投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
穏やかで優しい心地で意識が覚醒し始めた。今までの人生でこんな最高の目覚めはなかったが、最近こんな気持ちで朝を迎えることが多い。
理由は分かっている。世界一美しい宝石よりも美しくて価値のある恋人が隣で眠っている…は、ず?
眠りに落ちる前、確かに腕の中にあったぬくもりが消えている。
そう気がついたと同時にどこかで小さなノイズが聞こえた。急速にはっきりしていく意識がぼんやりとした断片だった音をすばやくかき集めていくと、それは恋人の声として形を成した。
寝室のドアが細く開いている。
ベッドを抜け出した恋人が部屋の外で電話をしているようだ。
「うん…、うん…。大丈夫だよ、任せておいて。上手くやるから」
恋人は昨晩着ていたシャツをひっかけただけという、この時間帯としては何とも目の毒な格好でソファに座って携帯で話しをしていた。
カーテンの隙間から差し込む薄金色の光の中で優しい表情を浮かべている姿は、その色っぽい格好にも関わらず清冽で、ふと天使を連想した。
が、正直そんな感慨に浸っている気分ではなかった。
音もなく恋人の背後に立ったのと、彼が電話を切ったのは同時だった。
「柢王、起きていたんですか?」
桂花は肩の上にのっけられた不機嫌丸出しの顔を少し驚いた顔で見た。
「誰だよ」
ブスリとした、端的な質問に
「李々です」
随分あっさりと答えてくれるじゃないか。それが一体どういうことなのか分かっているのか?
今、まさに恋人が恋敵と楽しげに語らっているのを目撃して、心穏やかでいられる男が存在すると思うのか。
しかし悲しいことに桂花が、李々を恋人の恋敵と認識しているかどうかというのはまた別の話であるのだ。
桂花の中で李々と恋人は根本的に同じ土俵の上に乗っていない。
だから恋敵という言葉はそもそも当てはまらないのだ。
別にどっちが上でどっちが下という区別はつけていない。どちらも桂花にとって大事な存在である。ただそのカテゴリーが若干違うだけだ。
と、いうことは理解はしている。桂花が大事にしているものは尊重したい気持ちもある。が、一方で桂花を独り占めしたいと常々思っている身からすれば上か下かの問題ではなく、そもそも恋人である自分以外が存在する場所も隙間も、桂花の中に作ってほしくないというのが偽らざる真情なのだ。
本音で言えば、自分以外の多くの人間に関わる彼の仕事だって不満と言えば不満だが、それこそ言い出せばキリがない。
「何だよ、こんな朝っぱらから」
「そんな早い時間じゃないでしょう?」
確かに時計の針は、世間がすでに活動を始めていることをお節介にも知らせていた。
「何の用だよ?」
「仕事の確認です。結構大きな仕事を頼まれたものですから」
「お前はいつだって完璧な仕事をするじゃないか」
「確認も上司にとって大切でしょう?それに李々はこれから仕事で明日まで忙しいものだから」
よりによって至福の時間をぶち壊すことはないじゃないか。
偶然か?偶然なんだろうな?
際限なく疑心暗鬼に傾いていきそうだ。このままでは明日の仕事にも支障をきたしそうなので、ここはカンフル剤を処方してもらうことにした。
「何ですか、柢王!」
突然抱きあげられた桂花は抗議の声を上げたが、柢王は無視してそのまま寝室へズンズンと入って行った。
「こんな朝っぱらから、は、あなたの方でしょう!?って、ちょっと!」
ベッドの上へ軽く放り投げられ、スプリングで1度跳ね上がったところで桂花は素早く起きようとしたが、のしかかられてそれは叶わなかった。
「これから朝ご飯を作るんですけど!」
「お前を喰うからいい」
首筋に埋められた頭を叩いて言ったが、くぐもった声はあっさり却下した。
「このままじゃ、明日の仕事に支障が出る」
「だから今日はゆっくり休むんでしょ!?」
「無茶言うな」
「どっちがですか!?」
噛み合わない口喧嘩は、桂花には訳が分からないまま、結局柢王によって流される羽目になった。
テレビ局に入ると、まだ時間があったので桂花は1階にある喫茶コーナーに入った。テーブルで手帳を捲っていると、背後からの若い女性の声がふと耳に入った。
「そー、で、待ちがめちゃ長くなっちゃったから、スタジオの外に出たの…」
さり気なく体を傾けて背後を伺うと、最近バラエティ番組のアシスタントやCMでちょっとテレビに出始めているタレントがアイスティをストローでかき混ぜながら携帯電話で話していた。どこかにひっかけたら、大変なんじゃないかと思うくらい装飾過剰な爪だった。
「そしたらさー、誰に会ったと思う?…柢王よ!何と!柢王にバッタリ会っちゃったのー!」
注文したコーヒーが運ばれてきた。桂花は再び視線を手帳に落としてカップに口をつけた。
「私、超テンション上がっちゃってー。思わず追いかけて握手してもらっちゃった。超素人っぽいけどさー、…でしょ?気持ち分かるでしょー?」
手帳には来年の予定まで埋まっている。その中には数日留守にしなければならないものもいくつかある。柢王はそのことを知るたびに拗ねる。ゴネる。メイクする相手が男性だと知るとそいつを降ろせと騒ぐ。自分だって仕事で1ヵ月以上留守にすることだってざらにあるくせに。
「そのままちょっと話したんだけど、何かいい感じに盛り上がっちゃってー。でね、彼の部屋から見える高層マンションのペントハウスの照明がすごく凝ってて綺麗なんだって。その家の人、夜遅くにしか帰ってこないらしくて、照明が点くのも11時以降なんだけど。毎晩微妙に違ってて楽しいんだって。フフっ、可愛いよねー。そしたらさ、柢王の方で時間切れになっちゃってー、それ以上話が聞けなかったの。でもね、そのマンション、私の部屋からも見えるんだよ。そんな部屋、全然気が付かなかったけど。ちょっと運命っぽくない!?しかもさ、メアド交換できちゃったの!すごくない!?…どうやってって…何かノリで?みたいな。だからさ、今晩その部屋の電気が点いたらメールしようと思って。私も見てますって。離れたところから同じものを見るってちょっとドラマみたいじゃない!?」
あのドラマ以降、今のところ柢王と仕事する予定は入っていない。柢王はそのことについてよく不満を漏らしている。それについては桂花としても残念だ。一緒に仕事ができたら1回くらい髪の毛むしってやるのに。
「ちょっと地方にロケ行ってたから見れなかったんだけど、今日、やっと時間空いたから。今からの収録は夕方には終わるし、今日は速攻帰る!絶対見るから。そう、夜の11時以降!」
時間がきたので桂花は喫茶コーナーを出て、エレベーターへ向かった。今日の仕事は夕方過ぎには終わる予定だ。いつもより早く帰ることができる。
エレベーターのドアが開いて乗り込むと、女性が一緒に乗ってきた。先ほど後ろの席にいたタレントだった。ドアが閉まるとタレントは「あの」と声をかけてきた。
「あ、あの、桂花さんですよね!?ヘアメイクさんの」
「えぇ」
短く肯定すると
「きゃー、いつか一緒にお仕事したいなと思っていたんです。握手して下さい!」
頬を紅潮させて手を差し出してきた彼女に「芸能人ではないのだが」と苦笑しながらも手を握り返した。タレントは桂花が握った手を嬉しそうに握り締めて桂花を見上げた。
「桂花さんって、本当に綺麗ですよねー。男の人に対して変かもしれないんですけど、私もそんな風に綺麗になりたいって思っているんです。何か美容の秘訣ってあるんですか?」
「そうですね、まぁ、基本的なことができていることが一番大切ですね」
「基本的なこと?」
「そう、早寝早起きと食生活に気をつけること。特に早く寝ることは大切ですね。ベストは夜の10時には寝ていることです」
「10時…ですか」
「吾も多くの美しい女優さん達とお仕事をさせてもらいましたが、やはりそういうことに気をつけていらっしゃる方はさらに美しくしたいと腕が鳴ります」
「そうなんですか…」
「あなたも充分にその素養があるのですから、磨かれないともったいないと思いますよ」
「そんな…、そんなことありません」
タレントは真っ赤な顔をして呟いた。
エレベーターはチンと軽やかな音をたてて、降りる階に来たことを告げた。
桂花は彼女にそっと顔を近づけて耳元で囁いた。
「今度是非、一緒にお仕事をしましょう。それまでにお肌のコンディションを整えておいて下さいね」
そしてダメ押しのウィンク。
タレントは失神寸前の表情だ。
本当に気絶したかもしれない。後ろも見ずにエレベーターを降りてしまったので分からないが。あれではこの後の仕事に支障が出るかもしれないなと、桂花は少し同情する振りをしてみた。
しかし、芸能人は肌が大事だ。さっき言ったことだって嘘じゃないし。これで夜更かしを控えて努力をすればきっと良いタレントになるだろう。
良いことをしたものだ。
桂花は軽やかな足取りで仕事場へ向かった。
「桂花、あの部屋の照明、点いたぜ!」
柢王がベランダから顔を出して桂花を呼んだ。ベランダへ出る前に、ソファの上に放り出してあった柢王の携帯にチラリと視線を投げたが、携帯は沈黙している。ベランダの柢王は「おー、今夜はゴージャス路線だなぁ」と歓声を上げている。
少し遅れてベランダへ出てきた桂花の手の中を見て柢王は目を丸くした。
「珍しいじゃん、お前から酒を持ち出してくるなんて」
「えぇ。たまにはいいかなと思って。少しくらい遅くなっても平気でしょう?」
桜模様
天気が暖かくなってきて、花粉も飛んでる。
中央区にある貿易会社の「ブラック&ハーツ」でも、
春が、やってきた気分が。
「ハ、ハ、ハクシュン!」
花粉症に苦しめられて続けて、ノードパソコンに向けてる江端は耐えなくてくしゃみを出した。
夏はまだ早いのに、昼の日差しは窓から差し込んで、全室でなんとなく暑そうな雰囲気が漂っている。
「あっちー。こんなとこなんてやめろっつうのかよ!」
健は気だるくてソファーに足を投げ出して目をつぶったままで小言が漏らした。もともと、暑さが苦手だよ。
こんな文句なんてもう慣れたし、江端は聴いても聴こえないふりに仕事を続いてる。どのぐらい時間を過ごしたんだろうか。微かにエアコンの運転の音とキーボード打ちの音しか聴こえなくなった。
「取引先の社長さんのとこへ行くじゃねーか?さっさと準備しねーとな、健。」
と言ったら、ソファーに転んでる人影から返事が来なかった。
もう一度呼んでみても同じで、仕方なく江端は立ち上がって、ソファーへ近づいていくと、少しだけの穏やかな寝息が耳にした。
そんなに暑いじゃねーか、と思いながら、
ネクタイ崩して、シャツのボタンは一つしか繋いでない健を見つめる。
ドッキン!とあの瞬間の心臓の動きが鼓膜まで裂きそうに響いてた。シャツの裾から見えるその細い腰のボディラインが陽光を反射するように色っぽくて妖艶な光が輝いてる。喉が急に渇くなった。健を起こすことも覚えずに逃げるように早く自分のデスクに戻ろうと思ってる江端の手首が、きゅっとつかまれた。
「………行くな…」
起きたのか、と思ってもっと近く見たら、目を閉じたままだ。
「…おまえのこと……ひとり…じめしてぇ、よ。」
寝言か、慎吾と間違えたかな。その手を取りしようと、
えばた…とため息みたいな声が聞く気がする。
自分は聴き間違えたかもしれない。それでもその寝息を邪魔しないように手をつかまれたままで床に腰をおろした。眠りは浅い彼だから、こんな程度の動きで、普段なら、起こされるけど、今はまだ眠りの中で。
昨夜、徹夜で飲んだのか、女を抱いたのか、一夜中遊んでたんだろう。
まだ仕事がある日でも朝帰りして、会社で思い切り寝ちゃったこの専務に、
社長として言うまでもなく責めるはずだけど、アイツは「向井健」だけで何をしても許される男だ。なんとなく許すことになった。
日差しをかざすように額に当たってる手の下で隠してる顔を、江端は溺愛に見て目を細まった。
目を閉じると、厳しい瞳の印象が消えて、意外と可愛くなるこの寝顔は、もう何年ぶりだろうか。
この腕に初めてこの仕草で倒れこんだのは、今と同じ桜が咲く頃だと、江端は思い出した。
あの時が遠くて、そして近くて。桜の花を見てなくて、そのかわりに雨が降ってきた。雨は二人を。いや、この寝顔かもしれない。
この歳まで生きれるのを思ってなかった。こんなふうに会社を興して、一緒に働くことなんて、夢でも考えたことがなかった。
ダークな日々が堕落すぎて、明日のことを想像だけでバカらしい。
それでも目を覚めれば、この寝顔がそばにいた六畳の狭い部屋がなんとなく懐かしくなる。
あの時は自分が出ればいいんだよ。と何度も自分に問いかけて悔しくて後悔した。助けることもできない自分を恨んでた。
しかし、自分が出て、健はそのままに就職に行かせるなら、自分達はあれからはぐれるのか?
時にはこんなにわがままな考えが頭に浮かんだこともある。
甘すぎた過ちを、一生で償うなら足りるのか?
悠遠な意識に沈んでる時、突然に鼻の何の不快感で現実へ引っ張られちゃって、くしゃみが出そうな予感が迫り来る。
「ハ…ハ…ン!」
せっかく声を我慢してたけど、手を繋いでるから体の動きが健を揺らせた。閉じたまぶたはそっと震えて、目覚める寸前でこの静かを切り裂いた歌がどこから流した。
『♪さくら さくら さくら 夢模様 はてしなき空はまぶしくて♪』
合図のようにこの音で健は目を覚ました。つかまれてる手を離され、その長い指は江端の後ろに伸ばして、テーブルに置いた携帯を取って、歌も止めた。
「はい、メールを拝読しました。いいえ、こちらこそ、わかりました」
着信メロか、なんで健はそんな歌を使ってるんだろう。奴と違和感があるが、今の季節とぴったりだな。と思いながら、会話を終わった健にそう言った。
「遅刻だろうか。取引先を待たせるじゃ失礼だな」
「もう待ち合わせの時間を変更したぜ。間に合うかな。」まだ眠そうに寝ぼけな顔で健は腕時計に視線を落とした。
「そんな着信メロを使ってんか。おめぇらしくねー。なんの歌か?」
「しらんねーよ。ロックが好きな知り合いから送った。外で着信音がいつもかぶって聞きにくいから変えてぇが、ダウンロードなんか面倒くせぇだ。送ったら使う。そんだけ。どっかのロックバンドかな。詳しくねーぜ。」
言いながら、振り向いた健は眉をあげて、床を座ってる江端を見る。
「っていうか、なんでてめぇはそんなとこに座ってんだよ?」
「人の手をつかんだのはおまえだ。」
誰か掴むかって怒鳴り返すかと予想を裏切って、その口角がそっとあげて、微笑をもらした。
挑発でも、ハンターの鋭さでもない、それは心から咲いた笑みだ。目を細まったその笑顔はまるで春に咲いた桜のように、その薄い唇がまぶしすぎる。
「俺、夢をみたぜ。」
「どんなの。」
「まーな。」
笑って続けてる健はその後を何も言ってなかった。
ただ、高校時代だぜ、とそっと呟いた。
江端も思わずに笑った。
「俺も出掛けだ。さっさと行け」
健はボタンを繋いだシャツにスーツの上着を着いて、口にくわえた煙草を火をついた。
タバコをくわえる健と一緒にビルを出たとたん、強い風が容赦なくて吹いてきた。目を開けれないほど風を、健は思わずに手を上げて顔の前に当たってた。風に巻き込まれた桜の花びらはその手のひらに残された。
「綺麗だな。でも儚いんだ。」
自分の手のひらを見つめて、そのハート形のものに健はそっと呟いたと、
江端は大量の花粉で立派なくしゃみが出ちゃった。
「ハクション!」
「わりぃ、何を言ったんだ?」
「いいや、別に」
ゴミ箱で煙草を消して、健はバイクを乗った。ヘルメットをかぶって、エンジンを発動してる後ろ影は急に振り向いて、こっちへ何を投げてきた。
「使え!後で洗って返せばいい。」
捕えたのは、ヒョウ柄のマスクだった。
使えるかよ、と言おうと顔を上げて、その後ろ影はもう、風に乱れてる桜とともに道の果てへ消えてしまう。
時の流れに花開き、そして散り行く春の景色。
自分に笑ってくれるじゃなくてもいい、どうしてもその笑顔を守ってやりたい。
この気持ち、一生伝わなくてもいい、ただ、
咲いたその笑顔が、風に散らさないように消えないように見守っていい。
江端は見えなくなるまでじっとその後ろ影を見送りしてた。
さらさらと水が流れる地下の王国。
美貌の主の支配する、その昏く謎めいた場所には、地上では想像もつかぬ危険に満ちた秘密が、隠されている。
前庭に掲げられた篝火が、煉獄の焔のように赤く視界を彩っている。
漆黒の支柱に金を施した豪華な屋形。きざはしにしつらえられた縁台では、数人の美しい侍女たち(享年推定20代前半)が緊迫の
笑み浮かべながら、脇息にもたれ、杯傾ける主の顔を見つめている。
と──、
手にした金扇ゆらめかし、金黒色の瞳細めた美貌の主が、ふいに、いきなり、何の脈絡もなく口を開いた。
「守天が転ぶと、しゅってんころりぃ〜〜」
ころりぃ〜ころりぃ〜…。
ピッキーン! と、凍りついた空気の上をどこまでも転がる、滑りのよいギャグ!
しかし、待ち構えていた侍女たちはいっせいにどっと笑い崩れ、
「まあ、いやですわ、教主様ったら!!」
「そんな面白いことおっしゃるなんて!」
ホホホ、オホホ、オホホホホホ!
響く笑いに、主は金扇揺らして得意げに、
「いやなに、そんなたいしたギャグでもアルマジロ?」
南米どころかシベリア生まれのだめ押しに、またまた侍女たち涙浮かべて高笑い。
地獄の沙汰は全て主の機嫌次第。この世ではギャグを拾うのも、常に命懸けだ。
纏わりつく霧に閉ざされた地下の王国。
見事な調度の屋形の奥の一室。
金銀彩なす贅沢な装束の数々。その手の込んだ見事な刺繍は深い緑の浮き唐草か。
と見るに、通りかかった侍女のひとりが肩を竦めてため息ついて、
「また衣装係が湿気取りを忘れたのね……」
呟いたとたんに屋形のどこかで女の悲鳴とシュボッ!と何かが燃え尽きた音。
冥府はいつでも低温多湿。カビ取り忘れが命取り。
黒い湖が昏くたゆとう地下の王国。
松明を掲げ、その水の側を通り掛かった亡者の体が、ふいにボッと焔に包まれ燃え上がる。
「ああ!教主様がお怒りだ!」
「お許し下さい、教主様!」
畏れおののく亡者たちが、不興の主に赦しを乞うて叫んでいるその頃──
当の主は高殿の一室に美女の膝を枕に夢心地。
あまりに深く掘りすぎて、時に天然資源の湧く地底の王国。
パイプラインで大儲けする日は、果てしなく遠い。
漆黒の闇に閉ざされた地下の王国。
綾目も分かたぬその絶対の闇のなかに、ふいに差した一条の銀の光。
鋭い悲鳴を上げて顔を覆い、悶絶する美貌の主に、とまどい戦く亡者たちの脳裏に、ふとひらめいた危険な作文。
『もぐらはひかりによわく、たいようにあたるとしんでしまいます まる』
時が時でなければ自分が死んでしまいます!
死んだ後まで命の危機に怯えるとは、実に気の抜けない世界だ。
光届かぬ地下の王国。
そこでは亡者たちが、こんなことなら死ななきゃよかった、との心の想いに蓋をして、今日も一生懸命、生きています──
守護主天…と、いう名の病──
窓際にたたずむ麗人の口もとに、ふと、薄い笑みが刷かれたのは、何か言いたげな顔をした若い男が、しかし、肝心なことは何も
言いきらぬままに部屋を出て行った直後。窓の外に、光広がる午後の執務室でのことだ。
あられもない薄絹の乱れもついに正さぬままで、気まぐれにあしらうようだったかれの態度を、どう思ったことか。
出て行った青年の瞳にあったのはとまどうような気遣いと、もどかしいような若い悔しさ。
かれだけが、そんないつわらなさで麗人の前に立つ。
この世のすべてを司る、最高位者への畏怖も忌憚も、そしてあの、どうしようもない苛立ちを生む、暗く烈しい情念抜きに──。
「だから、おまえには触れさせない──」
つぶやいた、人の瞳は、己が生み出すとされる光のただなかで、万華鏡のように、ふしぎな影を宿している。
この世にたった一人。
この世のすべての光、すべての希望を生み出すとされる絶対者。
生まれながらにして、サンクチュアリと同じ条件を求められる至高者。
白く。完全に白く。
一点の汚れもない、絶対の純白さを求められているその身が、あられもない情事にうつつを抜かし、情人たちを振りまわしているさまを、
出て行った男の瞳がどう映すかと見たものか──
たたずむ人の瞳はふと、足元にわだかまる影を見つめて、
「おまえには、理解させたくもないけれどね──」
この世に、光しかなければ、そもそも守天など必要もない。
少しずつ汚れ、少しずつ曇り──生きているものが影を必要とするのは、容赦もなく真実を暴き立てる、その狂気に近い純白さに
耐えることができないからだ。
その矛盾を理解しながら、それでも自らの役割を果たすだけだと、言い切れる強さが、あるのならきっと楽だっただろうに──
自らが生み出す光が強くなればなるほど、その向こうに広がるまばゆい闇の強さに心が惹かれる。
その弱さ、その脆さ。そして、自らの暗い想いの結末を、誰かが確実につけるその戦慄、その苦さ、さみしさ、孤独。
そこから逃げ出すように、誰かを求める。
その想いがいつか相手を、そして自らを、死に至らしめるとわかっているのに、
(いっそ、一筋の光も届かない闇のなかで、私を愛して──)
この光の中から、救って欲しいと望んでいる──
「だから、おまえには、触れさせない……」
この狂気を孕んだ守護主天という病の核心までは、決して近づけさせない。
その想いの強さだけが、いまこの世界に光を生み出している。
「私が治してあげようか?」
寝つけず寝室を出ると、少し離れた廊下の隅で使い女がふたり、立ち話をしている姿が目に入った。近づけば、使い女のひとりが「胸が苦しい」と使い女仲間に話す声が聞こえ、幼い守天はそっと声をかけていた。
「守天様…! 申し訳ございません、お気になさらないで下さい。…そんなことより、なにか御用がおありだったのではございませんか?」
「別に用ってほどのことじゃ…。苦しいのは大丈夫? 痛くはないの?」
真剣に気遣ってくれる守天に、仲間の若い使い女の口元がほころぶ。
「本当に大丈夫ですよ。この娘が苦しいのも痛いのも、それはある意味喜びなのですから」
「…苦しくて痛いのが、うれしいの?」
「苦しくて痛いのはもちろんつらいですが、それだけではないんですよ」
小首を傾げ要領を得ない表情の守天に、ふたりの使い女はささやいた。
「守天様も、もう少し大人になったら分かります」
「ええ。胸が苦しくて、痛くて、でも……それだけじゃない気持ちが」
「ふうん…」
「さ。御用を仰って下さいませ。…あとでなにか身体が温まるものをご用意致しましょう」
「うん。…あ、それでね、明日の入学式に持って行くものなんだけど、」
使い女に促され、ともに部屋へと歩を進めながら、守天の思考はすでに明日へと飛んでいた。
「もう五日も前から御用意してありますよ」
「いよいよ明日ですね」
よほど心が逸るらしい守天に、使い女達が笑みで答える。
「うん。どんなところかな……。友達、できるかな」
だがいよいよ明日となれば期待ばかりではないらしい。守天の口からも不安がこぼれた。
「…友達、ですか? それは…」
「も、もちろんですとも! 守天様と親しくなりたくない者など、この天界に唯の一人もおりませんよ」
幼いとはいえ、この世界の最高位である守天に『友』を望むことは厳しいだろうと一瞬口ごもった使い女を制し、もう一人の使い女が殊更優しげにそう答えた。
「………」
「大丈夫ですよ」
少し戸惑い気味に微笑む使い女と、力強く言い切るもう一人の使い女を交互に見ながら、幼くとも聡い守天の心に諦めと言葉にならなかった思いが沈んだ……。
「やい! ティアランディアってどいつだ」
入学式のあと、無事組分けも終わり教室で歓談していたときのことだった。
突然呼ばれた自分の名前に、守天は驚いた。『守天様』ではなく『ティアランディア』と、しかも乱暴なことに名前を呼び捨てにされたのだ。
「どいつだ! おまえかっ?」
当てずっぽうで指差され、泣きだしてしまった女子もいた。
「けっ! 泣き虫。ティアランディア・フェイ・ギ・エメロード? へーんな名前!」
守天は、自分を取り巻いていた女子の輪をかきわけて前に進み出、声の主に近づき「私だ」と答えた。
瞬間、目の前の乱暴な少年が息を止め、自分を見つめてきたかと思えば、
「俺はアシュレイ・ロー・ラ・ダイ。南の王が俺の父上だ。その名前つけたの、おまえの父上?」
八重歯を見せて、微笑んだ。
それが、アシュレイと交わした最初の言葉だった。
その後、紆余曲折を経て、守天は『守天だから』ではない、『ティアランディア』としての友を得る。
『守天だから親しくなりたい』のではなく、『ティアランディア』だから得ることのできた、初めての友。
――― そして数年後。
守天は、手光でも聖水でも治せない苦しみや痛みがあることを、知ることになる……。
終。
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