投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
「桂花先輩、こっち向いて」
「空也・・・何度も同じことを言わせるな。吾は写真を撮られるのは好きじゃない」
「え〜っ?だって桂花先輩特集なんですよ?写真が一枚もないんじゃブーイングの嵐ですって。俺がみんなに殺されちゃいます」
「成仏してくれ」
ヒ〜ッ冷てぇ〜っと叫ぶ空也を後に桂花は校門を出た。
「桂花、なにしてンだ?撮影終わったのか?」
顔をあげると広報部の部長であり、自分の恋人でもある柢王が立っていた。
「何が撮影ですか。あなた、吾をパンダ扱いして楽しいんですか?」
「なんだよ、客寄せだなんて思ってないぜ?キレイなお前を一枚でも多く記録しておきたいだけだって」
「バカバカしい」
「そんなに嫌いか?写真撮られんの」
「嫌いですね」
「理由は?」
「レンズを向けられてもどんな顔をしたらいいのか分からない」
「それだけか?」
「ええ」
「なんだよ〜別にどんな顔でもいーんだって、お前は。なんなら睨みつけてるだけでもオッケーオッケー」
桂花は肩にまわった腕をつねりあげ、柢王を流し見た。
「おぉ〜・・ゾクッとくんな、その目」
「空也を張らせるの、やめてくれません?彼の古典的な彼女が、吾の靴の中へ大量の画びょうを仕込んでくるんですよ」
「ハハッまじで?大量じゃ足入れるまでもね―な」
「まぁ・・・かわいい妬きもちですけどね・・・あれが普通の恋人の反応というものなんでしょう」
かるく目を伏せて桂花は歩きだしたが、柢王がそれ以上追ってくる気配はなかった。
無意識にため息がもれてしまう。
そうだ。
普通なら自分の恋人がチヤホヤされたり言い寄られたりすることは面白くないはずだ。なのに柢王は・・・・。
強引に落とされた感が、拭えなかったはずなのに・・・・いつの間にかこんなにも自分の調子を狂わせる恋になってしまった。
ふいに視界がゆるみ、すばやく目元を拭うと、その手をグイと引かれた。
「なんで泣く?」
「・・・・・」
下唇をかんで桂花は視線を落とす。
「泣かせるつもりじゃなかったんだけどサ・・・・たまんねぇな」
「え?」
柢王は自分の方を見た恋人を抱きよせると、彼の長い髪を払って小さな顎を上向かせた。
「!」
触れた瞬間、こんなところで!と驚いた桂花は、両手で思いきり突きはなす。
柢王は唇をかるくなめてニヤリと笑った。
「撮れたな?空也」
そのセリフに驚いて、柢王の視線を追うと電柱の陰からおそるおそる空也が現れた。
「・・・まさかでしょうっ、正気ですか!?」
「いたって正気。号外だ、いま撮ったのを一面にだす」
「そ、そんなことさせませんよ!」
「するよ。お前、俺が妬かないとでも思ってたのか?どうせ次号でお前との仲をバラすつもりだったんだ。もー誰も近よらせねーからな」
「・・・・・・空也、カメラを」
話しても無駄そうな柢王をさっさと見限って、小さくなっている空也を針のような眼差しで射抜き、桂花がせまる。
「柢王先輩〜」
「渡すなよ、空也」
「こんな事して何になるっていうんですか。面白おかしく騒がれるだけでしょう?!」
「だけどティアが・・・」
―――――――何故ここで柢王の幼なじみの名が出るのだろう? 桂花は気になって言葉の続きを待つ。
「ティアがよぉ〜、教室でアシュレイとの恋人宣言したって言うじゃん。先越されたままじゃ気がすまねぇもん。俺もお前が俺のモンだって全校生徒に宣言するっ!!」
ドカッ!!
「・・・て、柢王先輩、大丈夫ですか・・・?」
足の間を押さえたまま痙攣する柢王を心配そうにのぞきこむ空也。
「俺の・・ことは良いから・・・眼レフ・・取り返せ・・・」
切れ切れに訴える柢王に空也は不敵な笑みを浮かべた。
「フッフッフ、だてに柢王先輩の相棒として働いてるわけじゃありませんよ。さっき渡した眼レフはダミーです」
「・・・グッジョブ・・・最高だぜ・・空也」
バタリ。
かくして号外は無事発行され、多くの生徒や( 男女問わず )一部の教師までもを奈落の底へと突き落としたのであった。
それからのち、いくら恋人に虐げられても柢王は上機嫌で、その反省のない態度に桂花は怒りを募らせている。
空也はというと・・・桂花の報復を恐れ、古典的な恋人の後を金魚のフンの如くついてまわっているらしい。
「アシュレイ殿、なんど言ったら分かるんですか。ご自分のフォークで取らずにトングを使ってください」
「面倒だろ」
「それなら吾がとりますから仰ってください。あと、口にホワイトソースがついてます」
桂花は自身の唇に指をさし、その位置を教てやる。
「私が舐めてあげようか」
「守天殿」
「冗談だよ、冗談」
桂花に軽くたしなめられて、ティアは肩をすくめる仕草をした。
「ばーか、怒られてら」
カカカ、と笑って頬杖をつこうとしたアシュレイの腕を桂花が掴む。
「頬杖はつかない」
「・・・・・・なんか、冰玉が気の毒になってきた」
「冰玉は物覚えのいい、かしこい子です」
「悪かったなっ、物覚えが悪くて」
「ええ。慣れましたけど」
アシュレイはキィ――――ッと、歯を食いしばったが、以前のように暴れたりはしない。
二人の会話も、皮肉が混じりはするけれど一般家庭にいるようでティアは聞いていて楽しい。
三人でお茶をしたり食事をしたりするときには、使い女を下がらせることが多くなった。桂花がその代わりをしてくれるのと、聞かれたくない話をすることもあるからだ。
なにより、三人だけというのがすべてにおいて気を使わずに済んだ。
食事が済むと、ティアと桂花は執務に戻る。アシュレイは、森のようすを見にいったり氷暉と霊力を発散しに出かけたりする。
柢王を待ちながらそんな日々を送っていた。
なんとなく目覚めている・・・・という感じだった。
体が寝台から起きあがることを拒否しているようで、瞼を開けられない。
すごく懐かしくて幸せな夢をみていたせいだろうか、「たまには休まないと」そう守天に言われ、自由な一日を与えられたせいだろうか。まるで張りつめていた糸がぷっつり切れてしまったようだ。
しかしそろそろ起きなくては使い女にいらぬ心配をされ守天を煩わせてしまうだろう。
目を閉じたまま、完全なる覚醒にむけて伸びをすると、すぐ後ろにあったものを蹴とばしてしまった。
「!?」
振り返ると、ストロベリーブロンドが敷布に流れている。
「アシュレイ殿?」
窓側を向いている顔をのぞきこむと、無防備なアシュレイの寝顔が。
なぜ、自分の寝台に?守天の部屋とまちがえたのだろうか。
とりあえず起こそうと細い肩に手をかけたとき、触れた髪のやわらかさに胸が鳴った。
久しぶりにみた李々の夢。自分は子供に戻っていた。充実した二人の生活。
(・・・李々)
大好きだった李々と同じ、燃えるような赤い髪。
極力体重をかけないよう、小さな顔の横に手をついて覆いかぶさる。
――――それは李々の髪の香りとは異なっていた。
( バカだな・・・当り前じゃないか )
微動だにしない体を無理に起こすことがためらわれ、このまま寝かせておくことにした桂花は、浴室へ向かおうとして立ち止まる。
( そういうことか )
寝ている王子の姿を振りかえり小さくほほ笑むと、音をたてないよう気をつけながら浴室へと消えた。
桂花が自分のそばにいる間、必死に寝たふりをしていた寝台の上の体が飛び起きる。
「フゥ〜、あせった」
足をけとばされて起きたものの、なぜ自分がここにいるのか上手く説明できる自信がなくて、つい寝たふりを続けてしまった。
《 何だったんだ、今のは 》
氷暉が訝しげにつぶやく。
「なんか、髪のにおい嗅いでたみたいだった」
昨夜、桂花が執務室に忘れていった上衣をアシュレイが届けに行くと、ドアは閉ざされたまま中からの反応はなかった。
もう寝てしまったのかもしれないと、ルール違反だが壁抜けの術を使って桂花の使用している部屋へ入ったアシュレイ。
見れば読書の途中だったのだろう、灯火がつけられたまま桂花は寝台に横たわっていた。
アシュレイは彼を起こさないように気をつけながら灯りをいちばん暗いものに切り替え、持っていた上衣をかけると、掛け布をそっと引きあげてやる。
「ん・・・」
寝返りをうった桂花にビクッと動きを停止したアシュレイ。
いま気づかれたら一瞬でこちらを氷結させる視線を向けられ、「断りもなく人の部屋に入るなんて礼儀知らずなサル・・・」と、ふりだしに戻ってしまいそうな気がして怖くなる。
せっかく彼との間のわだかまりが無くなりつつあるのにそれはイヤだった。
たとえ桂花が起きなくても上衣をこの部屋に置いていった時点で、侵入したことがばれるわけだが、1日あいだをおけば怒りより呆れの方が勝るだろうと踏んでいた。
とにかくこの場をサッサと立ち去ろう。そう思った瞬間、桂花が目を開ける。
「李々・・・」
屈託のない笑顔で細い腕をつかむと、ぐいっと自分の方へ引いた。
慌てるアシュレイをよそに、桂花は目を閉じて、モゴモゴとなにか言っている。
寝台に腹ばい状態でアシュレイは自分の腕をつかんでいる指を一本ずつ離そうとするが、「だめ・・」と力ない口調で抵抗する桂花に気持ちがゆれた。
さっきみたいな笑顔は柢王の前でなら見せていたのだろうか。
恋人の決断に腹をたて、調子の悪い体で嘆き、惜しげもなく髪をばっさり切って、それでも気丈に執務の補助を続けて。
すごいと思う。自分にはできないと思う。
できることなら柢王に変化して桂花の望む言葉を与えてやりたい。
でも、そんなことをすればそれこそ二度と口を利いてくれないくらい怒るだろうし、悲しませることになるだろう。
( こんなとき、どうしてやればいいのか俺にはわからない・・・)
「ここ・・いて・・」
すがるように体をよせてくる桂花の短くなった髪をなでながら、アシュレイは目を閉じた。
少しだけ。少しだけここでこうしてる。
桂花が完全に眠るまで。
・・・・・桂花が眠るまで・・・のつもりだったのに!
思いっきり寝過ごして夜が明けて、あまつさえ彼の方が早く目覚めてしまうなんて。
「俺がここで寝たことは桂花にばれてる・・・無断で部屋に入ったあげく、だまって帰ったら礼儀しらずの上塗りだよな?」
《さてな、礼儀など俺は気にしないが》
「お前はな。・・・あいつ、柢王にも冰玉にもけっこう口うるさいじゃん?最近は柢王の代わりに俺にまで食べ方とか注意してくるし」
「誰が口うるさいですって?」
「桂花っ」
ずいぶん早く出てきたが、やはり髪が短くなったから時間がかからないのだろうか。
その髪をタオルでまとめ上げバスローブの前をゆるく合わせた桂花は、朝だというのに強烈に色っぽい。アシュレイは何だか目のやり場に困って、うつむいた。
「もう、戻った方がいいですよ。守天殿に知られたら面倒でしょう」
「え?あ、あぁ、そうだなっ」
アシュレイはホッとした顔で、寝台からおりた。何も訊かれないし怒っている様子もない。
「じゃあ・・・今日は仕事しないでゆっくり休めよ」
「ええ。ありがとうございます――――上衣も」
「・・・気づいてたのか」
「吾はあんな風に掛けませんから」
「あ・・」
見ると、上衣は裏返しに掛かっていて、バランス悪く今にも落ちそうな状態だった。薄暗い中だったため、裏だと気づかず掛けてしまっていたようだ。
「でも、わざわざ届けてくださってありがとうございました」
「勝手に部屋に入ったこと怒んないのか?」
「どういう風の吹き回しか知りませんが、ご丁寧に添い寝までしていただいたようなので、今回は目をつぶりますよ。二度目は叱ります」
ふふ、と笑った桂花に安堵して、アシュレイも笑う。
「二度目は俺も届けね―よ。じゃあな!」
・・・良かった。桂花がいつもの桂花に戻ってる。
昨夜はなんだか放っておけないかんじで、いつも大人な桂花が子供みたいに甘えてきて・・・・守ってあげなきゃいけない気分になったと同時に、不安だった。
やっぱり自分たちでは彼をここに留めることができないのか、と。
「あいつ、きっと天界に来てから色んなこと我慢してんだな・・・柢王を支えて働いて、こんな風に置いてかれたって結局は奴を信じて我慢して・・・・・柢王が魔風窟から帰ってきたら、少し言ってやらないと」
《 ずいぶん気にかけてるな。なぜお前がそこまでしてやる必要がある?よそのことなど放っておけ――――だいたい人のことを言える立場か、お前は 》
「うるさいっ」
怒鳴ったところでタイミング良く氷暉のキライな腹の虫を鳴かせたアシュレイは、ザマーミロと笑いながら厨房へと歩いていった。
「アシュレイ機長!」
かけられた声に、会議室の多い6階の廊下を歩いていた新米機長は振り返る。と、そこにはツナギ姿の整備士が手に書類を山を抱えて微笑んでいた。
「ナセル! ひさしぶりだな。会議か」
めったに本社で会うことのない空港整備士にそう尋ねると、
「ええ。機長も今日は会議かなにかですか」
「えっ、なんでわかるんだ?」
アシュレイは目を見張った。確かに研修なのだが、スーツの苦手なアシュレイは会議の席でも常に制服姿。手にかばんは持っていないが、
一目瞭然地上勤務だとわかるわけでもない。
と、なじみの整備士はあたりまえの顔で、
「そりゃわかりますよ。顔つきがフライトの時とは違いますから。ああ、フライトといえば、この前は大災難だったそうで」
さらり言われた言葉に、アシュレイは、うっ、と眉をしかめた。
クリスタル・アイランドから無事に戻って今日で三日目──休み明けの今朝は会う人会う人その話だ。ニア・ミスは大事件だし、誰もが知っていて
当然の話題でもある。いまからの研修は、安全管理についてのもので、クリスタルに行く前からシフトに入っていたのだが、どう考えても
い合わせる人たちはその話題を取り上げるだろう。
が、パイロットたちは、仕事のこととして以外に深くつっこんだりはしない。つっこむのはCAたちだ。朝一、ロビーで取り囲まれて
『なにがどうしてどうなった』と質問攻めにされた時にはびっくりした。隙を突いて逃げ出したが、あの迫力はどう考えても野次馬根性だ。
とは言え、この整備士にそんなつもりはないだろう。肩をすくめ、
「まあな。でも一応終わったことだし、後は俺が直接関わることじゃないから」
答えると、整備士はへぇえと笑った。
「なんだ、その笑いはっ」
言うと、
「いやぁ、機長も大人になったなぁと思って。俺はてっきり相手のパイロットを殴ってきたのかと思いましたよ」
「いっ」
見てたんですか? ビビッたアシュレイに、
「ま、機長が無事でよかったですよ。機体の方も無事なら……」
「えっ、無傷じゃなかったのかっ」
「いいえ、よかったこと尽くしですね、と言うつもりでした」
「まぎらわしい言い方するなっ!!」
アシュレイは怒ったが、整備士は悪びれない顔で笑っている。
「まったく!」
こいつも食えない奴だ。プンプンしながら、
「俺はもう行くからな! おまえも会議遅れるなよっ」
背を向けた。と、その背中に、
「機長」
振り向くと、整備士は、ちょっと厳しいような笑みを見せて、
「機体は確かに大事だけど、所詮は道具です。命に修理は効かない。俺たちも真剣に整備してますから、機長も無事に戻ってきてください」
アシュレイは目を見開いた。そして、
「わかってる…!」
強く答えると、また背を向けて歩き出す。
一番大切なのは乗る人の命。だからそれを護るためにも、
(絶対世界一のパイロットになってやるからな──)
新たに決意を固める機長は、その背後でゆれる赤毛を見送る整備士が、ふと、そのツナギの肩をすくめて、
「機長と呼ばれても赤くならなくなったけど・・・…でもやっぱりいつまでもかわいいんだよなぁ──」
苦笑いしているのは見えていない。
*
「オーナー、なにかいいことがありましたか」
笑みを浮かべた広報部長に尋ねられて、ティアランディアはハッと顔を上げた。いつもの最上階、窓の外に離着陸の機体の見える
オーナー・ルームで、部長から秋のキャンペーンの話をされていた最中だった。
頭が妄想でいっぱいでも仕事の話はちゃんと聞けていたはずだが、顔にしまりがなかったとは気づかなかった。ティアは急いで
笑顔を作ると、山凍に言った。
「すみません、クリスタルでのことを思い出していたので」
「ああ。アシュレイが無事に戻って、オーナーもほっとされたでしょうね。私も安心しましたよ」
たぶんティアが無事に戻ってきたことに。思わずティアは心でつっこんだが、それでもクリスタル・アイランドに行けたのは
部長のおかげでもあるのだ。
「本当に、無理を言ってすみません。でも、行けて本当によかったです」
言ったティアに、部長は微笑み、
「王室もオーナーと直接会われて安堵されたと聞きます。なににしろ、誰にも傷がつかないで終われてよかったですよ」
その言葉に、ティアは心から頷いた。
部長が出ていくと、ティアは窓の外を振り返った。
いつもここから眺める機体は当然のようにここに戻ってくる。でもそれは、本来飛ばないはずの金属の固まりを飛ばすことに、その情熱と神経を注ぎ、危険回避の可能性の全てを突き詰めて大事に
護り続けている大勢の人がいるからだ。
ハイ・テクも高度な技術もすばらしいものだ。だが、それは全て安全に関るための手段だ。そこに人の命が関る以上、その命を守れるものは、
最後には、命ある人でしかない。
その思いは、旅客機のパイロットだろうが、戦闘機のパイロットだろうが同じだろう。あの背中に叫んでいたアシュレイの後姿に、
ティアはその真剣さと情熱を感じたのだった。
「アシュレイ……」
子供の時に誓ってくれたのと同じ、誇らしげな笑顔で、
『今度は俺が世界一のパイロットになって、おまえを乗せて飛んでやるからな!!』
ああ言ってくれたときの嬉しさは言葉にならないものだった。
だから、その言葉をアシュレイが実現できるように。アシュレイや、みんなが、この責任ある仕事を心から誇りに思って生きられるように、
「私も、私のできる全てをがんばるからね──」
誓ったティアの見上げる視線の先を、金色の翼が空へと昇って行く──
*
頭上のはるか遠くの空に白い軌跡が移動していく。サングラスの下、それを見上げた柢王が、肩をすくめて桂花に言った。
「なんかあっと言う間だな、六日なんて」
と、少し後ろにいた桂花は小さく微笑み、
「でも、ほっとしたんでしょう。顔に書いてありますよ」
言うのに、柢王は苦笑いを浮かべて空を仰ぎ直す。
親友たちは無事に戻り、一見落着とあとはフル利用した休暇も今日で終わり。一緒に浜辺を歩いてみても、心の半分は明日からの忙しい
日々の再開に奪われている。
「なんかこうして見てると、あの上を飛んでることが信じられない感じだな」
まばゆく輝く青空を見上げた柢王はそう笑うと、桂花に手を差し出した。クールな恋人が無言で載せたその手を軽く弄ぶようにして、
「久しぶりに乗る時ってさ、ドキドキするんだよな。忘れてるわけないのわかっててもさ、ちょっと緊張する」
微笑んだ柢王に、桂花もうなずき、
「気持ちのリズムを掴むのが、ね。すぐに思い出すんですけれどね」
「だよな。で、思い出したらとまらねぇの。すげぇ嬉しくて、飛んでる以外のことも意識してるけど、ドキドキしてる気持ちがずっと続いてさ──
あれは、パイロットの職業病だよな。何度上がってみても、空の上ではすげぇ気持ちが高いとこにあるような感じでさ。いっぺん空飛んだら
降りられなくなるって言われるのも、わかる気がする」
パイロットの寿命は決して長くはないと、周囲の人を見て知っていても、まだ若い彼らには縁遠い話だ。それでも、いつかはその日が来るし、
それ以前に空から降りるしかないパイロットも存在する。
「──ファイターか……。明日も自分が飛べるって無意識に信じられる俺たちは幸せなのかもな」
言った柢王に、クールな機長はかすかに苦笑いをして、
「そうかも知れないと言えば、そうですが……でも、いるべきところにいると思えることはいいことですよ。吾たちも、かれらも」
「だな。そこから降りることを選べないわけじゃない。それでも降りない道を選べるのは、幸せなことだよな」
だから、と、
「俺たちは、ずっと一緒に飛んでような。どこの空にいても、この先ずっとさ──」
細い指を口許に持っていって、そう微笑んだ機長に、クールな機長はかすかに笑って、
「本当に、かわいいことばかり言う人ですね──」
*
窓にはめ込まれた格子の向こうに、まぱゆい青空が見える。流れる雲の影が床の上に波紋に似た紋様を描くのを、かれは瞳を細めて眺めている。
リゾートには不似合いなひやりとしたレンガの小部屋は、手の届かないほど高い窓から差す光の強さに却って薄暗い。その暗さのなかで、
かれは遠い記憶を思い出している。
満開の花の匂いが滲んでいた、肌寒い春の夜。
突然鳴り出した警報。街全体が赤く染まったあの夜の爆音。耳を劈く音に混じって聞えた大勢の人の悲鳴や硝煙の匂い、真っ暗になった視界が
揺れ動く感覚。焔の色。そして、轟音とともに世界が崩れ押しつぶされる重みのなかで、とっさに近くにいた妹の体を庇った瞬間のこと──
いつまでも轟く音といぶされる匂いのなか、体の痛みに耐えながら、ただ身動きできない暗闇で、腕のなかの妹の頭に頬を押しつけて、
間近なその声がとまらないように、その息が、その体温が、消えてなくならないように、ただ願い続けていたあの時のことを──
それは脳髄のずっと奥に、静かに横たわり続けている冷たい記憶だ。
祖国場所に戻り、まばゆく肌を突き刺す日差しのなかにいても、その頬に刻まれた傷と同じに薄れることなくいつまでもある。
軍に入ったわけを問われる度に、かれは常に肩をすくめてきた。
目の前で、街が襲われ、瓦礫の下に世界が滅びる体験をしたその後に──
そんな目に二度とあわないと思うのに、どんな覚悟が必要だろう。平和を願うよりはるかに強く、あの真実を知っている立場として、
無事であることを願う気持ちにどんな説明が必要だろう。
あたたかな世界を思い描けるのはあたたかな思いでこの世を体験した者だけだ。もう決してあんな思いはしたくない──瓦礫が取り除かれ、
腕のなかの妹がもう泣かなくなった顔をそれでもあげて、弱々しい声で、かれの名前を呼んだ時にそう誓ったあの思いにどんな理由が
つけられるだろう。いま、この島が瓦礫になってしまわないようにと望むのは、愛国心などと呼ばれるような気持ちではないはずだ。
いつものように──胸の奥にある何ものも見せず、醒めたまなざしでその暗がりを見つめていたかれは、ふと、顔を上げた。
空の遠く、聞えてくるソニック・ブーム。戦闘機とは違うそれを、かれは聴き取り、そして、つぶやく。
「なにが世界一のパイロットだ……」
日向の匂いをその燃えるような髪から放って、勝気に叫んだその顔を、どんな気持ちで思いだしたものか──
ふいに、かれの瞳が高い空を見上げる。
理想などない。ヴィルトゥオーゾと呼ばれる腕を磨くのもただ飛べるための手段に過ぎない。高高度のコバルトの瞳に世界を見下ろし、
ただ飛ぶことを繰り返していた頃に、ふと、かれの視界に映った風景。
薄い雲の流れる上空。眼下には色鮮やかな海がきらめく波光をたたえてどこまでも広がっていた。遠くに見えるエメラルドの美しい島。
見渡せば、視界は青くまばゆく光に満ちて──
人の引いた国境線など、どこにも見あたらない。
そして、いま、目に見える世界の全ては生きていて、この光のなかで生き続けているのだ、と──
ふいにこみ上げたその思いに、息を飲んだ瞬間のことを。いまでも、コクピットでふいに兆すその思いを、どう受け止めているのか──
「寝言は寝てから言え、サル……」
やはり、かれの瞳はなんの感情も浮べない深く冷たいコバルトのままだが──
かれのまなざしはずっと、窓から差しこむ輝く光を見上げ続けていた。
BRILLIANT WORLD
潮の匂いが濃紺に金をまき散らした夜空に漂っている。
月明かりにほの光る白砂。後ろからはレストランの明かりと賑いが感じられるが、まだあたたかな砂の上に並んだ足跡をつけて歩く
ふたりの耳に聞こえるのは潮騒だけだ。
軍の敷地を出て、一同は小解散。航務課スタッフは仕事に戻ったし、空也は頼まれた買い物に出かけた。残ったメンバーはひとまずホテルに戻ったが、
「ってことで、俺らはここで退散な。おまえたちも話したいことあるだろうし、俺らもせっかくの休みだから有効に使いたいし。
晩飯も勝手に食うから、おまえたちはふたりでのんびりしろよ。明日、帰るんだしさ」
柢王がそう言って、フロントで鍵を受け取った。いつの間に部屋替えを手配したのか、スィート・ルームのナンバーを読み取ったアシュレイが
眉を吊り上げ、
「おまえ、ここに来たのはいちゃつくためかっ!」
怒ったのに、
「だってここ俺のプロポーズ記念の島だもん。つーか、おまえもさ、アシュレイ。ここは忘れられない島になってんだから、いっそもっと
とことん忘れられない島にしてみたらどうだよ? な、ティア?」
からかうようなその言葉に、アシュレイはきょとんとし、ティアはなぜだか真っ赤になった。爆笑する柢王の隣りで、桂花があきれたような
顔をしている。
アシュレイはまだきょとんとしていたが、そのふたりの顔を見比べると、
「ふたりとも、いろいろ、悪かったな。それに──言ってくれたこと、役に立った、サンキュ」
桂花の瞳を見てそう言った。と、爆笑をやめた柢王の瞳に優しい笑みが宿る。クールな機長も静かに微笑って、
「吾はなにもしていませんよ」
こっちが立ち直ったようならそれでよしとばかり、さらりと接してくれる先輩機長たちに、アシュレイもちょっと面映いながらも笑顔を見せた。
明日のフライトは見送るから朝食の席で会おうと約束して、解散。ティアとアシュレイとは、少し休んでから夕食を一緒にすることにして一度、
部屋に戻った。
そして、美しいドーン・ピンクとオレンジが交じり合う日没のレストランで食事をしてから、一緒にビーチを歩くことにしたのだ。
「星がきれいだね」
ふいに、ティアが足をとめて言った。一歩だけ先を歩いていたアシュレイがふり向くと、零れ落ちそうに広がる星座を見上げているティアの
横顔が目に入る。瞳を細め、
「星空を見るなんてすごく久しぶりのような気がするよ。リゾートだったら何度も来てるのに、そんな心の余裕がなかったのかな」
微笑んで、アシュレイに視線を戻す。アシュレイはそれに小さく肩をすくめ、
「おまえは忙しいからな。それに気にしないといけないこともいろいろあるし──」
「それは君たちだって同じだろ? いろんなところに行って、いろんな人と関って、大勢の人の安全を守って……大変な仕事だよ」
アシュレイは頷いた。確かにそうだ。機長になってからなおさら、いまいるところはゴールではなくスタートなのだとわかることばかり。
ただ飛べれば楽しいと思っていた新米時代とは本当に違って来ているけれど。
「でも、誇りに思える仕事をしてると思ってる。だからそれに関るいろんなことが楽しい。それを束ねてるおまえの仕事だって、
俺はものすごく誇りに思えることだと思うぞ」
「うん、私もそう思ってるよ」
「──ティア、俺な……」
と、笑顔で頷いたティアに、アシュレイは口を開いた。
「機長になってから、自分がひとりで飛んでるんじゃないって、ほんとにわかるようになってきたと思ってた。おまえや、みんなが
支えてくれるから俺は飛べるんだって、ほんとにわかってきたって思ってた。でも、あの官制であいつらのフライトを見守ってるしかない時に、
初めて、おまえや地上のみんなはいつもあんな思いをしてるんだなってわかった。俺たちのことサポートしてくれながら・・・…ただ信じるより
他にない時もあるんだって」
「アシュレイ……」
「心配するのは信じてないってことじゃないよな。信じるしかできない時もあるんだよな。気がつかなくて──いろいろ心配かけてごめんな、
ティア。それに、迷惑もかけて」
言ったアシュレイに、ティアは目を見開く。慌てたように首を振って、
「私こそ、君の気持ちも考えずに、押しかけて来て本当にごめんね」
「おまえが来てくれて、嬉しかった。おまえの顔を見た時、本当は嬉しかったんだ」
「アシュレイ……」
ティアが瞳を潤ませる。アシュレイはその顔を見つめて言った。
「昼間、あいつに言ったのは俺の本心だからな。俺はまだがんばっていろんなこと勉強しないといけないし、その間にもおまえに迷惑かけたり
心配かけたりするかも知れないけど……でも、俺はおまえが心から安心できるように、おまえが誇りに思えるようなパイロットになるから。
俺が飛んでるなら絶対大丈夫だって、おまえにも、みんなにも思ってもらえるパイロットになるから。だからティア──」
アシュレイはまなざしを上げ、そしてこぼれんばかりの笑顔で宣言した。
「今度は俺が世界一のパイロットになって、おまえを乗せて飛んでやるからな!!」
ティアの瞳が限界まで見開かれる。あふれてきた涙が、そのきれいな瞳をゆらす。
泣き出しそうな、でも、その顔はすぐにアシュレイの見たなかで一番きれいな輝くような笑顔になって、
「うん、アシュレイ、約束だよ!」
大声で答えると、抱きついてきたティアの体を、アシュレイもしっかりと抱きしめる。
笑顔1000%、抱き合うふたりは────しかし、まだカップルではないので、回らない。
*
*
午後の日差しが世界を金色を帯びたあざやかなブルーに染め上げる。
上昇中の機体のコクピットで、アシュレイは、コー・パイ席の空也にフラップを畳むように指示を出した。
ラジャーと答えた空也は、セッティングを終えると、きらめくような外の景色に瞳を細め、
「いい天気ですね。風も少ないし、今日はぶじに戻れそうですよ」
航務課によれば、本日、空は雲の少ない上天気。帰着空港も雪の心配もなく、フライト事情は良好そうだ。中二日まであれこれあった
フライトだが、胸のうちがすっきりした機長も晴れやかな顔で、
「でも最後まで油断するなよ。クリスタルの空を出るまでは特にタービュランスの心配もあるから」
ふたりして、油断なく全てを見張り、機体が更に上へと進もうとしたその時──
「キャプテンッ、レーダーに機体が……!」
空也の言葉に、えっ、とレーダーを見れば、それは後ろから左右に広がりつつ追い上げてくる小型の機影が四つ。
「どうゆうことだ? 空也、官制に……」
言いかけたアシュレイの言葉を遮るように、無線から、聞き覚えのあるイルカチームのリーダーの声がした。
『王室からの命で、この機が領空を出るまで護衛をします』
言われて、驚いたアシュレイは、思わず視線を左に向けて、げっ、と叫ぶ。
晴れ渡る青い空。コクピットの窓の左、一定の距離は開いているものの、飛んでいるのはあのイルカチームの青い機体だ。アシュレイの側に
二機、空也側に二機。
「ご、護衛って、みなさんがですかっ」
確かめるようにそう言うと、リーダーの声はこともなげに、
『はい。昨夜命令を受けました。そちらの航務課には話が伝わっているはずですが』
ふたりはえっと目を見張り、それから、ああっと叫んだ。本日のプランニングをしてくれた航務課スタッフは、では、と出かけようとする
ふたりを引きとめ、ふしぎな笑顔でこう言ったのだ。
『ふたりとも、承知だと思いますが、空の上では色々なことが起きます。冷静に、そしてお客様に楽しんでいただけるフライトにして下さい』
「あれはこのことかーーーっ」
言わないかふつうは、言うだろう? 心の中の航務課に尋ねてしまうアシュレイの隣りで空也も青ざめた顔で、
「機長、護衛があるほうが危ないですよっ」
だが、四機は上昇するこちらの機体の、ニア・ミスにならない距離を悠々飛んでいて、それが王室のご厚意だと言われたら文句のつけようがない。
むむむ、と考え込むアシュレイの耳に、イルカ・リーダーが、
『氷暉はいませんからご安心下さい』
「って、いたらびっくりだっ!」
思わず、アシュレイは柢王ばりにつっこむ。が、すぐにため息をついて、
「王命でまさか落とされることはないだろ。空也、操縦頼む」
空也に操縦を任せると、客席用のマイクのスイッチを入れた。
『お客さまに、機長よりお知らせ致します。ただいま、当機の左右にクリスタル・アイランド空軍の機体が飛行しています。これらは
クリスタル・アイランドの誇る精鋭『エア・ドルフィン』──王室の特別なお計らいにより、本日、当機がクリスタル・アイランドの領空を
出るまで見送ってくれる予定です。窓際のお客さまにはどうか、シェードを上げてご覧下さい』
流れてきたアナウンスに、Fクラスの座席にいたティアは目を見張る。へぇーと、客席がどよめいて、他の客たち同様、ティアも急いでシェードを上げた。
と、真っ青に輝く空の先に、きらきら光る青い機体が、上昇しているこちらと並んで飛行しているさまが見える。
「戦闘機だ」
「初めて見るよ」
興奮にざわめく機内にはいつになくわくわくした気配がただよって、CAたちもめずらしそうにちらちらと窓の外に目をやる。
その四機は、次第にうっすら流れる雲が出始める頃までそうして、天界航空機の左右を護ってくれていたが──
ふいに、合図されたように、機体が翼を傾けて、視界の下に消えていく。
「あぁ…」
と、客席に名残惜しそうなため息がつかれたその時──
わあっ、と歓声が上がった。見れば、もう数qは先の空に、翼を揃えた四つの機体が、こちらの向う視界の右から左へ大きな半円を描いていく。
その後に、浮びあがったのは色あざやかなスモークで描かれた、七色の虹だ。
扉ごしに沸き起こっている拍手を、コクピットのアシュレイと空也は目を見張ったままで聞いていた。クリスタルの領空ギリギリ、
描き出された数qの虹の橋をくぐりながら、
「……いい旅になりそうですね、キャプテン」
戻っていく機体をレーダー上に見送る空也が、アシュレイの顔を見て微笑んだ。アシュレイも肩をすくめ、
「ほんとにめちゃくちゃな軍隊だな」
いいながらもその美しい空を見つめる。
今度の旅で、初めて接したファイター、と呼ばれる人たち。
旅客機とは違う機体、違う目的、違う思いを抱えて、違う高さを飛ぶ翼。超音速が気流を切り裂くその世界でかれらが本当に見ているものが
なにかなど、人生初めの新米機長に本当に理解できたはずがない。
それでも、
(俺は俺の大事なものを護って飛ぶんだ──)
乗客を。かれらの大事な思いを。待つ人のところまで大切に連れていく。それが自分の夢だし、自分の翼だ。ファイターたちが護る安全な
地上から、大事な命を乗せて目的地まで飛ぶ翼。
誰も彼ものすべてを理解することはできないけれど、思い描くことで、人はより優しく強くなれる。
だから、心を鍛えて、可能性の限り大きな夢を思い描いて、後ろに乗ってくれる人たちにただ一度の大切な旅を提供できるように──
そのためにも……。
「絶対に、世界一のパイロットになってやるからな──」
微笑んだ機長はホィールをしっかり、握りなおし……。
やがて機体は超高高度のコバルトに輝く世界に包まれていくのだった──
上昇する機体はやがて色あざやかなコバルトの続く高高度の光のなかへ──
BREAK THROUGH
「お騒がせしまして申し訳ありませんでした」
やはりどこまでも落着き払った隊長がそう言ったのは、司令塔の一階にある、おそらくお客様用の部屋でのことだ。
正体不明機をぶじに追い払い、墜落した機体とパイロットを迎えに行く指示を出すコントロールと裏腹、用事もなくなった天界航空一行様は
早々に軍の人に連れられて管制塔を出た。
もとから管制塔は関係者以外立ち入ってはならないところであるし、いましがたの出来事は平和な旅客機業界にいる身としては
終わったからこそよけいドキドキすることだ。指示を出してから行きますと言った隊長を残し、軍の人の運転で司令塔へ向う間もメンバーは
誰も口を聞かなかった。
司令塔の客室のようなところで冷たい飲み物を口に入れてようやく、
「……んっと、よくやるよな、軍隊って。あんなん毎回やってたら絶対ストレスでハゲるって」
やれやれとばかりの苦笑いでそう言ったのはやはり柢王で、ティアも大きくため息をついて、
「おまえたちはまだいいよ、わけがわかるもの。私なんか心臓止まりそうで……」
「ああ、なんかおまえ、そんなのマジでありえねぇだろっ!みたいなこと口走りかけただろ、あん時。つか、まあ、俺も思ったけどさ」
ソファの背に首を乗せた柢王に、ティアは恥ずかしそうな顔をしたが、
「アシュレイが止めてくれたから……ずっと、私の手、握っていてくれたんだよね」
心底ほっとしたようなその笑顔に、アシュレイも頷いて、
「俺だってびっくりしたからな」
「本当ですよね」
と、空也もしみじみと頷いた。
他人のフライトでここまで心拍数が上がることなど誰も初めてに違いない。軍のフライト。軍の緊急事態。長くこの世界にいる人でも
経験する人はほとんどないに違いないそれを立て続けに見て、それぞれ疲労と感慨がのしかかっている感じだ。常識外れの、まさに奇跡のような
ものすごいフライトでもあったはずなのに、それに対して誰も言葉が出て来ない。
と、窓の外、轟音が近づいてきて、見れば遠い滑走路にあの銀の翼の機体が滑り込んでくるところだった。機首を必要最低限までしか下げない、
独特のやり方で、この前と同じく、奇跡のように減速していく。
「ぶじに戻ったみたいですね……」
窓の外を見た桂花がつぶやく。アシュレイもそれに頷いた。
と、そこにノックの音がして、隊長が制服将校ふたりとともに入って来たのだった。
「みなさんにはよぶんな心配をおかけすることになって大変申し訳ない。どうかご容赦下さい」
頭を下げた隊長に、代表のティアが慌てたように居住いを正す。
「こちらこそご迷惑をおかけして申し訳ありません。ですが……本当に心に残る場面を見せていただいたと思います。こんな言い方は
失礼かもしれませんが、軍の方に対して、心から敬意を抱きました」
まじめな顔でそう答えたティアに、隊長が初めて、優しい顔で微笑んだ。その瞳をアシュレイに向けると、
「あれがファイターの全てとはいいませんが、現実の一部ですな。だからと言って、あなたになにか求めようというつもりはありませんが」
言った隊長に、アシュレイも頷く。
「見せてもらって……よかったと思います。無理を聞いてくださって、ありがとうございました」
頭を下げたアシュレイに、ティアが、アシュレイとつぶやいて微笑む。柢王たちもほっとしたように瞳を見合わせた。
帰りも炎天下の空の下、軍の人の送りつき──
晴れ渡った空の色はあざやかで、つい小一時間前にその上でドッグ・ファイトが行われようとしていたことなど伺えない上天気だ。
敷地を走るジープの座席でアシュレイはため息をついた。と、その瞳にアラートの裏側から出てくるパイロットの姿が映る。
「止めてください!」
軍の人が驚いたようにジープを止める。とたんに、アシュレイは外へ駆け出した。
「アシュレイッ!」
ティアも慌てたように車を降りる。その後に続こうとした柢王を、桂花が腕を伸ばして遮った。
「え、なに?」
尋ねるのに、クールな美人は軽く顎で向こうを指し示し、
「あれが例のパイロットだと思いますよ」
言われた柢王は、えっ、とそちらを見やった。そして、笑みを浮かべると肩をすくめ、
「じゃ、しゃーねーか。自分のフライトの問題、だしな」
どっかりと、浮かせた腰を落ちつかせた。
「おまえっ!」
アシュレイの声に、炎天下の日差しのなか、暑いに違いないフライトスーツに身を包んだあのパイロットは、めんどくさそうに顔をこちらに
向けた。息を切らせて駆け寄ったアシュレイと、同じくその後ろで見守るティアとを無感動に見ると、
「なんだ、サル、まだいたのか」
どうでもいいことのように言う。
ヘルメットの下の汗でわずかに額に張りついた髪と、その瞳の上から頬を切り裂く傷跡。まだいたのかと言うことは、アシュレイが思わず
叫んだ声を、無線越し聴き取っていたということだ。それでも、高濃度のコバルトのようなその瞳は相変らず冷ややかで、こちらの感じている
思惑など切り離す温度だ。
(たったひとりで飛ぶ翼……)
地上で誰がどう思おうと、闘うその時、あの張りつめた空に見るのはただ自分の闘うべき相手だけ。それがファイターというものだろう。
仲間とともに空にいても、そこで感じる気持ちの温度は旅客機のコクピットとは大違い。
そのことのなにを、アシュレイが真実、実感できたわけでもない。
それに、
(国を護る翼は、いつか、他の国の愛国者を撃ち落すかもしれない翼だ──)
それが世界の現実の一部なのだとしても、それをどう解釈したらいいのかさえ、いまのアシュレイにはわからない。
ただ──
(本当に、それだけなのか……)
あのコクピットのなかで、この相手が感じるものは、いつでも張りつめた気持ちだけなのだろうか。
フライトにリハーサルはない、と言った隊長の言葉の意味はよくわかる。旅客機の機長だって同じことだ。でも……。
楽しさは、無責任とは違う。あの空の上でのびやかな気持ちになるのは、だから後ろのことなど忘れているというのとは違うのだ。
パイロットが命の重さを忘れたら、それは命の無軌道で身勝手な翼になる。だが、同時に、空や翼を信じる気持ちがなければ、
誰があの場所で、命を護る強さを信じられるだろう。空も翼も好きではなくて、誰がヴィルトゥオーゾと呼ばれるほどうまくなれるのだろう。
飛ぶことにかけらも楽しさがなくて、
(あんなフライトができるのか──)
目の前にくるりと半回転して放たれた矢のように視界を過ぎる。腹は立ったけれど、それでも、あの機体を自分の手足のようにして飛ぶ高揚は、
そこに命が関るのとは別の次元で当然のことだろうに。
こちらを見下ろす冷たい瞳に、そう言いたかったけれど、それを言うことはできない。
だから、アシュレイは別のことを言った。
「おまえのフライト、見たぞ。……すごいと思った」
けどなっ、と、アシュレイは語気を強めて相手の瞳を睨んだ。
「だからっておまえがやっためちゃくちゃは許さないからなっ! おまえがなに考えて飛んでるかなんて俺にはわからないけど、
俺は──俺だって、自分の客を大事にその大切な人のもとまで届ける責任があるんだ! だからおまえのしたニア・ミスは絶対に許さないからな!」
「アっ、アシュレイ!」
ティアの慌てたような声が背後で聞こえたが、目の前の相手はバカにしたように肩をすくめ、
「サルに許してくれと頼んでない。話がそれだけなら出ていけ、ここは軍の敷地だ」
下らないことを聞いたように背を向けようとする。その背中に、アシュレイは叫んだ。
「だから俺は世界一のパイロットになってやるからなっ!!」
えっ、と、ティアの驚いた声が聞こえる。痩せた背中がぴたりと止まって、その頭がかすかにこちらを向きかける。アシュレイはそれに
腹の底からの大声で続けた。
「俺は絶対、世界一のパイロットになってやるから! おまえにだって、他の奴にだって、俺が飛んでるなら大丈夫だって言われるくらい、
うまくなってここの空を飛んでやる! おまえが二度とあんな悪ふさけできないように──俺は、世界一のパイロットになって、
俺の客を絶対安全にこの島に連れてくるからなっ!!」
そう──
やっと、迷いが晴れて雲間から光が差すように。
決めたことはそのことだ。
世界一のパイロットになって、自分の客をこの島に、そして、待つ人たちのところまで連れていく翼になること。
空の旅はアシュレイとってはいつも胸をときめかすものだ。
小さい頃、父親の乗った機体を眩しい思いで見上げていたあの頃と同じに、いまでもあの真っ青に光に満ちた空の上は、胸をときめかせて
くれるものなのだ。
トラブルがあったり、力不足で歯噛みしたい気持ちがあったとしても、あの遮るもののないコクピットから見る世界はいつも輝きに満ちている。
あの場所から見る世界は、人の決めた境界線など意味をなさない、純粋な光に包まれている。
だからその空の上を。
自分のシップに載り合わせた全ての人を、大切に、地上で待つ人のところに連れていく。
それが誰かにとって心ときめく旅であっても、そうでなかったとしても、ひとつのシップに同じメンバーが載り合わせた旅は一度しかない。
国籍も年齢も違う人たち。そこでしか、居合せることのない人たちを、人生の次の場面へ、そして、その人たちを地上で待つ大切な人たちの
もとに送り届けることこそが、自分の役割なのだ。
だから、その人たちに、自分が飛んでいるのなら大丈夫だと思ってもらえるように──
「俺は絶対世界一のパイロットになってやるからなっ!!」
心の底からそう宣言したアシュレイの前で、張りつめたフライトスーツの背中は、しばらく動かずにいたが……。
「寝言は寝てから言え、サル」
「いいいいーーーっ」
「おまえの腕じゃ百年早い」
パイロットはバカにしきった顔でこちらを振り向くと、アシュレイの瞳を見据えてそう言った。
「つまらないことで時間使った。さっさと山に帰れ、サル」
「おまえなぁっ」
アシュレイは真っ赤になって叫んだ。
「時間取ったからっておまえどうせ営倉に戻るだけだろうっ! 禁固刑が偉そうに言うなっ!」
「うるせぇ、サル。サル山に帰ってから騒げ」
「ふざけるなっ! おまえこそ永遠に禁固刑くらって出てくるなっ!」
「ふざけてるのはおまえのフライトだ。浮かれる暇があったら海鳥の様子でも見ろ、サル。今度来る時もあんなにちんたら飛んでたら
さっさと撃ち落すぞ」
吐き出すように言い捨てたパイロットはもう振り向きもせず、ヘルメット片手にいかにも面倒くさそうな足取りで炎天下の日差しのなかを
去って行く。アシュレイはその後姿をただ、見送った。
傍若無人で、会話を交わす以前の資質が丸欠けのいやみな奴。言葉も態度もむかつくことだけの本当に腹の立つ奴、なのだが……。
(俺が言い終わるまで、いて…くれた、んだよな──)
おまえに護ろうとするものがあるように、俺だって、大事な命を抱えて飛んでいる。
そのことだけは、絶対に譲れないと──
その気持ちが伝わってくれたかどうかは、全く、わからないけれど……。
ため息をついて、振り向くと、ティアが驚いたように目をまん丸にしてアシュレイを見ていた。
アシュレイはそれに微笑んだ。手を差し出して、
「よし、ティア。帰るぞ!」
ようやくふっきった、晴れやかな笑顔でそう告げた──
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