投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
―――――突然だった。
己の中に押し寄せてきた力の奔流に、氷暉は全身を硬直させていた。
耳を聾する水の音。地を削り、巨岩を押し流し、全てを粉砕しながら―――氷暉の思考を
ぐずぐずに押し潰しながら流れてゆく 激流――――――
力を通すための管の役割として配置された時から、ある程度の覚悟はしていたつもりだっ
たが、氷暉は己の認識の甘さを呪った。 ―――圧倒的な力だった。 氷暉の中に流れ込み、
あふれ、奔流となり、全てを押し流してゆく。 息すら継げない。 そこには慈悲も許容も
ない。
氷暉の腕の中の水城は、黒い水が流れ込んできた瞬間に気を失った。 意識を空にした方
が力を流しやすい。女というのは本能的に賢くできている。 ・・・氷暉はなまじ意識がある
だけに、 激流のただ中に立つの木のように、 自我を保とうと耐える苦難を強いられてい
る。
(・・・だが、今さら意識を手放したところで、ただ押し流されてしまうだけだろう。)
そうなれば、次に目覚めた時に自分は自分で在ることができるのか。
氷暉は恐ろしかった。 それゆえに耐え抜くしかなかった。
腕の中にある妹のかすかな体温だけが、氷暉をつなぎ止める全てだった。
瞳を見開いたままの氷暉の目前を―――映し出される魔刻谷の深紅の光景と、境界の光景
のさらにその向こう ―――ありとあらゆる光景が 泡沫(うたかた)のように現れては消
えてゆく―――・・・
見知らぬ男の顔 女の顔
笑う顔 怒る顔 泣き顔
若い者 老いたる者
見知らぬ風景 聞き慣れぬ言葉 どこか懐かしい異形の神々
笑い声 雨上がりの匂い 音楽 土の匂い 剣戟 祈りの声 花の香り 睦言
(―――これは黒い水に溶け込んだ記憶か)
その思考すら、引きちぎるように押し流される。
自我を保つので精一杯だった。
いや、そもそもこれを見ているのは自分であるのか。
――――― これは誰の思考であり 記憶であるのか。
弦をつま弾くこの指は 剣を握るこの手は 赤子を抱くこの腕は 肩に食い込む天秤棒
の重さは 背で冷たくなった老母の軽さは 床を踏みならす絹の靴を履いたこの足は
――――― これは誰の肉体であり 感覚であるのか。
氷暉は魔刻谷の底にいながら ありとあらゆる過去の場所を見、黒い水に溶け込む全ての
思考と感覚を共有していた。
「・・・・・ッ!!!」
―――ふいに氷暉の眼前から、泡沫の記憶の光景が消え失せ、天界の境界の光景だけが
はっきりと映し出される。 水の流れは止まらない。 氷暉の見ている光景は水の流れであ
り、 水の映し出す光景であり 、氷暉の意識は水の流れと同化し、氷暉は意識は水の流れ
のひとしずくでありながら、水の流れ全体の動きを認識していた。―――そしてそれらは
その流れは 目指す場所へと たどり着く―――――
―――――――― 一つの流れとなって、結界へと流れ込む ――――――――
たちまちのうちに天界の地に染み込んだ黒い流れは、その地に散らばる、かすかな妖気を
放つ小さな小さなカケラを探り当てた。
―――水の流れは止まらない。
氷暉は境界の光景を見、小さなカケラに力を注ぎ込みながら――― 一つの小さな流れが、
奔流から弾き出されるようにして別の場所に向かうのを、同時に見ていた。
森の上空を飛び―――広い庭―――高い建造物の―――バルコニーの―――開かれた窓
の―――(不思議なことに 窓の向こうの光景は、輪郭の全てが曖昧に見える)―――白い
服 白い髪の―――――(これだけははっきりと見える)紫色の瞳が 驚いたように こち
らを向いた。
―――――最初に聞こえたのは水音だった。
波立ちながら押し寄せてくる水の音。
それもあり得ない方向から。
バルコニーの方角から。
「・・・・・ッ?!」
バルコニーを振り向いた桂花は、森を越え庭を飛び一直線に地上よりはるか高みにある執
務室に流れ込んでくる一筋の水の流れを―――見たような気がした。
それは鳴り響く水音による錯覚だったのかもしれない。
しかし桂花は、周囲の景色を歪ませ水の流れにそって泳ぐ水蛇のようにゆらぎながら、バ
ルコニーを越え、執務室に流れ込んできた、それを確かに見た。
―――そして それは 一瞬にして桂花を押し包んだ。
(―――――・・・!!!)
息をつぐ事すら出来なかった。
桂花を押し包み、流れ込んでくる 圧倒的な 力―――
人の声 水音 咆哮 水音 歓声 水音 呪詛 水音 神楽 水音
個は全であり 全は個であった。
桂花は それを見た。 氷暉が見ている同じものを 見た。
訳が分からぬまま 己が何を見ているのか解らぬまま それを見た。
――――― おしよせる みちる あふれる ――――――――
・・・ ――― ・・・ 人人人 魔魔魔 。 人界 魔界 それらすべてが―――――桂花の
中に、凄まじい勢いで、流れ込んでくる―――――――!
(喰われる―――!)
思考を浸食される。
感覚を浸食される。
それは 己を生きながらにして喰われてゆくに等しかった。
声をたてる事も出来ず 立ちつくしたまま ―――その おそろしさ おぞましさ
(やめろ!)
桂花が恐怖を感じ、渾身の力で目をきつく閉じて耳を塞いだその時、突然それは桂花を解
き放ったのであった。いや、解き放ったのではなく、弾くように飛び離れたような―――
「・・・ッ!」
呪縛が解けた瞬間、桂花は膝をついていた。 空気が喉の奥に流れ込んできた。
冷たい汗が背中をつたうのがわかる。立ち上がろうにも体が震えて止まらない。
「桂花!」
守天が隣で自分の名を呼んでいる。肩を掴んだ手が温かい。己の名を呼ぶその声と肩から
伝わるその温かさが、桂花の恐怖をわずかに和らげた。
・・・恐怖が和らげられる事により、思考が戻ってきた。
流れ去る光景の中でかいま見えた――――
(・・・あれは、境界の)
柢王がいた。 南の太子がいた。 そして地中に散らばる小さなカケラが――――
(・・・なぜ、あんな光景が・・?)
わからない。わからなかった。
「・・・守天殿、・・遠見鏡を・・!」
境界にいる、彼らの無事な姿さえ確認できれば、この恐ろしさは消えるのだろうか。
「遠見鏡?――――あっ?!」
境界の光景が映しだされた遠見鏡を振り返った守天が、小さく鋭い驚きの声を立てた。
肩を支える手に力がこもる。
桂花はのろのろと顔を上げ、遠見鏡を見た。そして力尽きたかのように瞳を閉じた。
(―――いいや、消えたりなどしない。)
何一つわからない。それがおそろしいのだから。
そして境界。
「―――馬鹿野郎! 半分は俺と遊べ!」
青い細い稲妻が柢王の両手から放たれた。長く綱のように一直線に伸びた稲妻は、巨虫の
体に触れた瞬間そこから木の根のように細かく分裂し、動きを封じるべく二頭の巨虫に絡み
つく。
たちまちのうちに全身に絡んだ稲妻により動きを封じられた巨虫は、柢王の引く腕の力に
よって、地響きを立てて横倒しになった。
「・・・さすがに、重いな」
巨虫二頭を引き倒した柢王が、腕に青白い稲妻を鎖のように絡みつかせたまま息をついた。
霊力しだいでどのような力業も出来るとは言え、さすがにきつい。
柢王が咳き込んだ。
(ちくしょう!この空気!)
空気が重い。 熱があるせいもあるが、この空気を吸い続けていると、体まで重くなって
くるような気がする。
土埃の立ち上がるその向こうで軽々と宙に舞うアシュレイをちらっと見上げた。
(何であいつは 平気なんだ?)
水音は、まだ続いている。
柢王はかすかな額の痛みに顔をしかめ、手を額にやろうとした。その時。
―――突然、水音が激しくなったような気がした。
いきなり巨虫が動き出した。腕を引かれ、体ごと前に引きずられた。
「・・・・っ!」
柢王は体勢を立て直し、霊力を両腕にこめてさらに引こうとした ―――その腕その体を
さらに引かれる。
両肩に引き抜かれるような衝撃が走った。
柢王は顔に叩き付けるような風圧を感じた。
青白い細い稲妻の縛鎖を全身に絡みつかせたまま、二頭の巨虫は身をくねらせながら地を
這うように泳ぎだしていた。
それは、腕に稲妻を絡みつかせたままの柢王もろとも、すでに二頭相手に闘っているアシ
ュレイ目指して一直線に突き進んでいる。
「・・・この・・・っ!」
ブーツの踵が地を削って砂埃を上げる。
巨虫二頭に引きずられながら柢王は上空を見上げた。 炎を身にまとい、躍り上がる二頭
の巨虫の連携攻撃を流れるようにかわしながら斬妖槍をふるうアシュレイの姿が見えた。
アシュレイは強い。3頭ならば、身が軽く勘のいいアシュレイなら凌ぐだろう。
―――しかし、4頭もの連携攻撃は、いくらアシュレイでも凌ぎきれるとは言い切れなか
った。
「・・・・・ッ!!」
アシュレイに負担をかけるのも足手まといになるのも論外だ。 何よりも己自身の武将と
しての矜持がそれを許さない。
何としてでも この二頭はここで止めなければならなかった。
柢王は両腕に力を込めた。引きずられてゆく体勢のまま、片足を上げて思いきり打ちつけ、
地面にかかとをめり込ませて体を一瞬固定した。
両腕に凄まじい負荷がかかった。 巨虫二頭分の重みとスピードをほとんど両腕のみで支
えるのだ。耐えきれず両腕の筋繊維のあちこちが引きちぎれる音がした。 脳天にまで来る
激痛に柢王は歯を食いしばった。 痛い。だがまだ動く。 構わずさらに腕に力を込めると
渾身の力で柢王は腕を後ろに引いた。
両腕に絡んだ稲妻が負荷に耐えきれずに腕に食い込み、血をしぶかせる。 骨が軋む感触
があった―――そしてそれらの感覚が一瞬にして消え失せた。
腕にかかる全ての負荷が消え失せた瞬間、頭上が暗くなった。 顔を上げた柢王の前方に
直立する二本の巨大な塔があった。それが柢王に向かって倒れかかってきている―――
それが二頭の巨虫だということに柢王はようやく気づいた。
あまりにも巨大だったため、認識が追いつかなかったのだ。
急激に後ろから引かれた力によって 力の拮抗に負けた巨虫達がもんどりうってのたう
ちながら 柢王の両側に地響きを上げて地に倒れた。
暴れる巨虫に稲妻をさらに絡ませ、二度と動き出さないよう地に縫いつけながらさらに締
め上げる。
「・・王族をナメてんじゃねえぞ!」
さすがに息の上がった柢王がそう言い放ったその時。
背後の瓦礫が轟音を上げて跳ね上がった。
振り向く間もなく黒光りする長大なモノが身をくねらせて飛び出てきたのは次の瞬間だ
った。
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