投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
・・・・・・・・カシャン チリリン ・・・ ・・・
遠くで、水晶の転がる音がする。
不思議な音色を響かせるそれは、聞く者が聞けば快い音として微笑むだろう。・・・だが魔
刻谷の底で身を寄せ合うこの魔族の兄妹にとっては、背筋を震わせるほど恐ろしい音としか
聞こえない。
氷暉は長く息を吐いて体の力を抜いた。
「・・・大丈夫か、水城」
「・・・・・全身であたしを庇っておいて、何を言っているの?氷暉こそ大丈夫なの?」
抱き込まれた腕の中からごそごそと動いて腕を伸ばした水城が、確認するようにそっと氷
暉の背を撫でる。
「・・・ものすごい力だったわ。 中継の切断があと少し遅かったら―――」
氷暉の背に腕をまわした水城がかすかに震える声で言った。
「・・・衝撃波の余波もな・・・。衝撃が後少しでも強ければ、水晶の雨霰だったろう。地中だか
ら助かったんだ。・・・が、さっきの黒髪の攻撃で、あちこちがゆるんでいる。次に同じよう
な衝撃を喰らったら―――」
目を開けば 禍々しいほど赤い光を放つ水晶群の連なり。
深紅に沈む魔刻谷の底で身を寄せ合う魔族の兄妹の目には、ただ、ただ恐ろしいものとし
か映らない。
天界人には清浄の証。 だが魔族には――――
水城が無言で背にまわした腕に力を込めた。
「・・・これからどうするの、氷暉? 中継は途切れてしまったし、なんの指示もないわ。」
「・・・さあな」
氷暉はかすかに苦笑した。
水底の修羅達を統べる魔王の考えなど、氷暉にはわからない。
おそらく今回はただの様子見と言ったところだろう。 天界の武将の力量をある程度見極
められた事でもあるし、帰還命令が出ればそれで良し、氷暉は、命令に従うだけだ。
だが闘いになれば、妹を危険にさらす事は極力避けねばならない。
(・・・やはり来させるべきではなかったか)
だが、安全な場所など、どこにもありはしないのだ。
天にも 地にも――――死んだあとですら。
ふいに氷暉が顔を上げた。
「・・・氷暉?」
「――――来る」
そして 天主塔の執務室。
「・・・アシュレイ」
遠見鏡に張りついて一歩も動こうとしないティアの背中を半ばあきらめ気分で見つめつ
つ、桂花は拾い上げた書類を分別し、執務机に並べ終えた。
守天が遠見鏡に張りつく程心配なのは、遠見鏡に映し出される画像がひどく荒れているせ
いもある。思うように映し出せないばかりか、時折かすれたようなスジが遠見鏡の画面を断
ち切るかのように何本も入る。心配でないはずがない。―――とはいえ、張りついたところ
でそれが改善されるわけではないのだが。
「・・・守天殿、少し休んで下さい。お茶をお入れいたします」
巨虫は柢王が倒した。 もうサルにも柢王にも危険はないだろう。後の捜索作業は兵士達
に任せればいい。
むしろこれから大変なのは守天のほうだった。
桂花はティアを遠見鏡から引きはがすと、長椅子まで誘導した。
気分を入れかえることが必要だ。
「・・・ ・・・そうだね。兵士達の治療もあるし、二人が帰ってきたら報告事項や今後の対策で
きっとお茶を飲むヒマもないね。大急ぎでティータイムをしようか」
長椅子に腰を下ろすさいに、その隣に置かれっぱなしになっている、使い女が三人がかり
で抱えて運んできた大壺に満たされた水を見てティアは苦笑した。
「カルミアから初摘みのいい茶をもらっているから、それを淹れてくれる?」
それに応えず、桂花が弾かれたようにバルコニーの方角を振り向いた。
「桂花?」
紫色の瞳を見開いてバルコニーの方角を見つめていた桂花が、突然頭を護るように両手で
両耳を塞ぐと、見えない何かに突き飛ばされたかのように後ろによろめいた。
「―――桂花?!」
そのまま身を折って床に両膝をつき、荒く息をつぐ桂花のもとに あわててティアが走り
寄る。
かたかたと震えながら冷たい汗を流す桂花が、切れ切れの息の底から言葉を絞り出す。
「・・守天殿、・・遠見鏡を・・!」
「遠見鏡?――――あっ?!」
桂花の肩を支えながら、境界の光景が映しだされた遠見鏡を振り返ったティアが、小さく
鋭い驚きの声を立てたまま、凍りついた。
「・・・・・するってーと何か? 俺が野菜も肉も入った鍋を用意して後は火を通すだけ、の状
態で放置してたそれを、お前が火を通して喰っちまった。・・・みたいなかんじか?」
アシュレイの言葉に、雷霆の直撃を受けた地表があまりにもの高温でいったん溶けてしま
い、陶器の釉薬のように表面がガラス化している地面をブーツの底でバリバリと踏み砕きな
がら柢王が笑う。
「・・・何で例えが鍋になるんだか。 いや、むしろぐつぐつ煮えた状態でお前がどっか行っ
ちまったそれに、俺が調味料入れて喰っちまったっていうほうが近いな。・・・まあ、言って
しまえば、あの攻撃は俺とお前の合作みたいなもんだ」
「そしてその合作鍋をお前一人が喰っちまったと。」
柢王が隣で吹き出した。
「いいかげん鍋からはなれろよ。ただでさえ暑いってのに。腹へってんのか?」
「・・・そーいや、昼メシ喰ってない・・・・」
「俺は朝飯もまだだ・・・・」
午前中からのゴタゴタで走り回っていたアシュレイと柢王だった。
「・・・・・」(×2)
二人は顔を見合わせた。
「・・・・・いったん帰るか。お前、ホントに顔色悪ぃし。大丈夫かよ柢王?」
「・・・・・腹はあんまり減ってねえけど、喉は渇いたな。そうだな、帰るか」
そうして二人は深く頷きあったのだった。
「そんじゃま、ぐるっと一巡りして帰るか。―――」
柢王の言葉にうなずいて、その横に並びかけたアシュレイが、ばりばりっと足元で派手な
音を立てるガラス化した地面を踏んだその途端、はっと顔を上げた。
ずっと感じていた かすかな違和感。 何かを忘れているような―――
「・・・・・!!!」
周囲を見回す。 乾ききった地面はところどころガラス化して陽光を照り返している。
ここはもとは木々と下生えが地を柔らかく覆い尽くす場所であった。今は何もない。
ただ 乾いた風が吹きわたる以外は。炎と雷が一瞬にして燃やし尽くしたのだ。 地表が溶
けるほどの―――それは、周囲一帯が恐ろしいまでの高温だったことを物語っている。
突然立ち止まったアシュレイに、柢王が「どうした」と振り向いた。
「―――思い出した。柢王」
「何が」
「―――岩だよ! そして、森だ! ・・・熱いはずなんだ! 溶岩や火山灰が固まったモノ
だぜ? 森なんかに落ちてみろ、下手をすれば山火事だって起きる。 仮に燃えなくたって
周りの木は熱さで枯れちまう! 元に戻るまでに何年もかかるんだ、鳥が棲んでいるはずが
ない!」
振り向いた柢王に、勢い込んでアシュレイがまくし立てる。
「―――岩? 19番目か?」
「そうだよ! ―――っ?!」
なおも言いつのろうとしたアシュレイの体が跳ねた。 同時に柢王が片耳を押さえて上空
を振り仰ぐ。
水音―――・・・ ―――たくさんの
「・・・雨じゃない!どこから?!」
―――降り注ぎ ―――流れ込む ―――――水の
「傷を負った兵士が言っていた ―――このことか?!」
「・・・あのデカ虫が出てくる前に、そんな音が―――でも もっと ―― 」
二人は背中合わせになって周囲を見渡す。
水音は止まらない。
周囲はどこまでも乾ききった大地。水などどこにも存在しない。 にもかかわらず、水音
は二人の耳元で鳴り響いているのだ。
―――鳴り響きながら、近づいてくるのだ。
―――小さな雫が ・・・ 集まり 小さな流れとなり ――――・・・――――
・・・・・・・・小さな流れが集まり・・・ ―――――集まって 奔流となり ―――――
―――――――な が れ ―――――――――――く だ る ――――――・・・・・!
「―――――ッ?!」
流れ込むひときわ高い水音と、足にまとわりつく目に見えぬ冷たい水の感触。それらは渦
巻きながらひたひたと水位を上げ、彼らの全身をひたしはじめる。
―――――おしよせる みちる あふれる――――――――・・・・・・・・・・・!!
「・・・・っ まただ!!」
不可視の水に全身を押し包まれた瞬間、柢王がのど元を押さえる。
ここに来る直前。結界を突き抜けるような感触と息苦しさを思い出す。
(前の時の比じゃねえ!)
―――――笑い声が、聞こえたような気がした・・・・・・・・
「柢王!」
アシュレイの呼び声に、柢王は振り向いた。
彼らからわずかに離れた場所の、ガラス化した地表にピシリと音を立てて蜘蛛の巣のよう
な亀裂が走る。―――まるで、地中から押し上げられるように、亀裂は広がってゆく。
「アシュレイ!跳べ!」
飛び離れた二人の場所を土埃と土砂がなだれ込み、土埃にまぎれるようにして黒光りする
長い巨体が地響きを立てて滑り込んできた。
「・・・出たぞ 一頭!」
土埃の向こうでアシュレイが叫んでいる。目をすがめた柢王が、さらに声の聞こえた後方
から土砂が高く巻き上がるのを見た。
「アシュレイ!お前の右後方!そっちにも出たぞ!―――逃がすな!」
「二頭も?!―――逃がすか!」
上空に飛び上がったアシュレイが、斬妖槍の槍先を地面に向けて円を描くように一振りす
る。 地面に円を描くように炎が走り、描かれる円の両端が閉じた次の瞬間、炎の壁が立ち
上がった。
直径100メートルにもおよぶ、炎の結界。
魔族をここより外へは出さないための措置だ。
「!」
空に浮いたアシュレイに向かって土埃の下から巨虫二頭が躍り出る。
「――――来い!」
アシュレイは斬妖槍を構えて吼えた。
「・・・アシュレイ!無理するな!」
地上の柢王が叫ぶ。 その背後で轟音が上がり、土埃と土砂と共に躍り上がってくる黒い
影が見えた。
「・・・まだいたのか?!」
―――――さらに二頭!
土砂を巻き上げて躍り出たそれらは、剣を構えた柢王の両脇を大きく迂回して一気にすり
抜けた。
「・・・・・っ!」
振り向いた柢王が、巨虫の向かう先を見て目を見開いた。 二頭とも―――すでに二頭を
相手に闘っているアシュレイの方へ向かっている。
「―――馬鹿野郎! 半分は俺と遊べ!」
柢王の両手から放たれた、青い細い稲妻が二頭の巨虫の動きを封じるべく絡みついた。
マネージャーを先に帰らせて、柢王は控え室が並んでいる階のロビーのソファに腰掛けていた。女優は控え室でパーティの支度中いうことなので、終れば桂花はここを通る。
何を言うかは決めていない。下手なことを言えばまた怒らせてしまうが、でも上手い言い方も思いつかない。李々の言う「上手い手とは思わないが、素敵な」手段である、気持ちをストレートにぶつけるしかなさそうだ(「素敵」というのが皮肉なのかは考えないでおいた)。
柢王は控え室の方向と時計とを何度も見ながらため息をついた。実は柢王の知らない通路があってそこから出て行ったとか。桂花の色香に迷った女優がパーティを忘れて口説きに入ったとか。空白の時間はどんどん柢王を妄想に浸らせていく。ここで待っていても仕方ないのではないか。いっそ控え室へ行ってみようか。そうすれば人の目もあるし、桂花も頭に血が上らずに済む。そうか、そうしよう。控え室を訪ねる口実は何とでもなる。とりあえず女を気分良くさせるのは難しくない。桂花の気持ちが最優先だが、そちらはその時に考えるしかない。
柢王が勢いよく立ち上がって控え室の方向へ足を踏み出そうとした時、
「桂花・・・」
柢王は呆然と呟いた。
いつものメイク道具入れを提げた桂花が柢王の目の前に立っていた。
桂花は静かな表情で柢王を見つめていた。
「今、終ったのか?」
「えぇ。あなたは何を?」
「お前を待ってた」
「でしょうね」
そこで沈黙が下りた。ややあってから柢王は口を開いた。
「今日、俺がいたこと知ってたのか?」
「いいえ。来てから知りました」
「いること知っても帰らなかったんだな」
「仕事で来ているんですから当然でしょう?それに李々の頼みですし」
「そうなのか?」
「えぇ、昨日の夜に突然言われて。急用で行けなくなったから代わりに行ってくれと。その代わり時間と場所が丁度良いからドラマの方は自分が行くと言って」
「現場は大混乱だっただろうな。大物のお出ましに」
柢王は笑った。
「用事がないなら出ましょう」
そう言うと桂花はさっさとエレベーターのボタンを押した。
2人は地下の駐車場に着くまで黙ったままだった。
桂花は自分の車の前に来ると柢王を促した。
「乗って下さい。送りますから」
「いいのか?」
「マネージャーの方は先に帰したのでしょう?どうやって帰る気だったんです?」
柢王は頭を掻いた。
「それじゃあ、遠慮なく」
そして車は2人を乗せて夜の帳が降りた街へと滑り出していった。
都会は昼も夜も人の多さは大して変わらないのに印象がまるで違う。夜の闇に浮かび上がる色とりどりの灯りのせいか行き交う人々に現実離れしたような浮遊感を感じる。そんな景色が流星のように後ろへ流れていく様子を車窓から眺めながら、柢王はハンドルを握る彫像のような美しい無表情を見た。現実離れと言えば今ほどそれが当てはまる時はない。桂花が車に乗せてくれている。これはまるでデートではないか。デートではないなら別れ話のための場か。柢王は同時に浮かんだ甘い考えと最悪の考えをまとめて追い出した。まだ話もしていないのに桂花が怒りを鎮めてくれるわけはない。まだ付き合ってもいないのに別れ話はできないだろう。唯一あり得るのは「ストーカー行為で訴える」と脅されるくらいだろうか。やっぱり状況は最悪か?
信号で止まった時、柢王は気になっていたことを尋ねた。
「今日、俺がいるってこと知ってたら、来なかったか?」
桂花は真っ直ぐ前を見たまま答えた。
「仕事なら、仕方ないでしょう。収録は見ていました。きっと吾を待つだろうと思ったんです」
「何だ、全てお見通しか。俺はお前のことちっとも分からないのに、何でお前は俺の考えていることが分かるんだ?」
信号が青に変わり、再び車は静かに動き出した。
「次の交差点はどうするんです?」
「あ、右折・・・、って、俺の家に真っ直ぐ行ってくれなくたっていいんだぜ」
「じゃあ、どこ行くんです?そこら辺で放り出しますか?」
「うーん、どっか飲みに行くとかさ」
「飲んだら誰が運転するんです?」
「そしたらホテルで泊まり・・・おっと」
調子に乗りかけた柢王は桂花の一睨みに慌てて首をすくめた。
「やっぱまだ、怒っているのか?」
柢王は聞いてみた。
「なぜ、怒っていると思うんです?」
「だってお前、俺の方ちっとも見てくれなかったし」
「今までだってあなたを見ていた覚えはありませんが」
「でもさ、あれは明らかに怒ってたぜ。俺が事務所に押しかけたこと怒っているのか?」
「そんなんじゃありません。吾の問題です」
柢王はため息をついた。
「そうやってまた閉め出すんだな」
「あなたが踏み込みすぎなんです」
「普段は人のことに踏み込まないぜ。ただ、お前のことだけは何でも知りたいから付きまとうだけで」
「迷惑です」
「仕方ねーだろ?好きなんだから」
「その理屈が通ったらストーカーが容認されるでしょうね」
「まぁな、紙一重っていう自覚はあるぜ」
柢王は笑った。桂花は黙っていた。その後は柢王に道順を尋ねる時しか口を開かなかったし、柢王も話しかけなかった。
「着きましたよ」
柢王のマンションの横で桂花は車を停めた。
「サンキュ、助かったよ」
そう言ったが柢王は車を降りない。桂花も黙ったままだ。柢王はマンションの誰かの部屋の灯りが点いた窓を見上げていた。
「俺とのことも絶対じゃないって思うのか?」
柢王は窓の外を見たまま呟いた。
「え・・・?」
意味が取れなくて桂花は柢王の方を向いた。柢王は桂花の目を真っ直ぐ見つめた。
「俺のお前への気持ちも絶対じゃないって。李々が言ったみたいに。だから俺の気持ち受け付けないんじゃないのか?」
「李々に会ったんですか?」
「ジムで偶然な。その時彼女が言っていたんだ。この世に絶対はないってお前が信じているって」
「あなたの女性関係考えたら信じられる方がどうかしていると思いますが」
「まぁ、そこ突かれると痛いんだけどさ。でも俺は何度だってお前のこと好きだって心から言える自信はあるぜ。李々の言うことなんか信じるなって言いたいんじゃないんだ。でも俺の傍にいるっていうのもお前の選択肢の中に加えてほしいんだ」
「断ってもいいんですか?」
「断ったら頷くまで何度だって言い続けるさ。言ったろ?いつまでだってお前のこと、心から好きでいられる自信はあるって」
「そんなの、信じられません」
「それじゃあ仕事のついでにお前の目でそれを見極めてくれよ」
「・・・?」
「来年、香港映画に出るんだ。ファンタジーでさ、相手が人間じゃないことを知らずに恋をする男の役なんだ」
「それで最後、その男はどうなるんです?」
「それはさ、現場で見ようぜ。一緒に」
「・・・」
「一緒に来てほしいんだ。お前にヘアメイク任せたいし、何よりいつもお前と一緒にいられる」
「・・・前も言ったでしょう?そんな下手なくどき方じゃ駄目だって。あなた俳優なんだから、そんな台詞たくさん知っているでしょう」
「そりゃ無理な相談だな。お前を前にすると平静じゃいられなくなる。そんな状態で気の利いた台詞なんてひねり出せるわけないだろ。それに俺は借り物の言葉じゃなくて、自分の言葉でお前に気持ちを伝えたい」
柢王は視線を逸らせた桂花の腕を掴み、思わず振り返った桂花の目をじっと見つめた。
「好きだ。傍にいてくれ。俺もお前の傍にいたいんだ」
その眼差しが、初めて彼が自分に「惚れた」と告げた時のものと同じだということを桂花は不意に思い出した。そして表情と言動はふざけていても自分を見る時の眼差しだけはいつもこんな風だったということも。
・・・思えばこれに気付くのが恐ろしくてこの男から逃げていたのだ。
誰かに心が動いたらそれは終わりへの始まり。流れる時間が運んでくる別離。裏切りや旅立ち、その形は色々だったけど。でもいつも最後は1人に戻った。空っぽの空間に1人放り出されたような、心の中から凍えてしまいそうなあの感覚はいつも怖かった。そんな繰り返しの中で李々に出会った。自分と同じく1人で生き抜いてきて、自分に1人じゃないことの幸福を教えてくれた彼女だけは特別だった。華やかな環境で大勢の人間に囲まれていても大都会の雑踏に佇んでいるのと変わらない中で、やっと得た唯一の心の拠り所なのだ。
李々以外に心が動くなんてありえないし、そんなのは要らない。でも李々だけで固く閉じていた心のドアを彼は激しくノックしている。何度も何度も要らないと叫んだのにノックはやむ気配がない。
・・・うるさくて敵わない。
ドアを開けたらまたいつか傷ついてしまうのに。でも強引に桂花を攫っていくその腕がとても温かいこともとうに知っていて、そしてそれは眩暈がするほどにずっと桂花を魅了していたのだ。
桂花はそっとため息をついた。
「あのワイン、飲みますか?あなたがくれた」
「今から事務所に行くのか?」
「うちにあるんです。持って帰りましたから」
「え?」
「事務所に置いていたら誰かに飲まれてしまいますから」
「桂花・・・。いいのか?家に行っても」
「来たくないんですか?」
「行くっ、行くよ!」
開け放したドアをそっと振り返る。あの居心地の良い、優しい場所はきっと変わらず自分を待っていてくれるだろう。あそこがあったからドアを開けることが出来たのだ。
桂花はゆっくりアクセルを踏んだ。
柢王は自分の腕の中で寝息をたてる桂花の白い髪に顔をうずめた。
一緒に香港に行くことも了承してくれた。やっと手に入ったけれどまだ桂花が柢王に対して不安に思っていることも分かっている。でも桂花がどう思おうが決して彼を手離すことなどできない。桂花の手が柢王の胸の上をさまよった。その手を取って指先に唇を押し当てる。一度こんな幸せを知ってしまったなら、こんな心地良さを味わってしまったならそれを手離すことなど、どうして考えられるだろう。誰かに対してこんな思いを抱けることはないと思っていたのに。本当に恋は魔力だ。魔法によって思いがけず知らなかった自分が出現した。でもこれが本当の自分なのだ。
一体これからどこへ向かうのだろう。でもその道程はとても楽しいに違いない。だって最高の宝物を手にしたのだから。
李々は行きつけの高級スーパーの通路をゆっくり歩いていた。面白くて質の良い品ばかりだからここはお気に入りの場所だった。見るだけでも楽しい。
豊富な種類の高級ワインが陳列してあるコーナーへ入り込んだ。その中の1本を思わず手に取る。それは数日前、桂花の部屋に行った時に彼の部屋に置いてあったものだ。
『珍しいわね。お酒買って飲むことなんてしないのに』
『貰い物なんだ』
『そうなの?美味しいってすごく評判のワインじゃない。飲んでもいい?』
『駄目っ・・・。あ・・・、もう少し置いておいた方が良いって聞いたから・・・』
あの時桂花が浮かべた苦しそうな表情を見て、李々はジムで出会った青年の、桂花を語る時に見せた青白い炎が閃いたような目が脳裏を過ぎった。それは勘でしかないが、なぜか確信めいていた。
「聞いたって本当のことなんて教えてくれやしないし、それだったら行動観察するしかないじゃないね」
だからトーク番組で柢王と共演するという友達の女優との約束を桂花に行かせたのだ。技術の方は何の心配もなかったが、
「あんなにあっさりと結果が出るなんて、ちょっとがっかりね」
次の日、仕事の報告をする桂花の顔に仄かに浮かぶ、幸せそうな表情を思い出して李々は肩をすくめた。事務所の女の子の話ではあの日桂花は事務所に帰って来なかったそうである。
「ま、子供に頼っていては駄目ね。大人は大人で楽しまないと」
李々はワインを棚へ戻した。そして優美な白い指で軽く弾くとボトルは澄んだ音を立てた。それを少し睨むとハンドバッグから携帯電話を取り出して、出口に向かって歩き出した。
「もしもし。お久しぶりね、お元気?相変わらず例のテレビ局の会長さんから迫られているの?・・・あら、ごめんなさい。ところでこの間、見せてくれるって言っていた新作のネックレス、見せて下さる?ついでにお食事でもいかが?・・・」
その日、めずらしく柢王とのケンカが長引いて、仲たがいしたまま城へ戻ってきたアシュレイ。
さんざん怒りまくった挙句、ベッドに横になる頃には自分の方が悪かったのだと頭は冷えていた―――――が、かっこ悪くてとても頭を下げる気にはなれない。
柢王と取っ組みあいのケンカなんて、ざらだ。技を出しあって互いにケガを負わせることだってしょっちゅう。でも何度くだらない事でケンカしようとも、後を引くことはほとんどなかったのに・・・。
けっきょくアシュレイは、次の日塾へ行っても柢王とは顔をあわせないように気をつけ、その次の日もまた次の日もと、とことん避けつづけた。
それに気づいたグラインダーズが、自分の部屋にアシュレイを呼びだす。
「アシュレイ、いつまでもつまらない意地をはるのはおよしなさい。自分の非を潔く認めるというのも大切なことだわ。そして認めたのなら相手にきちんと謝罪すべきよ」
そこまで言われたというのにこのままでいたら、姉に軽蔑されてしまうだろうし、何よりこの先ずっと柢王と話したり遊んだり出来なくなるのは嫌だったので、アシュレイは思い切って謝りに行くことにした。
(鼻で笑われるかもしれない・・・だから言っただろって、バカにされるかも・・・)
飛びながらアシュレイの顔色は冴えない。
柢王がもし、自分をあざ笑ったら・・・・またケンカになってしまいそうだ。ため息をこぼしながら東へ向かうアシュレイだった。
「おーっ、来たかアシュレイ、なんか久しぶりな気がするな」
剣の素振りをしていた柢王が空に浮いているアシュレイに気づいて手を振る。
「なんだよ、ずいぶん俺のこと避けてくれたなお前。こっち来て顔見せろよ」
「・・・・・」
くちびるを尖らせたまま下におりると柢王が汗を拭きながら使い女に冷たい飲物を所望する。
「どした、そんな顔して」
「柢王・・・・・俺・・・この間は・・・・・」
「うん」
「その・・・・俺が・・・・悪かったっ!これで文句ないだろっ、じゃあな!」
「こらこら、待てよ!」
脱兎の如く飛んで逃げようとしたアシュレイの足首をしっかとつかんだ柢王はそのまま華奢な体を地上に戻す。
「そう慌てンなって。ノドかわいてるだろ?ちょっと休んでいけよ」
「・・・・・ん」
恐れていたような意地悪もイヤミも言わず、出されたジュースを飲む自分を満足そうに見つめる柢王。その後も、アシュレイに剣の相手をさせたり塾の宿題の多さに文句を言ったりするだけで、話を蒸し返すようなことは一切しなかった。
本当に反省している相手にしつこく説教をするような男ではないのだ。物事を冷静に判断し短時間で見極めることが、このころの柢王はすでにできていた。
「そろそろ帰る。またな、柢王」
「おう、寄り道すんな?暗くなる前に城に戻れよ」
「ガキか」
「ガキそのものだろ」
ハハハと二人して笑って、晴れた気分のままアシュレイは柢王と別れた。
「・・・あのヤロ。暗くなる前に帰れだって、バカにしやがってサ」
飛びながら顔がゆるんでしまう。柢王と仲直りできることがこんなに嬉しいなんて思っていなかった。
―――――そういえば、すっかり忘れていたがもっと小さい頃・・・柢王とアシュレイが探検ごっこをした帰り、暗くなりはじめた空の下でアシュレイは無意識に柢王の手をにぎったことがあった。
べつに怖いからでもなんでもなく、ただ、姉のグラインダーズと暗い道を歩く時「手を繋ぎなさい」と強制されていた為そのクセがつい、出てしまっただけのこと。
ところが運悪くその現場を見かけた者がいて、翌日になると教室にアシュレイの悪口が書かれていたのだ。
半分に破られた画用紙が自分の席近くに落ちていたのを拾い、つなぎあわせると『柢王〜暗いよ〜こわいよ〜』アシュレイと思しき人物に書いてあるセリフ。
それを見て逆上したアシュレイは犯人をつきとめようと走り回った。
ところが見つけた出した犯人は柢王によって既に伸されていたのだ。
「俺がやりたかった!」
文句を言うと彼は「悪かったな」と笑いながらアシュレイの肩をたたいた。
「なぁ、アシュレイ。俺はあの時うれしかったんだ。俺には兄貴が二人いるけど、並んで手ぇつないでもらったことなんか一度もねぇよ。だからお前がああして手を握ってきてくれて、なんか弟ができたみたいでうれしかった」
この時、アシュレイは「弟だとぉ?」とか「別にお前と手をつなぎたくて握ったんじゃねぇ!」とか「お前、あの兄貴たちなんかと手ぇつなぎたかったのかっ!?」とか、頭の中でグルグル回ったのだが、それらは口から出てこなかった。「うれしかった」と連発する柢王だったが、そんな彼がちょっぴり寂しそうに見えて言えなかったのだ。
だから本当のことなんてどうでもいい。
自分と二人でいるときの柢王は、グラインダーズと似てる雰囲気がたまにあるから――――だからまた、ついまちがえて無意識のうちに手を握ってしまうかもしれない。
そして、それで柢王が喜ぶんなら別にいいや――――そう思った。
「・・・・・・」
「・・・・・どうしたの、アシュレイ――――泣いてるの?怖い夢みた?」
となりで半身起こして顔をぬぐっている恋人を心配そうにのぞきこむティア。
「・・・・・なんでもない」
「アシュレイ?」
今までずっと、自分は柢王にも守られてきた。
だから、彼が守りたくても守れなくなってしまったもの全てを・・・・・人界から離れたがらない桂花のことも、これからは自分が守りたい・・・・・。
「・・・・お前も俺が守る」
「え?」
「いいから寝ろ」
起こしてしまって心配かけて。この言い様はないだろうと自分でも思うが、アシュレイはそれ以上なにも言わずティアに背を向けて寝てしまった。
恋人が夢をみて泣いていたことは明らかだったが、ティアは詮索しない。今、自分を守ると言い切ったアシュレイの瞳には、強い意志が宿っていたから。
(私だって、君を守るよ)
寝息をたてはじめた恋人の髪をそっと撫でながら、ティアもふたたび眠りについた。
雨足は強くなる一方なので撮影は延期になった。桂花はあれから柢王の方を一瞥すらせず、寧を伴って別の仕事先へと向かった。
柢王はいつになく落ち込んでしまったので、気晴らしにジムへ出かけた。ハードな運動をする気にはならず、プールでゆっくりと何周も泳いでいた。
ふと隣を見ると流れるようなフォームで泳いでいる女がいた。柢王が顔を上げると、彼女も丁度水から顔を出し、コースロープ越しに目があった。輝くような赤毛の、目も覚めるような美女であった。女は微笑んで会釈した。気があるのか、単なる社交辞令なのか見分けるのは柢王には簡単だ。今回は完全な後者であった。前者であっても今は乗る気にならない。でも気がないと分かっている相手と話すのは良い気分転換になりそうだ。柢王も会釈を返して話しかけた。
「ここにはよく?」
「いいえ、お客様に招待券を頂いたから来てみたの。良いジムね。あなたは常連さん?」
「えぇ、よく来ています」
「そう、もっと早くここに来るべきだったわね」
女は笑った。水を弾く白い肌がきれいだ。でも恐らく年上だろう。多分桂花よりも。
「泳いだら喉が渇いたわ。付き合ってくださる?」
柢王は喜んでその申し出を受けることにした。
2人はアイスコーヒーを買ってプールサイドの椅子に腰掛けた。
「あなた黙々と泳いでいたわね。一日何キロ泳ぐとか目標でもおありなの?」
「いえ、普段は上でトレーニングしていますが、今日は泳ぎたい気分だったんです。ひたすら泳いでいると何も考えずに済みますから」
「あら、恋?」
「そんなところです」
「上手くいっていないのかしら?」
柢王は苦笑した。
「実は振られました。いや、これまでその人に何回も告白しては振られ続けているんですが。でも今回は怒らせてしまって」
いつもならこんなこと話さないのだが、理知的できれいな瞳を見ていると彼女なら話してもいい気がした。
「次に行かないの?あなたなら相手に困らないでしょう」
「今までだったらそうしていたんですけど。でも今回に限ってはここまで思える相手は2度と現れないって思っているんです」
「純情ね」
「そうですね。自分でも意外ですが」
「なぜ振られたの?」
「分かりません。あまりにストレートに行きすぎたのかなとは思っていますけど」
「そんな手を使うようには見えないけど」
「普段は違います。でも今回は頭を使う余裕なくて。だから気持ちのままに行くしかなかったんです」
「上手い手とは思わないけど素敵ね。で、何と言われたの?」
「あなたに振り回されるのはたくさんだ、と」
「あら、ではあちらも少しはあなたの言葉に揺れていたということかしら?」
「そうだったら嬉しいんですけど。嫌われたら意味ありませんが。でもやっぱり諦めがつかないんです」
「ままならないから恋は魅力的なのよね。魔力と言ってもいいわね」
「あなたも恋を?」
「年の功と言うのかしら。きっとあなたよりは経験豊富よ」
「分かりますよ。あなたは魅力的ですから」
「ありがとう。でも私を口説いても無駄よ」
「そいつは残念ですね」
「口先だけでそんなこと言ったって駄目よ。上の空で口説かれても幻滅だわ。女だったら分かるし、それが分からないような女ならやめた方が賢明ね」
「座右の銘にしますよ」
女は鈴を転がすような声で笑った。
女はプロポーションも素晴らしく、行き交う他の客達は皆、振り向いていた。
気持ちは分かるぜ、と柢王はアイスコーヒーを飲みながら思った。多分自分がいなかったら声をかけてくる男はわんさといただろう。
そういえばこんなところ、週刊誌に撮られたりしないだろうな。今まで特に何とも思わなかったが、今、撮られたら余計桂花の信用を失いそうな気がする。それは困る。ヒジョーに困る。
「あら、どうかしたの?」
落ち着きをなくした柢王に女は尋ねた。
「いや、何でも、すみません。みんな振り返るからこんな美人と一緒にいるのかと今更ながら緊張してしまって」
女はクスリと笑った。
「そう。てっきり週刊誌に撮られないか心配しているのかと思ったけど」
「・・・バレていましたか」
「自分のところのスタッフがお世話になっている俳優さんが分からないほどぼんやりしていないわ」
「えっ?」
「うちのスタッフのヘアメイクの技術はお気に召して頂けているかしら?」
「…と、いうことはあなた、李々?」
「私をご存知なのね。光栄だわ」
桂花の名前を出さなくてよかった。けれどこれは桂花のことを知るチャンスだ。
「桂花の腕にはいつも感心していますよ。今まで会った中じゃ最高だ」
柢王は心からそう言うと、
「桂花とはパリでお会いになったそうですね」
と、少し身を乗り出した。
「事務所を立ち上げたばかりの頃にね。あの子がパリで勉強していた時に会ったの。素晴らしい才能だったからすぐに事務所に誘ったわ」
そこまで言うと李々は優雅な仕草で首を傾けた。
「あの子に聞かなかったの?」
「あいつとはゆっくり話す暇がないんですよ」
「そう。そしてあの子は自分のことを話さないから」
「昔からですか?」
「そうね、私の影響かしらね」
「あなたの?」
「えぇ。私の哲学なんだけど。・・・『絶対はない』」
「絶対・・・?」
「そう。特にこの仕事しているとね。もちろん仕事だけではないけど、そう思う場面にいくつも出会うわ。あなたも経験がおありだと思うけど」
柢王も李々の言うことは理解できた。芸能界という華やかな世界の裏側は美しさから程遠い。今の地位を明日、突然失う。それが決して驚くような話ではないこの世界で、第一線を走り続けることがどれほど難しいか柢王はよく知っていた。
「桂花もそんな経験が?」
「仕事もそうだけど、あの子は恵まれた環境で育っていないから余計私の言うことが理解できたのね。でもこの業界で成功するには正解かもしれないわ」
「あなたも桂花との関係がいつまでも続くとは思っていないのですか?」
「私達はこれまで支えあってやってきた。これからもそのつもりだけど、でも、いつもどこかで終わりを予感しているわ。悪い意味ではないの。例えばあの子が独立するとか、違う所で仕事をするとか、私の元から離れていくことを、ね」
「自分を委ねられる誰かを見つける、とか・・・?」
「それはあなたが望んでいるのではなくて?」
李々は柢王を流し目で見た。
「あなたが熱烈に想っている相手ってあの子でしょう?」
「えぇ」
柢王はあっさり認めた。李々は肩をすくめた。
「あなたって本当に良い度胸しているわね。誰が聞いているか分からないのに。そこが大物になれる所以なのかしら」
「度胸はないですよ。今だって明日、桂花と会うことにこんなにビビっている。俺の不用意な一言で本当にあいつに嫌われるかもしれない」
あるのはどうなっても、どこまでも桂花を追いかけるという決意だけだ。
「あの子は今までたくさん傷ついてきて、だから容易に自分をさらけ出せない。でもそれでくだらない人を近づけないのなら、それは良い事なのかもしれないわね。私はあの子を実の子のように思っているの。下手な人には渡したくないって思うほどには」
「それはあいつを縛り付けているのではないですか?」
李々は挑戦的な笑みを浮かべた。
「そうかもね。でもあなたに言われたくないわ。あなた相当独占欲強いタイプでしょう?今までその独占欲を刺激する相手と出会っていなかっただけで」
「おっしゃる通りですよ。俺はスゲー嫉妬深いし、独占欲も強い。今だってあなたにスゲー嫉妬している。だからあなたの思う壺にはならないつもりです」
「今の状況ではあなたが絶対的に不利ね。あの子が寄せている信頼も信用も私の方が上だもの」
「俺、諦めも悪いんです。さっきも言いましたが」
「諦めの悪さだけで人の心が動くかしら?あなたほどモテる人だったらそれはよくお分かりだと思うけど」
「確かに戦局は圧倒的に俺が不利ですよ。あなたのカードの方が断然有利だ。でも、俺はゲームオーバーになっても諦めませんよ。何セットでもやってやる。体力には自信があるんです。確かめてみます?この後にでも」
「魅力的なお申し出だけどやめておくわ。前途ある若者の自信を失わせたら気の毒だもの」
李々はフフっと笑うと立ち上がった。
「さて、そろそろ行かなくては。面白い時間が過ごせたわ、ありがとう」
「桂花は俺のことは信じないがあなたの言うことは信じちまう。あいつに変なこと吹き込まないで下さいよ」
「さぁ、どうしようかしら。女の細腕でこの世界を生き抜くにはズルい手も使わなくてはならないの。・・・あなたもお気の毒ね。こんな気難しい姑がいる人を好きになってしまうなんて。今度は家族構成もきちんと調べてからにした方がいいわね」
「生憎、『今度』なんか考えてもいないし、そんな物はいりませんよ」
「危険な橋ばかり渡ろうとしていると破滅するかもしれないわよ」
「あいつに破滅させられるなら本望ですね」
「ロマンチストだこと」
「恋する男は誰だってロマンチストですよ」
李々は艶やかな一瞥を投げると出口へと歩きかけて、振り向いた。
「週刊誌に撮られるかどうかの心配なんて今更じゃなくて?それに桂花との秘密の恋を続けたいなら世間には私と付き合っていると思わせておく方が便利なんじゃないかしら?」
「それは俺とのことを許していただけるということですか?」
「あなた次第ね。言ったでしょ?下手な人には渡さないって。お手並み拝見というところね。不合格だと思ったらいつでも邪魔して差し上げるからそのつもりで」
「心しておきますよ」
見惚れるくらい美しい後ろ姿がドアの向こうへ消えると同時に柢王は椅子の上にひっくり返った。
リフレッシュするつもりで来たのに。余計に疲れてしまった。
次の日の撮影。やはり桂花は自分の仕事以外は柢王を一瞥もしなかった。柢王も氷点下の怒りを感じるので近寄らなかった。それを無視する無神経さは持ち合わせていない。そんな膠着状態で撮影は何事もないかのように進行していく。柢王も何事もないかのように仕事に没頭しているように見せていた。それが出来ないようではプロではない。
数日後、柢王は他局でトーク番組の収録があったので撮影を休んだ。
トーク番組はどこもほぼ同じだ。もう慣れた。
観覧席から上がる黄色い悲鳴に爽やかな笑顔で応えること。プライベートの話に自身の恋愛観。素の自分を、少しだけ「芸能人」というオブラードでくるんで、雑誌の取材でもどこのトーク番組でも矛盾がないように気をつけながら話すことも。全てさらけ出す必要はない。求められている分だけ提供すればいい。まさか今、男への片思いに悩んで悶々としています、なんて言えないし、そんなこと誰も知りたくないだろう。事務所も大混乱になるし。週刊誌は知りたいだろうがそんなサービスしてやる必要はない。第一、桂花が傷つくことだけは絶対嫌だ。
柢王はプライベートや仕事の失敗談などを披露してスタジオを沸かせながら、収録は和やかに進んでいった。話題は柢王の現在の仕事に移った時、同じくゲストで来ていた大物女優が口を挟んだ。
「あなたのドラマのヘアメイクさんって李々のお弟子さんなんでしょ?」
こんなところで桂花の話題が出るなんて思わなかった柢王は驚きつつも頷いた。
「あ、はい。桂花ですか?」
「私、李々とは親しくして頂いているんだけど、この後パーティがあって彼女にメイクをお願いしていたの。でも彼女、急用で来られなくなって。それで急遽、彼女の1番弟子の桂花を寄越してくれたのよ。ついでだから、さっきもメイクやってもらったんだけど。彼、いーわねぇ。さすが李々の1番弟子だけあってすごく上手いのよ。しかもものすごく美形だし」
女優は上機嫌でオホホと笑った。司会のお笑い芸人は「美形だからってー」と突っ込んでスタジオが笑いに包まれたが、柢王は聞いていなかった。
早く収録が終ることをひたすら願った。
行きつけのバーに集まった女友達は、それぞれ最近のことや芸能界の噂話を披露してくれた。空也も嬉しそうにモデル達と話していた。
「そういえばヘアメイクって桂花なんでしょー?彼も誘ってくれれば良かったのにー」
1人が甘えた口調で柢王を見上げた。
俺が1番来てほしかったんだ!と柢王は心の中で叫びつつ
「事務所で仕事があるからって断られちまってさ」
彼女の髪を指で撫でた。
「そーだ!この後、みんなで彼のとこに行かない?」
柢王の向かいに座っていたモデルが声を上げた。
「あー、それいいね!」
他の女性達もはしゃいだ声で賛成した。
「何だ、みんなあいつの事務所の場所、知ってんのか?」
柢王が尋ねると、皆口々にその場所や周辺の目印になる店などを言い出した。
勿論行くつもりだった。
勿論1人で。
閑静な通りにその事務所はあった。買い物袋を提げた柢王はスタイリッシュな建物を見上げると窓から灯りが見えた。階段を上っていくとガラスのドアがあり、中を覗くと灯りに照らされて少しオレンジ色がかった白い髪がこちらに背を向けてテーブルに向かっていた。鍵が開いていたのでそっと扉を押すと、夜の静寂にカウベルの軽やかな音が響いた。白い髪が振り向くと、柢王は袋を持った腕を上げて軽く振って見せた。
「陣中見舞い」
「飲んでいたんじゃなかったんですか?」
2次会をせがむ女友達を空也に任せた後、柢王はこの場所に向かった。桂花の事務所へ行く話から巧みに話題を逸らせたことと皆、酔ったこともあり、解散時にその話題は出なかった。
「もう解散した。明日も撮影だし。本当に仕事だったんだな」
「嘘かどうか、確かめに来たんですか?」
柢王はいささか剣呑な眼差しに、けろりと言った。
「つーか、こんな遅くまで仕事なんてやっぱ気になるじゃん」
「あなたって本当に変な人ですね」
「ははっ、やっぱ?」
桂花はため息をつくと立ち上がってコーヒーを淹れてくれた。今すぐ叩き出すつもりはないらしい。
「で、本当は何なんですか?」
「疑り深いなー。本当に気になったんだぜ。前にも言ったろ?惚れたんだって」
そう言うと柢王は袋をテーブルの上に置くと中身を次々と取り出した。
「ワインと、あとチーズだろ。クラッカーも買ってきたんだ」
「・・・まだ仕事中ですので」
「んじゃあ、チーズとクラッカーだけにしとくか?このコーヒー美味いな。これにも合うと思うぜ。それにこのチーズ、美味いって評判なんだ」
「彼女から教えてもらったんですか?」
「いーや、女友達」
「あちらはそう思っていないのでは?」
「んなことないって。みんな適当に遊んでいるぜ。俺はその遊び相手の1人」
桂花は信じていなかった。この男の噂は度々聞いていた。それでも今のところ悪い噂を聞かないのはよほど要領が良いのだろう。たまに週刊誌にデート写真が載って軽く噂になる程度だ。
桂花は美味そうにコーヒーを啜っている男を冷ややかに見た。でもそんな素行で惚れただの本気だのと言われて真面目に取れるわけがない。自分の何に興味を抱いたのかは知らないが、面倒なことには関わりたくない。
柢王はチーズを口に入れ、呑気に「やっぱ美味いな、これ」と頷いている。そしてクラッカーにチーズを乗せるとテーブルの前にじっと立っている桂花に差し出した。
「ほら、お前も食えよ。美味いぜ」
桂花は無表情でクラッカーを受け取って口に入れた。口の中にクラッカーのサクサクした食感と濃厚で微かに甘いチーズの味が広がって柔らかく溶けていった。
柢王は嬉しそうに桂花を見ていた。
「な、美味いだろ。ワインと合わせるともっといけるぜ。ワインやるからまた試してくれよ」
「頂けませんよ、こんな高価なもの」
仕事で出席したパーティで、ワイン好きの主催者が勧めてきた物と同じ銘柄だった。
「いーって、遠慮すんなよ。今度来る時まで預かっておいてくれ」
「また、来る気ですか?現場で会うのに」
「いつだって会いたいんだ。現場だけなんて足りない。ずっと一緒にいたいんだ」
何の捻りも工夫もない台詞を恥ずかしげもなく、真っ直ぐ桂花の目を見て言った。
桂花は髪をかき上げた。
「あなたって諦めが悪いのか鈍感なのか。何でそこまで拘るんです?」
「昔から、本当に欲しいって思ったものは諦めないタチなの。でも正直こんなにホネがある奴は初めてだけどな」
「今までの彼女達もそうやっていたんですか?」
「いや、どっちかって言えば向こうから。まぁきっかけ作ったのは俺ってことが多いけど。それに関しては追う側になったことはないぜ。成り行きによってはちょっと追ったこともあったけど」
「あなたって最低ですね」
「嫌いになった?」
屈託ない表情で言われて桂花は心底呆れた。
「嫌いになるほどのことではありませんけどね。ただ、残念ながらあなたの気持ちには沿えません」
「それって無関心ってこと?」
「えぇ、具体的に言えば」
「きついなー。好きの反対は無関心だぜ」
「吾としては好都合ですね」
桂花は自分のコーヒーを継ぎ足した。柢王が「俺も」とカップを差し出してきたので淹れてやった。
柢王は天井を仰ぎ見た。
「振られたのは人生初だな」
「良い人生経験になったでしょう」
「本気で惚れたのも初めてだけど」
「人生最良の思い出の一つですね」
「おい、もう過去かよ」
柢王はがっくりと項垂れた。その様子に桂花の口元が思わずほころんだ時、柢王はがばっと顔を上げた。
「あっ、今ちゃんと見てなかった!」
「は?」
「今、お前笑ったろ?お前が笑ったとこ、初めて見た。一瞬だけしか見られなかったけど、スゲー、キレかった。なぁ、もう1回笑ってくれよ」
目を輝かして身を乗り出してくる柢王に桂花はため息をついた。全く、この男には何回ため息をつかされることか。
「何、馬鹿なこと言っているんですか。それよりコーヒー終ったでしょう、早く帰って下さい。明日も撮影なんですよ」
そう言うと桂花はさっさとテーブルの上を片付け始めた。
「えー、もう1回くらい、いーじゃんかー」
椅子にしがみ付いてブーブー言う柢王をとっとと玄関まで追い立てた。扉を開けると夜の涼しい空気と玄関脇にある鉢植えの花の仄かに甘い香りが室内にひっそりと入ってきた。
柢王は空を見上げ
「明日も良い天気かな」
と呟くと桂花を見た。
「ありがとな。突然押しかけたのに付き合ってくれてさ」
いきなりそんなことを言われたので桂花は面食らった。
柢王は優しい目で笑いかけると「じゃーな」と言って階段を降りていった。その後ろ姿をぼんやりと見送っていると、数段降りた柢王は突然回れ右で駆け戻ってきて
「なぁ!おやすみのチューするの忘れてたんだけど」
と真面目な顔で言ってきたので桂花は男の鼻先でバタンと扉を閉め、鍵を掛けた。そして振り向きもせずにキッチンへ行くと食器を洗い始めた。
「何だよー、舌までは入れねーぞー」
不穏なことをぼやきながら階段を降りていく足音が聞こえた。
桂花はふと振り向くと、テーブルの上には柢王が持ってきたワインが残されていた。冷蔵庫にしまおうとしたが、そのまま自分の鞄の側に置く。オレンジの灯りが一つついた部屋は柢王が来る前と同じはずなのに、何だか今はガランとして見える。扉を開けた時に入ってきた花の香りと夜の空気と共に子供のように騒ぐ声と、桂花の目をまっすぐ見て話す時の温かくて深い声とが、気配のように漂っているように思えた。
本当に厄介な男だ。桂花はこの夜、何度目になるか分からないため息をついた。
食器を拭くと、桂花は柢王が座っていた椅子に腰掛けて鞄の側にひっそりと置かれているワインボトルを眺めた。
・・・本当に、厄介だ。
次の朝、柢王は桂花の姿を見つけると「よっ、昨日はごちそう様」と声を掛けてきた。それに桂花は素っ気無く挨拶を返した。柢王はいつもと同じようにメイク中も1人で喋っていた。
ほんの一瞬風が起きただけなのに、桂花の胸には嵐が去ったような痕跡を残していた。それなのにこの男は全く変わらないのだ。馬鹿らしい。こんないい加減な男のために気持ちが僅かでも揺れるなんて全くの無駄だ。桂花は瞳に険を宿して黒髪にワックスを付けていった。
一方で、柢王は常にない桂花の様子を敏感に感じ取っていた。他の人間では分からないような違いだが、いつも桂花ばかり見ている柢王には大きな違いだった。
・・・チューさせてと言ったことが気に入らなかったのかな。でも、そんな程度のこと(?)で今更気分を害すようにも思えない。
とにかく昨夜の訪問が桂花の心に波紋を投げたことだけは確かだった。
柢王は僅かに乱暴にドライヤーで髪を乾かす桂花の手を感じながら鏡越しに桂花を盗み見た。
自分でも桂花の心を揺さぶることができるらしい。
それって期待してもいいんだよな。柢王は心の中で確認する。普通なら気分を損ねさせてしまったことに落ち込むが、神経が図太いのか1本ないのか柢王の思考回路はポジティブだ。
かくしてやたらに温度差のあるメイクルームであった。
今日の撮影は午後から外で行われた。
「はいっ、オーケー!」
監督の声で現場の空気が緩み、スタッフ達が動き始める。柢王もモニターで自分の演技を確かめていた。と、頬にポツリと雫が落ちてきた。いつの間にか雲が厚くなったと思った時、細い透明な糸のような雨がサラサラと降ってきた。スタッフ達は慌てて機材を片付け始め、出演者達もロケバスに乗り込んだり、日除けのテントの下に入ったりした。
柢王はテントの下でコーヒーを飲みながら視線で桂花を探した。どこにいても真っ先に桂花の姿を探してしまうのはもはや癖である。桂花はもう一つのテントの下にいた。柢王は紙コップにコーヒーを入れてそちらへ移った。
桂花は気配がしたので振り向くと、柢王が紙コップを2つ持って駆け込んできた。
「お疲れさん」
柢王は紙コップに入ったコーヒーを差し出した。いりませんと突っぱねたいが、大人気ない振舞いをするわけにもいかず桂花は黙って受け取った。撮影が続いていたら話しかける隙なんて与えないのに。どうしてこんな考えなしの味方につくのかと桂花は天を恨んだ。さらに不幸なことにこのテントの下にいたのは自分1人であった。静かでホッとしていたのに。
「昨日のことさ、怒ってる?」
考えなしは桂花の心情にまるで無頓着に尋ねてきた。
「あなたはどう思っているんです?」
桂花はコーヒーに口も付けずに冷たく聞き返した。
「俺はさ、お前と2人っきりで話ができてスゲー嬉しかったよ。現場だとゆっくり話できないし」
当たり前だ。そんな隙なぞ与える謂れはない。
「そうですか」
「でも、それだけの価値はあると思うぜ」
「そうでしょうか?」
「そうさ。少なくとも俺にとってはそれだけの価値があるんだぜ」
「あなたが吾の何を知っているんです?」
「そう、何も知らない。だからお前のこともっと知りたい。どうでもいい奴にはそんな気持ち、持たないぜ」
「吾はあなたのこと、知りたいとは思いませんけど」
「いいさ。俺が勝手にそう思っているってだけなんだから」
そう言うと柢王はコーヒーを飲んだ。
これだけあからさまに拒絶しているのに、なぜこの男は懲りないのだろう。しかも相手はトップスターだ。桂花を下ろすことだって造作ないし、それくらいは覚悟していた。普段はここまでしない。これまで桂花に近づいてきた人間は数多くいたし、しつこい相手もいたが適当にかわしてきた。自分の仕事に支障がないように。こんな人間は初めてだ。こんなにしつこくて、熱くて、真っ直ぐな・・・。
桂花はコーヒーを一息に飲み干すと紙コップをカンと音をたてて、組み立て式のテーブルの上に置いた。
「いい加減にして下さい」
「桂花?」
訝しげに桂花を見下ろした柢王の顔を桂花はまっすぐ睨み上げた。
「あなたに振り回されるのはたくさんです」
「桂花?どうしたんだよ?」
桂花はそれに答えず、テントから走り出るとロケバスに乗り込んでいった。
― どうしたんだよ?
そんなの、こっちが教えてほしいくらいだ。
Powered by T-Note Ver.3.21 |