投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
奇妙なお食事会がお開きになったのは一時間後。終始一貫でたらめ盾に新婚ごっこを続けたオーナーはだいぶ機嫌が直ったが、
赤毛機長はげっそりしていた。
「いいか、ティア、俺は明日待機だからなっ、家までは送るけどそれ以上は知らないからなっ!!」
本当はもう家にかけ戻って布団にもぐりこみ、今日のことは蜃気楼かオーロラだったと自己暗示かけたいアシュレイが叫ぶのに、
ティアも渋々頷いて、
「わかってるったら。でも、柢王、ほんとに大丈夫? なんだったら酔いが醒めた頃にうちから迎えを寄越そうか?」
ティアが浮かれている間、低気圧に老酒あおっていた柢王は、すぐにタクシーに乗ったら吐きそう、というレベル。いつもなら
酔っ払うことはあっても賑やかな柢王の酩酊ぶりに、さすがにティアも心配になって尋ねたが、本人は苦笑して、
「へーきへーき。この辺なら休むとこあるしさ。だから心配しなくていいからな」
その傍らに立つ桂花もうなずいて、
「おふたりとも明日は仕事でしょう。心配はいりませんから気をつけて帰ってください」
揃ってのその言葉に、ティアも頷くしかなかったが、
「じゃ、桂花、なにかあったら遠慮しないでいつでも電話してね」
念を押すと、アシュレイとふたり、タクシーに乗りこんだ。
「──大丈夫ですか、柢王?」
親友たちが消えた瞬間、げっそりした顔で膝の間で頭を抱えた男に、桂花が尋ねる。その男はその姿勢のままくぐもったような声で低く、
「大丈夫じゃない──つか、まじで気持ち悪い」
「あんなにハイペースで飲むからですよ。どこかで吐いてきますか?」
桂花は尋ねたが、柢王は首を振り、
「いや、平気──つか、ぐらぐらする。なんか船酔いみたいな感じ」
「単に酩酊状態なだけです。冷たい飲み物でも買ってきてあげますから、ここにいてください」
桂花は冷静に言うと、立ち去ろうとした。と、柢王がその手首をぐっと掴んで、
「だめ。どこにも行くな」
駄々っ子みたいに唇を尖らせる。桂花があきれた顔でその顔を見返して、
「子供みたいなことを言っても、この場合はかわいくありませんね。朝までこのままでいるつもりなの?」
柢王はそれにいーやーと首を振って、
「うわ、ぐらっとくるぐらっと」
回る酔いにふらふらしながらも、桂花の手は掴んだままで、
「うちに帰る。そんで、話の続きをする」
「──まだ忘れてないですか」
言った桂花の手首を掴んだ手にぎゅっと力を入れて、
「って、忘れられない光景だろ? 長旅から帰ってきたらさ、目の前で恋人が親友と手つないでさぁ──それ追求しなくて
なにするんだ?」
再びグレイの瞳して鋭く──据わった目では最大限に鋭く、だが──見上げた柢王に、桂花は、
「手をつなぐのと腕を掴まれるのはまったく違いますよ」
「えーっ──んじゃさ、俺のことだけ愛してるって言って、ここで」
とまだ瞳据わった男はわがままを垂れる。どこまでがわがままで、どこまでが本気か──測れない鋭さが宿るその顔に、
「愛してる、ですか──?」
「そ。俺のこと、愛してんだろ?」
「……さあ、どうですか──」
答えた機長に、柢王が、はあっ?と目を見張る。勢い込んで立ち上がりかけるその顔の前に、ふいに、クールな機長が身をかがめると、ささやくように、
「吾からも聞きますけど、あなたが家に帰ってしたいことは、本当に、そんなつまらないことですか──?」
耳朶に吹きかけるようなその声に、柢王が目を見開く。ごく間近にある恋人のものすごくものすごく美人な顔を見つめること三秒、
「いやっ、もっと大事なことあるよなっ、つか、かなり大事なこととか大事なこととかさっ!」
いきなり瞳きらきらさせてしゃきっと正気に戻った男に、クールな機長は、
「それなら、帰りますよ」
差し出された手に、
「うん帰ろう! つか、いますぐ帰ろうっ!」
さっとつかまって立ち上がる柢王の姿はほとんどちぎれんばかりに尾を振りはしゃぐ犬のよう。さっきまでの酔いも
青い炎もすっかり忘れ、恋人と手をつないだまま意気揚々とタクシーを止めると自宅に直行便。
ある意味、ものすごく幸せな人たちだ。
と、そんなカップルのそんなカップル振りを知らないタクシーのなかでは、
「桂花、大丈夫かなぁ。やっぱりうちから誰か迎えに寄越そうかなぁ」
後部座席でティアが心配そうにきれいな顔をしかめていた。柢王が飲みすぎた理由はわかっているし、本人はパイロットで
限度がわかっているにしても、別れた場所は繁華街だし、
「桂花を残しておくのも心配だしなぁ……」
悪い男が来ても桂花は相手にしないだろうが、でも気がかりだ。思わず、後ろを振り返ったティアに、
「あいつなら心配いらない」
アシュレイのきっぱりした声が言った。えっ、と尋ねたティアに、真っ直ぐな瞳を向けて、
「あいつなら何とかする。それにどうでもダメなら電話してくるだろ、俺たちがいるんだから」
はっきりと言い切ったアシュレイに、ティアは瞳を瞬かせる。
心のなかの半分は感動している。
(君だって心配してるくせに、そんなに信用してるんだね!)
が、残りの半分はその感動があるだけに、めらっとした焔がちらついて、
「君って、桂花のことよくわかるようになったよねぇ」
なんだか意地の悪い声で聞いてしまうと、アシュレイはとたんに真っ赤になって、
「あいつは柢王が好きな奴だから──だからしっかりしてるに決まってるだろっ」
そして、パイロットとしてはとっても信用している。ティアは心でつけ加え、そしてひそかにため息をつく。
(君って、本当に君、なんだよね──)
『大きくなったら俺がおまえを乗せて飛んでやるからな!』──子供のときにアシュレイが言ってくれた言葉はいまもティアの
耳の奥に残っている。老舗会社を若造が背負うのは決して平坦な道ではなく、泣き言を言いたいこともあった。そんなときに
その言葉がどれだけ勇気と目標意識を与えてくれたか知れない。
同じ場所にいられなくても、心はきっと側にいる。
『今度は俺が、世界一のパイロットになって、おまえを乗せて飛んでやるからな!』
クリスタル・アイランドの砂浜で、瞳を輝かせて誇らしげにそう言ってくれたアシュレイの顔を思い出すと、アシュレイに
とっても自分は特別で大事な存在なんだと、嬉しくて、胸が熱くなる──熱くなり過ぎ、理性が焼き切れたのがいまのティアだが。
いまも、アシュレイが桂花のことを信頼しているのを、嬉しいと思う気持ちと、自分のことだけ考えていて、と、ちょっと面白くないような気持ちと。
どちらもあるけれど、でも、本心は、たぶん、嬉しい。そんな自分の気持ちがちょっと悔しくて、
「ね、泊まってって」
ねだるようにそう尋ねると、アシュレイは、
「明日仕事だって言っただろうっ」
「うん、だから、間に合う時間に君の家まで送らせるから。だって君とゆっくり話す機会はあんまりないし、最近は私も君の便に思うように乗れてないし」
月に一度が「しか」なのか「も」なのかは本人規準だ。
「私たちは柢王たちと違って、同じ家に帰るわけじゃないんだもん。もっと君と過ごしたいよ」
文の前半はカップルじゃないから当然に違いないが、恋は盲目のオーナーは自分の発言でも前半は無視して後半に力を込めて訴えた。
と、赤毛機長はちょっと驚いたような顔をしたが、
「お、俺だって、おまえと会いたいと思ってるぞ」
今度こそ、照れたように窓の外に目を向ける。瞳がちょっとうろうろして、基本、ふだんのティアは大好きなアシュレイにとっては照れはするが本心だろう。
が、その言葉にさくっ、と理性跳ね飛ばしたオーナーは瞳輝かせて、
「ほんとっ? じゃ泊まってくれる?」
「えっ、でも、あの──」
「私のこと考えてくれてるなら泊まってってくれるよねっ?」
「そ、それはっ…だけど、もしフライトになったら……」
「そんなに夜更かしなんてしないよ。それにまだ時間は遅くないし」
宵の口と言ってもいいはずだ。
アシュレイがその言葉にうーんと考えこむ。ちらと腕時計を見たところを見ると、万が一フライトだった時の体調管理が
万全かどうか測っているらしい。
(あとひと押し!)
ティアはにわかに活気づく。アシュレイが泊まってくれるなんて久しぶりだ。かわいい寝顔を堪能しながらちょっといたずら
なんてしちゃおうかなぁぁぁ、など妄想が勝手に膨らんで、つい力んでもう一歩、
「ね、私のこと、愛してるなら泊まって」
うっとりするような笑顔で誘ったところ、赤毛機長は首筋まで赤くなり──そしてわなわな震え出した。照れてるのかなぁと、
オーナーはときめいたが、ついに堪忍袋切れたアシュレイは握り拳固めると大声で、
「愛してるわけあるかーーーーっ!! 運ちゃん、このまま俺の家に直行だーーーーーっ!!」
「ええええええーーーーーーーっっっ!!!」
後日──
一面の窓から離発着の機体を望める天界航空本社ビルの最上階では、
「そうか。そうだよねぇ、やっぱり、アシュレイにだって心の準備が必要だもんねぇ──」
『そーそー、やっぱおまえ、押して押してちょっとは引くぐらいじゃないとだめだって』
キレた赤毛機長に自宅に逃げられ、ひとり寂しく夜を過ごしたオーナーは、電話でステイ先の親友に恋愛相談。
こちらは違って恋人とステキな夜を過ごした親友は嫉妬のこととか自分は過去押せ押せ押せしかなかったこととか、そんな
ことはすべて忘れた上機嫌な無責任さでうんうんうなずき、
『ってことで、ま、回こなせばなんとかなるって。俺、そろそろ出るから切るわ。ま、がんばれよ』
「うん、ありがとう、柢王。また相談するねっ」
と、こういうときには当てにしてはならない親友の助言に礼を言ったオーナーは、よしと机を向き直る。
そこにあるのは青い海と空が白い砂浜の向こうに無限に広がるクリスタル・アイランドのリゾート写真。じっとそれを見つめ、
「そっか。タイミングと押しだよね。うん、負けないでがんばろうっ!!」
きらびやかな笑顔でうなずくオーナーが、そのパンフの下にあるクリスタル王室からの手紙を見るにはまだ時間がかかりそう。
「そうだ、明日のフライトに間に合うように、アシュレイに差し入れ買ってこよう!」
と、足取りも軽く売店に急ぐオーナーの気持ちを赤毛機長が本当に知るのはいつのことになるのか──。
ともあれ、ある意味では、ものすごく平和な人たちの物語だ──。
「ああ、そうか、桂花の新機種の研修、来月だったんだよね」
と、ティアがうなずく。
テーブルの上にはひとしきりの料理が並び、皿が来るたび、無理やり食わされた赤毛機長はぐったりうな垂れている。
「──ティア…おまえなぁ……」
丸呑みしすぎてかすれた声で、ようやくそう訴えると、
「あ、アシュレイったら、口の周りにソースついてる、私が取ってあげようか!!」
と、瞳輝かせたオーナーはナプキンに手を伸ばす──のではなく、なぜかきれいな口元、舌を覗かせる。ぞっと、前髪逆立てた赤毛機長が、
「自分で拭くからいいっ!!」
叫んで、さっと服の袖で顔を拭きながら座ったままで半歩退いたのは、実にすばらしい防衛本能だ。と、ティアは驚いた顔で、
「ああ、もう服が汚れちゃうのに!」
あたかも赤毛君が悪いかのような言い草。
「柢王たちがいるからって、そんなに照れなくてもいいのに──」
と、うっとりした笑顔で頬染めるその瞳は盲目を通り越して妄目──ありもしないものまで見えているような感じだ。
言葉にならない訴えを宿したアシュレイの瞳が再び柢王をスルーして、桂花の方にちらり。と、そのSOSを受けたように
クールな機長が口を開いて、
「はい、来月の頭から十日の予定です」
答えた瞬間、テーブルの気圧が一気圧くらい下がったような気がしたのは、その隣で、老酒の杯一気に飲み干した男のせいか──
パイロット一人につき、飛べる機種は原則一種類──。
あまり知られていないことだが、研修と試験を重ねれば増えていく路線と違い、携わる機体の種類はそうそう変わることはない。
飛行機は3Dを飛ぶものだ。前の機種の癖でちょっとやったら車輪つけませんでした、などということは絶対にあってはならないから、機種が変わるときはそうとう時間の訓練と適性検査をこなすことになる。
ただ、桂花が今回行くのは、そうした実際の変更訓練ではなく、最新型機種のおひろめ研修のようなものだ。旅客機の進化は
日進月歩。最も新しい機種は戦闘機と同じスティック・ラダー、コンピューターも数段高度で乗客数も増える。かなり大きな様変わりだ。
だからこそ、その機体に先に乗るのはおそらく、叩き上げのベテランではなく、ハイテクで育った若手たち。何が起きても
なんとかできそうな腕と性格の持ち主でフライト経験もそこそこの、有能な若手。製造元メーカーが各国のパイロット相手に
行うその研修の天界航空のメンバーのなかに桂花が選ばれたのは、まあそういう理由だ。新古米はまだまだ、柢王でももう少し
フライト時間がいるだろう。
その研修はメーカーの本社で行われるから、桂花はもちろん泊りで外国。とはいえ、それは必要なものだし、いずれ新機種が
導入されればすべてのパイロットがもっと厳しい訓練を受けることになる。その手始めの一歩のようなものだ。
そのあたりのことは、むろん、柢王にもわかっているはずだし、お互いに乗客の命を預かる仕事をしているのだ、ふだんなら
そういうことに文句は言わないはずなのだが──
微笑んだ柢王はまっグレイの瞳をティアに向け、
「仕事だから仕方ないけど──でも、ほんっと、あれこれ押しつけてくれるよな、ティア?」
がくっとくるような急激な気圧変化とそれに伴う大親友の凍りそうな目つきに、今度はオーナーが、瞬間身震いして、
「なっ、なにかあったの、おまえたちっ?」
「別に──なんにもねぇよなぁ、桂花?」
「ええ、なにもありません、オーナー」
と、黒白機長はさらーっと答えるが、そのさらーっとした答えに乗ってなにかちりちりする気配が到来。ティアは思わず、
いやが…あれこれを忘れて瞳を瞬かせた。
(て、柢王、ものすごく機嫌が悪い、よな……?)
基本的に愛情深いし、与え上手の優しい男だが、柢王は根底の気質はかなりはっきりしている。大事なことは胸に秘めて、
笑顔で悟らせないところもあるこの男は、だからこそ自分の欲しいもの・大切なものは明確にわかっている男で、
(け、けどなんで? 柢王が桂花に対して機嫌が悪いなんて、初めて見るよな?)
クールな機長の顔はいつも通りだが、その桂花の顔を見る柢王の目の色を見たら原因は桂花意外にないはずだということぐらい、ティアにもわかる。
だが、一目惚れした挙句押しに押しまくってようやく手に入れた恋人を、柢王がそんな物騒な目で見る可能性があると言ったら……
(うーん、私ならヤキモチ、とかかなぁ?)
と、こんなときには自分を客観的に見られるオーナーは心でつぶやき、え?と首をかしげる。
いや、柢王が実はかなりのやきもち焼きであることは知っている。というより、かれが桂花とつきあいだしてからわかったことだ。
誰も、自分の心をかき乱さない相手のことで愚痴を言ったり、地団太踏むようなことはしない。それは、空の上にいるアシュレイのことを思う自分の気持ちを思えば──こんなときはすっきり理解するオーナーだが──十分に理解できる。
(私だって、アシュレイがCAたちと合コンしたらものすごく嫌だし──)
と心で続けるオーナーの理解の正否はさておいても、そう考えると説明がつく。とうより、他に理由が思いつかない。
(で、でも、なんでいまヤキモチ──?)
以前は誰にでも等しく無関心だった桂花は、柢王とつきあいだす頃から少しスタンスを変え、誰にでも同程度の関心は持つようになった。
その結果、遠巻きに憧れていたCAとかパイロットのなかにも露骨に桂花に対する好意を表す者もいるとは聞いているが──
(でも、桂花が一番関心あるのはやっぱり柢王だろう? だって、同居までしてるんだし。他に桂花が関心持つって言ったら……)
ありがたいことに、自分たち──と、心で続けたティアは、再び心でえっ?と叫び、
(──ということは、柢王がいま妬いてるのって、私かアシュレイ? でも、私が桂花に会うのは十日ぶりだし、ということは──…?)
「ええーっ! アシュレイーーーーーーーっ?!」
「なななっなんだ、ティア、どうしたっ!!」
いきなり叫ばれ、ティアが何か考え事しているらしいこの隙にちょっとちゃんとエビ食べようと箸をそろーっと伸ばしかけて
いたアシュレイが飛び上がる。
それに対して、
『ちょっといま柢王の嫉妬ルートを考えたら君にいきついたんだけど君桂花となにかありましたっっっっ???』
勢い込んで尋ねたかったティアは、しかし、
「いっ、いやっごっ、ごめんねっ、ちょっと君のフライトのこととか思い出してたらねっ!!」
わけのわからない説明しながら夢中で首を振る。
いや、本心は別のことを叫んでいるのだ。アシュレイと桂花の仲がひんやりしていたのはもう昔のことで、
(大体、君って、反感持ってた相手に限って、気を許すとすごく懐いちゃうんだしっ)
桂花に対するアシュレイの態度の変りようにはティアも少なからず気にかかることがあるのだが、
(ここでそんなこと言ったらよけいに柢王の機嫌が悪くなるっ!!)
当の桂花が冷静な顔でいるのに、自分が指摘なんかしたらどんなことになるのか──試してみる勇気は、ティアにはない。
だからつい話を逸らしてしまうと、アシュレイはホッとしたように息をついて、
「いきなりびっくりさせるなよ。仕事のことなんかいま考えても仕方ないだろ。ほら、食え、うまいぞ、エビチリ」
と、来たばかりの熱々エビチリを皿に入れて渡してくれる。
目の前の気圧異常に気づかないどころか、自分がさっきまでしかけていた恋人ごっこのことすら忘れたようなその態度に、
ホッとする反面、ちょっとむっとしたティアはわざと上目遣いで尋ねた。
「食べさせてくれないの?」
瞬間、ボッ、と音がしてアシュレイの顔が真っ赤になり、
「自分で食えるだろーーーっ!!」
叫んだアシュレイの顔を、桂花がかすかにおもしろそうに見る。
瞬間、気圧がぐんと下がった。周囲の客が酸素マスクを求めるような顔でこちらを見る。が、桂花の笑みを垣間見てしまった
ティアのなかにも、なにかメラッッとした青い炎が燃え上がる。嫉妬とは実に感染力の強い病だ。
「まあまあ、アシュレイ、たまにはティアもいたわってやんねぇと。だよな、ティア?」
と、笑顔で老酒あおる柢王の底響きする声に、それが好意なのか牽制なのかはさておき、ティアも毅然とうなずいて、
「そうだよ、アシュレイ! 君は中華のお箸がなんで長いのか知ってる? それはね、儒教の精神を食卓にももたらせようという
試みなんだよ。天国と地獄には同じとても長いお箸がある。そのお箸で自分の口に食べ物を入れようとすると長さが邪魔になって
食べられない。だから自分のことだけ考える地獄の亡者はいつも空腹を抱えている。でも、天国ではみんながその長さを活かして
向かいの人の口に食べ物を入れてあげる。だからみんないつもおなかいっぱい食べることができるんだ。だから中華では人に
食べさせてあげるのが正しいんだよ」
と即席のでたらめをさも真理のように言い放った。
アシュレイが目を見張る。
「そっ、そんなの初耳だぞ、本当か、ティア?」
私の願望で脚色はしてあるけど。オーナーは心でだけつけ加えてうなずいた。博識にかけてはティアを信頼しているアシュレイは
とまどったような顔をしたが、つっこむ時につっこむ男が老酒あおって、つっこまないので仕方なし、
「エ、エビチリだけだからな……」
そっと、箸にオレンジ色のエビを掴んで半信半疑、差し出すと、ティアは恥ずかしげもなくパクっと食いつき、
「うん、おいしいっ、アシュレイ!」
さっと、蓮華に八宝菜掬って、
「じゃ、今度は君ね。あーんしてっ!」
「もっ、もういいだろ、ティアっ!」
「だめだよ、君はしてくれなくても、私は功徳を積むんだから。はいっ!」
瞬時に柢王の嫉妬のことなどけろりと忘れ、ハートマーク飛ばして赤毛機長に迫るオーナーの姿に、周囲の客たちは津波の
前の海のような引き潮になる。
「──あれが功徳なら俺なんか毎日積みたいくらいだな」
と、親友たちの姿を眺めながら、柢王が皮肉っぽい笑みで桂花にささやく。と、クールな機長は肩をすくめて、
「箸が長くて向かいにしか届かないなら、円卓である必要はないですね」
柢王が注ぎ足した老酒の杯を少し離れた場所におく。柢王はそれに軽く顎を反らして杯を空け、
「それ以前にあれは儒教じゃなくて仏教の話だろ。そもそもアシュレイ仏教徒じゃねえしさ。つか、ふつうは信じねぇだろ、
あんな話」
と、クールな美人は柢王の顔をまっすぐに見つめ、
「吾は、かわいいと思いますけれどね──」
紫の瞳が照明にきらめいて、その瞬間、原子炉のような熱量の湧き起こった円卓に、周囲の客は今度は押し寄せる津波のごとく注目だ。
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