投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
「桂花、柢王さんは今日一日、あなたとデートしたいそうよ」
微笑んだお義母さんに続いて、柢王も、桂花に内緒でお義母さんに電話しておいたのだと白状した。
「今日一日、冰玉のこと預かってもらえないかって。結婚記念日の前祝に、どうしてもおまえとふたりでデートしたいからって」
「デート?」
「そ。ほんとの祝いは冰玉と三人でするけど、その前にさ」
「そんなの……どうして?」
「だって、おまえと結婚したのはおまえが好きだから、だろ。冰玉はもちろん大事だし、結婚してくれて、冰玉を生んでくれたおまえにもありがたいとも思ってる。けど、その根本にあるのはやっぱおまえが好きだって気持ちだから、たまには恋人としてデートしたいなぁと思ってさ」
家族の数だけあり方はあって、誰かの真似をすることもできないし、したって無意味で滑稽だ。自分たちの家庭という楽曲は当然、冰玉込み、義父母やおじ家族をも含めたものから成り立つのだと、柢王にもよくわかっている。
ただ、それとは別に、惚れた相手にやっぱり心底惚れているのだと、確信する特別な時間を、自分にも与えてやりたいだけだ。
出会いがしらにスプーンが落ちたような、頭の中でなにかがかちりとかみ合う音を聞くような、あのときのあの気持ち。そのきれいな顔が好きで、瞳の奥で微笑むようなまなざしも、しぐさも、怒った顔もたまらなく好きで──こいつを一生好きでいたい、桂花と産まれてくる子供を一生大事に護りたい、と、純白のベールの向こうに潤んだ瞳で自分を見上げたきれいな顔に心臓が熱くなるような思いで心に刻み付けた──
その気持ちを、ずっと大切にしたいから。好きな相手と、ふたりの特別な時間を共有することで、桂花にもこれからもずっと自分の側にいたいと思って欲しいから──
「──って、ま、ほんとはおまえといちゃいちゃしたいだけだけどな」
だから、今日一日、俺だけのものでいてくれよ、な?
と、いたずらめかして笑った柢王に、桂花はきれいな瞳を見開いて、それから、
「──バカ……」
泣き笑いのような顔で微笑むと、小さな声で、『はい』と答えた。
「あなた、そろそろ冰ちゃん渡して下さらない?」
「そうだね、しかし、あ、ほら、李々はそろそろ庭の花に水をやる時間ではないのかね?」
「あら、それはスプリンクラーを設定してあるもの。あなたこそ、そろそろ『にこすかプン!』の時間じゃないかしら?」
「いやいや今日は土曜日だから『にこすかプン!』はやらないよ。李々こそ、そろそろ枯れ木に花を咲かせる時間──」
と、ご機嫌な冰玉真ん中に挟んだ両親が、その所有権をめぐって火花散らしているのを置いて、柢王と桂花と連れ立って出かけた。
「初めてのデートコースの再現ってことでさ」
それにアレンジ加えて、最後は夜景の見えるレストラン、と、道すがら、ポケットから予定表取り出して笑った柢王に、桂花は呆れた顔で、
「あなたはそういうことには準備万端なんだから……」
いいながらも、ほっそりした指は柢王の腕をしっかりと掴んでいる。心なしか上気したような顔が帽子の下、ひときわまぶしくて、柢王は添えられた手を掴むと桂花の腕ごと、自分の肘と胴の間に挟み込むようにして、
「ほんと、頼りになる男だよな。自分でも感心する」
笑いながら、指と指を絡ませるように手をつなぐ。
以降は完全いちゃつきモード。もとから柢王はあまり人目気にしない性質だが、桂花も久しぶりの『恋人』とのデートに初心に戻ったように、瞳を輝かせて笑顔を見せる。
時を忘れて、他のこともいまだけはみんな忘れて、お互いの新たな面を発見したり確認したり、笑いながら過ごした半日はあっという間に過ぎていって──
「これからも、俺だけの恋人でいてくれな」
予約しておいたレストランで、柢王が贈ったのは小さな銀の鍵の形をした携帯ストラップ。本当はネックレスにしたかったのが、冰玉が小さいうちは邪魔になるし、鎖を引っ張られて怪我などしたら大変だから、ストラップにしたのだ。
「ありがとう。でも、どうして鍵なんですか?」
手のひらにきらきら輝く鍵を載せながら尋ねた桂花に、柢王は笑って、
「ん? ハートをロックしてもらおうと思ってさ」
と、胸ポケットに入れていた自分の携帯電話を取り出して見せる。そこにはすでに新しいストラップがつけられていて、それは銀の小さな錠の形。
いつまでもときめいていたい大事な恋人。だからこの想いに、その手で鍵をかけて、この胸に想いを永遠に封じ込めて欲しい。
微笑んだ柢王に、桂花は目を見張り、
「……き、気障すぎる──」
声を立てて笑い出した。
「ああっ? おまえ、ここは涙ぐんで感動するとこだろっ? これ探すのにほんとがんばったんだぜ?」
訴えても、桂花は笑い、笑いすぎて涙をためた瞳で柢王の顔を見て、
「だって、そんなこと、考えてる自分が恥ずかしいじゃないですか。あなたって、たまに、本当に子供みたいですよね」
「なんだよ、それは」
柢王はふてくされた。これを渡したくて、婦人雑誌の記者やインターネットなどあれこれ調べたというのに。
「なんか普通にダイヤモンドとかの方がよかったってことかよ」
人の手垢のついた二番煎じなんか面白くもなんともねぇだろうがよっ、とシャンパンをがぶ飲みする柢王に、桂花はようやく笑い止み、そして、優しい笑みを浮かべると、
「でも、あなたのそういうところも好きですよ、柢王」
「桂花──」
「だから──吾の心にも、あなたの手で鍵をかけていてくださいね」
テーブル越しに見惚れるようなきれいな笑顔で、そう囁かれた柢王は、いますぐ個室に鍵かけて引きこもりたいっ!! と思わずテーブルを叩いたのだった。
家に戻ると、リビングの床には長い髪ざんばらにしたお義父さんの残骸が横たわっていた。なんでも、今日一日の仕上げに、ギタリストよろしく冰玉を抱えてぐるぐる回って遊んでいるうちに三半規管がやられてばったり倒れ、以降、動かないらしい。
「すみません、俺たちが予定より遅くなったせいで──」
よんどころないオトナの事情がありまして──謝った柢王に、お義母さんは首を振り、
「いいのよ。冰ちゃんは無事だったから。お風呂に入れて私たちの部屋に寝かしつけてあるから、あなたたちは心配しないで。この人だって冰ちゃんと遊んでいて倒れたんだもの、このまま目が覚めなくても満足のはずよ」
と優雅に微笑む。
やわらかな外側に鋼を包んだお義母さんに、柢王は乾いた笑いを返しながら、さすがにかわいそうになってテーブルにあった新聞をお義父さんの体にかけると、手を合わせ、祈った。
「成仏してください」
桂花はそんな両親のやり取りには慣れているのか、母親に向かい、
「ちょっと冰玉の様子を見てきます」
部屋を後にした。
それでは、明日ね、と出て行きかけたお義母さんの背中を、柢王は、あ、と呼び止めた。振り向いたのに、
「お義母さん、ありがとうございます──桂花のこと、産んでくれて」
「え──?」
「今日、改めて思いました。桂花に出会えて、俺は本当に幸せな男だなって。だから桂花のことを産んでくれてありがとうございます。俺、絶対にあいつのことも、あいつが産んでくれた冰玉のことも大切にしますから」
瞳に決意をこめてそう言った柢王に、お義母さんは目を見張り、そして微笑んだ。
「あの子は私たちの宝物ですから、泣かせたりなんかしないでね」
それにはまず午前様はほどほどにしてくれないと、と笑われ、柢王の笑顔が引きつる。が、お義母さんは優しい瞳で、
「でも、桂花もあなたに出会って幸せだと信じるわ。あの子達のこと、これからもよろしくね、柢王さん。おやすみなさい」
言い残して、去って行く。その背中を見送る柢王は心の中で、マジで絶対お義母さんには逆らいませんっ! と堅く堅く誓いを立てていた──
「桂花、忘れ物はない? ちゃんとお土産持った?」
「ええ、おもちゃはさっき柢王が車に乗せたし、作ってくれた晩のおかずはここにあるから」
楽しかった週末もあっという間に終わりに近づき、帰り支度。可愛い愛娘にあれこれ持たせようとするお義母さんとお義父さんからの贈り物でトランクはもういっぱいだ。
今朝方ぶじに目覚めたお義父さんは、縞々ロンパースに包まれた冰玉の笑顔を前に、目にハンカチ押し当て、さめざめと泣いている。
「ひょ、冰ちゃんもう帰っちゃうんだね。 おっ、おじいちゃんのこと忘れないでねっ、絶対だよっ」
しかし、幼児とはいまこの場にしか関心のないイキモノ。うさぎみたいな目をしたおじいちゃんの髪の毛、ぎゅーっとふたつに掴んで、
「ばっぶぅっ!」
「はいはい、冰玉、うさぎちゃんな。かわい…くないけどかわいいことにしとくかな」
と、冰玉を抱えた柢王は答えた。
やがて桂花が支度を終えて現れ、一同は車寄せに。まだ晴れ渡る昼空、ようやくおじいちゃんの髪から手を離した冰玉をベビーシートに固定し、残りの荷物を積み込んだ。
「じゃ、桂花、帰ったら電話してね。柢王さん、気をつけてね」
「はい、お母さん」
「いろいろとお世話になりました」
挨拶する妻と娘夫婦の傍らでおじいちゃんは窓に顔押し付け、
「うっうっ、冰ちゃぁぁぁぁん……」
涙に頬濡らし押し潰されたその顔に冰玉が、うわぁぁんと泣き出す。お義母さんが無言で亭主の後頭部を殴打、襟元掴んで引き剥がす。世にも醜い怪獣画像に驚いた冰玉は、しかし、桂花が後部座席に乗り込むとけろっと涙を止めて、
「ばぶっ」
母の胸に擦り寄る。父に似て実に現金。
そんな息子に苦笑いした柢王は、運転席のドアを開けかけ、あ、と、手にしていた紙袋を差し出した。
「これ、お土産でした」
お義母さんに阻まれ、もう冰玉の視界に入れないお義父さんは不機嫌な顔で、
「土産は来たときに渡すものだよ、柢王くんっ。まったく君は網エビだなっ」
「って、どんな計りだっつーのっ! ま、とにかく開けてみてくださいよ、お義父さんのために持ってきたんだから」
と、柢王は無理やり押しつけた。お義父さんはまだぶつくさ近頃のエビはしつけがなっとらんとか言っていたが、それでも袋を開け、中身を取り出す。そこに現れたのは青い表紙の小型のアルバム。
表紙を開くと、そこには『おじいちゃんへ』と書かれた文字と生まれたばかりの冰玉の小さな手形と足型が青いインクで押してある。お義父さんが目を見張る。とり憑かれたようにざくざくページをめくると、真っ赤っかでしわしわでサルみたいな冰玉の眠り顔、あくびした一ヶ月、ちょっと人っぽくなってきた二ヶ月、首が少し据わり、青い髪の毛が逆立ってきた四ヶ月…と、この七ヶ月の成長記録が一面に貼られている。
「……──」
お義父さんが信じられないように柢王の顔を見つめる。柢王はそれに笑って、
「いい婿貰いましたね」
お義父さんの赤い瞳に涙が漏り上がる。尖ったあごの先震え、涙ぽとぽと落としながら、
「……き、君にしては上出来だ。あ、甘エビぐらいには、してやってもいいぞ──」
「どこまでもエビかっ!」
叫んだ柢王はしかし、奥さんの肩に顔を伏せ、うわぁぁっと泣き出したお義父さんの姿にため息ついて肩をすくめる。お義母さんが柢王に優しく微笑んで、
「柢王さん、ありがとう」
「礼はいりませんよ。家族のことなんですから」
柢王は答えると、運転席に乗り込んだ。桂花が後ろから、
「お父さん、ひときわ泣いていたみたいだけど?」
「あ? 冰玉と別れるのがさみしいんだろ。また来ればいいよな、冰玉?」
「ぶーっ」
ママの胸に甘えながら息子も答える。柢王は笑って、
「よっし、うちに帰ろうっ!」
エンジンをスタートさせた。
人生とは時に喜劇、時には悲劇、常に即興的要素を求められる長い道のりではあるが。
形式にとらわれず、その時々の一生懸命さと本気とで自分たちだけの曲を作り上げていけばいい。
とにもかくにも、この家族の生み出す楽曲は、今日も明日も、晴れやかなカプリッチオ──
「へぇ、今度の週末は桂花の実家なのか?」
茶菓子を出したアシュレイに、いとこの柢王は笑って、
「そ。冰玉の顔見せに。まだ冰玉が小さいからさ、桂花がひとりで電車乗ってつれてくのも大変なんだよな。たまにはあいつも親の顔もみたいだろうし、お義母さんが見ててくれたら息も抜けるだろうしさ」
座布団枕に寝そべりながら答える。
隣に住む作家の原稿待ちの間、柢王はしばしば、かつては押しかけ下宿していたおじの家に転がり込んで昼寝したりただ飯食らったりしている。今日も、間近に結婚記念日の迫った週末、嫁の実家にいくことになった顛末を話しながら、我が物顔でくつろいでいた。
話を聞きながら夫のシャツにアイロンかけていたアシュレイは、ふと、眉をひそめて、
「けど、おまえ、向こうのお義父さんとほんとにうまくいってるのか? 俺は結婚式のときしか会ってないけど、あのスピーチは忘れられないぞ」
『桂花、いやになったらいつでも戻ってきていいからねっ、パパはおまえの味方だからねーっ』と父親が泣き崩れたスピーチは津波の前の海のように招待客すべてがドン引きした前代未聞の語り草だ。その根底にあったのが、掌中の珠のように育てた愛娘が年頃になって彼氏連れてきたと思えばすでに妊娠数ヶ月、おつきあいに口出す以前に結婚認めるしかなかった花嫁の父の複雑な心境であるとは気づかないアシュレイは心配そうに尋ねたが、
「へーきへーき。ま、貰いに行ったときはあれこれ言われたけど、冰玉が産まれてからはすげぇじじバカになってるからさ」
月いちでおもちゃが届いて押入れいっぱいだしさ、と、オトナの事情で花嫁の父泣かせた男は悪びれずにからからと笑う。アシュレイも頷き、
「それならいいけど。けど、おまえたちが結婚してもうすぐ一年か、早いなぁ」
そういう自分もティアと結婚して八ヶ月。幸せな時間はあっという間にすぎる。
「ほんとにな。ついこの前、桂花と出会ったような気がするのになぁ」
柢王がたまたま用事で入ったデパートのフロアで、出会いがしら、思いっきりぶつかってしまった相手が桂花だ。あわてて手を貸して立ち上がらせたが、手のひらに汗が滲んでいないかと自分で焦った。
(あん時、ほんとに息がとまりそうだったんだよな──)
柢王の反射神経なら角を曲がった先にいた人をよけるのは難しいことではないはずだった。なのにぶつかったのは、パッと視界に飛び込んできたその顔があまりにきれいだったから。とっさに見惚れて、停止するのを忘れたのだ。
平謝りした柢王に、そのデパートの制服を着た桂花も丁重に失礼を詫びて──やがて立ち去る桂花の背を見送った柢王は、その名札に書かれていた名前と売り場名をしっかりと記憶。翌日、何食わぬ顔をして桂花の担当している売り場に行き、
『あ、昨日はどうも……』
みたいなところから会話を始め、三ヵ月後には結婚を考えていたスピード展開だ。
それから今に至るまできれいな嫁さんと可愛いわが子─七ヶ月─と過ごす毎日は楽しくて、柢王にはあっという間に過ぎた気がする。
でも、桂花にとっては結婚早々出産、育児と続いて、せわしい毎日でもあっただろう。桂花の実家は電車で小一時間もかからないところだが、子供が小さいとそれでも遠出で、ふだんの外出先は近所限定。だからといって、不満を言うわけでもなく、家事も育児もきちんとしてくれているし、本当によくできた嫁、だからこそ、たまには親の顔くらい見せてやらないと旦那の面目が立たない。
会社の同僚から車借りたから、今度の休みはおまえの実家に行こうと言い出したのはそれが理由のひとつでもあった。
『あなたがそんなこと言うなんて珍しいですね』
と、笑っていた桂花は、しかし、嬉しそうで──一ふだん、見ているつもりでも気づいてやれてないことも多いんだろうな、と改めて苦笑いした柢王だった。
「こぉら、冰玉、パパはおもちゃじゃねぇから」
と、腕に抱えた愛息子が近頃覚えた眼球攻撃から身をかわしながら、柢王はこわい顔をして見せたが、青いロンパース着たわが子は嬉しそうに手足ばたつかせて笑うだけだ。最近は長時間抱えていると柢王でも腕が痺れる。見るもの聞くもの全てに興味津々、なめたりつついたり叩いたり、表情も日に日に豊かになって、全身でこの世を体験学習中。
そのコラーゲンとエラスチンたっぷりのほっぺをつつきながら、
「いいか、車の中ではおとなしくしてるんだぞ。桂花、支度できたかぁ?」
言い聞かせ、奥に向かって聞くと、
「お待たせしました、行きましょうか」
ベビーバッグ肩に出てきた桂花に、柢王は目を見張る。
桂花は真っ白なノースリーブのワンピースに揃いの白いつば広帽をかぶっていた。ほっそりと洗練されたデザインのそれは、柢王が結婚式の二次会のために贈ったものだ。でも、そのときにはもうおなかに冰玉がいたから、桂花は『こんなの入りませんよ』と苦笑いした。だったら産んだ後に着ればいい、と笑ったのだが、結局、育児に忙しくて着ないままにタンスに眠らせていたのだ。
見つめている柢王に、桂花が不安そうに尋ねる。
「おかしくありません?」
「ん、世界一の美人」
「もぅ、まじめに聞いているのに」
「なんで? ほんとのことだろ。なあ、冰玉、ママは世界一の美人だよなぁ?」
「ばっぶぅ!」
と、七ヶ月の息子も手を上げる。桂花はそれにためいきをついて、
「ほんと、調子のいいところはそっくりなんだから。それじゃ、忘れ物はありませんね?」
ふたりで出かけるときには子供含めて重いものは柢王担当。冰玉片手に旅行鞄と紙袋に入れた本のようなものを取り上げた柢王に、桂花がかすかに眉をひそめる。
「仕事ですか、それ?」
尋ねるのに、柢王はいーやと笑って、
「仕事は完全オフ。これはまあ見てのお楽しみってことで、じゃ、冰玉、行くか!」
「ばっぶぅ!」
意気揚々、桂花の実家に向かった。
土曜の早い時間だったから道は混んでおらず、柢王の運転する車は暑くなる前には郊外にある高級住宅地にたどり着いた。
それぞれに意趣を凝らした瀟洒な邸宅が立ち並ぶなか──これみよがしなくらいに美麗で、どーんとばかりにそびえる大邸宅の前で車を止める。赤レンガの車寄せの左右に花咲き群れる美しい前庭は、ガーデニングの会社を経営する桂花の母親が手がけたものだ。そしてその、過剰なゴージャス感と迫力がなんかイタリア男みたいな邸宅は桂花の父親の設計。
玄関チャイムを鳴らすと、
「まあ、柢王さん、桂花、早かったわねぇ!」
嬉しそうに出迎えてくれたのは桂花の母。長い赤い髪に真っ白のエプロンをつけたその姿はとても桂花くらいの子がいるとは思えない、大輪の花のようなあでやかな美人だ。冰玉を見ると驚いたように、
「まあ、冰ちゃん、大きくなったのねぇ!」
「ばぶばぶ!」
と、冰玉が小さな手を差し出す。女性には決して攻撃を加えない息子に、柢王が笑って、
「こいつ、美人ははっきりわかるんですよ」
言うと、お義母さんはまぁぁと微笑んで、
「調子がいいところは柢王さんにそっくりなのね。美人が好きなのも遺伝かしらねぇ?」
ほほほほほほ、と笑う声はすべてをお見通しになられているかのようだ。初対面からこのお義母さんには決して逆らわないと誓っている柢王はアハハと笑うだけ。お義母さんもすぐに本当の笑みを見せて、
「うちの人が待ち構えているのよ、入ってちょうだい」
カッコ原文の儘、と注釈つけたいその言葉の意味は、吹き抜けの廊下から一面フレンチ窓の光差し込むリビングに通されるとわかった。まるでホテルのスイートルームのように洗練させた美しい居間。高価な革のソファ、書棚にずらり展示された建築模型。そして、
「あなた、桂花たちが着いたわよ」
妻の声に、うむ、と声のした方を見やれば──光のなか、権高な芸者のような首のひねりでこちらを振り向きつつある男は、片手は腰に片手は窓にと、たしかに待ち『構えている』。優雅な四肢を英国紳士の朝の礼服ディレクターズスーツに身を包み、リフティングの疑いある凄艶な美貌に長い金髪背中に流した、その足元なにゆえ健康サンダル? しかも素足の桂花の父は、その異様にくっきりした金黒色の目を柢王にひたと向けて、
「来たね、柢王くん──」
「こんにちは、お義父さん──」
と、微笑み合う舅と婿の視線の間に流れる微妙な青白い閃光。無理な首のひねりに尖ったあごの先わなわな震え始めたお義父さんはようやくポーズをやめて正面向き直り、一転、
「桂花ぁぁっ、お帰りいぃぃぃぃぃっ、パパ待っていたんだよーーーーーっ!!」
飛びついてきたのを、桂花の腰抱えた柢王がさっとかわす。どっ、と前つんのめりになったお義父さんはキッと柢王を振り向いて、
「親子の対面を邪魔するのかねっ、柢王くんっ!」
「抱きつくんならこっちがいいでしょ、ほーら、冰玉、おじいちゃんだぞーっ!」
と、柢王が片手で冰玉掲げると、とたん、お義父さんは方向転換、
「うっわぁぁぁぁぁっ、冰ちゃん、よく来たねぇぇっ!! 重くなったねぇぇぇっ!」
と、おもちゃのごとく抱きかかえ、揺すりあげられた冰玉もまた新しいおもちゃの登場に、きゃーっと叫んで大興奮。すぐさま小さな指を眼球につきたてるのに、おじいちゃんは、
「あいたたたた、冰ちゃん、なんでもできるねぇ、しゅごいでちゅねぇぇぇっ!」
文字通り、目の中に入れても痛くない感じ。
「お義父さん、冰玉、お義父さんに会いに車に乗って来たんですよー」
妻は安全圏の自分の背後に確保し、微笑んだ柢王に、お義父さんは、
「しょうなのぉ? 冰ちゃん、おじいちゃんに会いに来てくれたにょおぉ?」
いるよな、こんな、幼児に幼児語で話しかける大人。嬉しそうにゆさゆさするのに、冰玉もロンパースの手足バタバタさせて応える。戻ってきたお義母さんがそれを見て、
「まあ、仲良しだこと」
ほほほと微笑み、柢王たちにお茶を勧めた。
「冰ちゃん、おじいちゃんね、冰ちゃんの1才の誕生日にベンツ予約したんでちゅよ〜っ」
「へぇえ。冰玉、まだはいはいも出来ないのに、お義父さん、気が早いですね。それに子供用のベンツって言ってもあれ結構高いですよね」
毎日遊園地でカートに乗せたほうが安上がりかもしれないと苦笑いした柢王に、お義母さんが、あらと首をかしげ、
「ベンツはおもちゃじゃないわよ、柢王さん」
「…て、マジでメルセデスーーーッ?!」
どんだけアホですか、お義父さん──たまげた娘婿が視線を向ける先、お義父さんは長い金髪冰玉にぎゅーっと両手で引っ張られながら、
「ほら、うしゃぎちゃんでしゅよー、かわいいねぇぇぇっ!」
こんなにアホだと証明中。柢王はやれやれとため息をついた。
一流の建築家と聞いた桂花の父親との初対面は、大事な娘さんを結婚前に妊婦にした重さもあって、柢王らしくもなく緊張したものだ。微笑みながら観察眼鋭いお義母さんと不機嫌そうな健康サンダルのお義父さんを前に、
『桂花さんを俺にください、絶対に幸せにしますから!』
断言した柢王に、
『私は桂花を嫁がせるなら伊勢えびのようなりっぱな男と決めていたのに、これでは網エビが…以下略っ!』
鋭く断言返したお義父さんは、桂花がすでに妊娠三ヶ月だと知ると卒倒した。後の采配はお義母さんが揮い、二ヵ月後の大安にふたりは結婚、五ヵ月後には冰玉誕生。お義父さんの婿の価値判断の基準がなにゆえエビなのかはいまだにわからないが、わからなくても構わない。というより、誰が決めるの、そのエビ度?
そんなことを考えていた柢王に、お義母さんが、
「お茶を飲んだら少し休んだらいいわ。すぐには出かけないのでしょう、柢王さん?」
言われた柢王は、笑顔で、はいと答えた。桂花が目を見張る。
「出かける…って、柢王、ここに来るのが目的じゃなかったの?」
尋ねたのに、頷いて、
「目的はあれこれあるけど、今日の予定はおまえとデートすることだな」
「え?」
と、桂花が瞳を見開いて驚く顔に、柢王とお義母さんは顔を見合わせ、にっこりと笑った。
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