投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
−プロローグ−
人の声が聞こえると夢うつつに慎吾は思った。
「また、ソファーで寝ている」
「可愛い寝顔だね。風邪をひくといけないから、上着をかけてあげよう」
「俺の上着をかけるからいい」
「ずるい。お前はいつもしているだろ」
「…スーツがしわになって、困るのはお前だろう」
小さな声だけれど、うたた寝の慎吾が目を覚ますには十分だった。
目を開けると、スーツの上着を手にした高槻さんと貴奨がいて、慎吾はあわてた。
「た、高槻さん、いらっしゃい。すみません、寝てしまって」
「今来たところだから、気にしなくていいよ。それより、疲れているんだったら、寝ていていいんだよ」
「いえ、大丈夫です。あの…何をしていたんですか」
「どっちが、慎吾君に上着をかけるかをね」
くすくす笑って高槻さんは言った。
その相手は、びっくりした慎吾に驚いて逃げ出したミルクを、抱き上げていた。
「そんなところで寝ていると風邪をひくといつも言っているだろう」
−ある月の綺麗な夜に−
貴奨が、ソファーでうたた寝をしている。
慎吾は驚いて、リビングの入り口に立ち止まった。スーツの上着を脱いで座ったら、眠ってしまったみたいだ。
今日は、高槻さんが夕食を作りに来てくれてるのに。いつもは見せない疲れた姿を見ると心配になる。
じっと見ていると、貴奨の膝の上の特等席をゲットしたグレースが、上機嫌で尻尾を振った。
本当に貴奨が好きなんだなと、自然と笑みが浮かぶ。
その時、キッチンで料理をしていた高槻さんが、「どうかしたの?」とリビングに顔をのぞかせ、
その気配に目を覚ました貴奨が、しまったという顔をした。
「珍しいね。体調が悪いの?」
驚く高槻さんに、貴奨はグレースの頭を撫でながら苦笑した。
「いや、すまない」
「休んでいてもいいんだよ。慎吾くんと二人で、ディナーを楽しむから」
ふふっと笑う高槻さんに、貴奨は疲れを感じさせない、不敵な笑み浮かべる。
「お前の料理が食べられるチャンスは、逃さないさ」
リビングの入り口に立ちつくす慎吾は、気付いていても、こちらに視線さえ向けない貴奨に、
俺もいるんだけど…と、顔をしかめた。
「そんなところで寝てると風邪をひくって、いつもお前が言ってるくせに」
心配なのに、つい嫌みを言ってしまった。
「心配してるのか?ん?」
まるで、愛猫をみるように目を細めて、貴奨はわざと聞くのだ。
「そんなわけないだろっ」
赤くなった慎吾に、ふっと笑った貴奨は、高槻さんに、「着替えてくる」と言って自室に入った。
慎吾の側を通る時、心配するなと言うように、慎吾の頭をぽんと叩いてから。
立ち尽くす慎吾の足に、グレースが身をすり寄せて、にゃーと鳴いた。
まるで、素直じゃないんだからと言うように。
貴奨のやつ…グレースまで…高槻さんには「仲の良い兄弟でうらやましいね」とくすくす笑われる始末。
恥ずかしいだろ。
足元のグレースを抱き上げて、ふかふかするお腹に、慎吾は赤くなった顔を隠くした。
読みかけの本を閉じて顔をあげる。
澄みわたる空。甘く香る木犀。
柢王が花街に出かけているあいだ、桂花は庭に花氈を広げ読書を楽しんでいた。
「・・・・空也・・・?」
向空に小さく、人が向かってくるのが見える。
だんだん近づいてくる人影がハッキリとしたものとなり、目の前に降りたった。
「桂花殿、お休みのところすみません。柢王様に頼まれていた報告書を持ってきました」
「急ぎですか」
「はい。捜査結果が出次第、報告するよう命ぜられています・・・・柢王様、いないんですか?」
桂花は頷くと手をさし出した。
「吾がかわりに預かっておきます。ご苦労さまでした」
しかし空也はそれを桂花に渡さず、となりに腰を下ろす。
「なにしてたんですか?」
「本を」
脇に置いてあったそれを見せると、「そんな分厚い本、よく読む気になれますね」と、空也は苦笑いをした。
それには応えず体を横たえ、肘をついた状態で桂花は目をとじる。
そうすることで追い払うつもりだったが、この程度でへこたれるような相手ではなかった。
「あれ?誘われてるのかな」
笑いながら空也が美麗な顔をのぞきこむと、研ぎ澄まされた瞳がむけられる。
「はねっかえりの彼女は?」
「元気ですよ」
「それは良かった。吾にかまうな」
「ん〜・・こんなにきれいな人を前にして構うなと言われてもね」
桂花の、そこだけ異色の髪を手にとり、唇をよせた空也。
そんな彼の手を振り払う代わりに、紫石英で射る。
「すごいな・・・その瞳・・・吸い込まれそう」
「・・・・・」
「彼女がいても・・・・あなたを前にしたら・・・」
恍惚とした表情のまま空也がせまる。
――――それ以上近づくな。
口にしようとした刹那、空也の体が宙に舞った。
「うわっ?!」
数メートル飛んでいった彼に、すかさず蹴りを入れる男。
「柢王。おかえりなさい」
「おう、いま帰ったぜ。コノヤロッ、コノヤロッ!まったく懲りない野郎だっ#」
「イタイイタイッ!冗談じゃないですか、柢王様っ冗談っ」
「なーにが!目がマジだったっつーんだよ!鼻の下も伸ばしやがって。二度目はないんだバカ野郎っ」
ゲシゲシ蹴られつづける空也に桂花は笑って止めもしない。
「度が過ぎる冗談は冗談じゃねえんだっ、覚えとけ!」
「二度としません〜」
半泣きで誓う空也に、ようやく「もうその辺で」と桂花の助けが入った。
「お前もさ、簡単に髪とか触らせてンなよ」
空也が腰をさすりながら帰っていったあと、柢王は花氈の上で桂花を抱きしめながら唇をとがらせた。
「別に減るものじゃないでしょ」
わざと柢王の気に触るような物言いをしてみる。
「お前は俺以外のヤツに髪触られてもなんともないのかっ」
「泥とかついた手でなければ別に」
「千回洗った手でもダメだ!」
(・・・・・自分は芸妓に平気で全身触らせてるくせに)
「なんだ?」
「いえ。なんでも」
ふふ、と笑って柢王の胸に顔を埋めた桂花は、その体から白粉の香りがしないことに気分が良い。
「雲が早いですね」
「風が強いな」
刻一刻と姿を変えていく空。
いくつもの雲がこの上を通り過ぎても、変わらない想いがある。
ただひとりでいい、他の誰も要らない。
決して失えないものは、この体の温もり。
「なぁ、アシュレイ。うちの署のために一肌脱いでくれよ」
柢王は猫撫で声で言いながら、抱えていた箱を無理矢理アシュレイに押し付ける。
「どうして俺(たち)がっっ!」
赤い髪を逆立てて怒るアシュレイに、ティアはにっこりと微笑むだけで何も言わない。
「ほらほら、桂花はとっくに着替えに行ったぞ。お前はここで着替えてくれるのか? ん? それなら俺はこっから出ていこーかぁ?」
「ばっっバカなこと言ってんなっ!!」
シャーッと猫のように全身逆立てて怒ったアシュレイは、バタンと大きな音をたてて部屋から出て行ってしまった。
「かわいいなぁ、食べちゃいたいくらい」
「────」
一度眼科に行って精密検査受けた方がいいんじゃねぇのか と口の入り口まで出かかったが何とか堪えた。ここで何を言ってもきっと聞こえていない…いや耳に届いていないことは毎度のことである。
「あんなに怒るとは…、後で宥めとけよ ティア」
フォローは任せたぞと、正面に座った署内最高責任者に振る。
「うん、任せておいて! あっ、君の前でアシュレイに生着替えなんてさせないからね! 柢王」
そういえばどんなデザインの服を用意したの? と問われても柢王はニヤッと意地の悪い笑みを浮かべて答えない。ティアはこの先どうなるかわかっていなかった、柢王の用意した制服がどういう結末を導くかを。
「べっつにー、今更あいつの全身見たってどーってことねぇけどな。それに更衣室で着替えてんの見てる…」
すーっとティアの視線が鋭くなったのに気が付き、口を閉じる。ガキん頃はしょっちゅう一緒になって水浴びしたりしてたんだからと、続けたかったがぐっと腹の中で抑え込んだ。そういえばガキの頃は気付かなかったが、いつの頃からかアシュレイに近づく全ての連中に冷たい視線を向けてきたティアだ。そんな事を言ったって更に自分に嫉妬することは必至だ。
「絶対にダメだからね! アシュレイを見ていいのは私だけなんだから」
「はいはいっと」
人一倍ヤキモチ焼きのくせにあんな格好させるつもりかと言いたげな視線を向けるが、ティアには見えていない。
ま、なんとかなるかぁと楽観視した柢王は、自分で発注した衣装を着た桂花の姿を想像し悦に入っていた。
「ホントにこれ着んのか?」
「そうらしいですね」
女性警察官の制服によく似せてはいるが、標準制服なみにウエストあたりまでしか丈がない上着と、随分と布をケチって製作したようなスカートが箱の中に入っていた。
清楚なデザインを得意とする署長の手ではない。こういう下世話なデザインを仕上げるのはあの人だ。
「あいつらが用意したんだぞ、ぜってーふつーのやつであるはずがねぇ!」と、箱を開ける前から、全身から熱波を出す勢いで怒りまくっているアシュレイと、絶対零度の怒りを部屋中に広げていく桂花のせいで、更衣室内は暴風圏内突入の気圧配置が出来上がってきていて、他の人が半径5メートル内に近寄れないほどだった。
「しかたありませんね、着替えますか」
ピタッと冷たい怒りを吐き出すのを止めた桂花が、諦めたような大きな溜め息をはっきりと吐き出し、箱の中の衣装をハンガーにかけていく。
「え? 着んのか、これを」
アシュレイの表情にはありありと『いやだ』と書かれている。桂花はそんなアシュレイの顔を一瞥し、さっさと自分とアシュレイの制服をハンガーへ広げていく。
「そうです、約束してしまったことですから、きっちりと守りませんと。今回はこの衣装を着ることにしましょう。あの人たちには後でたっぷりお礼をすればいいことですからね」
復讐は時間をかけてゆっくりたっぷりとすればいいと口は笑ってはいるが、アメジスト色の瞳の奥で白い炎が燃え上がり始め、止まったと思っていた怒気が実はグツグツと桂花の腹の中で煮えたぎっているのを見定めてしまい、キケンだと瞬時に察知したアシュレイは逃げろと、頭の中では判断を下しているのだが、メデューサに見つめられたかのように身体が石のよう固まってしまって動けない。
「さ、アシュレイ殿。着替えながら復讐の手順でも考えましょう。あらゆる手段を用いてもいいんですよ」
「おおおお、おいっ! けっ桂花!」
「吾一人にこのような格好をさせて、晒しモノにするつもりですか? 貴方はそんな冷たい人ではないですよね」
「でっ、でもな、よーく考えてみろ、女装だぞ。お前は元がいいし似合うからいーけど、俺はぜってぇ似合わねぇ、それにそんな格好したの他の連中に見られたら、腹抱えて笑われる…」
なんとかして、着替えるのをやめようと提案するが、そんなアシュレイを桂花はにっこりと氷の微笑みを浮かべて囁く。
「そんなに心配しないでください。絶対貴方だと判らないように仕上げますから」
誰が見ても判らなくしてしまえばいいとサラッと答える。
「…ホントに俺だってわかんなくしてくれるか?」
瞳に軽ーく涙を浮かべたアシュレイは子どもの様に上目使いで桂花を見上げる。対照的に桂花は大人の余裕と自信に溢れた表情で大きく頷いた。
「吾の腕にかけて!」
桂花の表情から絶対大丈夫だと読み取ったアシュレイは、コクンと頷き 着ている制服のボタンをはずしはじめた。
「しっっ失礼しましたっ!」
アランは、バタンと勢いよく入り口を締め額に浮かんだ汗をぬぐう。
中では女性職員が身支度をしているところで、驚いたようにこちらを見ていた。どうしよう……。たらたらと冷や汗が背中を伝っていく。
すぐさま謝らなければ! と大きく息を数回吐き、はたっと気づいたように入口の表示を再確認する。何回確認しても『男子更衣室』と表示されているし、そうとしか読めない。アランは丹田に力を入れ、中に入ることを決意した。
「申し訳ありませんっ、入ります!」
再度、ドアを開け中に踏み込む。中にいるのは女性の筈がないと思いこみながら。
「どうしたんですか? アラン」
「えっっ、桂花殿??」
「アランっ?」
聞き覚えのあるこの声は…
「ああああアシュレイ様ぁ?」
「なんて声出してんだよっ! さっさと閉めろ!」
「はっはいぃっ」
あわてて入口を閉めゴツンと頭を扉にぶつける。アシュレイたちだとは思わなかった。見事に化け切っている。いつもはねまくっていて肩ぐらいまでしかないアシュレイの苺色したくせ毛が魔法をかけられたように背中を隠すように腰まで伸びている。
「アラン、どうですか? すぐに分からなかったでしょう」
にっこり微笑む桂花も全然違う人になっている。白絹のようなあの長い髪が黒く、そして襟足位までしかない。
「はい、声を聞くまで女性だと思ってました、まさか貴方がたとは思いませんでした…」
椅子に座って化粧を施されているアシュレイの姿。普段の制服の色より鮮やかな瑠璃色の上下。制服の下から覗くように見える白いブラウスと、短いスカートからのびる細い足が周囲に見せつけように出ている。
「髪は…カツラですか?」
「いや、エクステとかゆってたよな」
桂花殿は? と尋ねると、「吾は鬘ですよ、染めている時間もなかったですしね」 と軽く返答をもらった。
「服のサイズ、ピッタリですね」
「どーせ、あいつらのことだ。俺達の身体測定時の記録、勝手に見たんだろ」
「スカート丈短いですね」
太腿半分は確実に見えてしまいそうですね と言いたかったが、瞬間 2人の眼光が鋭くなったのを感じてピタッと口を閉ざした。
「これスカートじゃねーぞ。でも、ホットパンツより丈が長いんだよな、何て云うもんだろ」
ほら、とスカート部を持ち上げ、分かれているところを見せる。でも、しゃがんだりすると丸見えになっちまう と、眉間に皺を寄せているアシュレイに、アランはスカートを持ち上げないでくださいぃぃと顔を真っ赤にしてアシュレイの手を下げようと躍起になっていた。
2人のやり取りを聞いて笑いをこらえている桂花から「キュロットのようですね、巻きスカート風になっていますし」と教えられた。
「あっあの、スッストッキング穿いてらっしゃるんですか? まさかそのままってことは…」
「穿くわきゃねぇだろ。締め付けられてるみたいだったし、すぐに伝線しやがったし。でも、靴下はいてるぞ」
ほれ、と椅子の上に足をあげて、制服の色に合わせたハイソックスを見せつけてくれる。
素足で動き回るんですか? 危険ですっ! 近くにストーカーを呼び寄せるつもりですか!! とアランは叫びたかったが、ぐっと我慢した。桂花に視線を移すと、吾も穿いてませんよとにっこり言われてしまい、くるくるっと貧血を起こしそうになってしまう。
署内で『白の牡丹、赤の芍薬』といわれるほど、黙って立っていれば誰もが見とれてしまうと称されている2人だ。
日増しに綺麗になっていってると、署内や近くの商店街でも噂がたつほど。きっと恋人ができたのだろうと、勝手な噂が流れているのを本人達は気付いているのかいないのか。
そんな話もあってついこの間も、怪しいカメラ小僧が署周辺にうろついていたばかりなのだ。それも1人や2人ではなく10人近くも。本人達が気づく前に、署内の職員が手分けして駆除したばかり。
「アラン、すいませんがここの窓の外に吾たちのミニを用意してもらえますか」
「ま、まさか…」
「ええ、そのまさかです。このまま今日の講習会へ行ってきます」
「そっそれはやめてください! だって貴方がたの講習先は男子校…」
「出かけたら、柢王に報告しておいてください。吾たちはこの格好のままオオカミの群れに出かけましたと」
「!!」
ところ変わって署長室。柢王がこちらにいると聞き、空也とアランはそろって署長室に入って行った。
「えええー、出かけちゃったのぉ?」
ぐずぐずと机に崩れていくティアに空也は2通の封書を提出した。
「桂花殿から預かってきました。お二人に渡すよう言われましたので」
「桂花から?」
机に置かれた封筒を柢王はすっと1つ取り中身を出す。出てきたのはアシュレイと桂花のコスプレ写真。
「やっぱ、似合ってんじゃねぇか」
ほら見てみろとティアを唆す。ティアも封書から取り出し、2人の細い脚が隠れていない姿にびっくり!
「こんな格好させたのー? いくら華やかでも、もう少し大人しい格好をさせたと思っていたよ」
ここで着替えさせればよかった… と悔やむティアに、柢王は写真の桂花にご満悦だ。
「実物は帰ってきてからでもいっか。これなら他のとこに負けねぇだろ」
これで俺達の署が美人コンテストでも確実にトップになれるとホクホクしながら、写真を片づけていく。
「こんな格好じゃちょっと屈んだだけでも、可愛いお尻が丸見えになっちゃうよ♪」
嬉しげに写真を見つめる2人に、アランは柢王の方を向いて桂花からの伝言を伝える。
「柢王様に桂花殿よりの伝言です。桂花殿とアシュレイ様はその格好のまま、予定通り、冥界高校の『秋の交通安全講習』へと出掛けられましたので、報告致します」
「あぁ、……っておい!」
「冥界高校って男子校…」
2人の顔色がみるみる蒼く変わっていく。そんな様子を横目で見ながら、空也とアランは気付かれないように部屋を出ていく。
「おい、本当に行ったのか? あの学校」
アランの心配そうな表情に、空也はにやりと笑みを浮かべて答える。
「桂花殿がそんなことに手を抜くはずないだろ、あの2人が行ったのは文殊幼稚園、例の学校には別の連中が行ってる筈だ」
俺もさっき他の連中に聞いたんだと、鼻の頭をかきかき苦笑いを浮かべる。
それにあのプリントアウトされた写真があと数時間後には粉々に砕け散り、跡形もなくなってしまうことを預かった際に桂花から聞いた。
自分たちと写したポラロイドだけがいつまでも残る唯一の品。自分たちにとって宝ではあるが、他の連中(特に例の2人)に見つかったら……。
それよりも全ての証拠を隠滅するためには手段を選ばない桂花に2人は、敵に回さなくってよかったと心底思っていた。
「へえええーーー」
午前三時の『イエロー・パープル』。バイトの子たちを帰し、閉店の看板をさげた一樹はお気に入りのウィスキーを手に大仰に相槌を打つ桔梗の隣に滑り込んだ。
店に残ったのは知己のみ。
その中には柢王、アシュレイの顔もあった。ここ数年『イエロー・パープル』に訪れる彼等は、今や客でなく友として迎え入れられている。
「なんの話し?」
「柢王のとこの(故郷)歌合戦」
「歌合戦? そりゃ、またレトロな」
「国ごとで競うんだ」
「国?」
「あ、地区な」
アシュレイの返答に、柢王がやんわり訂正を入れる。
「地区?・・・自治会ってこと?」
「ジジ?」
桔梗の疑問に、柢王とアシュレイも疑問で返す。
二つの疑問をしっかり掴んでいる忍は隣の二葉にグラスを預け、コースターの裏に『自治』の文字を書いて見せた。
「ああ。それそれ」
頷く柢王の横でアシュレイは
「ヒートするのはジジ(爺)どもだ!!」
と憎々しげに吐き捨てた。
「爺どもっ!! そりゃ言えてるっ!! ウワッハッハ!! 」
笑い崩れる柢王を尻目に、アシュレイは一気にグラスを開ける。中身は度数の高いウォッカ。外見とは裏腹にアシュレイは大男でもむせる強い酒が好みなのだ。
その見事な飲みっぷりに感心しつつ、忍が「ジジ(爺)」のニュアンスを問うと
「俺のオヤジもコイツのオヤジも昔から長でさ。 その自治会ってのに当てはめりゃ、さしずめ会長ってヤツだな」
今だ笑いを引きずった柢王がケラケラと答えた。
「わかる、わかる。 俺ンとこも、ずぅぅーーーーっと同じオジサンが会長やってるもん」
桔梗は大きく頷き、空になったアシュレイのグラスにキンキンに冷えたウォッカを注ぐぎニッコリ笑い「そう言えば、ここんとこカラオケ行ってないね」と続けた。
「カラオケっておまえ、いくつだよ」
「年なんていいだろっ!カラオケは国民的道楽なんだからっ」
呆れたような二葉に桔梗はフンと返し
「ねぇぇぇ、一樹ぃ〜」
打って変わった猫なで声で兄の方へと誘いをかける。
「ふふふ俺はいつでも付き合うよ。 時間がとれないのは桔梗、おまえの方じゃないの?」
一樹の言葉に即、携帯を開いた桔梗は
「―――うっ、うっええええええ〜〜〜んっ」
真黒に埋まったスケジュール画面をそのままに、ドカンとテーブルに泣き伏した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
沈黙の数十秒。
桔梗十八番の嘘泣きパフォーマンスとわかっていても、動いてしまうのは忍。
「・・・わかった・・・なんとか調整してみるよ」
咄嗟に忍の両目をふさいだ二葉の防御の甲斐もなく、ため息まじりに呟いた。
予想通りの展開にすぐさま泣き顔を引っ込めた桔梗は身を乗り出して忍に抱きついた。
「公私混同はやめたんじゃねーのかよ!!」
と呟く二葉の言葉はもはや敗者でしかない。
「二葉も行きたいんでしょう♪ カ・ラ・オ・ケ。 仕方ないなぁ〜仲間に入れてあげよっかぁ!?」
「結構だっ!! 俺は毎晩、子守唄変わりにバラード歌ってっから。 愛する恋人の為にな」
「フン、寝ぼけた忍にしか歌えないくせにっ」
「ヘン、唄ってもらえないくせにっ」
「――うっ・・・・たっ、たっ、たくやぁぁぁぁー」
又しても泣き伏す桔梗。
だが今度の涙は本物。
本物だけれど不純物。
悔し涙だ。
「忍も調整してくれるっていうし、歌合戦もどきカラオケ大会でもしようか。久しぶりにおまえの歌も聞きたいし」
名指しされた卓也に桔梗を宥める気などあるはずもなく、やれやれと一樹が収拾にかかる。
「ならアイツも誘え」
援護のつもりだろう。ダンマリの卓也がボソリと告げる。
伏した顔を上げかけた桔梗に、間髪いれず「鷲尾さんだよ」と一樹がアイツの正体を明かす。
すると案の定、桔梗はピョンと飛び上がり
「鷲尾さんって、あの絹一さんの!!!」
期待百パーセントの視線で問いかける。常連客である絹一も鷲尾も桔梗は大好きなのだ。
「うわぁぁぁ、頑張らなくっちゃ」
泣いたカラスがナントヤラ。
過度な興奮に座ってなどいられず、とうとう桔梗は立ち上がってしまった。
そんな桔梗に皆の笑みがこぼれる。
酒宴はこれから。
秋の夜はまだまだ続く。
笑いが渦巻く中、卓也だけは『まずは耳栓』と今後の対策を仏頂面で練りながらピッチをあげグラスを傾けた。
「本気なら疲れない、疲れてもさわやかだそうですよ」
鷲尾の家のソファーに座った絹一が、有名な書家の言葉を引用するのに、エプロン姿で立つ鷲尾はちょっと眉をあげた。
「それで?」
「…」
説得に失敗したと絹一は顔に書いて、他の言い訳を考えているようだ。
「だからと言って、食事をしなくても大丈夫だなんて、言ってないよな?」
夏の間、何度か繰り返された攻防。残業続きで夏バテをして食欲のない絹一と、ちゃんとした食事をさせようとする鷲尾。
今日もギルバート命令で早く帰らされた絹一に、夕食は何が食べたいかと聞いたのだが。
「…サラダそうめん」
「却下」
「な、なんでですか?」
「昨日と同じだからだ。食欲がないんだな?何か、胃に優しい物を作ってやる」
キッチンへ向かう鷲尾の耳に「鷲尾さんが食べたい物を聞いたのにね」と、小さな声が聞こえた。
振り返ると、絹一が隣に寝ていたミルクのやわらかい体に、頬を寄せながら、愚痴を聞かせている。ミルクのふわふわした尻尾が絹一の頭を撫でて、まるで慰めているようで、鷲尾の表情が思わずやわらいだ。
苦笑して、食欲がなくても食べられるメニューを考える。
ふと、「娘が夏バテで食べないの」と、言っていた人を思い出した。「けれど、水炊きだけは食べるのよ。つわりがひどい時に、水炊きなら私も食べられたからかしら」と。親子の不思議だと思ったものである。
レベッカは何を食べていたのだろうか?と考えたところで、想像できないなと、鷲尾は苦笑の色を濃くして、頭を振った。
料理は盛り付けをするだけとなったが、絹一が静かだと鷲尾は思った。先程まで、猫達を寝室に連れて行ったり、食器を出したり、料理をする鷲尾に話しかけたりしていたのに。
もしやと思いながらリビングに行くと、絹一はソファーの上ですやすやと寝息を立てていた。
疲れているのだろう、鷲尾が近づいても目を覚まさなかった。横を向いて眠る絹一の顔にかかった髪をよけ、また細くなったなと顎を優しくなぞる。その鷲尾の手に、絹一は夢うつつに顔をすりよせてきた。
この大きな猫を起こして食事をさせようか、ベッドまで運ぼうか。
際限なく、甘やかしたくなる自分に鷲尾は声を立てずに笑った。
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