投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
注意! この小説は、遊郭を舞台にしたパロディです。
桂花は散茶女郎(中級の遊女)、柢王はそのお客です。
この設定がお気に召さない方は、すみませんがお読みにならないでください。
開け放した窓に切り取られた夜の向こうから、白い薄片が舞い込んできた。
「散り時か」
低い呟きに、思いがけず声が返る。
「咲いた端から散っていきますからね。お武家さまが潔いと尊ぶ所以でしょう」
緋襦袢を肩に引っかけただけの婀娜っぽい姿で、白い髪の散茶が長煙管に手を伸ばしていた。
火鉢にかざして吸い口を唇に含み、火がついたのを確かめてから、すいと情人に差し出す。
受け取った柢王は桂花がしたように煙管をくわえ、煙を吸い込んで満足そうに吐き出した。
「散ったら困るんじゃないのか? おまえたちは、さ」
「お生憎。お客を呼び込む手筈に、なか(吉原)が抜かりのあろうはずがありんせんえ?」
柢王が嫌う花魁言葉で、桂花はむき出しの両腕を柢王の肩に回した。
後ろから頬をすりよせるように体重を預けてくる敵娼(あいかた)の、手練手管では説明しきれない心安い仕草に、柢王は頬で笑う。
桜の名所は数あれど、ことに普段は桜のない遊郭吉原の、盛りの時期だけの花は、大門をくぐる口実を男たちに与えてくれる。遊里と言えば柳、とは大陸の影響だが、不夜城吉原を一層にぎやかす大役は、そのためにこの時期だけ余所から持って来られる桜にとっても、決して不足ではあるまいと柢王は思う。
いや――他の地であれば主役になれようものを、大門の中にあっては引き立て役に甘んじなければならないのだから、桜にとってはやはり役不足だろうか。
「月に叢雲、花に風・・・」
ひらひらと、桜の花びらが風に舞っている。強い風に淡い色の塊が崩され、散っていくのが目に見えるような気がした。
「どうしたんです? 今日はずいぶんと風流ですね」
桂花が耳元で笑う。
「あなたでも、花が散るのは悲しいと思うんですか?」
「俺でも、散らないでほしいと思う花はあるさ」
耳を掠める唇を己のそれで掠めると、それは酒の味がした。
「こら、手酌で飲むなよ」
杯を差し出せば、丁寧な所作でそれが満たされる。徳利を奪って桂花の杯も満たしてやり、ついでのように柢王は、掌に落ちた花弁を滑らせた。
「桜の酒ですか」
いただきます、と桂花は両手に持った杯を一息に空ける。
「お、いい飲みっぷりだな。もう一杯」
紫水晶の眼差しが、再び満たされた杯に、次いで窓の外に向かって動いた。
「あなたの分の桜が飛び込んできてくれませんね」
「いいさ。俺が酔ってくれないのが判ってるんだろ」
柢王は手を伸ばして窓を閉めた。むき出しの肌を打っていた風がやむ。
「俺は花では酔えない」
それ以上の言葉を言う前に、唇がふさがれた。
甘い香りが微かに鼻に届く。そして人の気配。
数日続いた重い会議、そして書類の山。横で手伝ってくれている桂花も心配するほどの疲労がたまっていたらしい。いつもより長く寝すぎたのと桂花から報告で、使い女達が気を利かせて甘い飲み物を用意してきたのかとティアは一瞬思った。
しかし十重二十重と張り巡らされた結界、誰一人入れるはずがない。自分が許可しているのは…自分の部屋に自由に入れるのはたった一人だけだ。
「そこにいるの…アシュレイ?」
「あっ!! ゴメン…起こしちまったか?」
「ううん大丈夫。もう起きる時間だったし、少し余分に寝ちゃってたかもって思ってたから」
身体を半分起こし、寝台の上から声のするほうへ視線を向ける。
アシュレイも、まだ早いからもう少し寝ていろと甘い香りのするマグカップをベッドサイドのテーブルに運び、チョコンと寝台縁に腰を下ろす。
「ね、何かあったの? こんな早い時間に君がここにいるなんて…。人界で……」
「いや、毎日深夜までの会議でおまえが疲れ切ってるって──────お前の秘書から連絡を受けてっ…」
酸欠の金魚のように口をパクパクさせて、しどろもどろに桂花から連絡を受けてこちらに様子を見に来たことを報告するアシュレイに、ティアはにっこりと笑みを浮かべて、両手を広げ自分のところに来るように仕向ける。
が、頬を真っ赤にして視線を外し、サイドテーブルに置いてあったマグカップを物も言わずアシュレイはティアの方へ渡す。
「え? 何?」
「いいから飲め」
濃く甘い香りが寝台中に広がる。ティアはゆっくりとカップを受け取り一口、口に含む。
「甘いね」
「そーか、お前用に作ったって言ってたから甘いんじゃねぇのか?」
熱くなかったか? と、猫舌なのを知っているので心配しつつも口に含めたことで少しは冷めたのかなと安心し、桂花から『薬だ』と聞いてきたので苦いのではないかとハラハラしていたが、ティアの一言でホッとしながらアシュレイはティアの方を向く。
ティアの方も用意してくれたのは桂花なのだなの言葉から取れるが、アシュレイに何も言わない。二人が自分のために気を使ってくれていることがありありと伝わってくる。
「で、アシュレイ。今日は一日ここにいてくれるの?」
霊力でカップをテーブルに戻し、そのままアシュレイを寝台へ引きずり込み、ぎゅうぅぅぅっとアシュレイの感触を全身で感じ取るように抱き締める。
アシュレイも抵抗することなくティアにされるがままになっているが、無情な一言がティアの耳に届く。
「悪ぃな、直ぐに戻んねぇと。黙って来ちまったからな」
部下を放り出してきちまったし、今回はお前の顔だけ見に来ただけだ と、苦笑いを浮かべるアシュレイにティアは、離すつもりはありませんとばかりに更に力を込めて抱きつく。
「な、あんまし無理すんなよ。お前…守護主天は1人しかいねぇんだし、代わりは誰もできねぇんだから」
ティアの髪を優しく撫でるアシュレイにうっとりするが、抱き締める腕の力は緩むことはなかった。
「ほら、お終いだって」
ポンポンッとティアの肩を叩き無理やり引き剥がすと、アシュレイはいつもの如く窓から出て行ってしまった。
「ありがとう、君のお陰で嬉しかった」
「そうですか? それは良かったですね」
「それにしても、あの甘い飲み物はなんだったの? 桂花」
「ホットチョコですよ、セミスイートチョコ」
ニヤッと笑う桂花に、ティアは一瞬考えを廻らし今日が何の日か思い出す。
「本当にありがとう、きっとアシュレイは気付かなかったと思うよ。──柢王にも用意したの?」
「もちろん、特別なものをね」
今日の書類はこれです と、机につっと山積みの書類を渡し、午後の会議前に片づけるべくサラサラとティアはサインをし始めた。
ティアが八紫仙に連れられ会議へ向かったあと、彼の部屋でひとり暇を持て余していたアシュレイが、何気なく机のいちばん下の引き出しをあけると、平たい紙の箱が入っていた。
何が入っているのだろうと、遠慮なくあけて、首をかしげる。
「なんだ?これ・・・」
中には透明なファイルが、数枚重なって収められていた。
取り出してみると、チョコレートかキャンディーが包まれていたであろう銀の紙が、きれいに皺を伸ばされ正方形の状態で挟まっている。
そのすぐ下に、ティアの字で、なにか書いてあった。
『アシュレイからもらったチョコレート』
「・・・・は?」
わけが分からないまま次のをめくる。
『アシュレイと交換したチケット』
「なんだ?」
次のも、そのまた次のも、ゴミとしか言いようのないものがファイルされていた。
「なんだよコレ・・これじゃあ俺がティアにゴミしかあげてないみたいじゃないか」
柢王が居たら「 問題はそこかっ!? 」と突っ込まれるであろうアシュレイのズレた感覚に、この後ティアは助けられることとなる。
会議が終わるまで待っていると言ってくれたはずなのに、大急ぎで戻ってきた時、部屋に期待の笑顔はなかった。
「え・・・・帰っちゃったのアシュレイ・・」
うるさい八紫仙の言うこともガマンして聞いたし、上の空にならないよう部屋で待っているアシュレイのことを考えないで頑張ったのに・・・。
「退屈だったんだろうな・・・お菓子だけじゃなくて動物の写真集とかも用意しておけば良かった」
大きな椅子に体を預けガックリとうなだれていると、いきなり突風が吹いて、書類を数枚持って行かれてしまった。
「あぁっ、窓が開いてたのか」
しゃがみこんでそれらを拾い集めていると、見覚えのある靴が視界に入る。
「アシュレイ」
「会議終わったのか」
「うん・・帰ったんじゃなかったの?」
「ちょっと出てた」
一緒に書類を拾い終わったアシュレイが、ポケットからなにやら取り出して、ティアに手渡した。
「なに?」
「やる」
一瞬、泣きそうな顔をしてから、ティアは結んであるリボンを外して丁寧に包み紙を開いていく。
「・・・その紙とリボンは捨てろよ」
「えっ・・・・・わかってるよ?」
ギクリと止まった指をすぐに動かしながら、ぎこちなく笑ったティアは中身を見ると声をあげた。
「わぁっ!香袋だね!?」
「気に入ったか?」
「うん!ありがとうアシュレイ!」
淡いクリーム色をしたレースの袋は、香り玉を入れられる。
「でもなんで?」
誕生日でもないのにアシュレイからのプレゼント。不思議に思ったティアが問うと、アシュレイは正直に、勝手に引き出しの中の箱を見たこと話した。
「や・・・やだ、な、見たの?アシュレイ・・」
めまいを覚えてふらついたティアはその場に座り込んでしまった。
(どうしよう・・・変なことしてるのバレちゃった・・でも・・それなのにプレゼントくれるって・・・?)
青ざめたティアの肩をポンポンとアシュレイがたたく。
「大丈夫だって、誰にも言わねぇよ。うちの使い女にもいるぜ、きれいな柄の包装紙とか空箱とか記念のチケットとか捨てられないやつ」
「えっ?・・うん、そう!私も捨てられないんだ!」
「でもあれは捨てろよ。食いモンの包み紙やらケシゴムのケースやら。俺がお前にゴミばっかやってるみたいじゃんか」
「うん。わかった・・・それでこんなステキなプレゼントを用意してくれたの・・・」
ホッとして笑顔を見せたティアにアシュレイが頭をかきながらつけたす。
「まあ・・さ、お前はなかなか自由に出歩けない身だから、ああやって想い出のチケットをとっておくんだろ?だから・・・やっぱりチケットはとっといていい。俺が天界一の強い武将になったら、お前の護衛して色んなとこ連れてってやるからな」
「アシュレイ・・・」
今度は本当に涙ぐんで、ティアはアシュレイの体にしがみついた。
「ありがとうアシュレイ、ありがとう・・・大好きだよ」
アシュレイの顔に頬擦りしたドサクサにまぎれ、ぷにぷにのホッペに唇を押しつける。
「わーかったって、くすぐったいだろ、こら、ティア離れろって」
「本当に大好きなんだ」
「そうかよ」
みんなの人気者のティア。
きれいで頭がいいティア。
誰にでも平等に優しいティア――――――でも本当は平等じゃない。
彼が、ほかの誰より自分のことを、優先してくれていることが嬉しい。
「ほら、いいかげん離せ」
笑いながらやわらかな金の髪をクシャッとして、いつまでもしがみついているティアを剥がすと、アシュレイはさっきのファイルを手にとりチケットだけ抜き出して他のものをあっという間に燃やしてしまった。
「あーっ!?」
「・・・なんだよ、分かったって言ったろ?」
「・・・・・そうだけど・・」
アシュレイが帰ったら、箱に結界を張って別の場所に隠すつもりでいたのに、せっかくコツコツ集めていたティアの宝物は、想い人の手によって、跡形もなく消されてしまったのであった。
(でもいいや。いちばんの宝物は、きみ本人だもの)
その笑顔が見られるだけで、幸せになれる。
これからさきも、ずっと。いちばん近くにいたい。
残ったチケットを手に、ティアは想い人に向かって微笑んだ。
「お疲れ様でーす」「お疲れーっす」
放送が終了したスタジオはホッと緩んだ空気が流れる。
スタッフ達はそれぞれの持ち場から三々五々片付けのために散っていった。
本番中とは打って変わって緩慢な動作でスタジオ内を交差するスタッフ達の間を、ほっそりとした肢体が流れる風のようにすり抜け、スタジオを出て行った。
「お疲れー!」
後ろから軽やかな足音と共にポンと肩を叩かれた。誰か、は振り向かなくても分かるが、桂花はため息と共に仕方なく振り向いた。
「お疲れ様です」
予想通りディレクターの柢王がニコニコと立っていた。
「いやー、今日もばっちり、完璧だったぜ、桂花。さっすがだな。ティアがいなくてもお前一人で番組成り立つじゃん」
「あの人のあの行動は今に始まったことじゃありませんから。誰だって慣れます」
桂花は素っ気なく言い、ついでにいつの間にか肩に回されていた腕をぺっと払い落した。
氷の方がまだ温かみがありそうな対応にもお構いなしに柢王は上機嫌で再び喋り出した。
「そっか?ま、お前が慌てたところって見たことないけどな。いつだったかカメラ担いだまま川ン中入ったアシュレイ追ってティアも水ン中入ったはいいけど溺れかけて。それがばっちり生で流れちまった時だってお前慌てず進行したじゃんか。あいつ、泳げないくせにさー、アシュレイのためなら文字通り火の中水の中なんだからな」
「彼ならカメラ捨ててでも助けるのは分かっていましたから」
「そーそー。本来なら上から怒られるところだったのが、溺れた拍子にいつの間にか手に犯行の証拠品握っていたんだよな。それがまたスクープになっちまったのと、お前のフォローのコメントが効いてお咎めなしになって。あいつら、わざわざネタ拾いに行かなくても存在自体がネタなんだよな」
桂花はヘラヘラ笑っている柢王を冷ややかに一瞥するとさっさと歩きだした。
「あ、待てよ、桂花!」
柢王が慌てて後を追った。
廊下を行き来するスタッフ達の会釈や挨拶に軽く手を上げて返しながらも、柢王はなおも喋り続ける。
「お前、最近忙しいじゃん?ちゃんと息抜きしろよな」
「体調管理はちゃんとしていますよ。誰かみたいに底なしの体力があるわけじゃないことくらい自覚していますから」
「俺だって消耗するぜ、たまには。だからお前で充電しようとしているわけで」
「吾は充電器じゃありません」
報道センターに入り、自分のデスクに着くなり桂花は帰り支度を始めた。
「あっ、もう帰る気かよ。なぁたまには飲みに行こうぜ。最近全然行ってねーじゃん」
柢王は桂花の鞄を取り上げた。
「またやってますねー」
「いっつも振られるのに懲りない奴だよな」
見慣れた光景にスタッフ達が笑い合う。他の番組の人間も笑いながら眺めていた。
桂花は無表情を通し、柢王は半ば呆れているギャラリーに軽口を返している。
その隙に桂花は鞄を取り返して報道センターを出たが、エレベーターで再び柢王が追い付いてきた。
「本当に冷てーな。置いて行くことないだろ」
「一緒に帰る約束なんかしていないでしょ」
「俺はお前と一緒に帰りたいの」
柢王はエレベーターの回数表示を見つめたままの怜悧な美貌をじっと見つめた。桂花はちらりと視線を寄こして、また視線を戻した。
「最近、飲み会にお忙しいんじゃないんですか?女子大生やOL相手ばっかりの」
「あれは単なる情報収集だぜ。情報だってタダじゃもらえないんだ。俺はお前がいるから気が乗らないけど、メンツが足りないって言われるし…」
「まったくどんな情報なんだか」
「すぐにはニュースにはならないけど、情報は色々ストックしておかないと。どこでどう繋がるか分からないわけだし。ほら前だって、俺が六本木のクラブで掴んだネタ、議員の収賄と繋がって話題になったじゃん」
「次はどんなスクープを持ってきてくるんでしょうね。そのうち社長賞でも、もらえるんじゃないですか?」
「社長賞なんかいらねーよ。俺はお前に認めてもらえる仕事ができればそれでいいんだ」
「別に認めてないわけじゃ…」
桂花は小さな声で言った。
これでも日本一の高視聴率を誇る報道番組のディレクターである。話題に対して目も鼻も利く。取材の目筋も良い。編集会議でも番組中でもさり気なくチームを引っ張る頼れる男なのだ。
普段はただのチャラ男に過ぎないが。
いつも若いスタッフと一緒に小学生のように騒いでいるくせに、何かの拍子に桂花に見せる温かくて力強い視線が、無言で励ましてくれる。色々なマイナス感情が誘蛾灯に群がる蛾のように纏わりつき、心身を食い尽くされそうになるこの世界で、彼はよすがとも言える存在になっていた。
…なんてこと、口が裂けても言えないが。
とは言え、この男は桂花のそんな心中をとうに見透かしている節がある。腹の立つことに。
そんな時、彼のことが少し苦手になる。
どんな顔をして良いか分からないから、桂花は俯かざるをえなくなるのだ。
そんなところ、誰にも見せたことがなければ自身でも見たことがない。
彼と出会って知らない自分がどんどん出てきてしまうので、時々自分が怖くなる。
知らない自分を、自分は制御することができるのだろうか?
制御できなくなったら、この人は手に負えなくて去ってしまうのではないだろうか?
ほら、また思考が意図しない方向へと流れてしまった。
無意識にそんな風になってしまう自分が不安になるし、腹立たしくもなって嫌になる。こんな時は一刻も早く離れたいのに、この男は素知らぬ顔をして桂花の傍にいる。
振り回しているようで、自分が振り回されているのだ。
愛おしくて堪らないのだ、と雄弁に語る目で桂花を見ているのが分かる。
早くエレベーターが来てほしい。胸が苦しくて堪らないから。
それなのに行先回数は相変わらずノロノロと動いている。こんな時に限って利用者が多い。
無言でエレベーターを睨んでいると、背後から声が掛った。
「あっ、柢王、何してんだよ。もう行くぜ!」
柢王がギクリと体を強張らせた。
振り向くと柢王の同期の男性2人が廊下の向こうから手を振っている。確かバラエティ番組を担当していた。
柢王が妙にギクシャクとした動きで振り向いた。
行先表示は一つ下の階を示している。
「主催が遅れてどーすんのよ」
「今日は美人CA勢ぞろいなんだろ?一段と期待できるよなー」
「夜間フライト、行きませんか?とか言われちゃったりしてー!」
絶妙なタイミングで現れ、勝手に盛り上がっちゃっている友人達を、柢王は引きつった笑顔で見つめた。
チーンと軽やかな音がして、エレベーターが到来を告げた。
柢王が慌てて振り向くと桂花はすでにエレベーターに乗っていた。
「け、桂花っ、これは…」
「世界の果てまで飛ばしてもらってきて下さい」
桂花は1階のボタンを押した。
「今夜は帰って来ないで下さいね」
にっこり笑顔の桂花を乗せたエレベーターは柢王の鼻先で重い扉を閉めてしまった。
柢王は呆然とエレベーターを見つめた。
今夜は約2週間ぶりに侘しく自分のマンションに帰宅しなきゃならないらしい。
…自業自得だけど。
2人が秘密の交際を始めて、まだ間もない頃のお話…。
―――『それ』は、長い間 ただ 漂っていた。
・・・・・眠りを享受し、 ただ 押し流されるままに 出口のない あたたかな場所を
ただ 循環していた。
・・・ただ、廻りつづけていた。 死のようにどろりとした まどろみは 『それ』を
包み込み、心地よい一定の振動を 繰り返しながら 循環する。
・・・ただ、ときおり訪れる 数瞬の意識の目覚めの中で『それ』は 少しだけ 世界を
認識 する。
はるか先に 水面が見える。 波打つ光の中に 何かがあるのだが 『それ』には
わからない。
何かが聞こえるような 気がするのだが、 水に阻まれて、ぼんやりとしか 聞こえない。
ひどく 深いところに いるのだと 認識する。
そして それもまた、 眠りの流れに 押し流される。
循環を繰り返す うちに この閉じられた 海の 中(なめると塩辛い味がしたから)に
は規則正しく律動する いくつもの道筋が あることを知る。
幾度も通り抜ける 脈打つ道を 束ねる 太陽の中が 結構気に入っていた。
道は多岐にわたっていた そしてどんな 細い道筋 でも 『それ』は 難なく
通り抜けた。
何千回、何万回、何億回 繰り返し 循環する うちに 『それ』は、すべての道筋 を
覚えてしまった。
―――ときおり、海は ひどく 熱を 孕むことがあった。
そんな時、『それ』の眠りの ヴェールは薄くなる。 そんな時 何かが見える気がし、
ほとんど感じることの できない 体の感覚が、 ・・・どこかに、手や足が ある気がした。
手を伸ばせば、そこにある脈打つ太陽や、海の水に 触れることが できる と思うの
だが、『それ』 には手も足も ない。 その感覚すら『それ』は忘れている。
そのことに いら立つこともあったが、 それすらもまた、 眠りの流れに 押し流さ
れる。
―――ときおり、閉じられた 海を こじ開けて 外から注ぎ込まれる 甘い 香りの
する 苦い 水や、 白い 水は 『それ』の眠りを深くし、動きを鈍く させた。
・・・巡り 巡るうちに、少しずつ 何かを思い出す。 そしてまた眠り 忘れ去る―――
己の名を 忘れ なぜこんなところに 自分がいるのかということさえ 忘れ果て――
・・・眠りの流れが 砕かれることは ない。永遠に。
ただ巡り、巡るだけ。・・・この海が 死に 絶える その時まで―――
・・・そのはずだった。
―――このときまでは。
『それ』は 唐突に 目覚めた。
―――黒い 水。
わずかな ほんのわずかな ひと しずく。
・・・冥き、生命の 水―――
それが、この海に 落ちてきた 瞬間 ―――『それ』は 目覚めた。
―――境界。
――― 額から頬を伝って流れおちるものが、汗なのか、血なのか、柢王にはわからない。
全身から叩き込まれる痛みに、視界がかすむ。
両側の巨虫が暴れるたび、稲妻が食い込んだ外甲殻が ギギギと音を立ててきしむ。 一
瞬たりとも気を抜く事の出来ない力の拮抗を繰り返しながら、柢王はさらに霊力を送り込む。
途端、視界が揺れた。いや、揺れたのは意識のほうだった。
(・・・・・まずい。限界が近い・・・)
肉体の損傷度合いが、自分自身で手当てができるか、あるいは手当をしてくれる者の所ま
で意識を保ってたどり着けるギリギリのところまでが、柢王の認識する限界だ。(ただし、
万能の癒し手を友にもつ彼の限界は、常人よりもはるか高みに設定されている)
柢王は武人だ。
武人と称される者として、戦いが好きなことを隠すつもりはない。
だが、戦いを続けるためには、生きていなくては意味がない。
どんなに戦果をあげたところで、生きて帰らなければ意味がないのだ。
文殊塾時代より、魔風窟にて自分の力を試し続け、何度も死地に身を投じ、何度も限界を
超え、生命を危険にさらし続けた結果として。 ―――そういう意味で、柢王は己の限界を
わきまえている。
・・・肉体の損傷は限界を超えている。しかしそれは、いつものことだ。限界を認識してい
たところで、戦闘のさなかに限界を超えたからと、戦いをやめるわけにはいかない。
自分の思い通りの戦いができたことなど、片手の指に満たない。
戦闘は生き物であり、それゆえに生半可な力では自分の意志など通用しない。・・・だから
こそ、面白いのだ。
戦闘が思い通りにならず 肉体的に限界に追い込まれた時―――そこで重要になってく
るのが、自分の意志であり、意識だ。 たとえ四肢が折れていても、意識さえ保っていれば、
霊力を使って飛んで帰ることができるのだ。
―――つまり、意識さえ保つことができれば、霊力の使いようで限界を引き延ばすことは
可能だ。
だが、その意識が途切れようとしている。
「・・・・・!!!」
今、このギリギリの拮抗状態で意識を手放したらどうなるのか。
縛雷で地につなぎとめた巨虫達はゆるんだ拘束を即座に引きちぎって柢王に襲い掛かる
だろう。
アシュレイの性質からして、彼は自身の危険も顧みず、柢王を守って戦おうとするだろう。
―――巨虫 五頭を相手にして。
( だめだ )
いくらアシュレイでも無理だ。
アシュレイ一人ならば、大技を放って一掃することはできるかもしれない。しかし大技を
放つには、極度の精神の集中が必要になってくる。意識を失った自分をかばいつつ闘いぬけ
るほど、戦局は甘くない。
アシュレイの重荷になれない。
アシュレイの為だけでなく、自分のプライドにかけて断じて出来ない。
だから何としてでも、この二頭だけは潰してしまいたかった。
なのに。
両腕に絡む縛雷にさらに霊力を送り込む。その途端。
「・・・・・っ!!!!」
頭が割れるように痛む。
額が熱を持っている。
意識をよこせと。
言っている。
「・・・っ!」
額の内側を ざらりと熱い狂喜の舌がなめあげる。
霊力を上げれば上げようとするほど、内部のモノの力が増す。
―――柢王になす術はなかった。
・・・・・ ピシャン・・ ――――――
冥界のしじまに響き渡る水音。
地上の騒動など届かないこの場所を覆い尽くすのは 薄暮の闇と、幾多の命をその奥底に
納めて さざめく黒き水。
湖の中央に結跏趺坐の形で浮かぶ教主は長い腕を伸ばして その黒き水に両手をひたし
ていた。ひたされた所から、黒水は金へと色を転じ、波紋ではなく小さな渦となり、教主を
中心にゆるりと弧を描き出す。
伏せられていた教主のまぶたがぴくりと動いた。
「・・・・・誰ぞ 介入したか?」
黒い水の存在するところ総てに繋がっている教主の感覚に、何かが触れた。
両手を水から抜き出さないまま、教主はちらりと視線を流す。
黒い水面に映し出される境界の光景に、変化はない。
氷暉たちの動向にも、変わったところはない。
教主は冥い色の瞳をゆっくりと閉じた。
「・・・どうなろうと 興味はない」
彼らは捨て駒にすぎない。
教主にとって重要なのは、境界で繰り広げられる力の拮抗の行方ではなく、天界の中央で
この騒動に心を痛めているであろう貴人のことだった。
―――ぷつり と 何かが途切れたような感覚があった。
「?!」
境界で、三頭の巨虫を相手に、スピードを上げて旋回しながら一頭の巨虫の外甲殻のつぎ
目に斬妖槍を突き入れざま、身をひるがえす。今までアシュレイが居た場所を、一頭の巨虫
の大顎がかすめた。槍を抜き取り、上昇する。
頭部を炎に包まれた巨虫がそれを追ってくるのを目の端に確認しながら、アシュレイは先
ほどの違和感の根源をつきとめるべく、周囲を見回した。
地上の柢王は、2頭の巨虫を抑え込んでいる。アシュレイはそれにほっとする。だが、急
がねば。柢王の傷は深い。手遅れになれば、さしもの彼も危ない。早くこの三頭の巨虫を倒
して、彼の加勢をし、一刻も早く天主塔に連れ帰らねば。
そう思い、さらに上昇する。追ってくる三頭の巨虫に正面から激突しようと身をひるがえ
した その瞬間。
視界に広がっていた、炎の結界を支える旋風が突然消滅した。炎の壁が がくんと下がる。
それが 意味するものは―――
「・・・柢王!?」
地上では縛雷が消滅し、解き放たれた瞬間、巨虫達はその長大な身を起し、土埃を巻き上
げながら空高く伸びあがった。
「柢王!」
地上を見下ろしたアシュレイが、柢王の姿を認める。そして、背筋を凍らせた。
―――土埃にさえぎられ、遠く離れているため、見えないはずだった。
なのに、ありありと分かった。
彼は、こちらを見上げていた。―――口角をつりあげて、白い犬歯をさらして。
―――鉛色の瞳で。
息をのむアシュレイの背後から 黒々と立ち上がった幾本もの巨大な竜巻が 怒涛の勢
いでなだれ込んできたのは、次の瞬間だった。
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