンクの色が刷かれていく。それはまるで、花の絨毯のように──艶やかで、あでやかな、春の色を、
敷き詰めていくようだ。
一夜限りの幻のように、水面も、対岸も、花の雨に染められていく。
「この時期の雨は花散らしの雨、と言われるようですけれど──」
これでは花降らしの雨ですね。ささやいて、微笑む桂花の隣で、
「……すげぇ──」
つぶやいた柢王も、その眺めに瞳を細める。
吹く風は肌に冷たく、雨のしずくも冷たくて、寄り添うように佇みながら、ふたりはしばらくその場にとどまっていた。
「って、マジ寒いよなっ、おまえ、大丈夫?」
車に乗り込み、エンジンをかけ、エアコン全開にしても濡れた体はぞくぞくと寒い。自分の頭はプルプルと犬の子のように振りながら、
後ろの席にあったタオルを差し出して尋ねた柢王に、桂花はくすりと笑って、
「吾は寒いところから戻ったばかりですから。あなたこそ、平気ですか? だから薄着だと言ったのに」
用心のいい機長のコートは撥水性でライナー付きの全天候仕様。対して、シャツの上に上着を引っ掛けただけの機長は身震いしながらも笑みを見せ、
「俺が丈夫なのはよくわかってんだろ? それに短い時間だけど、ちょっと変わった風情の花見もできたしさ」
ワイパーを動かす。風に吹かれて飛んできたものか、フロンドガラスの上にも花びらが貼りついている。それがまたたく間に消え去る。
それに、軽く肩をすくめながらも、未練を残した様子もなく、
「それとも、かわいそうだから、帰ったら一緒に風呂入って添い寝してくれる?」
笑った柢王に、桂花が瞳を細める。いたずらっぽく、だが、優しく、向けている瞳を覗き込むようにして、
「自業自得──あなたは丈夫なんですから、添い寝なんて要りませんよ」
優しく笑ったその白い髪の先──春のしずくが、ゆっくりと流れ落ちた。
「桂花、ただいま」
窓から飛び込んだ柢王は桂花が顔を上げるより早く細い身体を抱きしめた。
心地よい胸に額をギュッと押し付け「おかえりなさい」とつぶやく桂花に柢王は更に
抱擁を強くする。
「・・・桜?」
「さっすが」
ニヤリと笑う彼は、どうやら桜の香を桂花に移そうとしていたようだ。
「満開の桜を抱えてたンだ。おまえ好きって云ったろ?」
「ええ、でも・・・あの木はうまく切らない枯れてしまうんですよ」
「ぬかりねぇ。庭師に頼んだ」
「―――――枝は処分しました?」
「蒼穹の門でな」
上機嫌な柢王の顔がわずかに曇る。
「持ち帰ってもよかったンだぜ?」
「しなくて正解です」
言い切る桂花に柢王はため息を落とした。
「でもよ・・・」
「嬉しいです。正しい判断をくだしてくれて」
「俺のモンは黙認のくせに・・・刀とか」
「己の責任を己でとるのは当たり前です」
『ですが吾の責任は貴方にまわってしまう』と桂花は無言で語る。
それでも柢王の気持ちが嬉しくないわけなどなく、桜をも黙らす艶やかな笑みで恋人を包み込んだ。
「さ、桜の香りも満喫したことですし、そろそろホコリを落としてきてください」
「えーーー、もう少しこうしてようぜ」
「汗くさいですよ」
「そうかぁ?」
「ついでに冰玉も洗ってやってください」
グルリと自分を見回す柢王の甘え巻きつく腕を外し、呼び寄せた冰玉を押し付けた。
窓越しに纏わりつく冰玉とじゃれ合い泉に向かう柢王を見つめ、桂花は桜の香の残る身体を抱きしめる。
桜の香は好きだ。
だけど今はその香すら邪魔になる。
数刻後には跡形もなく塗り替えられるだろう喜びと消え行く香を慈しみ、桂花は静かに目を閉じた。
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